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雄吾の夏休みが終わり、新学期が始まった。それと同時に、部活に復帰した。もう一度、逃げずに頑張ってみよう。そう思えたのは、一学期から夏休みまでの出来事のせいだった。リュウも、弘子も、そして法子や長山、つまり、丈雄も―それぞれの現実と戦っている。そんな姿に感化されたのだ。また、法子達との「約束」を果たすためでもあった。普通の高校生―それも、ちょっと優秀な高校生―としての生活を全うし、両親を安心させること。それを法子達と約束したのだ。
復帰は必ずしも大歓迎というわけではなかった。顧問や部長は一度呼び出した手前、一応の歓迎の態度は見せたものの、他の部員たちはシラケてたり、どうでもいいというような感じであった。早速同学年の部員の一人が雄吾に雑用を言い付けたが、「そのくらい自分でやれ」と雄吾は冷たく言い放った。雄吾は喧嘩も辞さない覚悟であったが、その一言に部員達が唖然とした。確かに、この数か月で雄吾は変わった。バイトやそこでの出会い、さらに自分の出生の秘密を知り、強くなった気がする。それ以来、雄吾に必要以上の雑用を押し付けたり、雄吾を弄ったりすることもなくなり、雄吾は純粋に水泳に打ち込めるようになった。
二年生の間は試合出場には間に合わなかったが、三年生になると選抜メンバーに選ばれ、地区大会で優勝するレベルにまで達した。高校卒業後は、東京の大学には進学せず、地元の国立大学に進学、体育会の水泳部に所属し、それなりの成績を残した。そして地元の大手食品会社に就職し、数年後に結婚―と、まさに絵に描いたような「普通の」、それも「ちょっと優秀な」人間としての人生を全うしていた。もっとも、両親の死後、どこか緊張の糸が切れてしまい、ほどなく離婚という運びになってしまったが。
法子と丈雄は、未だに入籍どころか同棲すらしていない。法子の両親と丈雄の父親は既に他界したが、丈雄の母親がまだ健在だからだ。とはいえ、法子の両親も丈雄の父親も生前、ある程度経過した頃には薄々気付いていたようで、二人が適齢期を過ぎても、結婚について干渉せず、見合いなどをさせることもなかった。丈雄の母親は、「いい人がいるなら、もう一緒になってもいいのよ」と、二人を許したかのような発言をすることもある。しかし、正式に夫婦にはならず、恋人のまま、交際期間のべ三十年近くを迎えようとしていた。が、丈雄の母親の言葉が本心からであれば、入籍してもいいかと二人は考えていた。
雄吾も法子も丈雄も、芝居を終えようとしているのかもしれない。
雄吾は前妻とは、二か月前から既に別居しており、実質独身生活に入っていた。雄吾は離婚に当たって、一つの目論みがあった。それは、久しぶりに「あの世界」を覗いてみよう、というものだ。そしてできればリュウに会いたい。また、弘子が幸せかどうかも知りたい―そんなことを考えていた。
そこでまず、雄吾は自分が働いていた店があった界隈に行ってみようと思い立った。飲み会や何かで、何度か近くまでは行ったが、メインストリートには行けていない。雄吾が働いていたあの店、ボーイ達と遊びに行ったクラブ、そして「リュウ」と一緒に行ったバー―今もまだあるのだろうか。若干の期待と、若干の不安。もう二十年も経っているのだから、変わっていて当たり前と言い聞かせつつも、当時のままの風景をも期待する。
雄吾は、別居して最初の土曜、街に足を運んでみた。しかし、実際街に入ってみると、感動も失望も、さらに言うと懐かしさすら感じなかった。よくあるただの飲み屋街にしか見えなかった。よくよく考えてみれば、街の詳細を覚えていない。確かに当時と何も変わらないようにも見えたが、じゃあどこの何がどう変わっていないとかと言われると、あまりよく思い出せないのだ。例えば、今雄吾が立っている目の前にあるイタリアンレストラン。これが二十年前にここにあったかと言われれば、よく分からない。建物や大まかな街の造りそのものは当時のままのような気もするのだが、どこか微妙にずれている。そんな印象を受けた。人間の記憶は、引っ張り出せないだけで、実は全て脳には記録されているという。雄吾が感じた違和感は、脳内の記憶と、目の前の現実との違いに起因するものなのだろう。
考えてみれば、雄吾がこの街に出入りしていたのは、ほんの三か月ほどだ。それから二十年来ていないとなれば、覚えていなくて当然といえば当然だが。それでも、僅かな記憶を頼りに、店を探してみる。まず最初に見かけたのが「ジョイント」の看板だった。ああ、ここはまだあるのか、と安心したような気持ちになり、あの日と同じように階段を下りて、地下にある「ジョイント」の前に着いた。ドアの横の掲示板には、半裸の男やドラァグクイーンのポスターが貼ってある。前来た時もこんなんだったか、あまりよく覚えていない。中に入ろうかと思ったが、三十代半ばの自分なんかが行って門前払いとかされたらどうしようか、という気持ちもあった。もちろん、今日のためにある程度の若作りはしてきていたが。
「ジョイント」はひとまず諦め、次に自分が働いていた店に行こうとした。「ジョイント」から確か三百メートルくらい離れていたはずだ。しばらく歩くと、見覚えのあるビルの一階にたどり着いた。しかし、雄吾が働いていた店は既にそこにはなく、違う名前の看板が出ており、「ニューハーフの店」とある。
(やっぱり変わってたか)
これはこれで仕方ないという気持ちであった。どのみち、仮にまだ店が続いていたとしても、あの時の仲間が今も働いているはずはない。マネージャーも自分のことなど覚えてはいないだろうし、そもそも同じマネージャーかどうかも分からない。
そういえば、丈雄の話によると、かつてマネージャーだった人、実は丈雄と同時期に同じ店でボーイとして働いていたらしい。彼らが働いていたのは、雄吾がいた店とは別の店で、その手の店では老舗と言われているところだ。なお、雄吾がいた店は、その老舗店の兄弟店だったようだ。
マネージャーが丈雄のことを「どこかで見たことがある」と言ったのは、その時のことをかすかに覚えていたからだ。在籍期間が短かった丈雄は、同時期に働いていた人のことは大体顔くらいは覚えているが、あのマネージャーはずっと同じ世界にいるため、すぐに店を辞めた丈雄のことは、そこまではっきりとは記憶に残っていなかった。ちなみに、丈雄曰く、「あのマネージャーは僕より二、三歳上」とのこと。
ここまで来て、何となく気持ちが冷めてしまった雄吾は、本当はその次にリュウと一緒に行った店があるかどうか確かめたかったが、名前を思い出せなかったこともあって、もうどうでもよくなっていた。とはいえ、せっかく出てきたわけだし、しばらく街をフラフラすることにした。
街を歩いていると、どことなく違和感に気付いた。
(若い子が少ない…)
雄吾が働いていた頃は、平日でも若い子が街にそこそこ出てきていたし、皆で「ジョイント」に行った土曜日なんかは、それこそ街に人が溢れていたはずだ。ところが今はどうだろう。人はいるにはいるが、当時の平日と比べても少ない気がする。それに、若い子というより、雄吾と同年代か、それよりもっと年上の人達が多いように見えた。こんなところにも少子化の波が来ているのかと、何とも言えない気持ちになった。この分だと、「ジョイント」に行っても、同世代が多くて案外浮かないかもしれない、と雄吾は思った。そこで、「ジョイント」に戻り、思い切って中に入ってみることにした。
あの日と同じように入り口でお金を払う。今日払ったのは二千五百円であった。以前はどうだったか、それもまたよく覚えていなかった。
雄吾の予想通り、年齢層が上がっていた。雄吾が前に行った時は、皆二十代前半という感じであったが、三十代が中心に見える。それとも、昔も実は三十代の人達が若作りをしていただけなのだろうかとも思ったが、雰囲気が違う。雄吾も会社の後輩など、二十代前半の若者と接することも多いのだが、彼らとも何か違うような感じであった。あるいは、今の若者ゲイは結構疲れた雰囲気なのだろうか。よく分からないが、とにかく若々しさは感じられなかった。客はそれなりに入っていたが、やはり当時の勢いはない。雄吾は壁にもたれて、注文したジントニックを飲んでいた。あの頃と違って、今はカクテルも主なものなら大体分かるし、飲める酒も増えた。ちょっとしみじみしながら飲んでいると、ふと視線に気付く。ある男が雄吾にアピールするように目線を送っていたのだ。
(そうか、ここは男を探しに来る場所だった)
さすがに今日はそこまでの心の準備はできていなかったので、視線に気付かないふりをしてジントニックを飲み干すと、そそくさと店を出た。
(まあ、こんなもんかな…)
取り敢えず雄吾は自分なりには満足した。昔の仲間に会えるなんて始めから期待はしてなかったし、「ジョイント」に自分みたいなおじさんが入れたこと自体奇跡だとも思っていた。年齢層が上がっていることまでは予想していなかったが。何と言うか、似て非なる世界が目の前に展開されていた。本当に二十年近く前、自分がこの街に出入りしていたのか、いまいちピンとこない部分があった。もしかしたら、あの時見ていたのは別の世界で、自分は今パラレルワールドにいるのかもしれないという気がしていた。
あまりに呆気ない街の再訪であった。それでも、雄吾はリュウには会いたいと思っていた。昔一緒に行った、名前も忘れたあの店で今も飲んでいるのだろうか。それとも…。また、ハナコこと花岡弘子のことも頭から離れなかった。もっとも彼女はレズビアンでもないので、この界隈にいるかどうかは怪しいが。弘子のことは、最後に連絡を取って以来、全く分からない。風の噂すら聞かない。雄吾も中学時代の同級生とは距離を置いていたが、弘子はそれ以上だろう。何せ、学校にすらほとんど来ていなかったのだから。弘子の旦那、木村さんは逮捕のあとどうなったのか、それから二人はどうしたのか…「家であの人の帰りを待つのが私の役目」と弘子は言っていたが、その役目を全うすることはできたのか。
そして何より、幸せなのか。
中学の時に数か月、そして街で三か月ほど。トータルで一年も一緒に行動したことのない相手であったが、なぜか雄吾は弘子のことが気になっていた。
それから何度か街に出てみたものの、リュウや弘子に会うことはなかった。「ジョイント」にも顔を出したが、変な男に声を掛けられるだけで、リュウはもちろん、他の仲間すら誰一人見かけることはなかった。
そうこうしているうちに、離婚が成立し、名実共に独り身となった。
街に出ても仕方がないと思った雄吾は、別のあることを思いついた。前妻は浮気相手―というより、「次の恋人」だが―とは出会い系アプリで知り合ったという。一般の男女の出会い系アプリがあるなら、男同士のアプリもあるはずだ、ということで検索してみると、すぐに引っかかった。その中からめぼしいものをいくつかスマホにインストールし、検索してみた。それらのアプリは、GPS機能を利用して、近くにいる同じアプリを起動している者が、近い順に百人前後まで画像付きで表示される。画像を貼っていない者も何人かいる。その中の一つのアプリを一人一人見ていくと、懐かしい顔がそこにあった。
(リュウだ…地元にいたんだ)
当たり前だが、当時より老けてはいたが、間違いなくリュウであった。名前も「リュウ」。メッセージを送るかどうか、数分迷った後、思い切って送ってみた。
(こんにちは。二十年くらい前に同じ店にいたハマですが、覚えていますか?)
こういうメッセージと自分の画像を送った。雄吾はアプリの方には画像を載せていなかった。すると、すぐに返事が返ってきて、
(え、嘘?マジで?久しぶり!変わってないね。今どうしてんの?)
リュウからの返事を見て、雄吾はなぜか胸が熱くなった。言われてみれば、雄吾にとっては唯一ともいえる、高校時代の「友達」であったのだ。高校の同級生とは、クラスメイトも部活の仲間も連絡は全く取っていない。
雄吾とリュウは、お互いの近況について遣り取りをした。リュウは現在、市役所に勤務しているという。十七歳で「身請け」された後、大学卒業まで面倒を見てもらい、卒業後に独り立ちし、晴れて自由の身になった。その後、何度か彼氏ができ、同棲までしたこともあったが、現在はその彼とも別れ、独り身らしい。そして、雄吾が名前を忘れていた、一緒に行った店、「FLY」は今も営業しており、リュウはたまに飲みに行っているとのことだった。雄吾も自分があの後部活に戻り、進学、就職、結婚、そして離婚というこれまでの経緯を伝えた。ただ、自分の出生の秘密については何も知らせなかった。あまりにもヘビーだし、チャットで言うことでもないと思ったからだ。
二人の遣り取りの中でリュウは、
(そういえば、ハマちゃんなんでこのアプリ知ってんの?離婚の原因はまさか…)
と聞いてきた。
(いや、そうじゃないんだけど…ただ、その手のアプリを適当に探してインストールしただけ。もしかしたらリュウに会えるかもしれないと思って)
と雄吾は返した。正直、雄吾は自分自身はゲイだとは思っていない。さほど女好きというわけではないが、やはり男に対して欲情することはなかったのだ。大学時代の水泳部でも、部員のあいつはそうだとか噂は流れたが、雄吾は特に何も感じなかったし、同級生や先輩後輩の鍛えられた裸を嫌というほど見てきたが、肉体としてのカッコよさは認めても、欲望の対象にはならなかった。
(またまた。そういうとこは変わってないね)
リュウはそうメッセージを送った後、さらに続けた。
(まあ、ゲイじゃなくてもいいから、今度会わない?久々に飲もうよ)
(いいよ。いつが暇?)
(今週はちょっと忙しいから、来週はどう?)
(来週か…木曜は?)
(了解。じゃ、来週の木曜に。場所は…また連絡する)
こうしてリュウと雄吾の再会が難なく決まった。一応念のため、携帯の番号と、チャットアプリのIDを交換し合った。
「リュウに…会える」
雄吾はつぶやいた。初恋でもなく、純粋な友情とも違う、淡い気持ち。もう二度と会うことはないと思いながらも、いつも心のどこかにいた存在。あの日々が、戻るのか。それとも一過性の出来事か。それでもいい。少しでも、「普通の」芝居を忘れられたら―
約束の日、雄吾は定時で会社を出た。




