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一学期終業式の日、それまで全く音沙汰のなかった水泳部顧問に、雄吾は呼び出された。そのタイミングから、まさか増田先生の一声で何かがあったのではないかと思い、その力に感謝しつつも、若干の恐れを感じていた。とはいえ、顧問が雄吾を呼び出したということは、少なくとも顧問は首になったわけではないだろうということで、ひとまず安心といったところだった。さすがに教師一人を首にしたとなると、雄吾も責任を感じてしまう。
部室に行くと、顧問と部長が雄吾を待っていた。顧問は白々しく雄吾に尋ねた。
「どうだ、調子は」
ずっとほったらかしにしといて調子も何もあったもんじゃないだろう、と雄吾は思いながらも、表情を変えずに答えた。
「まずまずです」
雄吾の変わらない表情を見て、顧問と部長が顔を見合わせた。顧問が続ける。
「どうだ…あの、そろそろ部に戻ってこないか…?」
そう聞いても雄吾は素直に喜べなかった。顧問や部の総意ではなく、増田先生の口添えがあった可能性が否定できないからだ。いや、タイミングから言っても、そうであることは間違いないだろう。
「そうですね。体のいい雑用係がいなくてお困りでしょうからね」
雄吾が嫌味たっぷりに答えると、顧問は慌ててそれを否定した。
「いやいや、そういうことじゃなくて…まあ、何ていうか、二年になってからのお前は調子もいいし、期待の星だったからさ」
どの口が言うのだ、その言葉を二か月半前に聞いていたら、雄吾の気持ちもまた違っていただろう。しかも、増田先生に一声かけたという裏事情もあるのだ。
「申し訳ありませんが、部に戻るつもりはありません。今、部を辞めて、とても毎日が充実しているんです」
それは雄吾の本心だった。もちろんバイトの話はそこでは言えなかったが、「学校」という縛りを捨てたら、生活が軽くなっていたのだ。今まで黙っていた部長が口を開く。
「なあ、頼むよ…あ、そうだ。九月の大会、出してやってもいいぞ。今からならまだエントリーの変更は間に合うし、どうせ増田ではちょっと不安なところもあるし…」
部長の「出してやる」という上からの物言いが気に入らなかった雄吾は、さらに強く言い返した。
「お断りします。そんな言い方は増田に失礼です。第一、先生や部長が選んだんでしょう?それとも増田を選んだのには他に何か理由でもあるんですか?」
雄吾の一言に、顧問と部長の二人がまた顔を見合わせた。おそらく図星だったのだろう。
「では、そういうことですので。失礼します」
雄吾の淡々とした口調にすっかり固まってしまった二人は、雄吾が部室から出る時、顧問が最後に付け加えた。
「戻ってきたかったら、いつでも戻って来いよ。待ってるから」
それには振り向きもせず、返事もせず、雄吾は部室を出た。
やはり増田は父親の顔で選ばれたのだ。権力を使った増田親子に不快感を覚えた。もっとも、自分も増田の父親を利用してしまったので、もはや同じ穴の貉といったところか。
しかし、雄吾は快感もまた覚えていた。増田先生に関してはそれほど期待はしていなかったが、まさかこんなに早く動いてくれるとは思ってもみなかったのだ。そして、もしそれで部の連中が動いて、雄吾に復帰を求めてきたら、それを跳ね返す、というところまでが雄吾の筋書きであった。今、その筋書きがほぼ完璧に達成され、雄吾は自分が無敵の存在になって様な気がしていた。全身に力がみなぎっていたのだ。
夏休みに入り、雄吾には自由な時間が増えた。開いた時間を利用してバイトを増やすことも考えていたが、夜の外出が増えると両親が不審がるだろうから、まずは自由な時間を楽しむことにした。雄吾も夏休み中に十七歳になる。自分の誕生日をバイトで迎えるのも何だかな、とそう思った矢先、未婚一人暮らしの父の姉、雄吾にとっては伯母に当たるが、その人が倒れて入院したという知らせが入って来た。雄吾の父方には二人のおばがいる。妹の方は、何度も会ったことがあり、雄吾にも子供の頃はお菓子やおもちゃ、中学生になってからはお小遣いをくれるなど、よくしてくれており、雄吾にも馴染みが深かった。それに対して、今回倒れた姉の方にはほとんど会ったことがなかった。美人ではあったがちょっと変わり者らしく、人付き合いがほとんどなかった。親戚の集まりにも顔を見せたことは一度くらいしかなかった。それでも若い頃は美貌を武器に男が途切れることはなかったという。今まで結婚もせず、男をとっかえひっかえして気ままに暮らしていたが、寄る年波には勝てず、美貌も損なわれ、今では相手にしてくれる男もいなくなったようで、近県で一人寂しく暮らしているという話を雄吾は聞いたことがあった。そんな女性でも、父親にとっては血のつながった姉であり、また、緊急連絡先を雄吾の自宅に指定していたこともあって、無下にはできないのだろう。雄吾の父親は、夫婦で姉の様子を見に行き、その夜は姉の家に泊まることにしたようだ。先に母親が出掛け、父親は会社から直接姉のところに寄るということだった。
雄吾にとっては、二度目の自由な夜となった。バイトをしても良かったが、せっかくだから遊んでみたい気もしていた。そんな時、リュウから電話があった。
「あ、ハマちゃん?今晩何か予定ある?」
リュウがその夜どこかに誘ってくれるのだろう。渡りに船ということで、雄吾は誘いに載ることにした。
雄吾は、リュウの家に遊びに行くことになった。彼が夕食を作ってくれるらしい。両親が亡くなってから、しばらくは外食をしていたリュウだが、同じようなものばかりで飽きてきたこと、何だかんだで安くあげられるということから、間もなく自炊を始めるようになっていた。今では主立った家庭料理は一通り作ることができる。それ以外にも、料理の本などを見て、凝った料理も作れるようになっていた。料理好きの人間にとっては、料理を作ることはストレス解消になるところがあるらしく、リュウもまた、仕事から帰った後、一休みして料理を作って食べるとスカッとするようなところがあった。しかし、自分で作ったものを一人で食べるだけでは寂しい。一度誰かに手料理をもてなしたいとリュウは思っていた。そこで、この間、たまたま家の近くに来ていた雄吾に会って、家に招いたことで親しくなった印に、という気持ちがあった。しかし、実はそれだけではなかった。リュウにはある秘めた思いがあったのだ。
あの夜。雄吾が親がいないと言って店に来たある土曜。リュウはその時初めて雄吾に会った。その時から雄吾に好意を抱いていたのだ。それまでも店のプロフ写真で見たことはあり、会いたいとは思っていた。が、シフトも合わず、会う機会はないとリュウは思っていたのだ。しかし、あの日、会うことができた。実際に会う雄吾は、写真よりも数段いい男に、リュウには見えた。久しぶりの一目ぼれと言うやつだった。
リュウは雄吾と違い、ハッキリ自分がゲイだと自覚していた。初恋は中学一年生の時、同じ部活、バレーボール部の同級生だった。一年生にしてエース候補だったリュウは、エースどころか、今後レギュラーになれる見込みすらなさそうなレベルであるにもかかわらず、熱心に練習をする彼をいとおしく思うようになり、何かと気に掛けていた。
ある日、更衣室で二人きりになった時、その裸を見て、反射的にリュウは彼を抱きしめて、「君が好きだ」と告白してしまった。しかし、というか、やはりというか、その反応は冷たいもので、「俺、その気ないから」とあっさり断られた。幸い、その彼がこの件については誰にも何も言わなかったようで、その後は何事もなかったように部活を続けていた。
現実の世界で「恋」を求めることに無理があると感じたリュウは、その後たまたま駅のトイレで知り合った大学生に色々教えてもらい、出会いのできる公園や店何かを教えてもらった。店は未成年禁止のところも多かったが、この時代はまだそれほどうるさくなく、ほぼ問題なく入れたのだった。その時に、今勤めているような、体を売る店の存在も知った。リュウは実際にバイトすることになるとは思ってなかったようだが。
リュウの本名は大和隆一という。中学三年生の時に両親を自動車事故で亡くしていた。向こうから飲酒運転のトラックが、両親の運転する車に突っ込んできて、即死だった。親戚の結婚式の帰りで、リュウは受験勉強を理由に、その結婚式には出席していなかったので、事故には巻き込まれなかった。だが、あまりにもその知らせを受けた時のショックが大きすぎて、前後のことはよく覚えていない。施設に行くという話もあったが、雄吾にも話した通り、保険金やら賠償金やら、遺産やらがあり、経済的には困っていなかったこと、さらに叔父が保護者になってくれるということもあり、そのまま自宅で一人で暮らしていた。ところがこの叔父が問題だった。自ら経営する会社が傾いてきており、リュウの財産を狙っていた。そこでリュウの義務教育終了を待って、叔父の名前に預金の名義が書き換えられてしまっていた。さらに自宅の名義まで勝手に書き換えてしまったのだ。幸い、動物的勘とでもいおうか、リュウはこの叔父に何とも言えない不信感を持っており、あらかじめ預金の一部を引き出し、隠していたのだ。この金については叔父の言及はなく、叔父が本当に気付かなかったのか、最後の優しさだったのかはわからない。とにかく、その引き出しておいた分だけは手元に残ったので、取り敢えず露頭に迷うことはなかったが、高校、大学と進学し、その間の学費や生活費を賄うには足りない。そこで、かつて聞いたことがある「体を売る店」で働くことを決意したというわけだった。
雄吾は五時半にリュウの家に着いた。するとリュウは台所に立っていた。まだ準備が完全にできていなかったのだ。何か手伝うことがあるか、と雄吾は聞いたが、リュウはいいからそっちに座っててくれ、と答えただけだった。もっとも、料理などほとんどしたことのない雄吾は、何か手伝わされたところで、足手まといになるだけだろうことも分かっていたが、取り敢えず聞くのが礼儀だろうと思った。
しばらくして、リュウが台所から部屋に出てきた。運ぶのを手伝ってくれ、とのことなので、それくらいはできると、雄吾も機嫌よく料理を運んだ。リュウの作る料理は、香りからしてうまそうだと感じさせるものであった。相当手馴れている、と雄吾は思った。過去に、好きな男に作ってあげたことでもあったのだろうか。
メニューは、雄吾の好きなチンジャオロースに麻婆茄子、さらに中華風スープもあった。これを全部作れるのなら、中華料理屋でバイトした方がいいのではないかと思わせた。まあ、本当に厨房に入ろうと思ったら、調理師免許は必要だろうから、どのみちすぐには無理だろうが。
「よし、じゃあ、いただきます」
リュウに合わせて、雄吾もいただきますと言った。
チンジャオロースを口にした雄吾は、思わず「うまい」と口走ってしまった。お世辞ではなく、本当に美味だった。正直に言うと、雄吾の母親が作るものより美味だと思った。雄吾の母親も料理は下手ではないが、中華料理はあまり得意ではないようで、実のところ、出前の方が多かった。
無邪気に料理を次々に口に運ぶ雄吾とは対照的に、リュウのほうは箸が進まない。それはそうだろう。今日は雄吾に思いを伝えるつもりでいるのだから。食事中にどさくさまぎれに伝えるべきか、それとも、後で街に出て、どっかの喫茶店かバーでか。
しかし、雄吾の食べっぷりに、リュウは見惚れてしまっていた。そういう姿を見ているだけでも、十分満足した気分になれた。気持ちを告げるとか、そういったこともどうでもよくなってくる。
それまで食べるのに夢中になっていた雄吾が、自分を見つめるリュウに気付く。
「ん?どうしたの?そういえば、あんまり食ってなさそうだけど」
リュウの皿に盛られた料理にほとんど手が付けられてなかった。
「あ、いや…うまそうに食うなと思って」
「いや、実際うまいし。いい奥さんになれそうだけどな」
その言葉にリュウは複雑な思いを抱いた。奥さんになりたいかどうかはともかく、この目の前の男のために、こんなことができたらどんなにかいいだろうな、と思ったものの、所詮はジョークだ。そう考えると、リュウは少し切なくなった。
雄吾も、自分がその言葉を言った後の、リュウの表情の変化に気付いた。さっきの雄吾を見つめる眼差しといい、今の表情といい、リュウが自分に対して気持ちを持っているのではないかと雄吾は思うようになった。しかし、まだそれが本当かどうかはわからなかった。あまり気にし過ぎて、自意識過剰になるのもカッコ悪い。雄吾は平静を装い、リュウに食べるよう促した。
食事が終わり、二人で台所で洗い物をしながら、リュウは考えていた。それまで他人に料理を作ったことは一度もなかった。自分の作った料理で、こんなに喜んでもらえる。それが好きな相手ならなおいい。できれば雄吾と、そんな生活を送ってみたい。しかし、それは当分は無理な話だ。店では、ボーイ同士の恋愛はご法度であった。隠れて付合っているボーイ同士もいるらしいが、リュウは誰がそうなのか知らない。それに今、リュウにスポンサーが見つかりそうなのだ。以前から懇意にしてくれている四〇代の会社社長で、大学の学費とその間の生活費すべて面倒みてくれるという。ただし、大学卒業までは恋愛も、他の相手とのセックスも禁止、という条件であった。大学四年間くらいなら、何とか我慢できそうな気もするが、青春真っ只中の時期を囲われて暮らすというのはやはり抵抗はある。さらに、高校に通っていないリュウは、その前に大検に合格しないといけない。そのための勉強期間も含めると、実質は五、六年は囚われの身ということになってしまう。正直、大学進学をあきらめ、そのまま働こうかと思った時もあったが、中卒では働き口は限られてくる。それに、そうしてしまうと、金を持ち逃げした叔父に負けてしまうような気がしてならなかった。本来リュウのものになるはずだった、両親の残してくれたお金の一部は、リュウ自身の進学資金であることは間違いない。苦労をしてでも大学に進学することが、両親に対する弔いでもあり、叔父を見返すことにもなると、リュウは個人的に思っていたのだ。また、法律家にでもなれれば、同じような境遇の子を救うこともできるかもしれないという、正義感も少しではあるがあった。
もし、スポンサーの話が正式に決まれば、雄吾とこうした時間を過ごすことも難しくなる。残された時間は限られている。今日を逃したら、次はないかもしれない。そう思うと、雄吾に何かせずにはいられなくなった。告白するか、それとも抱きしめるか…
雄吾は、リュウのスポンサーの話はまだ知らない。リュウの気持ちが自分に向いていることを知りつつも、今すぐどうのこうのということはないだろうと思っており、そうしたリュウの気持ちの揺れには気付いていなかった。洗い物をしながら雄吾に送る視線も、単なる好きという気持ちの表れに過ぎないと雄吾は思っていた。
洗い物を終えた頃には、時計は八時を回っていた。親のいない夜に、八時過ぎに帰るのは早すぎる。しかも今は夏休みだ。帰るにしてもせめて十二時を過ぎてからにしたいところだった。とはいえ、これからすることも取り立てて思いつかない。雄吾がそう考えていた時、リュウが雄吾を「飲みに行こうか」と誘った。リュウも、どうせならこのまま押し倒すか、いきなり告白するかしたかったが、素面ではちょっと勢いが足りない。それに、もう少し、いや、できるだけ長く、雄吾との時間を過ごしたいと思っていたリュウは、景気づけと時間稼ぎとを兼ねて、雄吾を飲みに誘うことにした。その誘いに雄吾も二つ返事で乗った。正直、夜遊びをよく知らない雄吾にとって、飲みに行くという選択肢は思いつかなかった。気になるのは、どういうところに飲みに行くかだ。
「飲みに行くって…どこへ?ソッチ系の店?」
「ああ。よく知ってるマスターのいる店。ハマちゃんはそういう店行ったことないだろ?」
「うん。あの『ジョイント』だけ。今日は『ジョイント』はやってないの?」
「今日木曜だっけ?一応やってるけど…時間あったら後で行ってみる?でも、週末ほど賑やかじゃないと思うよ」
「まあ、どっちでもいいや」
二人が街についたのは、それから四十五分くらいたってからのことだった。リュウが雄吾を案内したのは、カウンターが十席、ボックス席が二つというスタイルで、マスターと従業員が他に一人、カラオケもある、そういう店としてはごく一般的な店だった。
髭を生やしたマスターが二人を迎えてくれたが、そのマスターを見て、雄吾は「あ…」と思わずつぶやいた。以前雄吾を指名したことがある人だったのだ。
「あのマスターって、前に…」
表情から雄吾が何を言いたいのか悟ったリュウが
「向こうから振ってこない限り、余計なことは言わない方がいいよ」
と雄吾を諭した。が、そのマスターは雄吾たちを一瞥するなり
「リュウちゃんいらっしゃい。あ、ハマちゃんも一緒だね。久しぶり。こないだはどうも」
と言ってきたので
「言っても問題なさそうだね」と雄吾がリュウに耳打ちをしたので、リュウも思わずうなずきつつ笑ってしまった。
「まあ、今のところ、客も僕らしかいないしね」
リュウもぼそっと言った。
店の名は「FLY」だった。マスターの名前が「翔太」で、「翔ぶ」からとったらしい。本名は「正太」なのだが、マスターによると「『正太』じゃオバQになっちゃうでしょ」とのことだった。いや、誰もそんなこと思わないでしょ、と雄吾は心の中で突っ込んだが、確かに「翔太」の方が何となくカッコいい感じはする。
「焼酎のウーロン茶割りでいいかな?」
リュウは焼酎のボトルを店に入れていた。ボトルキープなんて、何だかカッコいい。同い年なのに、遊び慣れた様相を見せるリュウを、雄吾は尊敬の眼差しで見つめた。
リュウによると、この翔太マスターは、もともと別の店で働いていて、その店がリュウが初めて行ったバーだったらしい。まだ売り専で働く前の話だ。その後、翔太マスターが独立して「FLY」をオープンさせたので、彼と親しかったリュウはこっちに通うようになったということだった。
「ってことは、逆算すると、リュウって初めてこういう店に行ったのって、中学の時?」
うん、とリュウはうなずいた。雄吾は自分の中学時代を振り返って、ちょっと恥ずかしくなった。同級生と馬鹿騒ぎをしていた頃、リュウは既に大人の世界で遊んでいたのだ。おそらく、出没するエリアは違えど、花岡弘子もそうなのだろう。雄吾にとっても、学校はそれほど楽しい場所ではなかったが、他に居場所が必要というほどでもなかった。自分の力量を考えればこんなもんだろうと、諦めに似た感情も持っていたのだ。だが、一歩学校を抜け出すと、こんな世界もあったのかと思うと、少々残念でもあった。
平日ということもあり、客もまばらで、雄吾達は十分に翔太マスターやその他の従業員との会話を楽しめたし、カラオケも待つことなく歌えた。
雄吾は、マスターにリュウのことを色々聞き出そうとしたが、マスターとリュウもそこまで深い知り合いというわけでもないらしい。少なくとも、プライベートで会ったりする関係ではないようだ。会話の内容も、テレビの話題やファッション関係のものが多く、おのおのの恋愛についての話は全くなかった。リュウと雄吾についても、単なる同じ店で働くバイト同士くらいにしか思っていなかったように見えた。
「リュウちゃんも、あそこで働くようになってからは、あまり顔見せなくなったからねえ」
としみじみマスターは語っていた。
どのくらい時間がたったのだろう。リュウも雄吾も大分酒が入っていた。気持ち悪いというような酔い方ではなく、ほろ酔いという感じであった。随分飲んだように思うが、二人とも酒が強いということだろうか。その時、リュウが立ち上がって言った。
「マスター、チェックして!」
どうやら店を出るようだ。雄吾も、ちょっと外の風に当たりたくなっていたので、そろそろ出てもいいかなとは思っていた。持っていたPHSを見ると、電池が切れていた。そういえば今日充電忘れてたっけ、と思いながら、腕時計に目を遣ると、既に十二時前だった。結構飲んでたな、と思っていると、リュウが耳打ちしてきた。
「ここはおごるから」
えー、そんな悪いよ、と雄吾は言ったが、リュウはいいから、いいから、と言って一万円札をさっとマスターに渡した。雄吾が財布を出そうとすると、その手を遮り、何としても出させないという意志が見られたので、雄吾もここは一歩引くことにした。
店を出ると、リュウはすぐさまタクシーを捕まえ、雄吾の手を引っ張り、一緒にタクシーに乗った。そして家のある住所を運転手に告げ、そのままリュウの自宅に戻った。リュウの唐突な行動に戸惑った雄吾だったが、家に着いてリュウの口から出た言葉「一応未成年だし、特に雄吾は現役の高校生なんだから、酔っ払って補導されたら困るだろ。さっきも私服警官いたし」を聞いて、やはりリュウは慣れていると思った。お互い、それほど幼い外見ではないが、突っ込まれないとも限らない。
「もう一杯だけ飲もうか」
そう言いながらリュウが缶ビールを持って来た。少し酔いが醒めていた雄吾は、それを受け取ると、缶を開け、ぐいっと飲んだ。ビールは今までに何度か飲んだことはあるが、正直苦手だった。苦味がイマイチ馴染めなかったのだが、この時、リュウと並んで座って飲むビールはなぜかうまかった。ビールというものは、気分で飲むものなのだと、雄吾は初めて悟った。その時、リュウが口を開いた。
「あのさ…ハマちゃんは仕事以外で寝たことあるんだっけ?」
「いや、ない…あ、プールでマネージャーに襲われた以外は」
「そうか…じゃ、今から俺とやろうっていったら?」
この展開は雄吾にもある程度予測はできた。飲み屋でも何度もボディータッチはあったし、そもそも手料理って時点で雄吾に好意を持っているのは見え見えだといえるだろう。しかし、雄吾にもその気がなかったわけではなかった。雄吾もそういう世界に身を埋めるのも悪くないと思い始めていた。恋人として付き合うかはともかく、実質的初体験の相手として、リュウなら不足はない。
リュウも、この日雄吾に会うまでは、告白する気満々だったのだが、一緒に時間を過ごすうちに、それはもうどうでもよくなっていた。どのみち、リュウに残された時間は限られている。下手に感情を込めるよりも、取り敢えず一回関係を持てれば、案外さっぱり忘れられるかもしれないと思っていた。それに何より、いい思い出として反芻できる。
お互いの心理状態が一致していると感じた二人は、そのまま何も言わずに唇を重ねた。そしてお互いの身に付けている物を全て剥ぎ取り、そのまま二人の体は重なり合ったのだった。
翌朝朝食をとった後、雄吾はリュウの部屋を出た。意外なほど、雄吾の気持ちはさっぱりしていた。もう少し気持ちが移るものかと思ったが―いや、全く気持ちが移らなかったわけではないが―そんなジメジメしたものではなく、ちょうど修学旅行か何かで、お互いの好きな子を教え合った後のような、そういう風な感覚に近かった。
リュウも同じであった。雄吾と体を重ねたことで、一区切りついたような気分であった。これで未練なくスポンサーの元へ行ける。決して体だけを求めていたわけではないが、ある程度の達成感はあった。男同士というのは、意外とそういうものなのかもしれない。体の関係は、ある種のゴールである。相手が女性だと、そう思っていても、それは言ってはいけないことだ。少なくともしばらくは、「愛してる」という演技が要る。だが、男同士はそれを包み隠すことなく認められる。それが男同士の良さでもあるのかもしれない。雄吾はますます、男同士の世界にはまり込んでいきそうな気分であった。それがいいことなのか悪いことなのかよく分からないが、毒を食らわば皿までという覚悟が、雄吾には芽生えていた。
何となく淡い気持ちのまま帰宅すると、伯母の家にいるはずの両親が家にいた。雄吾は朝帰りがばれたと思い、真っ青になった。しかし、両親の反応は冷静であった。
「おかえり。お姉ちゃんのところに行くんだったら、メモか何か残しとけよ」
父親にそう言われて、雄吾はますます訳が分からなくなった。
「あら、無理よ。私達泊り掛けだって言って出て行ったんだもの。でも、PHSの電源ぐらい入れときなさい。何度も電話したんだから」
母親にそう言われても、やっぱり訳が分からない。取り敢えず、動揺してるとこを見せないように、雄吾も振る舞った。
「ご、ごめん。電源切れちゃって。充電忘れてたんだよ。ていうか、何で戻って来てるの?」
お姉ちゃんのところというセリフにすっかり驚いて気付かなかったが、普通まず驚くのはその点だろう。
「ああ、姉さん、特に問題なさそうだったからね。姉さんの家の近くの病院だったから、家で待機して、何かあったらすぐ飛んで行けるようにと思ったんだけどね。でも、『家には入るな』ってうるさいんだよ。合鍵ももらってないし…。何か家に隠してるのかね」
「そう。ホテルをとろうかとも思ったんだけど、まあ、あの様子なら大丈夫だろうって、夜中だったけど帰ってきちゃったのよね」
だいたいそんなところなのだろう。とにかく、自分の行動が怪しまれてのことでないのに、雄吾は胸をなでおろした。
父親は今日は休みをとっていたらしいが、事態が変わったので、午後から出勤することにしたようで、出勤前に一眠りすると言って寝室に戻っていった。母親も朝食の後片付けを終えた後、疲れているのだろうか、やはり寝室へ入っていった。
雄吾の朝帰りについては結局、さほど問題にされなかった。とはいえ、雄吾がなぜ法子の家に行っていたことになっているのか、それはそれで不可解であった。雄吾はPHSがある程度充電され、昼休みであろう時間になると、すぐさま法子に電話をした。
「あ、姉ちゃん。何で昨日俺が姉ちゃん家に行ってたことになってんの?」
そう言うと法子は怒ったような口調で答えた。
「もう、昨日大変だったんだから。夜中の二時頃かなあ?父さん母さんが凄く不安そうな声で『雄吾がいない』って電話してくるもんだから…。母さんなんて涙声だったのよ。で、思わず言っちゃったのよ。『うちに来てて、今寝てる』って。そしたら信用したみたいで、ホッとしたような声を出して電話を切ったけど…。雄吾、本当はどこで何してたのよ?」
「まあ、ちょっと友達のところで…」
嘘ではない。一応本当のことだ。
「ならいいけど、私達に言えないようなことはしちゃだめよ」
「私達に言えないことって何だよ。そんなことするわけないだろう」
そう反論しながらも、雄吾はドキッとしていた。「私達に言えないこと」―今回は違ったが、まるであのアルバイトのことを知っているかのような言い方にも聞こえた。親兄弟というのは、どこかで心がつながっているのだろうか、お互いの生活について詳しいことは知らずとも、なぜかぴったりはまるような言葉を言ってくるものだ。今回のも、そんな偶然か、それとも法子は何かを知っているのか…。しかし、知っているとしても、どこから知ったのかの見当が付かないので、やはり偶然だろう、と雄吾は思うことにした。