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その次の土曜、雄吾はまた法子の家を訪ねようとしていた。最寄駅の出口のすぐ近くにコンビニがあるので、そこで飲み物か何かを買って行こうと思い、中に入ると、雄吾は意外な人物の顔を見付けた。その人物は雑誌を立ち読みしていたが、新たに入って来た客である雄吾を見ると、雑誌を売場に戻し、笑顔で雄吾に近寄り、話しかけた。
「ハマちゃん!こんなに早く再会するとはね。何でここにいるの?」
その人物とは、同じ店で働くボーイ、リュウであった。雄吾とリュウは、一週間前に初めて店で会った。バイトの時間が異なるので、その後店で会うことはなかった。雄吾も、もうしばらく会うことはないだろうと思っていたので、ちょっと嬉しかった。リュウに殊更好意を持っていたわけではないが、土曜の夜にボーイたち皆で遊びに行って、路上で談笑したのが思いのほか楽しかったので、また遊んでみたいと思っていたのだ。
「姉貴が近くに住んでるんだ。リュウさんの家もこの近く?」
「『さん』はいらないよ。近くのアパートで一人暮らしをしてるんだ。よかったら、今からちょっと来ない?」
雄吾は法子の家に行く約束はしていたが、時間は決めていなかった。そこで、少しだけリュウの部屋に遊びに行くことにした。
リュウのアパートは、法子の住むマンションよりさらに駅から離れたところにあり、しかも、大きな道沿いではなく、狭い路地に入ったところにあった。かなり古い作りで、外観もあまりきれいではなかった。貧乏学生が住んでそうなアパートだった。
リュウの部屋は二階にあった。「きたないところだけど」とリュウは前置きをして、雄吾を部屋に案内した。リョウの言葉とは逆に、アパートの中は割ときれいで、キッチン、ダイニングに加えて一部屋、一応トイレと風呂も付いていて、それなりに快適そうではあった。
「家賃は四万五千円。まあ、こんなもんかな?」
とリュウは言ったが、高校生である雄吾には、その辺の相場が分からず、高いのか安いのかもあまりよく分からなかった。
雄吾は奥の部屋に通され、二人でコンビニで買ってきたアイスを食べた。雄吾が部屋をぐるりと見渡すと、タンスの上にリュウの両親と思われる夫婦の写真が飾ってあるにに目が留まった。
「この写真、両親?」
「そうだよ。中学の時、事故で亡くなっちゃったけど」
写真を部屋に飾っているくらいだから、少なくとも、今現在簡単に会える状況でないというのは、雄吾にも理解できた。法子の部屋にも、長山の部屋にも、両親の写真は飾られていなかった。とにかく、まずいことを聞いてしまったような気がして、雄吾が謝ろうとした瞬間、リュウの方から次の言葉を言ってきた。
「それからずっと一人で生きてきてるんだ」
肉親や大切な人を亡くした者が、その人について聞かれて「死んだ」と答えた後、相手に謝られるというのは、なぜか気分がよくないものらしい。確かにそれは悲しいことなのだが、受け入れざるを得ない事実は事実なのだ。謝られてもどうなるものでもない。しかし、謝る方も悪気はないので、強くは言えない。これはおそらく、大事な人を亡くしてみないと分からない感覚だろう、とリュウは思っていた。
「え?じゃあ、それからずっとこの仕事を?」
「まさか。このバイト一年くらいだよ。あ、実は俺、店では二十歳ってことになってるけど、本当は十七なんだ」
リュウも歳をごまかしていたことに、雄吾は驚いたが、相手が正直に告白した以上、雄吾も正直に告白する必要があるだろうと思った。
「あ、実は俺ももうすぐ十七…。もしかして、同い年かな?」
その言葉にリュウも驚いた。
「え?マジで?スゲー。何か急に親近感湧いてきた。四月生まれだから、学年も同じだよ。」
二人はお互いを見つめて、なんだかおかしくなって、つい笑ってしまった。
「他にも歳ごまかしてるボーイって結構いるのかな」
雄吾が聞くと、
「いると思うよ。でも、下にごまかす方が多いらしいけどね。店では同じ二十歳でも、実は十七歳もいれば二十三歳、二十五歳までいるとかね」
確かに、ボーイたちの年齢は自己申告だ。マネージャーはさすがに把握しているだろうが、実のところ、めちゃくちゃなのかもしれない。
リュウは笑っていたが、また表情を戻し、話を続けた。
「店に入ったのは去年の今ごろかな。親が亡くなったとはいえ、一応保険金やら何やら入って来たし、それなりに遺産もあったから、大学進学するくらいまでは問題なかったんだけどね。親戚にお金の管理を任せたのが間違いだった。中学卒業のころ、うまくだまされて、ほとんど名義を書き換えられてしまって」
「え、じゃあ、一円も残らなかったの?」
「念のため隠してたものもあったけどね。でも、家も取られたし、さすがに大学進学まではちょっと心もとなかったから」
「ひどい親戚だね。未成年にそんなことするなんて」
「もう義務教育終わったから自分で働け、みたいなこと言われたなあ。それで高校も行かずに、今の店で働き始めたんだ。中学からゲイだったから、そういう店の存在は知ってたんだ。出来ればスポンサー見つけたいと思ってて。大学にどうしても行きたいんだ。あ、ちなみにこのアパートは、マネージャー名義で借りてもらってる。寮完備ってのは、結局マネージャー名義でアパートが借りられるってことなんだ」
リョウの身の上話を聞いているうちに、雄吾は自分が恥ずかしくなった。一応普通の恵まれた家庭に育ち、たかが学校での生活がうまくいっていないだけで働いている自分とは、リョウは覚悟が違うのだなと思った。そんな気持ちを見透かしたように、リュウは言った。
「まあでも、こういう店で働く理由は色々だから。単なるセックス好きもいるしね」
そう言われて雄吾の気も少しは楽にはなったが、認識の甘さを感じずにはいられなかった。このまま仕事を続けるのは、リュウのような奴に対して申し訳ないような気がしてきたのだ。あるいは、雄吾自身も、「目的」を果たすべきなのかもしれない。
しばらくこのような重い会話があったものの、それからあとは、普通の世間話的な会話が続いた。雄吾にとっては確かに重い会話もあったが、リュウの心に一歩近づけたような気がして嬉しくもあった。本当の「友達」になれるかもしれない、そう思った。
一時間ほど談笑したあと、雄吾はこの町に来た本来の目的を思い出し、リョウのアパートを出た。本当はボーイ同士の連絡先の交換は禁止されていたが、二人は連絡先を交換し、リュウは「いつでも遊びに来いよ」という言葉を雄吾に伝えた、
雄吾は、「裏の世界」で初めて友達ができて嬉しかった。いや、表の世界でも、お互いの家を行き来するような友達は久しぶりかもしれない。小学校高学年でスイミングスクールの選手養成コースに入ってからは友達と遊ぶ機会もめっきり減ったし、中学や高校では、部活での成果や、学業成績など、それぞれの立場なんかが気になり、腹の探り合いが感じられ、「友達」という雰囲気ではなかった。自由に友達を作れるという感じではなく、それぞれの立ち位置に合わせた連中が集まるような付き合いであった。ヒーロー的存在はそうした者同士、冴えない者は冴えない者同士、特に「下」の立場の者が「上」の立場の者の領域には踏み込めない、そんな空気に嫌気がさしていた。雄吾は、「裏の世界」の方が、もっとギスギスしているかと思っていたが、こないだの夜遊びといい、今日の出来事といい、立場や何かが違えど、仲良くできるのだということを知った。いっそこのまま裏の世界の住人になってしまおうかとまで思っていた。
と、ここで一つの疑問が雄吾の頭をかすめた。リュウの部屋には亡くなった両親の写真が飾ってあった。しかし、長山の部屋に弟の写真はなかった。亡くなった弟にそっくりな人間を、わざわざお金を出してまで交流を持とうとするくらいだから、弟に対して相当な思い入れがあるはずだ。なのに、写真の一枚も飾っていないというのはどういうことなのだろう。やはり長山の言っていることは嘘なのか。雄吾はまた、長山がなぜ自分を指名しているかについて、疑いを抱くようになった。
翌週、雄吾が長山に指名を受けた。その時、写真の件について聞いてみようと、雄吾は考えていた。いつものように食事が終わろうという時、雄吾は切り出した。
「あの…弟さんの写真って、ないんですか?」
長山は一瞬びくっとしたような顔を見せたが、すぐ冷静に戻り、
「あ、ほら、最後の数年はずっと入院生活だったから、写真撮ってないんだ。退院したらいっぱい撮ろうって言ってたから…。ホントに子供の頃の写真ならあるけど。今度持ってこようか?」
入院していたから写真は撮らない。まあ、納得できる話ではある。部屋に飾るとしても、できれば元気な姿のものにしたいという気持ちも分からないでもない。
「そうでしたね。すみません、変なこと言っちゃって。そういうことなら、別に要らないです」
「いいよ。それより、敬語はやめようよ。兄貴に敬語使う弟なんていないだろ?」
「はい。あ、いえ、うん」
長山は大きな声で笑い、雄吾のことをいかにも兄弟風に叩いたりしてみた。しかし、その目の奥には、何か影のようなものがあるのを、雄吾は感じていた。それは、弟を失った悲しみとも違う、罪の意識というか、何か後ろ暗いものを感じさせる目であった。、
雄吾が店で働きだしてから、二か月経っていた。季節も春から夏に移り、雄吾の高校でも学期末試験の時期がやってきていた。雄吾はこの二か月、バイトと、それに付随して広がった人間関係を楽しんでいたこともあり、勉強の方がおろそかになっていた。そのこともあって、試験期間中とその前週は店を休んだ。しかし、持ち前の要領の良さで追い込みをかけ、何とか今までと同程度の成績は維持できそうな感じがしていた。
結局、雄吾が部活をボイコットして以来、顧問からも部員からも何のアクションもない。同じクラスには部員がいなかったので、教室の中では普通に振る舞っていた。廊下で部員とすれ違うことはあったが、彼らも雄吾を一瞥するだけで、特に挨拶を交わすこともなかった。部活は自然消滅になるのだろう。このまま自主練を続けて、あとは大学に期待するしかないのだろうが、果たして大学でも同じような憂き目にあうのだろうか、と思うと、雄吾はもう学校に期待せず、何か他の手段を探した方がいいのではないかとも雄吾は思うようになってきた。別にスポーツだけが人生じゃない。オリンピックを目指しているとかならともかく、所詮は素人に毛が生えた程度の競争でしかない。そんな競争に明け暮れるよりは、自由に、のんびり泳ぐ方がいいのかもしれない。雄吾は、部活に復帰する気は既にほとんどなかった。
期末試験終了最初の出勤日、忘れていた来客があった。
「災いは忘れたころにやってくる」という。幸運もまた、忘れたころにやってくるようだ。以前雄吾を指名した、国会議員の増田先生、そして同じ水泳部の増田の父親が再度雄吾を指名したのだった。「今度」がついに来たのだ。前回、「何か欲しい物があったら今度聞いてあげる」と言われた雄吾は、何をお願いしようか、ずっと考えていた。もちろん、ただの物をもらうのでもよかった。この先生なら、大概のものは買ってくれるだろう。しかし、それも何だかつまらない。そこで雄吾は、あることを試してみようと思った。自分の考えていたことが本当かどうかを確かめるために。
前回と同じように、サザンホテルのプレミアムスイートに雄吾は呼ばれた。
一通りの行為が終わり、シャワーを浴びた後、増田先生は雄吾に腕枕をして、ベッドでまったりしながら言った。
「前の話、覚えてるかい?あの、欲しい物があったら…ってやつ」
「ああ、そうでしたね」
雄吾はいかにも今思い出したように言った。
「欲しい物はないのかね?」
雄吾の冷めた言い方に、先生はますます気を引かれたようだ。雄吾を見る目が、完全にうっとりとしている。雄吾は覚悟を決めて、自分の考えていたことを話すことにした。
「そうですね…『物』じゃなくてもいいですか」
「おやおや。すると、現金ってことかな?」
思わぬ雄吾の言葉に、増田先生はちょっと引いたようだった。まさかこんなことを言う子だとは思わなかったのだ。
「いえ、そうじゃなくて…現金も広い意味では物でしょう?」
「ま、そうか。じゃ、一体何だい?」
雄吾はごくりと唾を呑み、一気に話した。
「実は、弟がある高校の水泳部なんですが、どうも冷飯を食わされているようなんです。イジメというほどではないようなんですが、一人だけ雑用を押し付けられたり、いいタイムを出しても試合に出してもらえなかったり…何か見てるとかわいそうで。先生のお力で、何とかならないものですかね」
そう、雄吾の計画していたのはこれだった。こう頼んでみて、もし通ったら、増田も父親の力を使った可能性が極めて高いということになる。通らなければ、真相はわからない。そういうのは自分の子供にしか使わない、ということも考えられる。いずれにしろ、ちょっと賭けのつもりで、増田先生にぶつけてみた。すると、先生は少し乗ってきたような感じを見せた。
「ほお。で、弟さんはどこの高校?名前は?」
「王子高校です。名前は濱田雄吾といいます」
その高校の名前を聞いて、増田先生の顔が一瞬引き攣った。それはそうだろう。自分の息子の通っている高校だ。それに、部活まで同じである。しかし、すぐ何事もなかったような表情に戻り、
「…そうだねえ。ちょっと話してみるよ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
雄吾はややオーバーアクションで礼を言った。すると、増田先生は
「何を頼まれるのかと思ったら…君って弟思いなんだね」
と笑みを浮かべつつ言った。本心なのだろうか、それとも全て見抜かれたのか。雄吾にはよくわからなかった。