七話 見つけた真実
「議論の余地だと? 何があると言うんだ?」
セルドは不機嫌そうに、憮然と訊ね返した。
「このスケッチには不可解な部分があります」
そう言って、私は事件現場のスケッチをセルドへ見せた。
「何もおかしな部分はないと思うが?」
「そうですね。正直に言えば、この被害者の死体以外におかしな部分は無い。首の傷さえなければ、もはやただの人物と風景を描いただけの物になるでしょう」
「なら、何も問題はないではないか」
セルドは表情を和らげた。
「いいえ、そうはいきません。何せこれは人物画でも風景画でもなく、殺人現場のスケッチなのですから。おかしな部分がない事の方が問題なのです!」
私が強い口調で指摘すると、セルドは「何?」とたじろいだ。
そんな彼に私は畳み掛ける。
「この現場が本当に殺人現場だとするなら、あまりにも綺麗過ぎます」
「綺麗、過ぎる?」
セルドは訊ね返す。
「このスケッチの通り、被害者の首には切り傷があります。これが致命傷となって、被害者が亡くなった事は明白です。そして、傷口には凶器が刺さっていません。つまり、ここで犯行が行われたというのなら、刺してすぐに抜いたという事になる」
「だからどうしたと言うんだ!」
「そんな事をすればどうなるか、経験豊富な司法長官殿ならお解かりでしょう?」
「……はっ!」
セルドは少し思案し、すぐに小さく声をあげる。
「首の傷です。それも致命傷になるような。刺した凶器を抜けば、栓が抜けるように大量の血が噴き出す事となるでしょう。ですが、この現場には出血の痕跡が一切ない。それがおかしいのです」
このスケッチの事件現場はあまりにも綺麗過ぎる。
もし、本当にここが事件現場ならば、もっと出血で汚れているはずなのだ。
だから、おかしいのである。
「だが、凶器を刺したままにすれば出血を抑えられる……。スケッチに凶器が描かれていないのは、鑑識が描き忘れただけかもしれぬ……」
「お忘れですか?」
ふふん、と私は得意げに笑ってみせる。
「このスケッチには凶器が描かれていた。そう証言したのはあなたですよ、司法長官!」
「ぐあっ!」
悲鳴を上げて、セルドは一歩後ずさった。
私は台に両手を衝いて、乗り出すようにして続ける。
「忘れたとは言わせません! あなたは確かに証言しました。凶器は、このスケッチに描かれていた。そして、その上からインクの付いた指で触れてしまった、と。自分の社会的地位を担保にしてまで証言したんです! まさか、覆す事なんてしないでしょうね!」
一気にまくし立てる。
セルドはもう一歩退きそうになるが、堪えて台へ両手を付いた。
バンと台の叩かれる音がする。
「ぐぅう、調子に乗るなよ……小娘……」
憎々しげに私を睨みつけ、呪詛のように低い声で唸った。
その様は、少し焦っているようにも見える。
なら、その焦りに付け込んでもう一つ指摘してしまおう。
「そして、問題はそれだけではありません」
私は人差し指を立てて告げた。
「このスケッチの被害者に注目してください」
「被害者だと?」
私は、被害者の首を指で差した。
「首の傷から、血が流れています」
被害者の首には鋭利な刃物で切られたであろう一筋の傷があり、そこから首を横断するように血が流れている。
さながらそれは、首輪のように見える。
「それがどうした?」
訊ねてくるセルドに笑みを返し、私はマーリ軍曹に向いた。
「マーリさん。あなたが現場へ駆けつけた時、遺体はどんな様子でしたか?」
「どのような……? それはさっき証言した通り、ベンチに座った状態でした。蹲るような、少し奇妙な体勢でありました」
「ありがとうございます」
そう、その証言が欲しかった。
「どういう事だ!」
「わかりませんか?」
怒鳴るセルドに、私は訊ね返した。
「では説明しましょう。このスケッチでは、血が首を横断するように流れています」
「それの何がおかしい! 流れ出たものが下へ落ちるのは当然ではないか!」
「確かにそうです。私もこのスケッチを見ただけなら、ここに不自然さを見出す事もなかったでしょう。でも、マーリ軍曹の証言を聞いた今、それが不自然な事であると解かるはずです」
そう。
スケッチの遺体は、ベンチに横たわっている。
その状態で傷を付けられれば、そこから流れる血は首を横断するように流れる。
さながら、首輪を付けたように赤は流れていく。
そこにおかしさはない。
しかし、実際の現場ではそうじゃなかった。
「被害者の遺体は発見時、ベンチに座っていた。本当に血が下へ流れたというのなら、服の襟に向かって血が流れるはずではないですか!」
「な、なんだと!」
もし本当に、座った相手を刺したのならば血は重力に従って胴体の方へ流れる。
でも、被害者の衣服は真っ白だ。
実際は多少の血がついていてもおかしくないが、少なくともスケッチには描かれていない。
つまりそれは、スケッチを描いた鑑識にとって特筆すべきほど目立つものではなかったという事だ。
「血が首を横断する形で流れたという事は……。被害者は、殺害当時に横たわっていた可能性が高い。そして、その血が乾いて固着するまで放置され、その後にベンチへ座らされたのです」
「馬鹿な……!」
セルドは誰にともなく怒鳴った。
「どう言われようと、証拠が事実を物語っています」
「くっ……。では、どうして座っていた遺体が、横たわったというのだ!」
「申し訳ありません!」
セルドの問いに返したのは、マーリ軍曹だった。
「犯人を捕らえる際に、誤って触れてしまい……」
「倒したのか!?」
「はいぃっ! 申し訳ありません!」
マーリ軍曹は深く頭を下げて謝った。
「くそ……」
「これでわかりましたね」
悪態を吐くセルドに、私は声をかける。
「何の事だ?」
「これらの証明から導き出される答えは一つ。公園が事件現場ではなかったという事です」
現場に出血がなかったという事は、この場所で殺されたわけではないという事だ。
現場で殺されたというなら、血痕が飛び散っていないのは不自然。
首の血痕を見るに、遺体は殺された後で横たえられたまま放置されたに違いない。
そしてそれは勿論、事件現場ではなかった。
長時間放置するとなると、公園は目立ちすぎる。
衣服に目立った血の汚れがないという事は、凶器は刺されたまま放置された可能性が高い。
体勢が蹲るような、体を丸めた形だったのは死後硬直が始まる前にその体勢で長時間放置されたからだろう。
死後硬直で、体勢が固定されてしまったのだ。
そんな窮屈な体勢を強いられたのは、どこか狭い場所に遺体が隠されていたからじゃないだろうか?
「そしてそれは、葵くんの犯行を証言をした目撃者が嘘を言っていたという事の証明でもあります!」
葵くんが現場にいた事は間違いない。
けれど、目撃者が言うように現場で被害者を殺害したという事はありえない。
多分葵くんは、たまたま遺体を見つけた時にマーリ軍曹と遭遇してしまったのだ。
そして犯人として捕まった。
その方が、長い時間現場で呆然としていたという状況よりしっくりする。
「やはり、その状況を見ていた目撃者は信用できません。改めて、被告の無実を主張します!」
これが私の見つけた真実《答え》。
証明だ!
「……いいや」
セルドが呟くような声で言った。
「なんですって?」
「いいや、そんな事はない!」
訊ねると、セルドは改めて大きな声で答えた。
「そこのヒノモト人が犯人である事は間違いない! これは覆しようのない事実だ」
「何故、そう言いきれるのです?」
「そ、それは……凶器、そうだ、凶器が現場に落ちていた事には違いない」
例のあったかどうか曖昧な手裏剣の事か。
「被告人は他にも手裏剣を所持していたのでしょう? 殺すための凶器ではなく、たまたま常備していた物を落としただけではないですか?」
「だが、そんな物は憶測でしかない」
「そうですね。でも、あなたが見せてくれた手裏剣には、血がついていなかった」
「言っただろう! 被告が拭い去ったのだ!」
「血を拭った布などは、見つかったのでしょうか?」
「そ、それは……」
反論としては微妙かと思ったけれど。
その有無は、言葉を詰まらせた彼の態度が物語っていた。
彼の論証にも精彩が欠けてきた。
もはや、私に反論するだけの証拠がないのかもしれない。
「だが、被告が殺した事は紛れもない事実だ!」
しかしなおも食い下がる。
何故、こんなに食い下がってくるのだろう?
どうあっても、葵くんを犯人にしたいという意思を感じる。
どうして?
「ならその根拠、そして証拠を示してください。それを示せないなら、その論証には何の意味もありません」
「ぐぬぬ……」
セルドは悔しげに呻く。
「ふぅ……」
セルドは顔を俯け、小さく溜息を吐いた。
そして、顔を上げる。
その顔からは、焦りが消えていた。
「致し方がない。俺の負けだ」
そう、告げた。
「じゃあ、葵くんの無実を認めるというのですね?」
私は問う。
けれど、セルドは不敵な笑みを返す。
「ふっ、勘違いするな。小娘」
「え?」
「俺が負けたと言ったのは、お前が俺に最後の手段を使わせる事に対しての賛辞だ」
「最後の、手段?」
まだ、何かあるのか?
「事件当時の目撃者。その人間をこの法廷に引き摺り出した。その点を褒めているんだよ」
目撃者……。
「いえ、もうその証言は必要ありません」
私の目的は、あくまでも葵くんが事件に関与していない事を証明する事だ。
さっきまではその目撃者の証言を崩すために召喚を要求していたが……。
それを証明できた今、この申し出は嬉しくない。
「その目撃者は信用できないと証明したはずです。今更、証言していただく必要はないでしょう」
「いや、それは違うな。目撃者には、あえて証言しなかった部分がある」
「証言しなかった? どうして? 何故、証言しなかったと言い切れるのです? もしそれが本当だと言うのなら、やはり目撃者を信用する事はできません。証言を求める必要はないでしょう」
このまま葵くん有利のまま審理を終わらせたかった私は、言葉をまくし立てて目撃者の召喚を阻止しようとする。
しかし、その思惑は思いがけない形で潰される事となる。
「この目撃者ほど、信用のある人間はいない」
「何故、そう言えるのです?」
「何故なら、その目撃者は俺なのだから!」
そう言って、セルドは親指を立てて自分の胸を示した。
え?
セルドが、目撃者?
「な、なんですって!」
目撃者は召喚されるまでもなく、初めからこの法廷にいたのである。




