恋を手折らば
突然ですが、女学校を退学することとなりました。
まあ、そんなに驚かないで下さいな。たしかにお裁縫では丁を取りましたけれど、追い出されるわけではありません。
此度のことは、婚約者――あの人たってのお願いなのです。
彼はさる華族のご令息で、今はご実家を出て、帝国大学に通っております。年はわたくしが十五ですから、五つほど上になりましょうか。親同士が決めた縁談ですので、実はお相手のこと、よく覚えていないのです。
わたくしは元々、彼の卒業を機に退学して、あちらのお家に入る予定でした。ですからまだ、ほんの少しだけ、女学校にいられる予定でした。
けれど彼ときたら、数年越しに手紙を送りつけてきたかと思うと、わたくしに退学を迫ったのです。それも、理由もあかさぬままに。
ああ本当に、なんてこと。残り少ないハイカラな女学生生活を満喫していましたのに!
父から託された退学届けを提出したわたくしは荷をまとめ、憤懣やるかたないといったていで人力車に乗り込みました。葡萄茶袴に編み上げ靴、ぱっつりと切り揃えた髪には可愛らしいリボン。それなりに気に入っていたこの格好とも、今日でおさらばです。
帝都はなにかと賑やかしいところです。路面電車には人々がぎゅうぎゅうに押し込められ、道は物売りたちがゆき交います。舗装された道路もありますが、ほとんどの道は帝都といえども土のままなので、ところどころに乾いた土埃が立ちこめておりました。
日々辟易とさせられたこの喧騒も、明日からは遠いものとなるのです。車夫にわがままを言い、あんみつ屋さんやカフェーに寄り道ができないことを思うと、わたくしの心は沈みました。奔放に育ってしまったわたくしにとって、それはかけがえのないひとときであったのです。
人力車は無情にも、慣れ親しんだ道をゆきます。
帰宅したわたくしは、迎えに出てきた女中から、客人が来ていることを教えられました。驚くことなかれ、婚約者です。
一体どうしたというのでしょう。まだ秋ですが、明日は雪が降るのやもしれません。
わたくしは案内されるままに、彼の元へと向かいました。深く息を吸い、不安に揺れる声音を悟られぬように声をかけます。
「お久しぶりです」
彼はわが家の庭園におりました。西洋のお庭をそっくり移してきたようなこの場所は、わたくしが一番気に入っている場所です。
「……ああ、お久しぶりです」
やや元気を失ってきた芝生に寝そべっていた彼は、歩み寄るわたくしを見上げ、不思議そうに目をしばたたかせました。のんびりと身体を起こし、茶色がかったやわらかそうな髪についた葉を払います。
彼は帝国大学からそのままわが家に来たのでしょう。均整の取れた、けれどどこか頼りない身体を制服に包み、制帽を手にしていました。光の加減か琥珀色に輝く瞳でわたくしを見つめ、彼は形のよい唇に笑みを浮かべました。
なにが面白いのでしょう。わたくしは、すこぶる不機嫌ですのに。
「不機嫌そうですね」
まあ、気づいていらっしゃったのね。
「そう見えるでしょうか?」
「ええ。貴女はとても不機嫌そうに見える」
誰のせいだと思っているのでしょう。
ぽんぽんと自分の横を叩いて座るように促す彼に、わたくしは黙りこくったまま従いました。人一人分の距離を開けて腰をおろすと、彼はなぜか、ひどく残念そうな顔をしておりました。
やや冷たい秋の風が、わたくしの髪をさらっていきます。するりと風が梳いていった髪の先を、彼は目を細めて追いました。
「髪、伸びましたね」
「……数年もたてば、伸びます」
「それもそうだ」
彼はふつりと口を閉ざしてしまいました。わたくしは手持ちぶさたになり、しかし彼の側を離れるのは失礼なので、しかたなく庭を見渡します。
何度見てもすばらしい庭です。今は鮮やかな色合いの花々が、そこここで細い茎を揺らして歌っています。ひときわ愛らしいあの花は、長らく閉ざされていた我が国が外国に開かれたおりに入ってきたもので、たしかハルシャギクというのです。
「……怒っていますか」
ぼんやりと風に揺れる花々を見ていると、彼がぽつんと呟きました。
「なにをでしょう?」
「女学校をやめさせたことです」
「いいえ」
「本当は?」
「……怒っています」
わたくしがむすりとして答えると、彼は困ったように微笑みました。なぜそのような顔をするのでしょう。わたくしは、怒っているというのに。
「女学校は、楽しかったですか」
「ええ、とても」
「お父上からは裁縫が苦手と聞きましたが」
お父様、なんて余計なことを。
「……裁縫以外は、とても、楽しかったです」
たわいないおしゃべりも、授業の後に寄るあんみつ屋さんも、とても楽しかったです。外国の言葉も、もう少し、学んでみたいと思っていました。女に学は必要ないと言いますが、知的好奇心を満たすことに男も女もありません。口にしたら生意気なと怒られそうなので、言いませんけれど。
「そうですか」
彼はわたくしを見つめて呟きました。迷うように視線をさまよわせて、けれど、とためらいがちに口を開きます。
「わたしは、貴女が楽しんでいるのが、嫌で仕方がありませんでした」
わたくしはじっと彼を見つめました。わたくしは知らず、彼の怒りを買っていたようです。もちろん、心当たりは一切ありません。
「帰りにあんみつ屋やカフェーに寄っていたでしょう」
「ええ」
「わたしは、それが嫌だった」
どういうことでしょう。わたくしは困惑し、眉をひそめます。
たしかに、寄り道をすることは褒められたものではないでしょう。それはわたくしも、重々承知しております。けれど、今までわたくしをないがしろにしてきた彼がこのようなことを言うのは、少しおかしい気がしました。
ふと、芝生に置いたわたくしの手に、彼の手が重ねられました。包み込むように手を握られた瞬間、わたくしの心臓が、早鐘をうち始めます。
なんでしょう、落ち着きません。
「わたしが帝国大学で勉強している間に、貴女は女学生になりました」
「はい」
「きれいな黒髪にリボンをからめ、葡萄茶の袴を可憐に揺らす、ハイカラで可愛らしい女学生になってしまった」
「……はい?」
わたくしは首を傾げました。きれい、可憐、可愛らしい、なんて。彼の唇から出るにしては、あまりにもそぐわない言葉です。
きょとんとしたわたくしに気づいているのかいないのか、彼は言葉を続けます。
「この間、わたしは見てしまったのですよ。貴女があんみつ屋で、とびきりの笑顔を振りまいていたところを」
「あんみつがおいしかったのです」
それ以外の理由など、ありはしないでしょうに。
「見知らぬ書生に、なにやら手紙を渡されていたでしょう」
「ええ、舶来の詩が書いてありましたが」
「……意味は分かっていらっしゃるのですか?」
「いいえ、癖の強い字を書かれていたので、さっぱり」
わたくしの答えに、彼は呆れたように嘆息します。
「心配させないでください」
わたくしの指の間に自分の指をからませ、彼は囁くような声音で言いました。
心配、とは。
わたくしはわけが分からず、内心で首をかしげました。
いいえそれよりも、どうして彼がこんなに細かいことを知っているのですか。わたくし、彼と会うのは数年ぶりのはずです。
わたくしは、いぶかるように彼を見上げました。彼は不機嫌そうにわたくしを見つめ、反対の手を伸ばしてきます。手を握られているので、逃げる術はありませんでした。
彼の指先が、するりとわたくしの髪をなでました。あまり日に焼けていない、けれど女のわたくしとはあきらかに違う無骨な指先が地肌をかすめ、髪を指にからめて。
「貴女はどうにもハイカラでいけない。自由すぎて、わたしは不安になる」
彼はわたくしの耳元で、とろけるような声音で囁きました。
わたくしがまじまじと彼を見つめると、彼は指にからめたわたくしの髪を持ち上げ、そっと口づけを落とします。
「愛らしい貴女が他の男の目に触れるのが、耐え難いのです」
その声音の中にひそむ真剣な響きと思いがけぬ顔の近さに、頬がぽっと熱を持ちました。わたくしの頬は今、熟した林檎のように紅々としているでしょう。
けれど。
「ご冗談でしょう」
落ち着かない思いを隠しつつ、わたくしは口を開きました。
「貴方が不安になるなんて、嘘です」
「なぜそうお思いになるのです?」
「だって、貴方は」
手紙を送っても、一度も返事をくださらなかったではありませんか。
この数年、何度お会いしたいと言っても、顔を見せてくださらなかったではありませんか。
わたくしがそう口にすると、彼は目を見張って、それからふにゃりと笑み崩れます。ああなんでしょう、このそこはかとない敗北感は。
「それは、直に貴女の顔を見て、言葉を交わしたら、我慢ができそうになかったから。貴女はもう子どもではないのだし」
「我慢? なんのです?」
「貴女を抱きしめること」
肩を抱き寄せられ、わたくしは彼の胸板によりかかるような格好になりました。目をぱちくりとさせ、わたくしは身じろぎます。嫁入り前の娘が異性とこんなことをしているなんて、考えられません。
「はしたないです、破廉恥です」
「西洋では普通だそうですよ」
「慎みを捨てるのと、西洋にかぶれるのは違います」
「言われると思いました。でも気にしません」
いいえ、そこは気にして下さい。
彼の指先が耳に触れました。ふとやわらかな匂いがただよい、少しだけ冷たい、そして温かな感触が乗せられます。
そろそろと手を伸ばして、わたくしは耳元に触れてみました。指先に、しっとりとやわらかな感触。
ハルシャギク。
「西洋では好いた女性に花を贈るそうですよ」
笑み混じりの声が降ってきました。顔を上げると、心臓に悪い笑顔がわたくしを見下ろしています。
わたくしは恥じらい、彼の腕から逃れようと身をよじりました。しかし彼にとって、わたくしの抵抗など、ささやかなものなのでしょう。身体を引き寄せるために肩に回された腕はびくともしません。
「その花はコスモスとも言い、秋の桜とも書くのです」
とうとうもがくのをやめたわたくしに、彼は少しだけ笑って、教えてくれました。
「秋の、桜」
「はい」
「桜は春のものでしょうに。秋の桜だなんて、気まぐれな花ですのね」
「貴女のようだ」
わたくしが気まぐれだとおっしゃりたいのでしょうか。心外です。わたくしは顔をしかめました。
「花の意味は『乙女の恋』だそうですよ」
わたくしの頬をなでて、彼は目を細めました。彼こそ、気まぐれな猫のようでした。
「からかっていらっしゃるのですね、わたくしのこと」
「おや、どうして」
彼は本当に不思議そうに、わたくしを見下ろしました。
なんと、わたくしの心を数年にわたって弄んでおきながら、無自覚でいらっしゃった。なんてたちの悪い。
「教えません」
「貴女こそわたしの心を弄んでいるではないですか。頬を染めて、恋する乙女のようにわたしを見て。わたしのことなど、なんとも思っていないくせに」
彼の手が、わたくしの顎をそっと持ち上げました。急に身体が強ばって、わたくしは声も出せずに彼を見つめます。
わたくしと彼は、親同士が決めた許嫁です。お相手のことをよく知らない、これは本当のことです。
ああ、けれど。
わたくしは、幼い頃から、彼を恋い慕っておりました。彼が五つも年下のわたくしに――それも親同士が決めた許嫁に心を寄せるはずもないと知りながら、この胸は幼い頃から、すくすくと恋心を育てていたのです。
弄ばれているのは彼でなく、わたくしの方。
つい先程まで、そう思って、いたのですけれど。
「貴女にもう少しの間、自由をあげたかったのですが、限界のようです」
彼はなさけない顔で告げて、わたくしに笑いかけました。
「貴女が他の男に取られないか、他の男の目に留まらないかと、不安で仕方ありません」
だから、と彼は囁きます。
「一刻も早く、わたしのものになって――」
わたくしは目を見開きました。
これはもしや、彼もわたくしを恋い慕っているということでしょうか。わたくしが彼に女として見られたくて背伸びし、カフェーで彼に笑顔を振りまく女給に醜い思いをいだくように、彼もわたくしに男として見られたいと願い、名も覚えていない男の方に嫉妬して下さったと考えてもよいのでしょうか。
彼はなにも言いません。ただその端正な顔を傾けて、わたくしを魅了してきます。
視線に促されるように、わたくしはまつげを伏せました。破廉恥と言われようが、慎みがないと言われようが、今だけは気にしません。
乙女の恋は、あえなく手折られてしまいました。
今は恋いこがれた彼の口づけを受けて、恥じらっています。