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芝居が終わる時  作者: 井嶋一人
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 雄吾の部活ボイコットから二週間が過ぎようとしていた。相変わらず、部員や顧問からの呼び出しなどはない。雄吾は寂しいような、でもちょっとホッとしたような気分であった。自分からアクションを起こす気はない。かといって、待ってもいない。そのままバックれられるならそれでもいいかなというくらいの気持ちであった。部活自体に対する思いはそんな冷めた感じであったが、ただ、泳いでいないと体がなまる。部活に未練はなくても、水泳にはまだ心のこりがあった。そこで雄吾は、時間つぶしも兼ねて、市営プールに泳ぎに行くことにした。市営プールは一回三〇〇円。いつも通っていた繁華街の近くにあるので、交通費は同じ。三〇〇円といえば、ファーストフードのコーヒーと比べてもさほど差はない。

 愛用の競パンを履き、さっそうと泳ぐ雄吾の姿は、嫌でも市営プールにいる客の目を引いた。それはそうだろう。一応現役の高校水泳部員、しかも選抜メンバー候補となれば、泳ぎ方も速さも他の客とは違う。周囲からの賛美の眼差しに、雄吾は快感を覚えた。こんな眼差しは何年振りだろう。周りに知ってる人間がいないというだけで、人の評価はこんなに変わるものなのだろうか。他人の評価というのが、いかに曖昧なものか、雄吾は改めて思い知った。これからずっとここで練習して、大学は東京かどこかよその地方の大学に行けば、今度こそいい再スタートが切れるかもしれない、そんな期待を胸に市営プール内の五〇メートルプールを何往復も泳いでいた。

 約二時間、休憩をはさみつつ泳ぎに専念して、心地よい疲れを感じながらシャワーを浴びていた、すると、シャワーカーテンの向こうから、何やら視線を感じる。シャワーカーテンをきちんと閉めていなかったので、誰かが自分のシャワーを浴びているのを覗いているのが分かった。年恰好からして、自分よりも上、二十二から三歳といったところか。顔にはあまり見覚えがなかったが、雄吾にとってその年頃の知り合いといえば、小学校の時のスイミングスクールの先輩やコーチくらいしか思いつかない。その中でも、親しかった先輩や、直接指導してくれたコーチとかなら確実に覚えているが、直接的な接点が少なく顔を忘れてしまったり、また年を経て顔が変わってしまったりした人かもしれないと思い、軽く頭を下げた。しかし、どうもそれがいけなかったらしい。その男性は雄吾のシャワールームに入ってきて、いきなり雄吾にキスをし、体を撫ではじめたのだ。雄吾は、あまりにも突然の行為に頭が真っ白になり、一瞬抵抗することができなかった。小学校の時、同じスイミングスクールの同期生とふざけ感覚でお互いの体を撫であったりしたことはあったが、それはあくまで前振りがあってのことで、ある程度の心の準備があったし、遊びだと分かっていたので、さほど抵抗もなかった。しかし、今回は違う。突然、しかも見知らぬ男にそれをされたのだった。雄吾はしばらくしてはっと我に返り、「すみません」と言ってシャワールームを出た。


 その相手の男の視線を、雄吾はずっと背後に感じていた。なるべく気にしないようにしていたが、それとは裏腹に反応を示している部位がある。

「俺…ゲイなのかな…」

雄吾は過去の自分の恋愛について思い起こしてみる。その時点では女の子と付き合った経験はない。しかし、そういえば、ちゃんと人を好きになったことなどあっただろうか。小学校や中学の時、誰それが可愛いとか、そんな話をしたことはあったが、「好き」だったかと言われると、ちょっと違う気がする。それに、女の子に告白されたこともない。いわば、恋愛とは無縁の生活だった。勉強と部活。これが雄吾の今までの生活のすべてであったと言っても過言ではない。それがついさっき、いきなり愛撫を受けた。今まで全く恋愛とか性的なことの対象になった経験がない。少なくとも、雄吾が知っている限りでは。しかし雄吾は、相手が男であれ誰であれ、自分もまたそういう対象になり得るのだと思うと、何だか安心したような気分になった。だから、見知らぬ男の愛撫にもしばらく抵抗しなかったのだ、と自らを納得させ、取り敢えずゲイではない、と結論づけた。


 その次の週末、雄吾は法子のところを訪ねた。この前プールで起こったことについて、何となくまだすっきりしない部分があったが、まさかあの出来事をそのまま話すわけにはいかない。しかし、もっと引っかかったのは、「自分が今まで誰のことも好きになったことがない」ということであった。これは普通なのだろうか?中学やそこらで、恋だの何だのと騒いでいる方が実は異常で、多くの場合、案外皆自分と似たり寄ったりなのかもしれない、と思った雄吾は、姉自身の経験を聞いてみることにしたのだ。

「ねえ。姉ちゃんって、初恋はいつ?」

雄吾のその質問に、一瞬法子の表情が曇った。やばい、聞いてはいけないことを聞いてしまったのか、地雷を踏んだか、と雄吾は思ったが、法子はすぐに表情をもとに戻し、

「いつだったかなー。多分中学の時、部活の先輩がカッコいいとか、そんな程度だったと思うけど」

法子は何かをごまかしている、と雄吾は感じ取ったが、突っ込んだところで本当のことを言ってくれるとも限らないので、ここは法子の話に合わせることにした。

「えー、その程度でも恋なんだ」

「どうだろうね。まあ、告白する勇気はなかったけどね。でも、何でそんなこと聞くの?」

「いや、たまたまクラスの友達とそんな話になってさ。でも、俺も中学の時とかに、『あの子可愛い』とか言ってた程度だから、それも恋のうちに入るのかなと思ってさ。でも、今の姉ちゃんの言い分だと、一応恋にカウントしていいってことだね」

つまり自分はゲイではないってことか、と、これは雄吾の心の中で言ったことだが。

「…うん、そうだね…」

法子の目は、どこか遠くを見ているような目であった。やはり、何か触れられたくない何かを持っているのだろうか、雄吾はそう思いながら、姉の買ってきたケーキを食べていた。その後はその話題には触れず、適当な世間話でお茶を濁し、夕食前に雄吾は法子の家を後にした。雄吾は気づいていなかったが、法子は雄吾をどこか悲しげな目で見送っていた。


 その次の日、雄吾は理髪店に髪を切りに行っていた。いつもは一人二人くらいしか待っている客はなく、すぐに順番が回ってきていたが、今日に限ってなぜか客がいっぱいで、立って待たねばならぬほどであった。その待ち時間の間、ファッション誌を捲りながら、一日前の法子の「初恋」のことについて聞いた時の反応について考えていた。あの法子の反応は、一体何なのだろう。単なる失恋にしては表情が重いようにも感じた。もしかしたら、地元を離れて、わざわざ東京の高校に進学したことと何か関係があるのだろうか―そんな物思いにふけっているうちに、待合席にあったファッション誌はほとんど見てしまい、読む雑誌がなくなってしまった。その頃には席は空いていたが、自分の順番が回ってくるまではまだ時間がありそうだ。しょうがないので、普段は見たことがない地元のタウン誌を見ることにした。別に特別な理由はない。単にすぐ手が届く場所にあったというだけだ。タウン誌では、地元の美味しい店や、地元の歴史などを紹介しており、想像していたよりもなかなか面白かった。いつも前を通っていたが、一度も入ったことがないフレンチレストランのオーナーシェフが実はパリの店で修業していた人だとか、裏話的なことも載っていた。そうやってページを捲っていると、あるページに目が留まった。

「参議院議員 増田弘彦氏とその御家族」と見出しにはあった。そしてその「増田弘彦氏」と一緒に移っている高校生の息子、「増田昭則」―これは紛れもなく、雄吾と同じ高校、同じ学年で、同じ水泳部員、平泳ぎの選手であった。増田は今回の夏の選抜メンバーに選ばれていた。増田は、一年生の頃は雄吾よりはるかにいいタイムをだしていたものの、二年生になってからは不調で、選抜入りも危ぶまれていたほどだった。しかし、実際に選ばれたのは雄吾ではなく増田で、雄吾が納得いかなかった点というのも、まさに雄吾ではなく増田が選ばれたということであった。もっとも、増田のタイムも、そこまでひどいものではなかったのだが。

 それにしても、増田が国会議員の息子だということを今初めて知った、ついでに言うと、同じ区の住民であることも。部活の時には、そんなにお互いの家庭事情まで話したことはないし、同じ区とはいえ、小学校も中学校も同じ学区ではなく、いわゆる「ご近所さん」ではなかったので、家族や近所周りから情報が入ってくることもなかった。雄吾も、自分の選挙区から「増田」という名前の国会議員が出ているということはうっすら記憶にあったが、「増田」という名字自体もさほど珍しいものでもないし、同じ高校の水泳部の「増田」と、国会議員の「増田」は結び付かなかった。意外なところに大物の息子がいたもんだと、その写真に見入っていると、「濱口さん。どうぞ」と理容師に雄吾が呼ばれた。席に就いた時、ふとある考えが浮かんだ。

(まさか増田の奴、親父の権力を使って選抜入りしたのでは…)

それが考え過ぎであることは承知の上だ。増田のタイムも、雄吾や他の選抜メンバーと比べても、それほど遜色はない。ただ、ボーダーラインに立たされた場合、やはり権力者が一声かければどうにでもなるのではないかと思ったのも事実だ。それに増田は、部のリーダー的存在ではないが、どちらかといえば人を見下しているような感じを出している奴で、雄吾は正直、増田のことがあまり好きではなかった。

(自分にも権力者の知り合いがいればなあ…)

雄吾の父親は、一流企業に勤めているとはいえ、部長どまりで、しかももうすぐ定年退職ときている。とても権力を振るえそうにない。母親もごく普通の専業主婦だ。実家は山陰地方で、地元ではそれなりの名家らしいが、さすがにそれも雄吾が今いるところまでは届かないだろう。雄吾は両親とは歳が離れている。逆算すると、両親が四十を過ぎてからの子供ということになる。まあ、三十二歳の姉がいるわけだから、そのくらいの年齢になるのは仕方がない。そんなことを考えていた時、雄吾はふとあの看板を思い出した。

(男子アルバイト募集。日給二万円以上可。週一回から勤務可。十八歳から三十歳くらいまで。寮完備)

そう、雄吾が部活をサボって繁華街で過ごして、帰りのバス停に行く時に必ず見るあの看板である。

(あれって、ホスト募集だよな…。そういうところでバイトすれば、政治家とか、芸能人とか、文化人とか、それか権力者の奥さんとかと知り合いになれるのだろうか)

雄吾は今更部活でどうのこうのというのは望んではいなかった。しかし、今後の人生を考えたら、権力者と知り合いというのは、決して悪い話ではない。

あの看板が自分を呼んでいる、そんな気がした。


 次の日、雄吾は学校が終わると街へと向かった。そしてあの看板が見えるところに来ていた。さすがに看板の、つまり店の前まで行くにはちょっと勇気がいった。というのも、今日、今すぐに店に行ってバイトの申し込みをするかどうかはまだ決めておらず、取り敢えず様子を見に来た、という感じであったからだ。雄吾は、看板を何気なく見ていた時には気が付かなかった事柄にもさらに細かく目を遣ってみると、その店の名前は「XYZ」といって、昼三時から店は開いているらしい。今は三時五十分。観察していると、若い男性がその店の中に入って行った。彼もホストなのだろうか、にしてはちょっと服装がカジュアルすぎるような。さらに看板をよく見ると、「服装自由」とも書いてある。ということは、派手なスーツなどを着る必要はないということであれば、今すぐにでも働けるかもしれないと、雄吾は思った。確かに、その後も何人か若い男が店に入って行ったが、皆カジュアルな服装だ。しかしセンスの良さは感じる。今すぐ店の門を叩いてみようかと何度か思ったが、結局この日は様子を見に来ただけで終わってしまった。


 次の日は、勇気を出して店の門を叩いてみようという覚悟で、雄吾は街にやってきた。時間は四時十五分。これでいいのか雄吾にも分からない。とはいうものの、一応年齢制限に引っかかるので、それを理由に断られる可能性は大きい。しかし、裏を返せば、やっぱり無理だと思った場合、それを理由に逃げることもできるということだ。そう考えると多少楽にはなった。そうやって考えを巡らすこと三十分、ついに雄吾は店のドアを開いた。

「いらっしゃいませー」

男性の声ではあるが、やや甲高い感じの声が聞こえた。続いて別の声がする。

「あれ、お客じゃないんじゃない?バイトの応募じゃないかな?ね、バイトしたいの?」

ある若い男が雄吾に聞いてきた。ちょっと髪が長めの、茶髪の男だった。

「あ、はい…」

雄吾が遠慮したように答えると、先ほど「いらしゃいませ」といった甲高い声がまた聞こえた。

「じゃ、こっちに座って」

その声の主は、ソファーの席に雄吾を案内した。雄吾がおそるおそるソファーに座ったが、顔を上げてその声の主の顔を見て、雄吾はさらに驚いた。

「あ…」

思わず雄吾が声を上げると、その声の主もまた声を出した。ただし、雄吾に比べると冷静な声ではあったが。

「あ、あの時の。こんなところで再会するとはね」

「え、マネージャー。『あの時』って何?」

そばにいた茶髪君が聞く。

「ほら、市営プールで、すごく可愛い子を誘ったけど逃げられたって話ししたじゃない?その子だよ。あんな子がうちの店で働いてくれたらいいのにって言ってたんだよね」

「すみません、ちょっと緊張してしまって…」

「いいよ、別に。初々しかったし、嫌ってるわけじゃないのは分かってたから。ちゃんと反応してたしね」

そうなのだ。雄吾がちょっと前に、市営プールで体を触られたのは、まさにこの店の「マネージャー」だったのだ。雄吾はそれで悟った。

「あの、この店って、ゲイ相手の店なんですか?」

おそらくそれで間違いないだろう、と思って聞いてみたら、マネージャーも淡々と答えた。

「そう。売り専バー。平たく言うと、ゲイ相手に体を売る店。そこで働く子のことは、我々は『ボーイ』って呼んでる。ごくまれに女の人も来るけどね。知らなかった?」

「ええ、まあ…」

雄吾は確かに驚いたが、考えてみればそういう店があってもおかしくはない。というより、なぜ最初にそういう店だという発想ができなかったのか、雄吾は不思議な気分がした。

「どうする?辞めとく?でも、ちょっともったいないなあ…君だったら絶対売れっ子になれると思うけどなあ。さっきも言ったでしょ?こんな子に働いて欲しいって」

動揺を見せる雄吾に、マネージャーはとどめの一発ともいえる一言を口にした。今まであまり他人に称賛されたことのない雄吾にとって、その一言に心は傾いた。

「でも、僕、実はもうすぐ十七歳の高校生なんですけど…」

心が動かされたとはいえ、年齢のことは引っかかっていた。やるにしても、最低限それだけは伝えておいたほうがいいだろう。しかし、マネージャーは臆する様子もなく、

「あら、そういうケースは結構あるよ。家出少年とか、訳ありの子もいるからね。店では十八か十九ってことにしとけば、あとは君が口を滑らせなければ大丈夫だよ」

雄吾の決心は固まった。あと気になるのはこれだ。

「そうですか。分かりました。でも、何をすればいいんでしょう?」

「そうだね。まあ、客にもよるけど、ただ寝てればいいってわけにはいかないね。口でしたりとかもあるし。ケツはNGならそれは別にかまわないけど…タチ役、つまりケツに入れるほうね、そっちに回るって手もあるし、お金が目的でなければ、ケツに関しては応相談ってことでいいよ」

それを聞いて少し肩の荷が下りた。まあ、どうしてもというなら、そこまでやる覚悟も一応していたが、最初のうちは応相談でもいいだろう。マネージャーの言葉に、はい、とだけ答えると、

「OK。今日から入る?」

「あ、はい。で、時間は九時まででもいいですか?」

「いいよ。高校生だしね。うちは夕方からでも結構お客さん来るから。あ、でも、週何回くらい来られるかは教えて欲しいな」

雄吾は月水木は泳ぎに行くので、火曜と金曜、それから土曜日曜も行けたら行きます、ということを伝えた。マネージャーは快くOKしてくれた。さらにマネージャーはこう付け加えた。

「もし、店に来るのが都合悪かったら、携帯かピッチの番号教えてくれれば、別の場所で待機しててもらっても構わないよ」

そんなのもできるんだ、と雄吾は思った。じゃあ、暇があれば他の曜日でも、というと、マネージャーは喜び、

「ありがとー。助かる。じゃ、よろしく。あ、僕の名前はダイスケ。その茶髪君はヒロミっていうから。あ、そうだ、君の源氏名どうしよう?下の名前は…」

「雄吾です」

「ユウゴか…あいにくユウゴってのはもういるなあ」

「じゃ、名字をとって、『ハマ』とかどうです?」

雄吾の緊張もこの頃になるとだいぶ解けてきて、言葉もポンポン出るようになった。雄吾は、元々はあまり人見知りもせず、気さくなタイプなのだ。

「いいねえ。『ハマちゃん』、よし、それで行こう」

こうして、新人ボーイ、「ハマ」が誕生した―。



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