その5
「今日は元気だね」
「機嫌いいの?」
などの言葉から始まり、顔なじみの方々に言われた中の一番の衝撃はこちら。
「しょんぼりとうりくんもいいけど、やっぱり可愛いのが一番だよね!」
拳を握って力強く語ってくださった方の発言でわかり易く悩み解消が顔に出ているのかと思って違う悩みを作りそうだったのを阻止できた。
宣伝活動をしてくれている公式認定とはいえど、一応身内のプライベートと普段は見ないことにしているスッスーロさんをあまり活用していないスマホで開く。
……朱里、ちょっとお兄ちゃんと妹でお話しようか。いつ撮ったんだこの写真。
「新曲発売&販売数記録更新おめでとー!」
ぱひょん!と可愛らしい音を弾けさせたクラッカーから細い紙テープと細かな紙吹雪が落ちる。……床に這いつくばっている夏冬の上に。
ひらひらと落ちてくるそれらを避けることも出来ずに受け止めるしかない二人の姿が憐れみを生む光景なのだろうけれど、蓋を開けてもらったスポーツ飲料を片手で持てずに両手で握って壁と仲良くしているボクに紡げる言葉はない。
「おー、表に出しちゃならねぇアイドルの汗臭い舞台裏に笑顔で登場とはやるじゃねーかマネージャー。返事も出来ねぇペラペラ体力共への追い打ちを自然に見せかけて堂々とやらかすなんざ、ようやく本性現しやがったか一本足らず」
「そんなことした覚えないし至って善良だよ私は!幸せに一本足りないからってその呼び方定着させようとするのはやめてくれないかな俊春くん!」
トレーニングマシンの一つに腰かけて余裕顔で汗を拭う俊春の実にイイ笑顔。
どう聞いても良い意味には聞こえないだろう言い回しに否定をする辛島さんだけど……現在の床上事情では説得力がないとしか言いようがないかな。
向いている方向の関係で夏彦の表情は見えないが、汗に張り付く紙切れに美冬が迷惑そうな顔をしている。額や頬につくならどうでもいいが、必死で呼吸に専念しているのに鼻や口元へ飛来されては穏やかさんでもそうなるよな。
助けてあげたいところだが、すまない。ボクも壁に張り付いている現状で精一杯。
「条件が揃ってしまえばこんな紙切れも立派に死亡原因になり得るんですから恐いことですね」
置いていたタオルを二つ手に取り、汗と共に張り付いた紙切れを二人の顔から秋夜が拭う。が、拭われた後の美冬の表情から察するにやさしい表現は出来なさそうだ。恐らく二人からすれば呼吸をすることに意識を持って行かれているところへタオルがいきなりもぎゅっと迫り来た状態だろう。一歩間違うと呼吸困難なタイミングで顔面タオルは殺しにかかって来ていると言えなくもないありがた迷惑。
秋夜の性格だと厚意なのか態となのか判別が難しいのがまた何とも言えない。
「秋夜くんまで!私のお祝いクラッカーは追い打ちでも凶器でもないよ!」
「悪気はなかったんですというのは犯罪者の常套句ですよ、一本足らずさん」
「一気に犯罪者扱い?!加えてこちらも一本足らずっ、助けて橙里くん!」
「休ませろや」
「休ませなさい」
「あ、はい。すみません」
なんだろう、このやりとり久しぶりに見た気がするなあ。懐かしい気持ちはあるけれど微笑ましい気持ちにはなっていいのか悪いのか微妙なやつ。
それに反応するのはちょっと無理。夏冬コンビとは床か壁かの差でしかないからボクも会話には参加できない。呼吸は二人に比べれば落ち着いてきているけれどそれだけで、自力で飲み物を口へ運ぶのにも苦労します。ペットボトルが重い。
とか思っているとすでに呼吸を整え終り、頬を伝う汗さえなければ平時と変わらない様子の秋夜が壁に背をつけ、左半身を壁に張り付けているボクの正面に座った。
「ほら、持っていて上げますから水分補給をなさい橙里。小うるさいのが来たということは何かの報告ですよ。頭は働いてますか、リーダー?」
「報告はあっているけれど小うるさいって何かな秋夜くん!私は君たちのマネージャーだよ!」
反論する辛島さんを相手にしない秋夜の様子に笑っていいのか年長者はそれなりに敬いなさいと窘めるべきなのか。そんなことを考えはしても実際の行動は両手に持っているだけだったスポーツ飲料を餌付けされる雛鳥のように頂くである。
有り難いことに差し込んで頂けたストローを咥えて吸う。それだけなのに疲れると感じることでこの追い込みトレーニングの過酷さが知れる。
「あーはいはい。そろそろ要件頼むわマネージャー。でないと息すんので精一杯なくせに頭上でわめかれてうるせーって腹立ててる夏彦に蹴られるぜ」
「は?って、夏彦くん!その親の仇でも見るような鋭い目はやめよう!俊春くんのご要望通り本題に入るから、ね?」
美冬の影になっているので見えないが、夏彦の苛々している空気は伝わってきた。
自分が情けなく床に這いつくばってるところへ妙にご機嫌でやって来られただけでも引っかかるものがあるのに、騒がしい声を上げられると、ね。
「えー、こほん。めでたく新曲の初回プレス分が完売したので今回も人気投票の集計が始まりました」
人気投票の言葉に反応してしまう。とはいっても、ゆるゆると飲み進めていたスポーツ飲料の吸い上げをやめてしまった程度のことなんだけれど。
二位票の言葉を思い出して、次に出て来たのは、賢い子だから妬ましいなんて言った朱里だった。それがなんだかおかしくて、そう思えたことで大丈夫だと再認識できた。
「……橙里、呼吸が辛いのでなければ飲んでください。倒れますよ」
中身が減らないことが持ち上げている為によくわかる秋夜にちゃぷりとペットボトルを揺らされて水分補給を再開する。視線と耳は辛島さんの方へと向けて。
「うちのスタッフが早くも悲鳴を上げている盛況ぶりです。各部署から臨時で開票スタッフが招集されているので、他部署の人たちに会ったらお礼を言っておいてね。差し入れは私が皆の連名で届ける予定だけど何か意見はあるかな?」
開票作業中と聞いて真っ先に頭に浮かんだこと、きっと全員同じことじゃないかな。真夏にはまだ早い前哨戦、梅雨の名残の蒸し暑さが堪える毎日である昼日中、どの場所を使っているのか定かではないが、多くの人が一室に集っている状況。
「……想像を絶する暑苦しさじゃねぇのかソレ」
ボク達の為に頑張ってくれている。そうとわかってはいても失礼極まりない反応を抑えきれず、うあちゃーなんていう物憂げな反応をしてしまう。
正直すぎる意見を五人を代表して口に上らせてしまった俊春なのに、辛島さんは窘めるどころかにこりと笑って視線を逸らした。あからさまなそれで回答は十分だ。
「空調が効く場所なんですか?」
死活問題であろう疑問を秋夜が放るのには苦笑が返ってきた。
「流石にあるよ。ただ人が集まってるから定期的に空気の入れ替えしないといけないらしくて……涼しくは、ないかな」
ダメな返答だった。溜息を吐けたのは春秋の二人だけだが、気持ちはボクも夏冬も同じだ。クーラーボックスに大量の飲料水、食べやすい軽食に甘味としてアイスを差し入れしてあげてください。その際定期的に休憩を取られて倒れないように気を付けてくださいと言伝をお願いします。そう意見を出していくのを辛島さんがメモする。
「本当はいつも助かりますって直接お礼を言って差し入れしたいんだが、そうはいかないのが開票作業だもんな」
「不正を働く気が僕たちになくても作業してくださるスタッフの方々の中にはそう受け取ってしまう可能性がありますからね。全員の連名で誰か一人が突出して、なんてことをしてもいないのに起きる時は起きてしまうのが複雑怪奇な人間心理です。先輩方が通ってきた教訓の道程を有り難く歩ませて頂きましょう」
暑い中を頑張ってくださっている方々に直接差し入れを持って行けないのはそういった事情だ。過去にそういう自身や特定の誰かの票数を改ざんするように働きかけた者、またそういう意図があると勝手な勘違いしてしまった者がいたらしい。
公的な選挙でもないのにそこまで重視する必要があるのかと思うだろうが、様々な年齢、性別、人種の人たちが生き残りをかけて日々しのぎを削っている一種の戦場が芸能界という世界だ。長くこの世界で輝き続ける為には常に己を磨き、努力を惜しんではならない。名前が、顔が売れなければ、あっと言う間に点いたはずの火すら吹き消されてしまう。
特にアイドルなんて有効期限があるような場所で戦う人たちはいろいろと必死にならざるを得ない傾向がある。多人数のアイドルユニットが顕著な例だろう。
目立つのはどうしてもメインボーカルで、ファンならともかく多くの聴衆には後方で歌うコーラスや踊っているメンバーは記憶に残りにくい。
人気投票はファンの人たちだけに向けているものではなく、今まで興味を持っていなかった人たちへ関心を持って貰うパフォーマンスでもある。
これだけ多くのファンがいる。こんなにも多くの人に応援されている。注目を浴びるに足る人物がこの場所には立っているのだといろんな方向へと発信しているのが人気投票なのだ。少なくともボクはそう考えている。
だからたくさんの中に埋もれて見えなくなってしまわないように、自身がより輝ける舞台に立つために……というものが起こり易いのだろう。
まあ、そんな不正防止理由があるのでボク達に出来るのは間接的な差し入れと、期間中に人手を貸し出し減ってしまった人数の分、穴埋めで大変になる部署の方々へのお礼になる。
「暑さと忙しさで機嫌悪い人に絡まれるなんてこともないとは言えないから、いつものように仕事以外の接触はお薦めしないよ。用がないなら事務所内をうろつくより自分磨きに精を出しなさい!が社長のお達し」
苦笑しながら伝えられる言葉にピシリと一本指を立てて宣言する社長の姿が浮かんだのはボクだけじゃないみたいだ。呼吸が楽になってきた美冬の顔にも笑みが浮かんだから。
「それから、ライブの個人ブースの件で橙里くんに社長からお叱りが」
「「お叱り?」」
疑問はボクの口からではなく春秋の二人からはっきりと出て、夏冬は床に這いつくばっている状態から顔を持ち上げてと態度で示してくれていた。
はて、何か問題になるような物事を提示しただろうかと自身が提出した個人ブースの企画を脳裏に広げてみるが、お叱りを受けるようなものではないと思う。
答えを求めて辛島さんへと視線を戻せば、浮かぶ表情は苦笑。けれど苦々しいではなくて……どちらかといえばしょうがないなあとでも言うような。
「来場者の休憩スペースなら別途で作るから橙里くんにしか作れない場所を作りなさいってね」
「ああ、成程。貴方またあの簡易メイク室を個人ブースに作るつもりだったんですか」
「あれ、確かに便利だろうけどお前の個人ブースでやることじゃないだろ。そりゃ社長もダメ出しするっての。もっと俺たちみたいに趣味全開なの作れって」
辛島さんの口から語られる社長からのお叱りに打てば響き、続け様に納得されてやり直ししろと告げてくる春秋コンビ。よく見ると夏冬の二人もボクを見て頷いている。静かに同意されるとは余程ダメなのかと思うが、それは違う。
ちょっと休憩、少しでいいから鏡の前で格好をチェックしたい、化粧を直したいという女の子向けの場所として提供してきた個人ブースの役割自体をダメ出しされている訳ではない。休憩場所は別に作ると言われているのだから。
「ブースの感想もこういうのあると有り難いって肯定意見が大多数でそうなのかって目から鱗だったんだけど、もっと橙里くんの好きなものとかを大々的に取り上げて飾って示して欲しいって意見が多かったからね。これは社長のお叱りというよりはファンからの熱望。だからちょっと期日的に急がないといけないけど橙里くんのブースは案作り直し」
成程。あるといいのにと思ったからそれならと個人ブースに作ってしまったのだけれど、他の四人のブースと比べると自分を示すものではないか。
「そこ、で、困るのが……橙里、らしぃ」
「……ね。しゅ、み……で、いいのに」
美冬、夏彦とまだ完全に整ってはいないながらも笑みを浮かべて会話に参戦してきた。トレーニングの成果は確実に出ているなと感心しながら、自分もいつまでも秋夜の手を煩わせないようにと持たせてしまっていたペットボトルに手を伸ばす。
視線で大丈夫かを確認されたがそれ以上は特に何も言われず、ボクの手の中に重みが落ちる。お世話かけました。
ではなくて。個人ブースだ、個人ブース。四者四様の趣味満載になっているそれぞれのブースを思い出し、自分の趣味と呼べるものを検索するが、困ってしまう。
自分らしいで出て来たものがおよそアイドルらしからぬものでどうしようか。
「アイドルっぽくないって何?それはそれで面白いと思うから橙里くんのファンの子は喜ぶと思うんだけど。ほら、ギャップ萌えとか」
……辛島さんの口から萌えという言葉が出て来るとは思わなかった。
「やめて。冷静に指摘されると物凄く恥ずかしいからやめて。私のことはいいから橙里くんのこと。何が出てきたの?」
ぷっは!と広い室内に笑い声が広がって響いた。
「と、いうことです。予算的には問題ないと思いますが、こういう試みをやっていいものかと難しい顔してましたから笑うのは適当なところで切り上げてくださると助かります社長」
高らかに笑っていたのは部屋の主である社長で、何とも言い難い渋い顔をして発言しているのは辛島さんだ。少しだけ濁した程度の笑ってないで答えてくださいなんて言っている辛島さんを咎めることはなく、しばし笑いを治めようと上品に飾られた机に突っ伏していた社長は目尻に涙を浮かべて顔を上げた。
「っふふふ、これだから橙里ちゃんは堪らないわね。どこからこんな愉快な発想が出て来るのか一度ゆっくりお話してみたいわ。うふふ、お腹よじれて笑い死ぬかもしれないわね」
「洒落にならないんで勘弁してください。最近ずっと落ち込んでたのが今日やっと復活したのかなって様子なんですよ。元々口数の多い子じゃないんですから何があったのかを聞き出すのは至難の業どころじゃないです。いろんな意味で私の胃が捩じ切れるかと思いました」
げんなりした顔で腹部を労わり撫でる辛島さんの様子は、傍で見ていたなら思わず世の中良いことたくさんあるよと励ましながら肩を叩いて差し上げたくなるものだ。ただ、それを目撃しているのは正面に座して報告を受けている社長のみなので期待は出来ない。やさしい人柄ではあるが、社長は人をからかうのもお好きだ。
「ん~、アレは番犬って感じじゃないわよねぇ。化け猫と言うほどの異質さはないから……何に例えるのがしっくりするかしら?事態を把握した上で相手の成長を見守り、限界を見極めてここぞという時に手助けをしてくれるお助けキャラ」
「お助けキャラでいいじゃないですか、もぅ。指摘されたからなんとなく落ち込んでるのかなって思えましたけど、されてなければ私は橙里くんの不調に気付けてませんよ」
上手い例えが出てこなくてすっきりしないのか、悩ましく眉を寄せている社長に辛島さんは溜息を吐き、情けなくも困った顔をして腹部を撫で続けている。
余程キリキリと胃が痛いことになっていたのだろう。お大事に。
「何事にも動じないポーカーフェイス、どんな状況下でも常と変らぬ仕事のクオリティ。この表面だけを見てしまう立場や環境だと橙里ちゃんの繊細な中身が悲鳴を上げているのに気付くのは難しいわね。器用過ぎて不器用な子は普段手がかからない分とんでもない爆弾を誰にも気付かれずに炸裂させちゃうから困っちゃう」
こつんっと液晶画面に表示されている脅迫じみた文面を指先で弾く社長の表情は、発言内容に反してちっとも困っているようには見えず、楽しそうに微笑んで見える。むしろそれを見ている辛島さんの方が困った顔になっている。
「困っちゃうじゃないです。このひと月で確実に私の胃は荒れ果てましたよ。これだけ近くに他人がいる状況なんだから自発的に行動を起こして欲しいのでしばし傍観って言われて驚いていたら、近くの他人には私も含まれてるから頑張って口を割らせてみてねとか笑顔で言われて、夏の走りに手をかけようかという季節に寒さで震えましたよ」
その時のことを思い出してか自身を抱いて身震いする辛島さんは、寒い訳などないだろうに暖を取るように両腕を擦る。一体何があったのかと問いたくなるけれど、現在対峙している唯一の相手は薄く微笑むばかり。
「結局、お悩み相談どころかヒントになるような話すら引き出せず撃沈。これじゃあダメだと皆を代表して突撃した俊春くんが見事に当たって砕け、昨日めでたく五人揃って役立たずの烙印を押されました」
眉はハの字で顔色は仄青く、浮かぶ表情は渋くて苦い。溜息を吐きながら語り、肩を落とした残念な結果のお話に打たれたのは労りの相槌。
「それは辛島ちゃんの頑張り不足ね。先を歩く年長者としても、グループの成長を助けるマネージャーとしても、ね」
ではなく、微笑みの殴打。追い打ちと言ってもいいそれは手厳しい言葉だ。
「方法はあるのにやらない。相談を受けられる立ち位置にいるのに進展させない。踏み込みの甘さと不甲斐なさを叱られてるのよ。秋夜ちゃんじゃないけど、やる時は徹底的にやらなきゃ格好悪くて効果もないってことね。わかっているでしょうけどきっと次はないわよ。反省は十二分になさい」
「……はい。それで、その案は採用で進めて構わないですか?」
見張った目を強く閉じ、何かを噛み締め飲み込むようにして答えた辛島さんは、それで気持ちを切り替えたのか社長の机の上に置かれた一枚の紙を示して裁可を仰ぐ。その言葉で視線を下へ落とした社長は、しなやかな指の動きで紙を持ち上げた。
「いいわよぉ。やっと橙里ちゃんって感じが出てきて大変よろしいわ。お預けされちゃってた女の子たちが狂喜乱舞してくれる姿が見えるようね。ああ、そうなると休憩スペースには大量にティッシュボックスと消毒液が必要かしら。あとゴミ箱」
「……興奮して鼻血を噴くのは漫画の世界だけでしょうに」
一瞬前の緊張感は何処へやら。鼻歌でも歌い始めそうな調子で返答しながら紙に走り書きをする社長。そのスイッチを切り替えるような変化に脱力した辛島さんは、失礼極まりない視線を向けて呆れるけれど、手にする万年筆を持ち上げた社長は浮かべる笑みを妖しく深めた。
「さあ、どうかしらね?女の子は予測がつかないびっくり箱みたいなものなのよ」