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硲153番地  作者: iliilii
第一章 風が光るとき
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十回目

〈その子供〉が春を数え始めたのは七回目からだった。

 それは〈その子供〉と〈鎖に繋がれていた女〉が出会ったばかりの頃、ふと顔を上げた〈鎖に繋がれた女〉が重い吐息にかすれた音を混ぜた。

 ああ、七回目の春が来た。

 それまで季節どころか日付も知らずに生きてきた〈その子供〉は、そこで初めて時節の端をからくも掴んだ。


〈その子供〉が春の意味を理解したのは、八回目の春が来たときだった。

〈鎖に繋がれた女〉は七回目の春が来たとき同様、〈子供〉が気まぐれに開けた窓から入り込む柔らかな光と風に運ばれてきた花びらを目に、回数をひとつ増やして春を数えた。

 その頃には、聞き取りにくい〈鎖に繋がれた女〉のかすれ声から内容を正しく推し量れるほど〈その子供〉は成長していた。その花が咲くことを、風の匂いが変わることを、柔らかな光が漂うことを、〈その子供〉は「春が来た」に関連付けた。

〈鎖に繋がれた女〉が発する言葉は年に一度、その春の知らせだけだった。


〈鎖に繋がれた女〉は何事にも無関心だった。無関心の中で機械的に〈子供〉の世話をしていた。


 それは〈鎖に繋がれた女〉が十回目の春を数えてからしばらくのことだった。

 その日は前日からの雨がまだしつこく残っていた。

〈子供〉は朝から落ち着かなかった。


 冷淡で湿った空気と不快なざわめきを連れた大勢の大人が無遠慮に部屋の中に押し入り、〈容疑者となった男〉はどこかに連れて行かれた。〈子供〉は〈鎖を外された女〉と一緒に病院に運ばれた。その際、〈子供〉は引き離されることを嫌がり、烈火のごとく泣き叫び大人たちを手こずらせた。


 数日後、〈保護された子供〉は少なくない数の子供が一緒に暮らす児童養護施設の片隅で独り縮こまっていた。

〈鎖を外された女〉と〈保護された子供〉は、〈容疑者となった男〉に監禁された被害者だと大々的に報じられた。

 あらゆるメディアはあらん限りの悪辣な言葉で〈容疑者となった男〉を飾り立てることに全力を尽くした。


〈容疑者となった男〉は彼らを然るべく生かしていた。

 毎日三度、規則正しく適切な食事を与え、生活空間を適宜に整えていた。〈鎖に繋がれた女〉は半地下の広々としたワンルームの中を自由に行き来できるだけの、ただし、決して外へと繋がる扉までは届かない長さの鎖で足首を繋がれ、〈保護された子供〉が出会った頃にはすでに壊れていた。

〈保護された子供〉は三年間、〈鎖に繋がれた女〉と一緒にいた。


 どうして逃げ出さなかったのか。

 知らない大人たちが入れ替わり立ち替わり、言葉を変え、表情を変え、声を変え、目の高さを変え、何度も同じことを〈保護された子供〉に尋ねた。

 逃げる、という意味が〈保護された子供〉にはわからなかった。言葉の意味はわかるが、それが自分に当てはまるとは思えなかった。


〈保護された子供〉は〈容疑者となる前の男〉に拾われた。それは〈保護された子供〉の中で明確だった。

 女に捨てられた瞬間を〈保護された子供〉ははっきりと覚えていた。捨てられるのだと自覚するだけの何かが、彼女の言葉の端々にも、そこに漂う空気にも、間違えようもなくありありと存在していた。

〈捨てられた子供〉は為す術もなくただそこに蹲っていた。

 捨てられたの?

〈容疑者となる前の男〉に声をかけられた〈捨てられた子供〉は、当時「捨てられた」という言葉を理解できなかった。ただ本能が頷かせたのを今でもはっきりと覚えている。

〈容疑者となる前の男〉との会話は後にも先にもそれだけだった。水の底のような静かな声に、〈捨てられた子供〉は〈容疑者となる前の男〉の後ろをついて歩き、それから十回目の春を少し過ぎるまで、〈拾われた子供〉は〈鎖に繋がれた女〉と一緒にいた。


〈鎖に繋がれた女〉は本当に被害者だったのか。

 少なくとも〈捨てられた子供〉は、捨てられる前よりも穏やかに生かされていた。


〈容疑者となった男〉は勾留中に死んだ。末期のガンだったと、〈保護された子供〉は後になって聞いた。

〈容疑者となった男〉は変わり者の資産家で孤独だった。〈容疑者となった男〉は全ての資産を〈子供〉に残して逝った。

〈容疑者となった男〉が死んだその少し後で、〈鎖を外された女〉も死んだ。〈鎖を外された女〉はどこで見付けてきたのか自分の足首にどこにも繋がらない鎖を巻き付け、春の終わりに空を飛んだ。これも〈保護された子供〉は後になって知った。


 もしかしたら〈鎖に繋がれた女〉も〈容疑者となった男〉に拾われ、生かされていたのかもしれない。

 あの鎖は〈鎖に繋がれた女〉を縛るものではなく、〈鎖に繋がれた女〉を繋ぐものだったのかもしれない。

 あの半地下の部屋は〈鎖に繋がれた女〉に飛ぶことを諦めさせるために用意されたのかもしれない。

 もしかしたら〈子供〉すらも——。


〈子供〉の成人まで面倒を見ることになった〈弁護士の男〉は、〈保護された子供〉からの静かな問い掛けに表情を変えることはなかった。

〈保護された子供〉は、そこで初めて彼らの素性を告げられた。

〈捨てられた子供〉を拾った〈容疑者となった男〉は深山 正春(みやま まさはる)

〈鎖に繋がれた女〉は深山 (かおり)。〈容疑者となった男〉の妻だった。

〈保護された子供〉が一番知りたかった名前を〈弁護士の男〉が教えてくれることは最後までなかった。


〈子供〉は〈容疑者となる前の男〉から与えられるドリルに黙々と答えを書き込んでいた。

 ひらがなの書き方から始まったそれは、一冊全てを埋め尽くすと、決まって〈容疑者となる前の男〉が採点した。

 時々書き込んでいる途中で壊れていないときの〈鎖に繋がれた女〉が間違いを指先で指摘してもいた。間違いがなくなるまで〈子供〉は同じドリルをやり続けた。〈容疑者となる前の男〉から新しいドリルが渡されるとき、それは間違いがなくなった証だった。

〈子供〉は日がな一日ドリルに没頭し、気まぐれに外に飛び出しては壁に囲われた庭を駆け廻った。

 それに比べると、学校というところでの学びは遅々として進まず、〈子供〉は〈不起訴となった男〉に与えられていた最後のドリルをひたすらやり続けた。それはすでにドリルではなく、問題集と書かれたものだった。

〈子供〉は〈不起訴となった男〉の代わりに自分で採点し、間違いがひとつもなくなると、自分で新しい問題集を買った。教師たちは〈子供〉を持て余し、放置し続けた。


〈子供〉の周りはそれまでとは一転、とにかくうるさかった。常に耳障りな音があった。〈子供〉は焦がれた。風が立てる葉擦れの音、鳥や虫の鳴く声、鉛筆の芯が紙に少しずつ削られていく音、鎖がたてるささやかな音色。ただそれだけが満ちていた静寂を切に希っていた。






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