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法子の部屋にいたのは、かつて客として雄吾を指名した長山と増田先生であった。雄吾はどんな顔をしたらいいのか分からなかった。「御久し振り」と言ってしまったら、法子に「なぜ知り合いなのか」と聞かれるだろう。そしたら、バイトのことがばれてしまう。いや、そもそもこの二人は法子とどういう関係なのかも分からない。下手なことは言わない方がいい、と判断した雄吾は初対面を装うことにした。
「姉ちゃん。こちらは…」
無難なことを言った後、長山が拍子抜けさせるような一言を口にした。
「いいよ。皆知ってるから」
「知ってる、ってどういうことですか」
「そのまま、額面通りだよ。お姉さんもね」
一体どこでどうやってばれたのだろう。長山と法子はかなり親しい関係なのだろうか。更に、増田先生までなぜここにいるのか。雄吾は考えれば考えるほど分からなくなっていた。
「君はこの三人の関係がどういうものなのか気になっているだろう?」
それまで何も言わなかった増田先生が口を開いた。
「はあ、まあそうですが」
そう雄吾が答えた時、寝室から何かを抱えて法子がリビングにやってきた。
「お待たせ。これで揃ったね」
法子は雄吾の顔を見ずに答えた。何か後ろめたいことでもあるかのように。
「姉ちゃん。これは一体…」
雄吾が聞くと、法子はやはり雄吾を見ずに、平静を装っているのが見え見えな感じで続けた。
「びっくりしたよね。ごめんね…。でも。別に雄吾のことをつけてたりしたわけじゃないのよ…。最初は偶然だったんだけど…」
法子がそこまで話したところで、雄吾が突然声を荒らげた。
「何なんだよ!これは。意味わかんねえんだけど。ちゃんと説明しろよ!」
「雄吾君、落ち着いて」
その時、初めて長山の口から「雄吾」という名前が出るのを聞いた。考えてみれば、長山は雄吾のことを、最初のうちは源氏名の「ハマ」、そして亡くなった弟の話が出てからは「ハル」と呼んでいた。もっとも、弟の話をしてからは一度しか会っていないが。長山の口から「雄吾」という名前が、しかも極めてすんなりと出たことには違和感があった。
(…?俺、まだここでは「雄吾」って名乗ってないよな…)
あるいは、事前に法子から聞いていたのかもしれない。しかし、突然声を荒らげた雄吾をなだめるという、咄嗟の場面ですんなりその名前が出るというのはやはり変だ。かなり前から言い慣れているとしか思えない。
しばし沈黙の後、法子が口を開いた。
「何から話したらいいのかな…。取り敢えずね、私と丈雄…つまり長山さん、付き合ってるの」
やはりそうか、雄吾は思った。そしてその時初めて、長山の下の名前が「丈雄」であると雄吾は知った。前から法子が弟の話をしていたというのなら、名前がすんなり出るのも合点がいく。しかし、それだけでわざわざ雄吾を呼びつけるのは何なのだ。いや、ということは雄吾のバイトの件を法子にばらしたのは長山ということになる。それよりもっと不思議なのは、なぜ雄吾が法子の弟だということが分かったのか。事前に写真でも見せていたのだろうか。
もう何が何だか訳が分からなくなった雄吾は、取り敢えず落ち着いて話をすることにした。声を荒らげたところで、どうにもならないだろう。一つ一つ、疑問を解消していくしかない。
「じゃ、僕のバイトの件を姉に話したのは長山さんということですね?」
「まあ、そうだね。法子は心配してたよ。うちに何かあったんじゃないかってね」
「あ…」
雄吾は、法子が突然家にお金を送ってきたことを思い出した。
「じゃあ、あの時のお金…」
「そう。父さんがリストラでもされて、お金に困ったから雄吾がそういう店でバイトしてるのかと思って…。でも、そうじゃないみたいだから、じゃあ本物のゲイかなと思ったの。まあ、私は別にあんたがゲイでも何でも構わないけど…。実際、どうなの?」
「よく分からない…あそこでバイトを始めたのは、ああいうところで働けば、何かが変わるかもしれないと思ったから…。学校生活も行き詰ってたし」
「そういえば、弟さんが部活でいじめられてるみたいなこと言ってたけど、あれも実は君自身のことだろう?」
しばらく三人の話を黙って聞いていた増田先生が口を挿む。雄吾は増田先生のことがすっかり頭から飛んでいたが、彼は彼でなぜここにいるのか、今のところ全く読めていない。しかし、それはまた後だ。まずは法子と長山の関係を突き止めなければいけない。
「ええ、まあ…。で、二人はいつから付き合ってるんだよ」
「付き合い始めたのはもう十八年前ね…。でも、間何年も会ってない時があるから」
十八年前というと、二人はまだ中学生だ。ということは初恋か、あるいは初めて付き合った相手ということか。そこで雄吾は、「初恋」と言った時の法子の目を思い出した。どこか遠くを見る目。しかし、実際には今もなお初恋の相手と付き合っている。それなら何もそんな遠い目をする必要もないだろう。とはいえ、それだけ長く付き合っていながら、いまだに結婚しないのはどういうことか。また色々な疑問が雄吾の頭を駆け巡った。その疑問を察したかのように、法子は続けた。
「私達はね…引き裂かれたの。だから、父さん母さんは二人がまだ付き合ってることを知らない。もちろん、長山君の両親もね」
そうなのか。禁じられた恋というわけか。
「でも、なぜ…」
「私達、してはいけないことをしてしまったのよ」
「してはいけないこと?」
雄吾には想像がつかなかった。
「うん…実は私、あんたのお姉ちゃんじゃないよ」
「はあ?」
雄吾は一瞬何を言われたのか呑み込めなかった。
「姉ちゃんじゃない…じゃ何なのさ。俺達、赤の他人ってことかよ」
「いや…実際にはもっと濃いというか…私はあんたの母親よ」
法子の告白に、雄吾は戸惑った。そんなことは考えたこともなかったからだ。
「何言ってんの…そんなこと言われて、『はい、そうですか』なんて言えるわけないだろ…」
「雄吾君。法子さんは嘘は言ってない。これが真実なんだ」
増田先生が言う。
「そんな…じゃ父親はまさか…」
雄吾はそう言って長山の目を見る。長山が静かに頷いた。
「証拠もあるのよ。ほら」
そう言って法子が持っていた袋から何かを取出し、雄吾に手渡した。
「母子…手帳?」
そこには母親である法子の名前、そして子供である雄吾の名前があった。誕生日も一致している。産まれた病院は東京都の某病院であった。雄吾はそれを見てすぐに察した。
「まさか、姉ちゃんが東京の高校に進学した理由って…これ?」
「そう。話せば長くなるけど…。中三の十二月に妊娠が発覚して。親達は下ろせって言ったし、私もそうするつもりだった。でも…できなかったのよ。散々もめて、何とか産むことを認めてくれた。でも、産まれた子供は父さん母さんの子供として育てるってのが条件だった。元々はお母さんの実家の近くで産むつもりだったけど、増田先生のお父さんが色々動いてくれて、東京の病院で出産して、その後は東京の高校に進学できるように取り計らってくれた。幸い、つわりもほとんどなかったし、お腹も目立たなかったから、多分誰にも知られることなく地元にいられたけど。でも、もしかしたら勘のいい人は気づいてたかもしれない。で、そのまま卒業までいようかなとも思ったけど、結局大事を取って二月に地元を離れて東京に行ったわ」
「増田先生、実は俺の叔父なんだ。母方のね。母親の旧姓は増田だ」
長山が付け加えた後、増田先生がさらに続ける。
「私は直接何もしてないけどね。親父が丈雄の親から相談を受けて、何とかしなきゃと思ったそうで、親父が東京にマンションを持ってたから、法子さんをそこに住まわせた。当時私はまだ議員に当選したばかりでね。親父の地盤を受け継いでたから、親父の顔なしでは何もできなくてな。それで法子さんを親父の顔が効く病院で出産させ、親父の顔が効く女子高に入れたんだ。で、さらに親父の力で、戸籍からそのことがばれないようにさせたんだ。戸籍上も君は法子さんとは姉弟の関係と書かれているだけだ。君が将来、何らかの理由で戸籍を取ることがあっても、本当の親子関係はそれを見ても分からないようになっている。つまり、この事実は誰かが話すまでは永遠に分からないということだ」
そこまで一気に話され、雄吾はちょっと時間を取り、頭の中で色々整理してみた。とにかく、自分の母親が法子で、父親が長山であること、そして自分を産み、また自分が産まれてからも色々あり、法子達を助けたのが増田先生とその父親、長山から見て母方の叔父と祖父、ということになる。
雄吾は大体の構図を理解できた。さて、次に聞きたいのは、なぜ雄吾のバイトを長山達が知ることになったかについてである。とんでもない事態であるにもかかわらず、雄吾は驚くほど冷静であった。いや、全く動揺がなかったわけではない。というより、実際には心臓が飛び出しそうになるほどであった。しかし、人間というものは、動揺がある程度のラインを超えると、かえって冷静になるのもらしい。雄吾は、一つ一つ整理するように、疑問を片付けていくことにした。
「それで、どうして僕のバイトのことを知ったんですか?一番最初に知ったのは誰?」
それについて長山が答えた。
「僕だ。会社の飲み会の帰り、雄吾君が中年のサラリーマン風の男と一緒に店から出るのを偶然見かけたんだ。雄吾君の顔は写真を見てたから、すぐ分かったよ。小さい頃からごく最近のまで、お母さんが法子にちゃんと送ってたんだ。で、数日後に店の前に行って、その店がどういう店かもすぐに分かったよ」
一般の人でもすぐに分かるものなのかと、雄吾は怪訝に思ったが、よくよく考えてみれば、看板に色々書いてあるので、そういう店の存在さえ知っていれば意外に分かるものなのだろう。
「そうですか。じゃ、先生は…」
「私の場合は本当に偶然だ。私は君の存在は知っていたが、顔までは知らなかった。二回目の指名の時に名前を聞いて、『もしや…』と思ったよ。そしたら今回の話だろう」
「俺もまさか叔父さんと雄吾君に接点があったとは思わなかったよ。叔父さんの性癖は昔から知ってたけどね。でも、自分の息子がそんなところでバイトしてるなんて何か忍びなくてね。もともと父親らしいこと何もしてやれないから、指名して、その間だけでも楽してもらえたらと思ったし、何より二人の時間を持ちたかったんだ」
長山が雄吾を指名しつつも、何もしなかった理由がようやく分かった。また、あの時、雄吾が長山に似ているのは、亡くなった長山の弟にそっくりだからだと思っていたが、実のところは親子だったわけだから、そりゃ似ていて当然だ。それなら、亡くなった弟に雄吾がそっくりだというのも嘘なのだろうか。
「じゃ、あの弟の話は…」
「あ、嘘だよ。弟はいるけど、ピンピンしてるよ。まあ、今はお互い大人だからそれなりに仲良くしてるけど、昔はよく本当に死ねばいいのにって思ってたよ」
やはりマネージャーが言ってた通り、兄にとって弟とはウザいもののようだ。
雄吾としては、一応の疑問は解決した。あとまだ、なぜ長山が叔父さんである増田先生の性癖について知っていたのかとかの疑問は残っていたが、それは今の雄吾にはどうでもいい。おそらくプライベートな話だろうから、ここで詮索すべきではないだろう。
法子はずっと黙っていた。おそらく一番言いたいことがあるのは法子のはずなのだが、何も言えないでいる。法子の方も、心がぐちゃぐちゃで整理が付いていなかった。贖罪。もどかしさ。肩の荷が下りたような安堵―そうしたものが複雑に入り混じった感情を抱えている。自分が母親だと名乗って果たしてよかったのか。しかし、言うタイミングとしては今―特に雄吾がこれから進路について考えようとする時が一つの時機なのだろうと思っていた。雄吾は、東京の大学に進学したいという気持ちがある。それ自体は別に悪いことではないが、ただ、両親は法子には地元の大学に進学して欲しいと思っていたようだし、法子も本来はそのつもりであった。しかし、予期せぬ出来事が起こり、大学どころか高校から親元を離れることになってしまった。そして今、両親は孫である雄吾を実の息子として育てている。男の子と女の子では多少違うだろうが、次は地元で進学して欲しいという気持ちもあるはずだ。両親ともに当時のことを思い出し、大反対しないとも限らない。それならば、ちょうど雄吾が法子に東京に行った理由を尋ねてきたこともあるし、本当のことを話してもいいかと思ったのだ。雄吾にとってもショックだろうが、それでグレたりするようなタイプではないことも分かっていたし、今なら受験勉強真っ只中でもないので、仮に勉強が手につかなくなったとしても、取り戻すことはできるだろう。そう考えて、告白に「今」を選んだのだった。
雄吾も、ショックといえばショックだったが、言われてみれば両親の言動などの不可解だった部分に対して納得できた部分があった。とにかく男女交際にやたらうるさかったのは、法子のそういう経験があったからなのは容易に想像がつく。
法子の妊娠から出産、そしてその後の進学、また雄吾を子供として受け入れた経緯…話だけ聞いているとすんなりことが運んだようにも聞こえるが、実際にはそんなに簡単だったわけでもないと雄吾は思った。父親が手を挙げたり、母親が泣き叫んだりもしただろう。長山の両親が土下座をしたり、また互いの親同士が罵り合ったりしたこともあったりしたかもしれない。雄吾を「子」として受け入れることにも抵抗があっただろう。それが今、何事もなかったかのように「親子」でいるのは決して楽なことではないはずだ。
「それで…俺はどうすればいいの」
雄吾が尋ねた。何を、というより、全てについて聞きたかった。
法子がここで、やっと口を開いた。
「父さんと母さんには、秘密を知ったことは言わないで…虫のいいお願いかもしれないけど、これまで通り生活して欲しい」
それは雄吾も同じ気持ちだった。今それを言ったら、多分家庭は崩壊してしまう。
「それと、どうしても東京の大学に行きたいなら、最初に言う時にはあくまで軽く言って。『東京の大学はどうかな』とか。それで顔色見て判断して。もしかしたら悟られないように、父さんや母さんも演技するかもしれない。でも、『東京』って言葉に過剰反応したら、その時は私に相談して」
それも雄吾の考えとほぼ同じであった。何らかの刺激を与えてしまうことにはなるかもしれないが、変に遠慮するのもおかしい。選択肢の一つとして東京の大学を提示するくらいなら構わないだろう。
「あと、バイトのことだけど…本音を言えばもちろんやめて欲しいけど、私達が言える筋合いじゃないものね。続けるなら、絶対父さん母さんには知られないようにして。少なくとも、父さん母さんは雄吾のこと、本当に大事にしてるから。バイトの内容のことを言ってるんじゃないの。まだ十八じゃないんだから、一応違法でしょ」
法子にそう言われるまで忘れていたが、自分のしていることは違法なのだ。しかし、法子に言われるまでもなく、雄吾はもうバイトに戻る気はなかった。色んな意味で脱力感が大きく、とてもじゃないが客の前で笑顔を振りまく気にはなれない。この辺りが潮時なのだろう。
「分かったよ。家ではとにかく今まで通りいるよ…それが一番よさそうだね」
雄吾も、ここでグレたりするよりも「芝居」をする方いいと考え、そうすることに決めた。