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芝居が終わる時  作者: 井嶋一人
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ある土曜日。雄吾は一人家にいた。父親は会社の慰安旅行で前日から出かけていて、日曜の夜にならないと帰って来ない。母親も、自身の母親の体の調子が良くないとかで、今朝実家に戻り、さっき、「今夜は実家に泊まる」と電話があったばかりだ。今夜は雄吾が一人で家で過ごすことになる。そういえば、雄吾は、子供の頃から、完全に一人で家で一夜を過ごしたことがなかった。ということは、帰りが遅くなっても、いや、それどころか、朝まで遊んでも、誰にも何も言われない。これはチャンスと考えた雄吾は、土曜の夜の店に出て見ることにした。これまでも土曜に指名があって出掛けたことはあったが、出張という形で、電話を受けて直接客の所へ行っていたので、店には出ていない。また、普段と同じく、九時前に帰っていた。雄吾も夜の世界を覗いてみたいという気持ちがあったのが、やはり親の目を考えるとそれはやりにくかった。夜間外出自体にはそれほどうるさくなかったが、時に最近は女の子とのデートやなんかを疑われるようになり、以前ほど簡単に夜間外出ができなくなっていた。なので、今回のチャンスを逃したら、次はいつそんなチャンスが来るか分からない。その日は特に指名はなさそうだったが、お茶を出してもいいから、とにかく土曜の夜の店に行ってみたかった。

 

雄吾は、いつもなら退勤する九時に店に来た。雄吾の突然の出勤に、マネージャーも驚いていた。しかし、雄吾の期待とは裏腹に、店のほうはガラガラで、マネージャーと、雄吾の知らないボーイが一人いるだけだった。彼は土曜だけ出勤しているのだろうか。

「あれー、ハマちゃん。どうしたの?」

「今日は親が家にいないから、来てみたんです。でも、誰もいないですね」

「皆指名で出ちゃって、今ちょうど客が引けたところ」

そう説明したあと、一人だけいるボーイについてマネージャーが雄吾に説明した。

「あ、この子はリュウ。ハマちゃんとは入る時間が合わないから、会ったことなかったよね?今さっきショートから帰ってきたとこなの」

リュウは切れ長の目に色白の、どこかクールな印象のボーイだった。「美少年」というよりも、「美青年」と言った方がふさわしいような、凛々しい顔立ちであった。しかし、口を開くと、意外と明るく饒舌なタイプだった。

「君がハマちゃんなんだ。噂は聞いてるよ。すごく可愛い子が入って、売れっ子になったって。でも、平日の早い時間しかいないから、僕とは会う機会がなかったよね。ま、これからはよろしく」

雄吾は売れっ子だなんて言われて、足がむず痒くなるような恥ずかしさを覚えた。雄吾もリュウの名前は知っていた。店のナンバーワンを争うほどのボーイで、芸能人と見紛うほどの美青年であるということも。そんなボーイから「売れっ子」などと言われると、本気なのか嫌味なのか分からなくなってくる。しかし、取り敢えず無駄な争いはしてもしょうがないので、笑顔で対応することにした。こうして、大人の対応を身に付けていくのだな、と雄吾は冷静に状況を見つめていた。リュウも、雄吾のことを、ウブな振りをしているけど、売れっ子になるほどの奴だから、何か腹に一物あるに違いない、と勘繰っていた。だが、雄吾のそうした影の部分は、かえってリュウの興味を引いたところもあり、もっと仲良くしてみたいとも思っていた。リュウは雄吾とは違って、純粋なゲイだったので、どこか恋愛感情を感じていたところもあった。もちろん、雄吾はリュウのそんな複雑な感情には気づくこともなく、「ナンバーワンボーイ」にはひたすら警戒していた。それこそ、靴に画びょうとか、絵に描いたような嫌がらせでもされるかもしれない、と。

 

二人がそんな腹の探り合いをしているうちに、ショートに出ていたボーイが二人戻ってきた。しかし、客の方は全く来ない。土曜はこんなものなのだろうか、と雄吾がマネージャーに聞くと、意外にも土曜の、特に遅い時間はお客はそれほど来ないらしい。だから、今日はもうあまり客が来ないんじゃないか、とマネージャーが話した。あとのボーイは泊まりなので、今日はもう戻ってこない。

「ハマちゃん、せっかく来てくれたのに、稼がせてあげられなくてごめんね」

マネージャーは謝ったが、その後すぐ続けた。

「あんたたち、今日は遊びに行ってもいいよ。何かあったら連絡入れるから。せっかくだからほら、ハマちゃんを『ジョイント』に連れてってあげたら?」

「ジョイント」とは、店の近くにあるゲイクラブだ。とはいっても、土曜の夜はミックスナイト、つまり女性も入場可能なので、ゲイだけでなく、ファッションに敏感な人たちもよく遊びに来る。雄吾も、せっかく土曜の夜に街に出てきたのだ。このまま帰るのも何だか惜しかった。別にゲイオンリーでもよかったのだけど、「ゲイの遊び場」的な場所に行くのも初めてだし、何よりまだ雄吾自身の性向がはっきりしないので、まずはミックスのほうがいいだろうと思った。というより、実際、店で働いているボーイ以外に、ゲイの友人というのもいなかったし、そもそもボーイも半分くらいはストレートなのだ。今日たまたま残っているのは、雄吾を除くと皆ゲイであった。

「ね、ハマちゃんって、どっちなの?」

残っていたボーイの一人、ユウゴが聞いてきた。そう、先に「ユウゴ」という名前を使っていたのは何を隠そう彼だ。パッチリした目のアイドル系美少年タイプで、甘え上手なキャラがおじ様たちに大人気という感じだった。「どっち」というのはもちろん、ゲイかストレートかという意味である。

雄吾は「自分でもよくわからない。まだ人を好きになったことがないから」と答えようとしたが、そう答えると空気が重くなりそうだったので、

「まあ、どっちでもいいかな」といなすように答えた。ああ、バイね、とユウゴは返した。このユウゴと、リュウと、もう一人、同じような美少年タイプのヒロトの三人と一緒に、雄吾は「ジョイント」に出かけることになった。


 「ジョイント」は、雄吾たちが働く店と同じ通りにあり、店から三〇〇メートルほどのところのビルの地下にあるクラブだ。普段はバー営業だが、金曜と土曜、場合によっては木曜と日曜もクラブになる。一九九五年頃は、旧来の豪華な造りの「ディスコ」が廃れ、アンダーグラウンドな感じの「クラブ」が夜遊びの主流になりつつあった。「ジョイント」は営業して七年ほどだが、オープン当初から「ディスコ」とは違った雰囲気で、当時は地味だのなんだのと色々と不満も出ていたが、時代が回ってみると、実のところ先読みしていたような感じになっており、そこは経営者の先見の明によるものなのか、単なる偶然なのかはよく分からないが。ともかく、そこは週末になると、若いゲイやちょっとファッションにうるさい人たちが集まる遊び場としてにぎわっていた。雄吾たちが勤めているような店では、ボーイがゲイ関連の店に出入りすることを固く禁じているところもあるが、雄吾たちの店はそこまで厳しくない。なので、退勤後にこうした店に寄るボーイたちもそれなりにいた。

 

雄吾たちは「ジョイント」に着くと、まず受付で入場料二千円を払い、引き換えにドリンクチケットを受け取った。まだ十時過ぎということで、客はまばらだった。

「ここが盛り上がるのは十一時過ぎてからだからね」

ヒロトが言った。彼はボーイを始める前はここの常連だったので、客に知り合いも多く、何人かにあいさつをしていた。

「昔の友達には、ボーイやってることは内緒なんだ。ま、どこかしらから聞いてはいるだろうけどね」

皆それぞれに思惑があってボーイになったことは雄吾も知っている。ヒロトは確か、芸能界志望だったと雄吾の記憶にはあった。ヒロトは、平日の早い時間もいることがあるので、それなりに雄吾と会話をしたことはあった。他の二人は、あまり会うことがなかったので詳しいことは知らなかった。

 雄吾たちはそれぞれドリンクを注文し、乾杯した。雄吾は高校生ではあったが、飲酒の経験はあった。大きな声では言えないが、学校の文化祭の後、クラスメートと一緒に居酒屋に出かけ、そこでチューハイを飲んだことがあった。この時代はまだ、未成年の飲酒に関してはそれほど厳しくなく、高校生でも居酒屋に出入りしており、それは進学校であれそうでない高校であれ差はなかった。「ジョイント」のようなこじゃれた店にはチューハイはない。雄吾はカクテルの名前はわからないが、フルーツの名前が付いたものならきっと飲みやすいだろうということで、「カンパリオレンジ」を注文した。他のメンバーはそれぞれあまり聞いたことのない名前のカクテルを注文していた。

 

ヒロトの言う通り、十一時前から徐々に客が増え始め、十一時半ごろには満員電車のような込み具合になっていた。しかも、女性は思ったよりずっと少なく、ほとんどが男性客であった。

(ここにいる男は全部ゲイなのか。それにしても、皆カッコいいな。こういう人達にだったら、正直フラッとついて行っちゃうかも)

雄吾が働く店に来る客とは全然違う、若くてカッコいい男たちが大勢いて、激しく踊っている。雄吾はその雰囲気と、聞き慣れない音楽にやや圧倒されていた。洋楽なのは分かるが、一般に流行っているものともちょっと違う。この店で流れているのは、ハウスミュージックというジャンルの音楽だった。踊るためだけに作られたような、同じリズムの繰り返しに、僅かばかりの歌詞を載せたもの。しかし、聞き心地はいい。知らぬ間に体が動いてしまうような感じだ。

「そろそろ僕らも踊りに行こうか」

店ではどちらかと言えば地味な感じだったヒロトが、ここでは皆を引っ張っている。逆に、ナンバーワン、ツーを争う二人が借りてきた猫のようだった。そのギャップを見て、雄吾はおかしくなり、思わず顔がほころんでしまった。

「何ニヤニヤしてんの、ハマちゃん?」

急に笑った雄吾にヒロトが突っ込みを入れた。雄吾は「いや、別に」とだけ返し、そのままヒロトについてダンスフロアの方に行った。雄吾はこうしたクラブは初めてであったが、音楽に溶け込むのが早く、思った以上に軽快に体が動いていた。

「ハマちゃん、何か慣れてるね。本当に初めて?」

そう突っ込まれた雄吾だったが、苦笑いはしたものの、悪い気はしなかった。と、その時、それまでの音楽から、いきなりその時流行っていた安室奈美恵の曲に変わった。さらにその後、雄吾が小学生くらいのころに流行っていた中山美穂や工藤静香の曲もかかったのだ。呆気に取られる雄吾にヒロトが

「ここは日本の音楽もかかるんだ。ゲイは皆、アイドル系好きだし」

実を言うと、雄吾はアイドル歌手が好きだった。小学校低学年のころには、「おニャン子クラブ」にはまり、「夕やけニャンニャン」をよく見ていた。その後も中山美穂や南野陽子などを気に入り、親にせがんでレコードやCDを買ってもらっていた。雄吾が中学生くらいの時には急にアイドル歌手が減り、寂しい思いをしていたところに安室奈美恵がブレイクしたのがちょうどこの頃だった。

 思わず興奮した雄吾は、激しく踊っていた。それを見た三人は驚きを隠せず、

「この子、本当にゲイじゃないの?」

「さあ…これを見る限りでは、超ゲイだね」

「あるいは今日目覚めちゃったりして」

と口にした。そんな言葉はもちろん、雄吾の耳には届いていないが。

 

雄吾はその時、大好きなアイドルの曲を大音量で聞き、踊りまくり、初めての大きな開放感を味わった。しばらく踊った後、三人が「一旦外へ出よう」と言ってきた。曲は既に洋楽に戻っていた。この店は出入り自由だ。手の甲にハンコを押してもらって外に出る。近くのコンビニに行き、そこで缶や瓶の酒を買って飲む。店の中で酒を飲むと高くつくということで、こういう手を使っている若いゲイが多く、コンビニの近くにも、いくつかのグループがいて、それぞれ談笑しながら、缶ビールやなんかを飲んでいた。雄吾たちも缶チューハイや、最近発売された瓶入りのカクテルを飲みながら、他愛のない話をして盛り上がっていた。今日のダンスにしろ、この談笑にしろ、雄吾は初めて味わう感覚であった。実際、これまで学校の友人たちとここまで楽しく話したことはなかった。学校では、成績や部活のことが話題の中心で、時に重苦しくなる。ここではそんな話を忘れて、ただ無心にはしゃげた。このままゲイになるのも悪くない、そんなことまで考えるようになった。

 

そんな楽しい時間を味わっている時、ふと視線を感じた。後ろを振り向くと、一人の少女がこちらを見ている。バッチリ化粧をしているその顔は、大人の女であったが、雄吾はその顔に見覚えがあった。しかし、どこで見たのか思い出せない。あるいは、化粧を落とせば気が付くのだろうか。その少女は微笑みながら、踵を返し、一緒にいた男たちとどこかに行ってしまった。

(誰だろう…)

色々考えてはみたものの、結局その日は、最後まで彼女が誰なのか思い出せなかった。

その日、雄吾は人生で初めての朝帰りをした。


 その次の次の出勤日、店に行くと、あの日顔が思い出せなかった少女が店の前に立っていた。意味ありげに笑う少女。きょとんとする雄吾に向かって、少女は悪戯っぽく言った。

「覚えてないかな?」

雄吾はそう言われて、昔の知り合いの顔と、今目の前にいる少女の顔を比較してみる。

「まあ、私あんまり学校来てなかったけどね。私はあんたのこと覚えてるよ。転校してしばらくの時、ノート貸してくれたよね」

「あ…」

雄吾には思い当たる節があった。中学一年の頃、転校してきた少女が一人いた。彼女はちょっと大人びた雰囲気を醸し出し、同級生とあまりなじんでいない感じであった。しばらくして学校にも来ないことが多くなり、そのうち「派手な化粧をして街を歩く彼女を見た」とか、「やくざっぽい男の人と一緒に歩いていた」とか、そんな噂が流れ、たまに学校に顔を出しても、皆彼女を避けるようになっていた。そんな時、試験の前、誰もノートを彼女に貸さなかったことがあり、見かねて雄吾がノートを貸してあげたのだった。

「思い出した?同じ中学だった花岡弘子。学校は中二からほとんど行ってなかったけどね。でも、こんなところであんたに再会するなんてね」

それは雄吾も思った。実を言うと、雄吾は弘子にちょっとした好意を抱いていた。ただ単に粋がってるだけの連中とは違う、ほとんど学校にも来ない、ちょっと「本物」の不良っぽい感じの彼女には、他の同級生にはない大人の雰囲気があったのだ。なので妙に記憶には残っており、弘子が学校に来なくなってからも、また高校生になってからも、たまに今どうしているのか考えることもあったのだ。とはいえ、大人っぽく化粧をした彼女に、すぐには気付くことはできなかったが。

「中学の他の連中のことはほとんど覚えてないけど、あんたは別。結構いい男だったしね。ホント言うと、ちょっと好きだったかも」

 弘子の突然の告白?に雄吾は戸惑ったが、すぐに弘子が続けた。

「冗談よ。他の連中よりましだったって程度」

何だよ、せっかく喜んだのに、と雄吾がまた冗談ぽく返すと、二人の間に明るい笑いが生じた。


弘子は店の看板を見ながら、雄吾に言った。

「あんた、ここで働いてんの?てことは、ゲイなの?この前の土曜も『ジョイント』から出てくるのを見たし、それから火曜にこの店から出てくるのを見たし」

「いや…どうかな。ちょっとしたはずみで働き始めただけだから」

「ふーん」

弘子はさりげなく答えた。とても同じ歳とは思えない落ち着きぶりであった。もし別の同級生に見つかっていたら、もっと大騒ぎされていたであろう、と雄吾は思った。ある意味彼女でよかったのかもしれない。いや、それ以前に他の連中はこんなところには来ないか。

「花岡さんこそ今何してるの」

「花岡さんはやめてよ。弘子でいいよ。私は、中一の頃から付き合ってる男と一緒に住んでる。学校に来なかったのも、その男のところにずっといたから。どんな男かは大体想像ついてるでしょ。噂通りよ。でも、うちは父親いないし、母親も新しい男しょっちゅう家に連れ込んできてたからね。それでぐれちゃったっていうか。その人が親代わりみたいなもんだから」

そう語る弘子は、どこか寂しそうではあるが、幸せそうにも雄吾には見えた。十三やそこらで愛する人に巡りあえて、そのまま一緒にいられるのなら、それはそれで幸せだろう。学校に行けない寂しさも、愛する人との生活なら差し引きできるかもしれない。そもそも、学校だけが全てではないことは、学校にいい思い出がない雄吾にはよく分かっていた。

「じゃ、弘子は今は幸せなんだね」

雄吾がそう聞くと、

「まあ、そうだね。問題がないわけじゃないけど、昔よりはいいかな」

「問題って?」

「ん…まあ、ちょっとヤバい仕事してたりとか」

弘子の男というのは、実際ヤクザであり、危ない商売に手を染めていたりした。

「でも、『女』としてあたしのことは大切にしてくれてる。暴力とかもないし。それで言ったら、実の父親や、母親の男達が、暴力や虐待についてはひどかったしさ」

雄吾はそこまでの事情は理解していなかった。弘子は小学校五年生の時に両親が離婚し、母親に引き取られた。弘子は実父から、そして母親の男達からも虐待を受けていた。実父のは殴る蹴るといった実際の暴力であったが、母親の男達は、そちらはほとんどなく、性的なそれであった。しかも、母親は男をとっかえひっかえしていたにもかかわらず、そのほとんどの男が弘子に性的虐待をしていた。実は弘子の母親が連れてきていたのは、「彼氏」はごく少数で、大半は「彼氏」ではなかった。つまり、母親は少女売春を斡旋しており、連れてくる男は「母の彼氏」というのは建前で、本当は客であった。「彼氏」と称して弘子の家を訪れ、弘子にいかがわしい行為をさせる。そして金をもらう、ということを母親はしていたのだ。もちろん弘子はそれに気づいていなかった。もっとも、母親が連れてくるのが彼氏であろうが客であろうが、苦痛であることに変わりはない。そんな地獄のような生活から救ってくれたのが、弘子が中一から付き合っている彼氏であった。絶望に打ちひしがれ、行くあてもなくフラフラしていた弘子に声を掛けたのがその彼で、常に怯えたような目をしていた弘子の話を聞いているうちに、自分もまた過去に虐待されていたことを思い出し、弘子の親代わりになることにした。実のところ、弘子は家出をして、彼のところに転がり込んだわけではなく、彼と共に母親のところにあいさつに行き、承諾を得て一緒に住むようになったのだ。その際、その彼が弘子の母親に幾許かの金を包んだ。彼は母親が弘子に売春をさせていることに気が付いていたのだ。その後、弘子が十六歳になるのを待って入籍した。だから、正式には彼氏ではなく「夫」なのだが、「夫」というのもどこか気恥ずかしさがあるので、「男」と言うようにしていた。

「結構大変だったんだ」

「まあね。それに比べたら、今は幸せ」

彼女が幸せであることは、その表情から何となく分かったので、それ以上は何も言わないことにした。ふと時計を見ると、もう四時になろうとしていた。

「あ、俺、そろそろ…」

雄吾は店にでなければならない。

「ごめんね。引き止めちゃったね。そうだ、今度一緒に飲もうよ。今携帯番号教えるから」

弘子はそう言って、メモ用紙に自分の携帯番号を書き、雄吾に渡した。それを受け取ると、雄吾はすぐ電話を掛けた。弘子の携帯が鳴り、番号が表示された。もちろん雄吾のPHSの番号だ。

「オッケー。じゃ、また」

「一緒に飲んだりして、彼氏に怒られない?」

雄吾は一応確認した。やはり相手がその手の方となると、ちょっと怖いのも事実だった。

「大丈夫だよ。ゲイってことにしとくから」

確かにそれなら怒られないだろう、雄吾は納得した。

 

その後、雄吾と弘子は何度か会って、お茶をする関係になった。雄吾は弘子のことを「弘子」と呼び捨てにすることに馴染めず、名字の「花岡」からとって、「花子さん」と呼ぶようになった。

「えー、『トイレの』じゃあるまいし、それにちょっと何かそれこそゲイバーのママさんみたいじゃん。あんたもうその世界に染まっちゃったの?」

と最初は嫌がっていたが、呼ばれているうちにしっくりくるようになったらしく、そのうち何も言わなくなった。

そして三回目に会う時に、「彼氏」を紹介された。その筋の男と聞いていたが、ポロシャツにチノパンという、至って普通な出で立ちで、ルックスも遊び人っぽさはあるものの、どちらかといえばさわやかな好青年である。雄吾が唖然としていると、その心を見透かすように弘子が言った。

「拍子抜けした?普通っぽいでしょ」

彼氏の名前は木村圭一といった。今年三〇歳で、弘子が中一の時から付き合っている。

「派手なシャツに白のスーツ、アクセサリーじゃらじゃらみたいな、いかにもな風貌じゃあ、仕事にならないからな。最近は皆こんな感じだよ。あ、それに俺、大卒だから。そんないいとこじゃないけどね」

そう言いながらも、圭一の口から出た大学は、中堅どころの私大であった。

「最近はこういう世界でも、ある程度ここがねえと」

圭一は頭を指差して言った。学歴とは無縁のタイプもいることはいるが、カタギっぽさがあったほうが重宝されるらしい。

 実のところ、圭一の表向きの職業は、あるイベント会社の社員であり、その筋がバックについているということだった。

「まあ、だから限りなくカタギに近いってわけ。ヤバいモン扱ったりもするけどね」

圭一の言葉に雄吾は相槌を打つ。二人を見ていると、恋人同士のようでもあるし、兄妹のようでもあり、また父娘のようにも見える。家庭に恵まれなかった弘子が、やっと手に入れた幸せなのだろう。あまり学校でも見かけなかったが、中学の時の弘子は同級生とも距離を置き、笑顔もなく、確かにやさぐれているように見えた。そんな弘子と比べると、今の弘子はどこか穏やかだ。雄吾は、そんな二人を見て、自分もいつかこういう相手ができるのだろうか、と思っていた。一応、雄吾の家庭は弘子のところとは違い、ごく普通の家庭だ。親も優しいし、経済状態も悪くない。しかし、親子の間には、どこか壁のようなものを感じていた。その壁の正体を雄吾はわかってはいなかったが、自分が人を好きになれないことと何か関係しているような気もしていた。もちろん、まだ十七歳である。恋をしたことがなくてもおかしくはないだろう。しかし、本当にこれでいいのか、自分はこのまま誰かのことを好きになることがあるのかと思うと、そこは自信が持てなかった。なので、弘子に対して、若干の羨ましさも感じていたし、彼女の幸せを応援したいとも思っていた。


弘子と二人でお茶をしているところを店のボーイに見られたのか、ある日店に行くと、ボーイの一人・タケルが雄吾に聞いてきた。

「ねえ、ハマちゃん、彼女出来たの?」

その言葉に、その場にいた他二人のボーイも雄吾の方を向く。

「え、ハマちゃんってゲイじゃなかったんだ」

別のボーイ・ケイタが言う。雄吾はその質問にははっきり答えずに、

「まあ、中学校の時の同級生だよ。近くで働いてるらしいんだ」

雄吾は半分は本当のこと、半分は出まかせを言った。

「へえ、てことは、ホステス?道理でけばいと思った」

タケルが言う。この辺りはゲイ関係の店も多いが、普通のクラブも一応ある。弘子は、ホステスだと言われれば、そう見えるような風貌であった。

 そういえば、雄吾は弘子の職業を聞いていなかった。タケルの言うように本当にホステスなのか、それとも違うのか。今度会ったら聞いておこう、と雄吾は思った。

 ボーイたちが騒ぐのを、マネージャーは冷めた目で見ていた。その話題が終わった後、マネージャーが雄吾を奥に引っ張って、こっそり耳打ちしてきた。

「その女の子はやめときなさい」

雄吾はマネージャーの突然の忠告に驚いた。マネージャーも雄吾が弘子といるところを見ていたのだ。雄吾は他のボーイには聞こえないように小さい声で聞いた。

「え、マネージャー、彼女のこと知ってるんですか?」

「まあ、詳しくは知らないけど…ヤクザの女でしょ?」

一体マネージャーの情報網はどこから来るのだろう、もしかしたら、マネージャーはこの街の主なんじゃないかと雄吾はマネージャーがちょっと怖くなってきた。

「ええ、それは知ってますし…ただの友達ですから」

雄吾がありのままをマネージャーに伝えたが、

「だから余計心配なの。ハマちゃん、変なこと手伝わされないかって…くれぐれも、そんなことしちゃダメだからね」

やっぱりこのマネージャーはただものではない、雄吾はそう思わずにはいられなかった。

 

  

   

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