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その8

音が鳴った。――――ように聞こえた。

会場のあちこちで天へと向けられた腕と手の平が作った無いはずの音が、ざわざわ音の中に混ざっても消えない不満を訴える声が、ステージまで届いて瞬く。






「はーい、理由は単純なんだから静かにしてよぉーーーーーーっく聞きなさい!」


パンパンパンっとマイクを手にしたままで手を打つ社長。目的通りに視線を集めたところで大きく息を吸い込みそのまま発声。


「あなた達が一位票と二位票の両方に橙里くんの名前を書いちゃうから全部無効票になっちゃったのよー!」


ん?無効票?えっと……無効票というのは定めた要件を満たしてない、効力が認められないなどの理由から数えてはいけない票のことで、あるけれどないもの。で、よかったはず。


「一位と二位には違う名前を記入するようにって書いてあるでしょう!一位も二位もどっちも橙里くん以外はありえない!とか書いちゃうから無効票の数を知らない橙里くんは自分には二位票しかないってしょんぼりしちゃったでしょう。真面目な子をいぢめると大変なことになるんだから今後気を付けるように!」


どうして社長がしょんぼりの理由を知っているのでしょうか。朱里ですか?朱里なのでしょうか?であれば社長に知らせなければいけない理由があったということになるのですが、それは一体どういうことなのでしょうか。非常に気になります。

それとも噂に聞く「女の勘は鋭いの」という理論でしょうか。ボクの知る限りでは社長は心がオトメと呼ばれるもので、体はボクと同じ性別に属しているはずですよね。心がオトメであれば女の勘は働くのでしょうか。それはそれで気になります。


ではなく。いえ、他にも気になるところはあるのですが一番気にかかるのは無効票です。人気投票の記入枠には社長のおっしゃるように一位の枠と二位の枠には別人の名前を記入してくださいと注意書きが入っています。同一名を記入すれば注意書きを無視したことになり、正しい投票が行われなかったものとされて票数に数えることが出来ない、つまり無効票が出来ることになります。ですが待ってください。

社長、もう一度言って貰えませんか。何故そこにボクの名前が出て来るんです?


疑問は困惑になり何をどうしていいのか困っているのだが、ざわざわとなっている観客へ向かい合う社長に疑問をぶつけるにはタイミングと場所が絶妙に悪い気がして、ラストナンバー用の配置場所で立ち尽くす。問うに問えない社長の代わりにメンバーの誰かに聞こうにも、それぞれボクと同じように配置場所で待機状態。

小声で声をかけるなんて距離に人はいない。自力で察せよとの試練でしょうか。


「はいはいはーい」


再び手を打ち注目を引く社長。小さく持ち上げた肩をすとんと落とす仕草はやれやれとか、仕方がないなんて言葉が聞こえてきそうだった。


「きっと橙里くんファンは無効票になるとわかっても一位も二位も譲れないのでしょうから、今回は特別に“ あなたの推しを一人記入してください ”っていう記入枠を付け加えました」


押しとは一体なんでしょうか社長。何を押すんですか?押すのに記入するとはどういうことですか?スタンプや判子で文字を作って名前を描けということですか?

そんな面倒な手順で一体なんの統計を取っているのでしょうか。わかりません。


「つまり、これこそが清き一票、純粋な人気投票と言っても過言ではない結果よ!」


ジャーン、もしくはババーンなどの効果音が似合いそうな動作でモニターを示した社長に応えたのは、ご家庭用とは比べ物にもならない特別仕様のクラッカー。

大きな破裂音と共に金と銀の紙吹雪を舞い散らせる演出をいつの間に仕込んだのだろうか。いや、それよりも……。


「不動の三位の名を返上、流石のリーダー橙里くんの圧勝よぉーーーーっ!」


ひときわ大きな歓声が巻き起こるのをモニターを見る為に斜めになった体で感じて聞いた。モニターは縦に二分割され、左半分には先程の投票結果、右側には獲得票数が一段しかない別の順位が映し出されている。

夏彦、美冬、俊春、秋夜と下から上へと名前が並び、五位から一位へと上がっていく順位の一番上に…………表示されている、ボクの名前。


「おーおーとんでもない票数だなこりゃ」


「無効票数を嘆く声は聞きましたが、これ程とは思いませんでしたね」


「うっわおーぅ、大差で負けてるよ俺たち全員。何これすっげぇー」


「ひとり勝ちだな。完敗だ」


俊春、秋夜、夏彦、美冬。四人全員がボクと同じようにモニターを見上げて、今度はマイク越しに届いた声、いや感想?それを聞いて、これが幻でも嘘でもないことを証明された気がして、モニターに表示された順位でも数字でもなく、同じステージに立つ四人の仲間を見た。


そこにあったのは、驚きが混ざった、けれどとても誇らしいと告げる笑顔。

何が起きているのかと困惑する気持ちはまだ消えていないのに、「ほらな」なんて言われているように感じる四人の表情や態度に、胸が熱くなる。


キラキラと降り注ぐ金銀の紙吹雪が落ち切れば、観客に背を向けてボクを見る社長が艶然と微笑んだ。


「一位も二位もないオンリーワン、一人一票。厳正な投票の末に決まった一位の座に輝いた橙里くん、一言ど・う・ぞ」


清き一票、純粋な人気投票。一人の名前だけを書いて数えるその結果。

二位票だけで立っている三位の場所。誰かの次でしかない二番目。誰かの一番はボク以外で、ボクは誰の一番にもなれないんだって、誰にも何も言えなくて自分でも驚くくらいに沈み込んで、塞ぎ込んでしまった日々。


でも、今この場所にあるのは、目の前に示されているのは、言葉にして繰り返し示してくれているのは、誰かの一番にボクが、橙里が選んで貰えているという事実。

ぽかぽかと温かくなっていた胸がきゅうっと切なく鳴いて、震える声でただ一言、


ありがとう


を告げた。

もっと他に何か言うことがあるのかもしれない。もっと上手くこの気持ちを伝える言葉があるのかもしれない。でも、これしか出てこなかった。それはきっと、言葉が足りない訳ではないと思う。

今のボクが持てる最大の感謝の言葉、それが『ありがとう』なんだと思う。


爆発するようなんて言うと言い過ぎと笑われてしまうかもしれないけれど、そう聞こえる祝福を告げる歓声に自然と口角が持ち上がり、頬が緩む。嬉しくて、泣き出してしまいそうだ。


「盛り上がりは最高潮、フィナーレに向かうのにこれ以上のものはないわ!名残惜しいけれどこれが最後の一曲よ!さあさあ楽しんで聞いて頂戴っ」


大きな声で高らかに告げられたラストナンバー。待ってましたと言わんばかりの演奏者たちの音がおめでとうと言ってくれているように聞こえて、紡ぐ歌声に精一杯の感謝を込める。本当に、ありがとう!






「と、感動的に始まるラストの一曲なのですが、残念ながらわたし達は聞くことが出来ないんですよね」


怒涛の勢いでコメントが流れていた画面が静かになり、スリープモードに入った黒い画面のスマホでトントンと薄い肩を打つ小さな手。


「あなた達の所為で」


獲物を定めた肉食獣の如き鋭い目がギロリと冷たく睨むのは数人の男女。スタッフパスを付けた名前も知らない誰かさん達はステージ裏、ライブを成功させる為に奔走し、今この瞬間もボク達を支え続けてくれている縁の下の力持ちさん達に囲まれるような位置に立たされ身を小さくしていた。


「人から聞いただけの実のない憶測で、大変なことをしでかしてくださったわね。まさか噂されている本人が、偶然その場に居合わせて、自分の悪口を聞いているなんて、思いもよらなかった。そんな使い古されて笑う気も起きない定型文の言い訳発言は間違ってもしないで頂戴ね。スマホ、壊したくないの」


一切目の笑わぬ笑みを浮かべ、手にしたスマホを投げるような仕草をして見せれば、高く結われた髪が揺れる。不自然な位置にあるスタッフパスは一触即発の空気の中では異質でより浮き上がって見えるというのに、誰もそれを指摘など出来はしない。今、彼女に笑いも冗談も通じることがないと発される威圧で知る故に。


「ああ、意味のない発言もやめて頂戴。あなた達が口を開くこと、この場のだぁれも望んでいないの。どんなに空気の読めない子でも、わかるわよね?」


そんなこと言われずとも理解しろと押し付けられているような言い様なのに、酷薄な言葉を紡ぐ彼女以外、誰一人として口を開かないのは同意の表れなのだろうか。


「ねえ、あなた達は芸能事務所の正規職員様ってやつでしょう?真綿にくるんで羽毛で包み大事に大事に温め孵化させた愛しい愛しい雛鳥ちゃん達を、明日へ羽ばたく立派なアイドルに育てる為にいる後方支援のスペシャリストなのよね?」


そしてその空気を当然のものとして笑わぬ笑みを浮かべる彼女は告げる。


「うちの子たちはこんな美しく(さえず)り、これほど軽やかに舞うのですって、たくさんの業界人へ、会社へ、企業へ、いかに事務所が育てたアイドル達が素晴らしいかを説いて、売り込んで、活躍の場所を開拓していくプロフェッショナルなのよね?」


疑問であって疑問ではない言葉を。


「なのに、どうして貶めるようなことを口にしたのかしら?絹の羽織に金の冠、美しく飾り付け大切に大切に世間へお披露目した華やかな金糸雀(カナリア)の羽を斬り、咽喉を潰すような愚かな真似を」


己の役割を忘れたかと断罪する言葉を突き付ける。


「アイドルのリーダーなのに一位票がない。人気がないのに何故アイドルをやる。二位票しかない三位。誰の一位にもなれない。人気があると勘違いしている。澄ました顔して神経が図太い。だったかしら、ねぇ?」


それはまるで悪を謳う女王。己が不興を買った愚か者を罰するかのように、麗しくも恐ろしく口角を持ち上げて嘲笑う。


「よくもまあこんなにも自分たちの愚かしさを声高に吹聴できたものね。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、あまりにもおかしくて、思わず感心しちゃうわ。一つの真実もない戯言をピーチクぱーちく、自らスペシャリストでもプロフェッショナルでもないと調子はずれに歌うのは楽しかったかしら、張りぼての正規職員様?」


謡うように朗々と、澱みなく堂々と。


「三歩どころか一歩も歩かなくて忘れてしまうような空っぽな頭しかお持ちでない張りぼて様にも社長さんの発表は聞こえていたでしょう?」


怯え戸惑う下々を見下しながら。


「得票数に一位票がないのは二位に別人の名を書くことを拒むほど、たった一人を好きだと言ってくれるファンがいるからよ。人気がないだなんてとんでもない、その逆よ。あり過ぎて従来の投票じゃあカウントしてあげられなかっただけ」


ひらりと細い指先で懐から取り出し摘み示す紙は、人気投票用紙。いつもの一位枠と二位枠の下に追加されたもう一枠、“ あなたの推しを一人記入してください ”。

社長が追加したもう一つの記入枠が印字されたその紙を手に、女王は微笑む。


「ルールが邪魔して二位票しか入れて上げられなかっただけ」


恐ろしくても見ずにはいられぬ笑みは妖しく、麗しく。


「ねえ、誰の一位票がないですって?誰の人気がないですって?誰が誰の一位にもなれずに人気があると勘違いしている神経の図太いアイドルのリーダーですって?」


残酷に。


「恥ずかしいのはどっちなの。好意も敵意も選べずに、向けられる全てを受けるしかない真珠のように美しくも脆いアイドル達を、傷つけないように、傷つかないように、誰よりも熱心に身を挺してでも守る。それが彼らを世に送り出した事務所の全職員が持つべきものでしょう」


誰一人、発言を許されない空気の中、語る彼女はこの場の女王。


「それが、この様?なんて体たらく、なんたる無様。あなた達が軽口だと思って叩いた言葉は毒を塗りつけたナイフよ。刺さるだけでは飽き足らず、じわじわと時間をかけて甚振り殺す殺意の言葉」


命乞いを意に介さぬ冷たく重い刃、無慈悲に刃を打ち落とす断頭台。


「橙里は神経が図太い訳じゃないわ。責任感が強いの。求められたことに応える技量を持ち合わせているから、それが自分に出来るとわかっているから堂々と出来るだけの話よ」


だけど、それは決して暴挙ではなく、理不尽なものでもない。


「感謝なさい。橙里が仕事を投げ出すような人間ではないことに、自身を優先させて仕事を疎かにするようなことが出来ない人間であることに」


誰かを守ろうとする彼女の行為は、決して悪ではない。


「もしもあの日、橙里が立つことも出来ない程に傷つき打ちのめされていたのなら、放り出してしまった仕事の損害は、誰の責任になったと思う?」


誰かにとっての救いで、正義だ。


「事情を知らぬ外野は橙里を責めるでしょうね。でも、内側は?何が原因で倒れてしまったのかを知っているこの事務所は、誰にその責任を取らせるかしら?」


頭を垂れろ、首を差し出せ。悔やむのであれば、己が愚行を悔いて散れ。

これは、悪意を吐き出した者が受けるべき咎である。


「よく覚えておきなさい。あなた達は蔑んだ相手に助けられたのだということを」


血の気の失せた名を知ることすら厭わしい誰かさん達を見下して、彼女は深く深く息を吐き出した。その行為すらも煩わしいとばかりに秀麗な顔を歪めて。


「どうしてこんな愚かしさの塊のようなものを正規職員として採用したのか気がしれませんよ、社長さん」


「実に耳に痛い言葉ね」


女王様の断罪場であったその場所に、声を発することを許されたその人の姿にある者は苦笑し、ある者は息を吐き、ある者は……希望を見出したのだろうか。


「でも、今回は私の目が節穴と言われても仕方がないわね。念入りに選考したつもりの同志に大事な商売品を傷物にされるだなんて裏切りもいいところだわ」


肩を竦ませ苦笑し、物憂げに頬へ手を当てて溜息を吐きながら近付いてきた社長を彼女は胡乱気に見つめてまた溜息を吐く。


「所詮はつもりだったってことですよ。油断大敵という言葉を胸に綱紀粛正をお願いします」


二度目はない。

己よりも高い位置にある目を鋭く射った彼女の言外の言葉を受けて、社長は視線を正面へと向けた。敵意しか発しない人たちに囲まれて、互いの体を寄せ合い逃げ出すことも許されずに怯え固まるしかないと思っているのかもしれない誰かさん達へと。


「それは別のクビを切れってことなのかしら」


困ったわなんてくすくす笑う社長の登場に一縷の希望を夢見た誰かさん達は、我が耳を疑いたくなる言葉に、我が目を信じたくない光景に、生気を失い暗くなる。

生ける屍、それとも死んだ魚の目?この世の終わりに直面したかのような様子だ。

それが余計に恐怖を煽ると知っているのかいないのか、社長は笑みを浮かべ続ける。


「ご想像にお任せします」


自分の話すことは終わりとでも言うように立ち位置を譲る彼女を見送った社長は、入れ替わりに立った場所でにこりと笑う。


「さ、て。言いたいことのほとんどは彼女が言ってくれたから、私は残りを片付けちゃいましょうか」


口調だけならば軽いお話に見え、先の声を出すな口を開くなと物理的な重みすらも感じるかもしれない圧力を感じさせた女王様より、遥かに気軽に会話を成立させることが出来ると思うものはいるだろう。


だが、正面から対峙するその目が腹の奥底までを見透かすように品定めしているとあっては下手な受け答えなど出来はしない。

一挙手一投足の意味を探られていると感じる目を前にして、軽率な行動は選べない。それが自身の進退がかかっていると思うのだから余計に。


「本当は夢と希望でキラキラした心温まるハートフルでわくわくするお話で“ 今日から心を入れ替えて頑張ります! ”って感じのビフォーでアフターなことをしてあげたいんだけど」


頬に手を当て伏し目がちに溜息一つを落とす憂いの表情を作った社長だったけれど、視線を持ち上げた時には口元に薄く笑みを刷き、相手を冷たく睥睨する施政者の顔になっている。目が合った誰かがビクリと肩を震わせたのは仕方がないことだろう。


「この曲が終わるまでって時間制限付きなの。だから手短に済ませましょう」


何故そんな明らかに時間のないタイミングを選んだのですかと突っ込みを入れ、改めて別日程で余裕のある時間を選んでくださいと思いたくなるだろうが、反論どころか喋るなと言われている誰かさん達には贅沢すぎる思考だ。


ほんの少し落ちた沈黙に演奏中の音が届き、重苦しい空気を漂わせている場所に時間の経過を教えてくれる。怯えるばかりの誰かさん達の様子を見ている社長は口火を切るようにふぅっと小さな息を吐き出す。


「私も含めたこの場にいるスタッフはね、自分たちの手で磨かれてキラキラ綺麗に輝いていく子たちの為に頑張っているの。多くの人に見て欲しい、愛されたい、そんな子たちの手助けになりたくてこの職種を選んだのよ」


光を浴びる表舞台ではなく、その裏側。舞台の上が華やかで、美しくある為に聴衆の知らない場所で忙しく懸命に働く縁の下。忘れてはいけない大切な存在。

それがこの場所に集う様々なジャンルのエキスパート達であり、そんな人たちを集めた後方支援のスペシャリストであり、プロフェッショナルでもあるボク達が所属する事務所のスタッフさん達なのだ。


「あなた達は一体何を目指してこの世界に足を踏み入れたのかしら」


独り言のようなその言葉は怯えるばかりの誰かさん達にはどう聞こえているのだろうか。どういう気持ちで、社長の言葉を聞いているのだろう。


「私たち、カメラの前に立たない事務職がしなくてはいけないことは何かしら?」


それは口を開くなと告げられた誰かさん達へと質疑応答を始めるのではない。


「私たち、カメラの前に立たない事務職がしてはならないことは何かしら?」


答えを口にしなくてもいい。ただ考えなさいと諭すそれに気付いているのだろうか。正しい答えはきっとなくて、肯定もあれば否定もある、人によって異なるものであろうその言葉を投げかけるその意味に、気付けるのだろうか。


「色彩豊かに流れる四つの季節、春、夏、秋、冬。その名前を持っている子たちを集めたグループ、流転の四季。四季なのだから当然の如く四という数字を想像するでしょうね。でも、流転の四季は五人組。俊春ちゃん、夏彦ちゃん、秋夜ちゃん、美冬ちゃん、そして橙里ちゃん」


大きく開いて見せた手の平、広げた五本の指を一つ一つ順に折って数えて見せるその手が、ちゃんと視線に追われているのを確認して社長は続ける。


「他部署の子には興味がない?デビューが決まってから何度となくインタビューで聞かれてきたことよ。橙里ちゃんの名前に入っているのは橙、お正月のお餅の上に飾られてる柑橘類を見たことくらいあるでしょう。よくある葉っぱのついた可愛らしいサイズの蜜柑じゃないわよ。もっと大きいもの、アレが橙なの」


最近では葉つき蜜柑を乗せているものが多いが、正式には橙の実が乗せられる。

何故、と問われれば理由は単純。縁起物だからだ。


「夏に花を咲かせ実をつけて、冬に熟して橙色に、そして夏には青くなる。木に実っているのであれば枯れることなく一年を巡る果実、それが橙」


果樹の多くは実った果実を収穫せずに放置していれば、いずれその実は落ちるだろう。果実の中には種子があり、熟した実を種子ごと動物に食べさせることで彼らはその生息地を広げて行く。植物の増え方は主にこうだとボクは記憶している。

けれど果樹の中には果実が一年程度では落ちないものがある。その内の一つがボクの名にある橙という果樹だ。


実ってから二~三年は腐らずに枝にくっついて、夏に青くなってもまた次の冬には熟した橙色になる。味は……そのままだとあまり美味しくないらしいが、絶えることなく季節を巡るその様子から代々という続く意味での縁起物にされたのだとか。


「一年通して枯れることなく実り続けるなんて素敵じゃない。長く生き残ることが難しいこの業界だもの。そういうものに願いを託すのはいけないことじゃないと思うわ。こじ付けでも何でも結構、水滴が石を穿つように、祈りが奇跡を起こすように、意味のないことなんてきっとこの世にはないのよ」


その話を知っていた社長はボクの名前を見て「これは良い!」と先にグループを組む予定で名前を挙げていた春夏秋冬の四人の中に縁起物としてボクを加えることを決定したとのこと。勿論名前だけではなくボク個人を見て採用を決めたと聞いているが、ボクとしてはなぜ名前だけでなく個人を見てアイドルに採用されたのかが疑問だ。個性豊かな四人のまとめ役らしいが、今でも不思議でならない。


「あの子たちは五人で流転の四季なの。一人でも欠けると成り立たない五枚で一組の歯車、互いが互いを支えて回り続ける円環なのよ」


思い浮かぶのは時計の歯車だろうか。隣り合う歯車が交差し、噛み合い、大きなものを動かす動力となるそれ。


「私たちはその回転を止めないように支える道具。なくてもどうにか出来るかもしれないけれど、あればよりスムーズに回ることを可能にする軸よ」


ボク達が歯車で、自分たちだけでは回るだけの存在ならば、社長やスタッフさんは歯車の場所を固定する軸、楔のような存在なのかもしれない。


「私たちはあの子たちのような歯車がなければ何をしていいのか困ってしまう棒切れ。そしてあの子たちは輝くことは得意なんだけど、輝く場所選びが苦手な迷子の歯車」


固定されていなければ、回りながら何処かへ行ってしまう不安定な歯車をココ!という最適な場所で留めてくれるのが軸なのだろう。

そして留めるだけではなく、どうすれば効率よく回れるかと力のかけ方を考えたり、回転数がよくなるように油を差してみたりとメンテナンスもこなす有り難い存在。


「歯車も軸も、どちらか一方だけじゃ上手く機能しないの。持ちつ持たれつ、二つが揃ってこそ驚くべき効果が発揮できる。だから私たちは互いに互いを認め合い、協力するの。その結果が事務所という一つの形になっているのよ」


ボク達は歯車で、社長たちはボク達を支える軸。それが集まって出来たのが事務所。事務所を成り立たせるには軸だけでも、歯車だけでもダメで、両方が必要なのだ。


どちらも欠けてはいけない大事な部品。どちらか一方が強くても、弱くてもいけない対等の関係。互いを尊重し合い、共に歩んで行くパートナー。

ボク達は物言わぬ商品ではなく、彼らも利潤を追求するだけの心無い存在ではない。その関係性を震え怯えるばかりの誰かさん達にわかって貰えるのだろうか。


「有り難いことにうちの事務所に所属する人間は多いわ。それぞれジャンルがあるからどうしても部署を分けることになる。事務所内のすべてを網羅しろとは言わないわよ。そんなこと出来る人間がポコポコいたらびっくりしちゃうもの。でも、やらなくていいっていう訳じゃないのよ」


よく聞きなさい、と社長は告げる。たぶん、いつまで震えてるのかしらという呆れを含んでいる。ここまでの話を聞いていれば、問答無用にクビを切るなんて話ではなく、今後の態度を改めよと叱っている様子だといい加減気付いてもいい頃なのだから、呆れたくもなるかもしれない。


誰かさん達からすれば四面楚歌の最中にそこまで頭が回りませんなんて思っているかもしれないが、そういう時こそ頭は回すべきだ。チャンスの神様は前髪しか生えていないと聞く。いま社長が話しているのはあなた達の身の振り方だ。返事を誤れば断頭台で首ではなく、解雇通知書でクビを切られると思われる。大丈夫か。


「この業界は情報が命。どこに仕事のチャンスがあるのかわからないから常にあちこちへとアンテナを張り続けなくちゃならないの。それが、部署が違う程度のことで情報の質が噂レベルに落ちるだなんて、怠慢が過ぎるわよ。事務所内でその程度の情報しか得られないんじゃあ外になんて目を向けるだけ無駄よ。百年早いわ」


笑顔でも冷たい視線でもない苛立たしいといった様子の社長が姿を現し、容赦のない指導が開始される模様である。これで叩き潰されるのか鍛えられるのかは相手の気概によってくる。さて、どう転ぶのかと厳しい目で仕事をこなしながらも誰かさん達を囲っていた周囲のスタッフさん達がまとう雰囲気を咎めから見定めへと変えていた。


「一人でやれなんて誰も言ってないわ。そんなの不可能だってわかっているもの。だから周囲の者に協力を願いなさい。一人で足りなければ二人、二人で足りなければ三人。必要に応じてその人数を増やして持ち得た情報を共有し、いくつもの頭で自分たちに出来る最善を考え抜きなさい。表舞台に立つ者を舞台裏で支えるのが私たち事務職のなすべきこと、輝く宝石の原石を最も美しく見せる為の努力を惜しまない、それこそが私たちの誇りではなくて?」


状況に応じて柔軟に対処せよ。それが出来ないのであればこの先はなく、出来ることなど微々たるものなのだろう。考えることをやめてしまい、学ぶことをやめてしまえば、どんな形であるかは知れないが、終わりはきっとすぐそこだ。


「少なくとも、私はそう思ってこの事務所を立ち上げ、多くのスタッフの手を借りて彼らのように輝くために頑張る子たちを後押ししているつもりよ。意見が合わないならそれは仕方のないことね。あなた達を同志だと思い採用した私の目が曇っていたのよ。これ以上話すことはないわ、どうぞ帰りなさい」


すっぱりと見切りをつけるその言葉は鋭く、話が終わると同時にクビも切れるのかと口を開くなと言われたことがなくても何も言えそうにない状態になっている誰かさん達。語る口は休職中、動かない体は現実逃避の真っ最中。そんな違う意味でこれ以上話すことがない様子に社長も困って溜息を吐いた。


「自分たちの何気ない軽口がどれほど軽視してはいけないものなのかくらいは理解できたでしょう。話はここまで、今後どうするのかはまた明日にしましょう。まずはこの場所で今しなくてはいけない仕事を全うなさい。それすら出来ないというのなら、スタッフパスを置いて今すぐ出てお行きなさい。邪魔だわ」


次の行動を促す社長の言葉に返答も出来なければすぐに動き出すことも出来ない誰かさん達。ただ身を寄せ合うばかりの呆れた様子から視線を外した社長の目に映るのは、黒い画面のスマホを手に薄く微笑む彼女の姿。


「あらま、寿命が一日延びたのね。何てことかしら、理解力の乏しさがこの場でのクビ切りを回避したわ。残念さが身を助けることもあるんですね社長さん」


明るい声は嘲りを含んで耳へと届く。場所を譲って様子を見ていた彼女は声と表情だけは楽しげに会話を始める。社長は社長で誰かさん達との会話は終了としたと声を上げた彼女へと向き直って嘆息する。


「時間制限が厳しいわ。あぁ本当に残念、もう曲が終わっちゃうわ。橙里ちゃんがあんなに嬉しそうに歌う姿はレアもレア、Sが付くレアものなのに……っ。口惜しいわね」


くぅうっと拳を握ってまで悔しがられるものなのですかと無性に問いたくなってしまうのだが、ボクと同じ気持ちになってくれる相手はこの場にはいないようである。うんうんと頷くスタッフさんはいても、首を横に振るものはいない。


「ですよねー。アンコールしたらもう一回くらいご機嫌で歌って踊ってくれますかね?」


「それを聞くのは私で、聞かれるのが貴女だと思うわよ。やり直しを要求するわ」


沸き起こる歓声と地鳴りのような拍手が聞こえ始めれば、真っ黒い画面になっていた彼女のスマホにも明かりが灯り、ちょっと引くくらいの速度でコメントが流れて行っていた。何が書かれていたのかを認識する暇もないそれを読むわけでもなく眺めた彼女はくすくすと笑う。


「あっはっはー、聞くまでもないですよねーそんなこと」


ステージから下りてきたボク達へと向き直り、それぞれの役割を果たすべく動き始めたスタッフさん。その隙間からスマホを構えた彼女は息を乱し、大粒の汗を流しながらも満足そうに笑いあうボク達へカメラの照準を合わせ、にやりと口角を持ち上げる。


「一期一会。まったく同じがないのは何処の世界でも共通ですよ、社長さん」


場違いなコミカル音が拍手と歓声の喧騒に紛れて消えた。

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