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その4

「どうしたの?」

「元気ない?」


最近、そんなことを聞かれることが増えた。

仕事先の現場、事務所、ダンスレッスン、体力向上用トレーニング、食事時。

つまり、顔を合わせれば所と時間を構わずメンバーに、馴染みのスタッフさんに、大丈夫かを問われるようになった。


始めたばかりの筋肉、ではなく体力向上用の強化トレーニングによる誰が見ても明らかな疲労具合を心配してのものかと最初の頃は思っていた。

けれど、徐々に体の方がトレーニングに慣れ、ほんの少し体力に余裕が出来ても同じことを問われ続ける。だから、意外に堪えているのかと自覚せざるを得ない。


そういう感情とは上手く付き合えていると思っていたのに、情けないな。

何かをしている時はいい。けれど自由な時間が出来てしまえば、あの時の声と言葉が頭の中で繰り返し再生される。楽しそうに笑う明るく高い声が、離れない。


「橙里」


目の前に、比喩ではない目の前に俊春の顔があってゆっくりと瞬くが、ボクの目の錯覚でも見間違いでもない距離の近さにもう一度瞬く。

何故こんな至近距離で声をかけられているのだろうかと疑問に思うのに、ボクを呼んだ俊春はぎゅいっと眉間に皺を寄せる。その様子は怒るというより困った様子なのでどうしていいのだろうか。


戸惑っていると近すぎる位置から身を起こした俊春が手にしていたタオルを放り投げて来た。見事に顔面でキャッチしたタオルは柔らかくていい匂いがする。

ではなく、視界を遮る布地を外し、ハードの言葉が生温く感じるトレーニング終り汗だくで床にへたり込んでいるボクを見下ろせる位置に立つ俊春を仰ぐ。


普段は身長の関係でボクが俊春を見下ろしてしまうので、こういう機会は貴重なのだとトレーニング初日楽しそうに……いや、やや意地悪に笑いながら床に座り込んだまま立てなくなった人の旋毛を眺めていたのに、仰いだ視界に彼はいない。

あれ?と疑問に思うのは一瞬で、視界を下げれば彼はボクの前に座り込んでいた。

真正面で対峙する位置、疲労で投げ出した足と緩く立てた膝の間に座り、何故かボクの膝に頬杖をついている俊春。その物言いたげな不満顔は何が原因なのだろう。


よく秋夜と騒いではいるが、彼は沸点が低い訳じゃない。怒りっぽくある分、簡単に消費できる表層面をこまめに発散しているだけであって、心底怒っている訳ではないのだ。流石の秋夜も激怒させたことはないので、本気で激昂した時の俊春がどんな様子なのかは想像にお任せするしかないのだが、虫の居所が悪いといった様子は見たことはある。その時と表情が似ている今現在。本当にどうしたのだろうか。


「何かあったのか?」


それは今まさにボクがキミに問いたい言葉なのだが、逆に問われてしまい首を傾ぐ。傾いだ途端に眉間に皺を作るのはやめて欲しい。怒っていることはわかっても、何故何どうしての部分がわからなくて何を言っていいのかに困っている。


「最近よくボーっとしてるだろ。最初はきっついトレーニングにお前でもへこたれるんだなと思ったが、違う。あんのペラペラ体力と違ってギャーギャー文句は言わねぇし、きつそうにしちゃいるがきっちりマイペースにメニューはこなす」


ペラペラ体力というのはもしかしなくとも初日の過酷さに床が恋人になった夏彦のことを言っているのかな俊春。意図してチクチク刺してくる秋夜とは異なる真っ向から否定できない事実をザックリ刺してくる俊春の言い方は違う意味で辛辣だ。

毎日床に熱い抱擁をしてはいるが、夏彦も頑張っているんだからそんな五寸釘を打ち込むみたいなことを言うのはやめてあげてくれ。流石に痛いと思う。


「いつもと変わらない涼しいツラして仕事もトレーニングも片付けるってのは、らしいっちゃらしい。けど、違うってわかるから聞くぜ」


なんて思考が違う方向に逸れたボクだが、俊春は不機嫌顔で真面目に切り出す。


「何があったんだ、橙里」


それは、疑問であって疑問ではない問いの形を残した断定。

真っ直ぐな目でボクを見て回答を迫る姿には、秋夜とのやりとりで見られる幼さはない。じくじくと、無自覚に痛む気が付きたくない何かを見透かすような様子にギクリとなる。


口に出せば、この黒く霞む晴れない霧を払い飛ばすことが出来るのだろうか。

見えない手に首をやわく掴まれているような、上手く言い表せない何かを振り払うことが出来るのだろうか。それなら…………。


――人気ないならなんでアイドルやってんのー?本人知らないの?

――誰の一位にもなれないのに人気があると思ってるとかむなしぃー。

――大体さー、四季なんだろ?春夏秋冬の四人でいいっしょ。なんで五人なわけ?


紡ぎかけた音が、咽喉に張り付いて震えた。

何かを言いかけ開いた口を流れる汗を拭うふりをして、隠し閉ざした。


何を言えるのだろうか。何を言えばいいのだろうか。何を言いたいのだろうか。

そもそもこんな話、誰に聞かせられるのだろうか。

人気投票で三位だけれど、その内訳は皆の二位票だけなんだ、なんて。

誰に聞かせられるのだろうか。話して投票内容が変わるものではないのに、ボクは一体何を求めているのだろうか。何が、したいのだろうか……。


真っ直ぐな視線が、いつもと違うと気付いて問いかけてくれるその意味が、痛い。

吸い込む空気が冷たくて、鉛のように重くて。口にすることでキミを傷つけてしまうような、そんな気がして…………真実(ことば)を濁した。


「……夢見が悪い、ね。悪夢でも見てんのか?」


嘘ではない。けれど、肝心の中身を何一つ告げていないそれに俊春は眉を寄せた。

そうして小さく息を吐くと、動かさないボクの手の代わりに握り締めたタオルの端を取り、額から伝い落ちてきた汗をそっと拭う。その労わってくれる動作にツキリと何処かが痛んだ。


嘘ではない。悪夢と呼べるほどのものなのかはわからないけれど、好ましいとは思えないそれが眠りを妨げているのは、事実だ。

ふわふわとした柔らかい感触のタオルで顔を撫でられていく間、ボクの返した控えめな肯定で何かに悩む難しい顔になってしまった俊春をじっと眺める。

次は何を言われるのかと身構えている自分がいて、申し訳なくなる。


「夢も見ないくらい疲れてみるか?」


真面目な顔してぐっと背後のトレーニングマシンを親指で示してきた俊春に丁重な断りを入れ、シャワールームに逃げ込んだボクはダメ人間なのでしょうか否か。


確かに、確かに後に残るのは眠るだけの体力なんてことになってしまえば、体は休息のみを欲して泥のような眠りを得られることだろう。夢なんて見る余裕はきっとない。そういう意味では俊春の提案は見当外れではない。ただし、良くもない。

間違いなく次の日の仕事に差し障る。だからそれは最後の手段としてメモしておく。使う日が来ないことを祈っている。夏彦と同じ恋人は得たくない。


頭上から降り注ぐ温かな水を浴びながら、出来れば回避したい未来予想に寒い訳でもないのに震えた。


「やっぱダメか……」


だから、ボクは頬杖を外された俊春が呟いた言葉を知ることはない。






新曲のレコーディングが進めば、ライブに向けての準備も進む。それに応じてトレーニングメニューが「そろそろ追い込みかけるか」なんて不吉なことを口にした春秋コンビの手でより一層厳しいものになり、夏冬コンビと共に床を恋人にすることが増えた。火照った体をひんやり迎えてくれる床がやさしいと思えたのはまずいと思う。


体力勝負の太文字が脳裏に浮かばずにはいられないライブへと一日一日と近付いて行くけれど、どうしたのかを問われる回数は相変わらずで参ってしまう。

そんなにわかり易いのだろうか。そんなに聞かせてしまう程なのだろうか。

頭の中を巡り離れない言葉と声に抗う術を教えて欲しいと思いながら、その言葉を紡ぐことの出来ない愚かしさがおかしくて、面白くもないのに笑いたくなる。


「どうしたの?」「元気ない?」「大丈夫?」と何かをボクに確認してくるその言葉を嫌いになりそうで、こんなことを考え始めている自分が嫌になる。

ああ、こんなことを考えるからボクは…………誰かの一番には、なれないのかな。


「しょんぼりしてるわね、お兄ちゃん」


つんっと顔に触れる細い指の感触に、何処かへ流れて沈みそうな意識を呼び起こされる。ボーっとしているつもりはないのだけれど、ボーとしていたのだろう。

リビングのソファに座るボクを下から見上げ、何を思ったのか両手の人差し指でボクの眉尻を押し上げている妹がいて、瞬く。

何をしているのだろうかと思うが、その言葉は口から出てこず、そんなボクの反応に「おや」と朱里の大きな目が瞬いた。


「しょんぼりしてるのね、お兄ちゃん」


それはさっきと同じようで、違う言い回し。

ボクの顔から離れた朱里の手が膝の上で意味もなく広げられていたスケジュール帳を取り上げて、今これは必要ないと示すようにパタンと音を立てて閉じる。

閉じられたスケジュール帳はテーブルへと置かれ、空いてしまったボクの膝には「よいしょ」なんて音を口で表現しながら朱里が乗ってきた。……対面する形で。


朱里、お年頃の女の子が兄妹とはいえ男の膝上に座るなんて真似はよろしくない。

そう叱って窘めなくてはならない。本来なら、そうするべきだ。わかっている。

頭では、そうするべきだと誰に指摘されずとも十分に……わかっている。


「よしよし、いい子ね」


けれど……膝上の温もりが、柔らかく髪を撫で梳く細い指の感触が心地よくて、抗いたくない。このまま、そのやさしさに甘えていたいと思わせる。


「ちょっと頑張り過ぎちゃったから、休憩ね。妹のあたしも、お兄ちゃんもしばらくお休み。さあ橙里、お姉ちゃんがうんと甘やかしてあげる」


髪に、頬に触れて流れた手が離れ、揺らぐ視界に映るのは、慈愛の笑みを浮かべて両腕を開いた朱里の――姉の姿。


「おいで」


細くて折れてしまいそうなのに、柔らかくて温かいやさしさにしがみつき、包み込まれる。ほんのりと香る甘い香りに促され、無色透明な雫が静かに落ちて行った。


ぽつり、ぽつりと幼子が拙く語る言葉を否定も肯定もせず、ただ話を聞く。

そんな母と子を彷彿とさせるかのようなじんわりと胸を温めてくれるやりとり。

ただし、成人男性である兄の膝上に乗った妹に、抱きつき抱き締められながら心情吐露しているという光景が真実で、想像の斜め上に突き抜けている現実。

懇切丁寧な説明がなければとんでもない勘違いを生む光景であること間違いなし。

いや、この説明では違う誤解も生じる気がする。念のために告げよう。健全だ。


「ふぅん。残念な発想しか出来ないお粗末な社会人はともかく、頑張り屋さんの橙里がしょんぼりしちゃった原因はそういうことだったのね」


なでなでと細くて狭い肩に預けたボクの頭をやさしく撫でる朱里。緩やかで落ち着きのある口調なのにちょっとばかり棘がある言葉を織り交ぜているのは、怒ってくれているからだ。天真爛漫な妹の朱里も、何処にも行けなくなって立ち止まってしまったボクを引っ張り上げてくれる慈母のような姉の朱里も、どちらも橙里に甘い。


「行き詰ってぐるぐるして、苦しくてどうしようもなくなっちゃったけど、そこまで悩んだのは悪くないと思うわよ」


悪夢まで見せてくる脳内から消えてくれないそれの何が悪くないことなのかがわからなくて不服に思えば、顔を見てもいないのにボクがそう思ったことがわかった朱里はくすりと笑う。


「だって、橙里は自分が周りからどう思われているのかを考えることがほとんどないでしょう?無関心を装って周囲の評価から目を背けてるのは、自分を貶めているのと同じじゃない。自分を大事にしないのはダメだって朱里に言うくせに、橙里は矛盾したことをしてるのよ。お姉ちゃんはそれを不満に思っていたので気が付き方は、まあ気に食わないけれど、橙里が自分を見てくれるのは良い事です」


好きでも嫌いでもなく、始めから無いものとして扱う無関心は自分で自分を傷つけていることと同じだから。お姉ちゃんはやんわりとボクを叱るんだね。耳に痛い。


「自覚がないのは深刻だけど、ある上で自分いじめを続けるのはただのお馬鹿さんよ。虐めて欲しいならお姉ちゃんが新しい扉開いちゃうくらい思いっきりやってあげるからやめてちょうだい」


それは橙里の人生的に決して開いてはならない扉だと思うので断固拒否しますお姉ちゃん。そもそも自分いじめをしたい訳じゃないのだから虐められるのなんて拒否します。お断り。


「あら残念」


それは余計。


一拍分の沈黙が落ち、どちらからでもなくくすりと笑いが零れる。

何が解決したわけでもない。ただ出会ってしまった出来事を口にしただけ、聞いて貰っただけ。ただそれだけなのに、不思議とすっきりした気持ちになっている自分がいる。肩に乗せてしまっていた頭を持ち上げれば、ボクの膝上に乗っているお陰で同じ高さにいる朱里の柔らかく細められた目とぶつかる。


「思い出したみたいに橙里はうさぎさんになるのよね。普段はいい男なのに今日は可愛い男の子よ。写真に撮って『可愛いとうりたん』って題で囁いてもいいかしら?」


情けないから写真はやめて欲しい。成人男性のうさぎ目に需要はないだろう。

朱里、お姉ちゃん、笑顔でスマホを取り出して構えるのはやめてください本当に。

撮ったら最後、本気でスッスーロさんに載せるつもりだろう。公式サイトにもアップするだろう。お願いしますやめてください。


「あら残念」


本当に勘弁してください。ふざけている訳でも冗談でもなく心の底から残念だと思って言わないで欲しい。ボクにだって見栄とか男としてのプライドとか一応ある。


じとりと楽しそう……いや、楽しく笑う朱里を見つめているのに、睨んでいないのがわかっているからその笑みは崩れることを知らない。それでいつもの目に戻る。

そして余計に朱里が笑う。うん、いつもの光景だ。それが心地いい。


「橙里は誰かの一番になりたいの?嫌われている訳でもなければ無関心な訳でもない。関心があるってだけで雲泥の差。二番だって立派に好意的なものよ。それでも不満なの?」


好きの反対は無関心。嫌いじゃないと知っている。だからこそ二番目であることを嫌いだと言われていないことを、認識すらされていない訳ではないことを喜ばしいと思うべきだと、そう思う。


けれどチクチクと痛むのだ。それではダメなのだと、嫌なんだと何処かが訴える。

知らずに握る服の胸元。それを見てくすりと朱里が微笑み、小さな手が濡れた頬を包み込む。熱を伝えるために触れ合わせた額、近付いた目がボクを見つめる。


「一番よりも高い位置にあるわたしの特別でも、橙里は満足できないのかしら?」


二番でも一番でもなく、何より貴い順番などつけようもない別格位、それが特別。

その例えようもない栄誉を躊躇いもなく与えてくれる無償の愛、何があっても揺らがない場所があると知っているから、我が儘になれるんだよ。きっとね。

いつでもお姉ちゃんが傍にいてくれるから、いなくなることはないとわかっているから、甘えて他の何かなんて知らなくてもいいと思っていたのに……。

不思議だね。いつの間にか欲張りになってる。皆のことが羨ましくなったんだ。


シュンシュンって呼ばれて怒っている俊春が、罵ってなんてどうかと思えることを言われている秋夜が、プロテイン入りだけどたくさんのプレゼントを貰う美冬が、電子と現実の両方でいろんな人と交流しては一喜一憂する夏彦が、羨ましくなった。ボクは、アイドルをやっている橙里は、どう思われているんだろうって知りたくなったんだ。


「興味を持った矢先に見解の狭い社会人が一方的で信憑性のない噂に興じていらっしゃったので、門前払いの先制攻撃を受けて、それ以上悲しい言葉を聞くのが恐くて、確認も出来ずに一人鬱々となってしょんぼりしちゃったのね」


あらあらやれやれ困ったわ。そんな感じで苦笑混じりの吐息を頂戴する。

お姉ちゃん、結構傷つく。事実を突き付けないで。

俯いてしまいたい気持ちになっているのに合わせた額がそれを許さず、代わりに笑みを浮かべる視線から逃れようと伏し目がちになればそれを笑われる。ぐぅ。


「事実は直視しないと余計に痛いのよ。ほぅら、闇夜でも煌き輝く月のようなお姉ちゃんでも一言囁けば好意と敵意が九対一の割合ね。ご覧あれわたしの愛しい半身よ、今日だけで千件以上の罵りよ。ボキャブラリーの貧困さに片腹痛しね。六法全書をオススメして差し上げたわ」


それは誹謗中傷、即ち犯罪ってご存じかしらって意味だよね。真正面から非難する堂々としたスタンスを褒めるべきなのか、そんな事態になっていることを心配するべきなのか、どちらを優先するべきなのかボクは非常に悩ましいよお姉ちゃん。


「褒めて」


心配しながら褒めるよ。それにしても……知らなかった。本当に罵りだねこれは。

外す気はないのかもしれないと思ったが、意外にあっさり離れた額。開いた空間に突き出されたのは液晶画面に映し出されるスッスーロさんへのたくさんのコメントだ。指でスクロールすると好意的なコメントの合間に朱里を貶める言葉を放り込んできている誰かがいて、眉を顰める。


「醜女なのは自身を磨くことに力を注がずただただ誰かを羨み妬む自分で、調子に乗っているのはわたしのことを知ろうともしないで蔑もうとしている己の心根よね。可哀想で鼻で笑っちゃう」


そして実際に「はっ」って笑ってみせて相手が燃え上がっている訳だ。ひどいね。


「暇人なのね」


つい……つい……と火に油となった誰かの小学生の喧嘩のような言葉の羅列を「その程度の知能しかないの?もっと知識を深めて出直しなさい。退屈すぎて欠伸が出ちゃう」などの灯油やガソリンの燃料系態度で受け答えする朱里の返しに頭痛がしてくる。時折傍観している人たちから感嘆の声が上がっているのも不思議でならない。いくつも続いている短い言葉の応酬を眺めて出た感想はこうだ。

姉よ、貴女も暇人だ。


「あら、心外だわ。お姉ちゃんは日夜カッコいい橙里、可愛いとうりたん、麗しの橙里様、しょんぼりとうりくん、時々普通過ぎる春夏秋冬。その比率、八対二の圧倒的割合で流転の四季の日常風景を囁いて差し上げている公式認定個人アカウント持ち、日々の潤いに飢えているファンが崇め奉る女神様なのよ。毎日とっても忙しい」


そしてその写真をアップしているが故に妬み嫉み僻みの対象になっていると。


「いえす、ざっつらいと!ねたそねひがみーずが今日もわたしを罵って、それを無視することもなく懇切丁寧にあしらう囁きの攻防戦」


前半のおかしな中身と比率はともかく、やっていることは事務所認定の宣伝活動。

アイドル駆け出しの頃に朱里が応援&後方支援と称してスッスーロさんで情報発信してくれていたのが原型のそれを事務所が正式に広報活動として依頼しているので、これは立派な仕事になる。だから忙しいのは順調と取れなくもない。

とはいえ、それが原因で妬み嫉み僻みの対象になっているのはどうなんだ。


罵りを受け取らずにぺチンッと弾き落とし、やり直し要求している朱里と誰かのやりとり。一瞬脳裏に浮かんだ秋夜の姿を見なかったことにして呆れながら短い応酬を眺めていたのだが、画面が消える。ボクの目の前に示していたそれを朱里が下げたからだ。

……結末が気になるんだが。場合によっては兄として物申すつもりだぞ。

そう不満を示しているのに、肝心の朱里は用は済んだと言いたげにスマホをボクから遠ざける。


「結末?ボキャブラリーが尽きた時点で終了よ。負け犬が定番すぎる捨て台詞を吐いて尻尾を巻いて出て行く、それだけよ。お兄ちゃんの出る幕はないし、お休みだって言ってるでしょ橙里」


ぺちん。そんな痛くもない音と少しの感触だけを生み出した朱里の細い指先とボクの額の接触面。出来の悪い子供を咎めてるような仕草だが、ボクを見る朱里の目は楽しそうで、何処かほっとした様子が窺える。

つまり、それだけ心配をかけていたということだ。選手交代と朱里が妹から姉へと立場をひっくり返さざるを得ないほど、ボクが疲弊して弱っていたということ。

上手く捌けているつもりでその実まったくの見当違いとか……恥ずかしいことだ。


ようやく指摘が妥当なものであると認識したが、それはそれで不満が生じ、その気持ちは顔に出る。そしてそれを見て朱里がくすりと微笑ましく笑うので繰り返し。

幾度かそれを繰り返していれば、ついっと朱里の指先がボクの口角を押し上げる。

への字になっていると言いたいのだろうかその指先は。


「ねえ、橙里。人っていうのはとても面倒くさい生き物だわ」


唐突に何を言い出すのか、とは思わない。妹の朱里は理不尽なことを言うが、姉の朱里は意味のないことを語らない。だからその言葉に真剣に耳を傾ける。

口角を押し上げた指先は、頬を包む手の平へと代わり、やさしく熱を伝える。


「リンゴを見て好物だと喜ぶ人もいれば苦手なものだと落胆する人もいて、リンゴはリンゴだと特に何の反応もしない人もいる。共通の話題を与えても考える方向が違えば出て来る答えは違うものなのよ」


リンゴをその相手がどう思っているか、つまりその人にとっての主観によって捉え方がまったく違う。好きな人もいれば嫌いな人もいて、興味もない人もいる。

その違いをボクにわざわざ示す意味、ボクが聞いた言葉は朱里が聞くと違う意味になるということだろうか。


「どこで聞いたのかは知らないけど、二位票で橙里が人気投票三位。この言葉で残念な社会人は人気投票三位なのに二位票しかない、つまり一位票が一つもないという発想になったのね。橙里はその脚色付きの会話を聞いたから言葉をそのまま受け止めてしょんぼりなっちゃったけれど、よぉーく考えてご覧なさい」


お姉ちゃん、考えてご覧って言いながら人の頬を摘んで引っ張ったりぷにぷに揉むのはやめてください。考えに集中できない。手を放せと言わないのがいけないのかもしれないけれど、それは、その……もう少し、そのままであって欲しい。

それにしても、脚色付きの会話ってどういう意味なのか。疑問に思えば朱里は伸びもしないボクの頬をみよんみよんと伸ばして呆れてくれる。ひどい。


「人づての話に真はないのよ。人には感情があって考え方には主観と客観があるの。二位票だけと捉えるものもいれば、二位票しかと捉える人もいるの。言葉は大事なのよ。一文字違うだけで伝わる意味が全然違うのだから、厄介ね」


「だけ」と「しか」、たったこれだけが違うだけなのに続く言葉の意味は変わる。

「二位票だけで三位」、「二位票だけなのに三位」。こう聞くとちょっといい意味に聞こえるけれど、「二位票しかないのに三位」となれば不正でもしたのかと疑われているように聞こえてくる。


確かに厄介だ。言い方次第で悪しにも良しにも聞こえるそれは不確かで、確実な正解が見えてこない。ああそうか、朱里が言いたいのはそもそもの話なんだ。


開票作業が大変だと先輩が言ってた。いつも二位票しかないんだって。らしいよ。

ボクが聞いたのはそんな曖昧な言葉から始まっていた。つまりこの話は先輩と呼ばれる人物から聞いた話を、話をしていた誰かが自分なりの補足をして作ったIF。

そこには事実もなければ本当も嘘もない。ただの絵空事。空想であり妄想だ。


「聞きかじった程度の話を思い出したから話題として取り出して面白おかしく脚色したその場だけのネタよ。他人様を貶す話を作り上げて場を盛り上げる考え方は好ましいとは言えないけれど、よくあることではあるわ。そしてそれにいちいち反応して真に受けてたらこっちが持たないのよ。真面目なのが仇になったわね、橙里」


にっこりとボクの頬を弄びながら意地悪に笑う朱里が示した答えにがっくりと肩を落とす。ボクが悩んでいた時間は一体何だったんだろうか。

遠くを見たくなるボクの目に映るのは笑顔の姉で恨めしくなる。そして笑われる。


「そういうこともあるんだって学ぶ機会だったとプラスにしなさいな。これで同じ轍は踏まないでしょう?橙里は同じ失敗を繰り返さない賢い子だもの妬ましい」


お姉ちゃん、本音がちょっと漏れてる。頬を摘んで遊ぶのはいいけど力加減は気にして欲しい。痛いのは困る。


「ベストは全身、無理なら顔を全力で死守。アイドルの顔面は商売道具、だったっけ?呪いのように唱えなさいって言い切ったあの社長さんは面白いと思う」


そうだね。言ってることはわかるんだけど、ちょっと面食らったよ。最後におまけみたいに「でも一番大事なのは命とハートだからそこのところはしっかりね」ってウインクされたのが印象強いよ。


くすくすと笑いあい、和やかになった空気の中「さて」と朱里が言葉を紡いでボクの膝から降りて立ち上がった。座っているボクを上から見下ろしながら微笑む朱里が何を告げるのか。ちょっと察しがついた。


「しょんぼりの原因は晴れたかしら、橙里」


ほらね。だからちょっと視点を変えるだけで驚くほど簡単に解決してしまった悩みで動けなくなっていた自分の情けなさを苦笑う。


「お口が上向きになったなら明日に備えてうさぎちゃんを解消してらっしゃい」


行き先はあっちよ、とリビングの向こう側を示す朱里。顔を洗って目を冷やせという意味なのを理解して立ち上がれば、それでよろしいと笑みを深くするのでどう返していいものやら。まあ、言うべき言葉は決まっているのだけれど。


「どういたしまして」ではなく「当然でしょ」と返すあたりが朱里らしい。

けれどその様子はボクがリビングを出た直後、鋭く冷ややかなものへと変貌する。


「さて……どう料理してくれようかしらね」


もしもその言葉が聞こえていたならば、やめてくださいと頭を限界まで低くして頼み込むことをボクは躊躇わない。鍋が火を噴く光景を見るのなんて一度で十分だ。

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