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芝居が終わる時  作者: 井嶋一人
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中学三年生の濱口法子は、高校受験を数か月後に控え、受験勉強に勤しんでいた。十二月ともなれば追い込みの時である。もっとも、法子の成績からすれば、志望校の県立高校も、滑り止めの私立女子高も、おそらく問題なく合格できるだろう。しかし、ここで気を抜いたら落ちてしまうのではないかという不安に駆られ、休むことをしなかった。毎日学校が終わると塾の自習室に向かい、そこで塾が閉まる九時まで勉強を続けるのだった。

 だが、ここのところ体調がすぐれない。どこがどうすぐれないのかと言われればはっきりしないが、頭が痛い、めまいがする、食欲がない―そんな症状が微妙にする。

「疲れてるのかな…。勉強のしすぎかも」

この時期の受験生なんて、そんなもんだろう、と法子は体調の変化についてはさほど気にしていなかった。

 法子をここまで受験勉強に駆立てるのには理由があった。ボーイフレンドの長山丈雄の存在だ。丈雄は塾が一緒で、中学は同じ区内ではあるが別であった。というわけで、会えるのは塾だけだ。しかも、志望校が同じ県立高校であったので、合格すれば晴れて同じ学校に通えるということで熱心に勉強しているというところもあった。丈雄の方も成績は上々で、おそらく合格間違いなしと言われていたが、二人とも同じような心配を抱えていたこと、また会えるのが塾だけであることが理由で、自習室通いはやめなかった。

 

法子と丈雄が付き合うようになったのは、中三になってからだった。二人とも中一から同じ塾に通っており、存在は知っていたが、二人で話をしたこともほとんどなかった。同じ中学の生徒達と話すことの方がお互い多かったし、特に男子と女子は中学が違えばほとんど話すことはなかった。二人が話すようになったのは、中三になって自習室に通うようになってからだった。家で勉強できないわけではないが、違う所で勉強した方が気分が違う―そう思って法子は自習室に通うようになったが、丈雄の方はもっと前から自習室を利用していた。丈雄には弟がいて、隣の部屋に友達を呼んできては大騒ぎするのでなかなか勉強に集中できないという事情から、頻繁に利用していた。自習室を利用する生徒は意外に多くなく、二人だけという日もあったことから、徐々に話すようになった。もっとも、その前からお互い異性としての意識はしていたが、交際とかそういう風に考えたことはなかった。

六月になった頃には休日に二人で出かけるようにもなり、どちらから告白するでもなく、何となくお互い付き合ってるという意識になっていた。法子にとっても、ボーイフレンドが他校の生徒というのは都合がよかった。同じ学校で付き合うと、不良グループの女子に目をつけられ、いじめの対象になりかねない。特にそれがカッコいい男子や同じ不良グループの男子ならなおさらだ。さらに法子は成績優秀な優等生で、しかもそこそこの美少女であり、その割には気さくなところもあったので、男子からの人気も高く、不良グループ女子からは若干の嫉妬の目で見られていた。ただ、目立つようなことはしなかったので目をつけられていなかった。だが、もし校内で付き合ったりしたら、まさに不良グループの格好のターゲットになる。不良グループの場合、区内の他校との交流もあるようだが、不良グループの一員でなければ、基本的には他校の生徒ならノーマークだ。その点、丈雄は普通の中学生だったので、他校にまで存在が知れ渡っているわけではなく、二人の交際は至って平和に続いた。塾には法子と同じ中学や、丈雄と同じ中学の生徒もいたが、それぞれさらに大人しいグループの生徒だったので、二人の交際がバレることもなかった。いや、気づかれていたかもしれないが、それをとやかく言うような生徒がいなかったということか。それぞれの両親も二人の交際に気付いていたような節があったが、それで成績が下がるわけでもなかったので黙認していた。優等生の親といえば、非常に厳しいというイメージがあるが、実のところ子供をかなり信用している部分もあり、少なくとも法子と丈雄の両親について言えば、普通の生徒の親より寛大だった。

 とはいえ、思春期の男女である。性的なことに対する興味は人並にあった。七月に花火大会に一緒に行った時には、ロマンティックな雰囲気に呑まれ、勢いでキスをしてしまっていた。そして、秋に丈雄の家族がいない時に、法子が家に遊びに行った時には、ついに一線を越えてしまった。もちろん、そんなことがあったのは一度きりで、その後はお互い理性で抑え、高校進学まで二度目は待とうということで、今は落ち着いているが。

 

ある朝、強烈なめまいを覚え、とても立っていられなかった法子は、学校を休んだ。しばらくするとめまいが治まったので、子供の頃からかかりつけの町医者で診察を受けた。そこは高村先生という、丁寧で親切な女医のところで、彼女には法子も気兼ねなく相談できた。いつものように世間話をしながら診察をしていると、ふと高村の表情が険しくなった。そして、「うちではこれ以上診察できない。友人の病院を紹介するから、そこに行きなさい」と高村が言い、何か悪い病気なのか、と法子が聞くと、高村は「そういうんじゃないけど…」と、奥歯に物が挟まったような言い方をしたので、それ以上は追究せず、どうせ一日休むことにしたし、その病院もここからそれほど遠くもないからと、指定された病院に行くことにした。

その病院に着いて看板を見て、法子は驚きのあまり言葉を失った。「堤産婦人科」と書いてあったからだ。高村が何も言わなかったし、メモにも「堤医院」としか書いていなかったので、てっきり普通の内科か何かと思っていたのだ。

「これ…どういうこと…?」

どういうことも何もない。法子は妊娠の疑いがあるということだ。

「まさか…あの一回で?」

あとにも先にも、丈雄と一線を越えたのは一回きりだ。一回だけならいいだろう、ということで、迂闊にも避妊をしていなかった。もともと一線を越えるつもりもなかったし、勢いでの出来事だったので、何の準備もしていなかった。しかし、たとえ一回きりでも妊娠してしまうことはある。頭では分かっていても、それを受け入れるには少し時間が必要だった。そういえば、生理が来ていない。法子は生理に関してはアバウトで、始まった頃は母親に言われて、生理が来た日は日記に付けていたが、中学になってからはちゃんと付けていなかった。特に中三になってからは、受験勉強を言い訳に、ほとんど気にもかけていなかったので、遅れていることに気が付いていなかったのだ。それにまさか自分が妊娠するなど、夢にも思っていなかった。いや、まだそうと決まったわけではない。しかし、法子は間違いないだろうと心の中では思っていた。

 

腹を括って医院の門を叩き、検査を受けてみたところ、その予感は的中した。法子はもっと動揺するかと思っていたが、意外にも冷静であった。

「中学生で妊娠っていうケースもなくはないのよ。まあ、産むか堕ろすかって言ったら、だいたい堕ろすけど」

堤というその女医が、あまりに淡々というので、法子は戸惑った。が、そのおかげで法子も動揺せずにいられたという部分は否めない。あるいは、堤はあえてこういう態度で接しているのだろうかとも思った。

「堕ろすとなると…どうすれば…」

法子も堤の口調に合わせ、淡々と聞くしかなかった。動揺していたら、それこそもっと冷たく言われそうな気がしたからだ。

「そうね。手術の予約をしてもらうわ。それと、相手の男性の同意書も必要だけど、まあそれは形だけだから」

 形だけ、ということは別に本物でなくてもいい、つまり法子が丈雄の名前を使って書いてもいいということか。医者としては、さすがにそこまでは言えないから、遠回しにそう言ったのだろう。

 

堤に礼を述べ、法子は医院を後にした。産むか堕ろすか―それはもう、堕ろすしかないのは明白だ。しかし、費用はどうするのか。自分の貯金だけでは賄えない。漫画などでは、クラスの皆にカンパしてもらうとかそういうのがあるが、法子自身はまだそういう光景を見たことがない。しかも、優等生の法子がカンパなんてことになったら、それこそ不良グループの恰好のターゲットになる。それは避けなければいけない。となると、やはり親に話すしかない。あと、丈雄―彼はこの事実を受け止められるだろうか。丈雄には知らせずに堕ろすこともできる。しかし、もし親に言ったら、当然「父親は誰だ」という話になるであろう。その時に隠し通せるかどうか―法子には自信がなかった。

 しかし、妊娠とは、こんなにあっさり来るものなのか。ドラマやなんかでは、「ウッ」と吐き気を催し、妊娠に気づくという展開が多いせいか、てっきりそれが必ず起こるものと法子は思っていた。だが法子の場合は、多少の体調不良はあったが、つわりは一切なく、妊娠などとは露程も考えなかった。

 

いずれにしろ、言うなら早い方がいい。とは思ったものの、さすがにその日の夜には何も言えなかった。その次の日も、その次の日も顔色を窺っただけで何も言えずじまい。どうしても口では言いにくいと思い、堤産婦人科に再び足を運び、診断書を書いてもらって、それを突き付けることにした。

 こうして四日目にようやく法子は両親に妊娠の事実を告げることに成功した。夕食の時、診断書を食卓の上にバンと叩くように出した。内心迷いはあったが、それを見せてはいけないと思いつつ、両親の反応を待った。父親は何事だと怒鳴り付け、場合によっては手が出る、母親はその場に泣き崩れる―法子はそんな場面を想像していた。しかし、実際には両親は最初こそ驚きの表情を見せたが、取り乱すこともなく、しばらく黙りこんだ後、静かに父親が法子に聞いた。

「どうするんだ」

「堕ろす…しかないよね」

「ま、そうだな」

何だこの淡々としたやり取りは。法子は、自分が冷静なのは親譲りかもしれないと思った。次に母が言う。

「相手の男の子は…あの、前に言ってた同じ塾の…」

「まあ、そう」

母親には、丈雄の存在を話したことがあった。父親も母親から聞いていたのだろう。そこで動揺せずにこう言った。

「優秀な子らしいな」

「うん、同じ高校を受験するつもりだし」

何だかよく分からないやり取りが続いたが、父親が結論を出すかのように言った。

「とにかく、堕ろすには金が要るよな。それを出せばいいんだろう」

「そうだね」

法子は、そんな簡単に言われても…と思ったが、事実、そうするしかない。とにかく、意外とすんなりことが運んで、少しホッとした矢先、その安心をぶち壊すような言葉が父の口から出た。

「今すぐ電話しなさい」

「へ?」

「その男の子のところに行くから、今から電話しなさい」

出た。やはり、ただで済むはずがなかった。さらに母が追い打ちをかける。

「そうよ。こんな大事なこと、うちだけじゃ決められないでしょう」

「で、でも、もう夜だし…」

「構わんよ。緊急事態だ。でないと、金は出さん」

父親にそう言われると、法子も断れなかった。


 丈雄の両親は、幸か不幸か二人とも自宅にいて、法子の両親と話すことになった。結局、丈雄の両親が、夜に家に来られるのは困るということで、丈雄の両親と丈雄が法子の家に来ることになった。

 

電話の後、一時間ほどして丈雄と丈雄の両親が法子の家にやってきた。法子は丈雄の両親には会ったことはない。が、丈雄から話は聞いていた。確か父親は県庁に勤める公務員だったはずだ。法子が彼らに抱いた第一印象は、真面目そうな、悪く言えば堅物そうな典型的な亭主関白の夫と、貞淑でおとなしい、どこにでもいるようなごく普通の主婦という雰囲気の妻、という感じであった。丈雄の両親は、法子の存在自体は知らなかったが、丈雄にガールフレンドがいるということは何となく気づいていた。しかし、相手の両親が、いきなり直接会って話がしたいとは穏やかではない。おそらくよくないことなのだろうというのは察しがついていたのか、二人ともさっきから気持ちが張りつめているのがよく分かるような様子であった。

 親同士は簡単に挨拶を済ませると、丈雄の父親が恐る恐る、しかしそれを悟られないように気を遣いながら聞く。

「で、ご用件というのは…」

すると、法子の父親が黙って診断書を差し出した。それを見たとたん、丈雄の両親の顔から血の気が引くのが分かった。

「まさか、うちの丈雄が…」

丈雄の母親が、どうか間違いでありますように、と言わんばかりに聞く。

「そのようですね」

淡々と答える法子の父。その言葉を耳にするや否や、丈雄の母親はその場に泣き崩れ、父親は「馬鹿野郎!」と怒鳴りながら丈雄を殴った。そして、二人は土下座しながら「すみません、すみません」をひたすら繰り返していた。これが普通の反応だろうか、と法子は思ったが、あまりにベタな反応に、法子も、法子の両親もやや引き気味であった。

「お父さん、お母さん。顔を上げてください。息子さん一人の責任でもないですし」

「そうですよ。一応二人は真面目に交際していたようですし、今回のこともアクシデントみたいなもので…」

法子の両親が、フォローになっているのかなっていないのかよく分からないフォローをしている一方で、丈雄の両親は「そう言われましても」と尚も跪いたままだった。

「ま、とにかくお座りください。このままでは話し合いになりませんから」

一応法子の父親が気を遣いつつ、二人を立たせようとした。それでようやく二人はソファーに掛けることができた。

 そこで法子の両親は、今回については中絶の手術をするということ、またその費用は法子の両親がひとまず建て替えるが、後で折半にしたい、ということを告げた。承知しました、と丈雄の両親はただうなずいていた。そしてこのことはここだけの話で、口外しないことを互いに約束した。丈雄はただ下を向いて黙っているだけであった。今回のことで一番ショックを受けているのは丈雄かもしれない、と法子は思った。とはいうものの、表面上は大事にならずに済んでよかったと、法子がホッと一息ついた瞬間、法子達を奈落の底に突き落とすような言葉が、法子の父親の口から出た。

「あと、宅の息子さんと法子とは今後一切の交際を認めないことにします」

「そんな…」

法子は思わず言った。しかし、法子の父親はそれに構う様子もなく続けた。

「こんなことになった以上、二人を会わせるわけにはいきません」

もっともです、と丈雄の両親はあっさり認め、さらに申し訳ありません、と繰り返すばかりだった。丈雄はというと、ずっとうつむいたままで、何も言わない。何とか言ってよ、と法子は思ったが、この状況では何も言えまい。愛がすべてを乗り越える、というのが神話でしかないことに、法子も気付いていたのだ。中学生にしては夢がない発想なのは法子自身分かっていたが、そういう冷めた部分が法子にはあり、そのため、同級生達が熱中していた少女マンガや青春ドラマの類いにもあまり興味を示さなかった。法子が丈雄と一線を越えることに抵抗がなかったのも、その行為そのものに何の夢も幻想も抱いていなかったからというのは否めない。

 

丈雄とその両親は、話が終わると逃げるように帰って行った。よほど決まりが悪かったのだろう。そして、丈雄との交際を禁じられた法子は、納得はいかなかったが、こういう状況では反論のしようがない。そのまま黙って部屋に帰るしかなかった。

 

その後、法子は中絶手術の予約を入れ、医院に行ったものの、手術を受けることができなかった。丈雄と二度と会うことが許されなくなった今、丈雄と自分を繋ぐものがこの子供しかない、そう思うと、とても手術を受けられなかったのだ。

 その話を聞いた法子の父親は激怒し、法子に平手打ちをした。さすがにこの時ばかりは怒りを抑えられなかったようだ。

「どうするんだ?お前、まさか産む気か?」

「わかんないよ…私だってどうしたらいいか…まがりなりにも命だよ」

法子はそう言ったが、もちろん命の尊さを感じていたのは本当だが、やはり丈雄との絆を失いたくなかったという気持ちの方が大きかった。父親も母親もそこまでは気づいていない。

 それから数時間に渡り、法子と両親は話し合い、ある結論に至った。

「…それでいいな、法子」

「…うん」

 

翌日、法子の両親は再び丈雄と丈雄の両親を家に呼んだ。丈雄の両親は、まだ何か、ともうこのことは蒸し返したくないという様子であった。そこで法子の父親は、法子が中絶できなかったということを告げた。すると丈雄の両親はまた青ざめ、話が違う、丈雄達に育てさせろというのか、と怒ったように言ったので、法子の父は、法子との話し合いの結果を、丈雄の両親に告げた。

「子供は養子にして、私達夫婦の子として育てます。学校には体調不良ということで、三学期は休ませます。卒業はもうできるでしょうから、卒業後にどこか遠くの町に住まわせ、そこで出産させます。もちろん妻も同行させ、表向きは妻の妊娠ということにします。そして一年後にどこか私立の全寮制の高校に入れます。御宅には迷惑をかけるつもりはありません」

 それを聞いて、自分達に火の粉が飛ばないと分かるや、丈雄の両親はやや安堵したような声で、そちらがそうおっしゃるなら、とあっさり認めた。どうもこの両親は、面倒なことに巻き込まれるのが嫌なようだ。法子も法子の両親も、彼らの態度に辟易したが、まあこんなもんだろうという諦めもあった。とにかく、そうと決めた以上は、これから色々調べることがある。戸籍のことや、法子の転居先、また学校などについてだ。

 

その二日後、丈雄がある老紳士と一緒に法子の家を訪ねてきた。老紳士は丈雄の母方の祖父だという。丈雄の母の父親ということになるが、丈雄や丈雄の母から法子の妊娠の話を聞き、法子の家にばかり負担を掛けるのは忍びない、うちの方でもぜひ協力させてほしいと言ってきた。法子の両親はその申し出に戸惑ったが、取り敢えず話を聞くことにした。なんでもその老紳士は東京の方に色々コネがあるらしく、彼の所有するマンションを法子に無償で提供するから、そこに住めばいい、また病院もいいところを紹介するから大丈夫だ、と。加えて、ある女子高に顔が利くので、そこに入学すればいい、法子の成績なら普通に試験を受けても入れるはずだから問題ない、と。さらに、戸籍の方も区役所に掛け合って、養子ではなく普通に法子の両親の子として記載されるようにしてあげるという。何とも至れり尽くせりの申し出ではあるが、そう易々と信用していいものか、法子の両親は不安だった。ただ、一応丈雄本人が同行しているので、祖父というのは本当なのだろう。しかし、なぜこんなに色んな所に顔が利くのか。何かヤバい筋の人間なのだろうか…そういう不安は拭えなかった。しばらく考えさせてください、と法子の両親は老紳士に告げた。いつでも連絡ください、という言葉を残し、老紳士と丈雄は法子の家を出た。 

 彼らが出た後、法子の両親はあることに気が付いた。

「あの爺さん、どこかで見たことがあるような…お前もそう思わないか?」

父親が母親に聞く。

「私も、何か見覚えがあるのよね…」

母親も同じ感想を抱いていた。法子の両親は、その老紳士を完全に信用したわけではないが、確かに話そのものは悪くない。そこで、法子の父親が老紳士と共に上京し、マンションから病院、高校まで全て案内してもらうことにした。

 

上京して、まず初めにマンションを訪れた。都内の一等地にある、3LDK。法子一人ではちょっと広すぎるが、取り敢えずマンションの話は本当のようだ。老紳士もそれは感じていたようで、「ここに法子さん一人は広すぎるし、高校から一人暮らしというのも体裁が悪い。なので、使用人を同居させ、親戚の家ということにしてはどうか」と提案した。はあ、そうですね。と父親はあいまいな返事をした。まだ信用できるかどうか分からなかったのだ。マンションを出る時、父親がふと郵便受けの名前を見ると「増田」とある。ああそうか、母方だから名字が違うのか、と納得したその瞬間、あることを思い出した。

(増田って…もしかして、うちの地区から出ている国会議員の増田俊雄?確かもう息子に跡を継がせたはずだが…そうか、だから顔に見覚えがあったんだ)

地元の議員―正確にはその頃には既に引退して、息子に地盤を引き継がせていたので「元」だが―で、法子の両親も何度か投票しているにもかかわらず、初めて会った時には気付かなかった。まあ、政治家とはいえ、顔自体は平凡な顔だし、数年に一回、ポスターで顔を見る程度なので、気付かないのも無理もないが。それにまさか、そんな人物を祖父に持つ男と娘が交際しているとは、夢にも思っていなかった。法子もこの事実については知らなかった。

(それで色々と顔が利くというわけか)

でも、そうなると、この話は間違いなく信用できる。しかし、法子の父はそれに気付いたことは一切言わず、態度も変えなかった。それで手のひらを返したと思われるのはあまりに安っぽすぎる。やはりここでも平静を保っていた。

 それから病院、高校と案内され、「増田先生」と呼ばれていたことから、法子の父親の確信は裏付けが取れた。間違いない。しかしあくまで知らぬ存ぜぬというようなふりを見せていた。

「どうですかな」

老紳士、つまり増田俊雄先生が聞くと、法子の父は、悪くないですね、と素っ気無く答えた。国会議員と分かるや、態度を変える連中が多い中、法子の父のそうしたところが俊雄も気に入ったようで、

「何とか協力させてもらえませんかな。産まれた後はそちらに全て任せますから」

と強く推してきた。ここまで言われると、法子の父もさすがに断るのも申し訳ない気がしてきて、まあ、断る理由もないですし、と俊雄の申し出を受けることにした。


 法子は三学期は休むつもりであったが、体調の許す限り出席することにした。幸い、多少体調の悪い日があったが、つわりもなく、お腹の変化も目立たなかったので、クラスメイトに気付かれずに済んでいた。しかし、一応高校受験断念の名目が「体調不良」であるため、高校受験の前には登校を辞めておいた方がいいということで、結局二月初め以降、学校に行かなくなった。その後母親と共に東京に移り、翌年八月に無事男の子を出産、それが雄吾であった。母親は俊雄に無事に出産が済んだことを報告すると、俊雄は出生届を書かせて、自分の所に送らせた。あとは私に任せなさい、という俊雄の言葉を信じて待つしかなかったが、しばらく経って送られてきた戸籍謄本には、産まれた子「雄吾」は法子の弟で、法子の両親の実子となっていた。その後雄吾を連れて法子の母親が地元に戻り、法子はさらにその翌年から東京の女子高に通い始めた。高校卒業後は付属の女子大に進学した。家に遊びに来るようなクラスメイトもいたが、「伯母と同居」といえば、それ以上突っ込まれることもなかった。ただ、男性に縁がなかったが、それは言うまでもなく、丈雄への気持ちが断ち切れなかったせいだ。


法子は休みのたびに実家に帰り、雄吾の世話をしていたが、成長して言葉ができるようになっても、法子のことを「ママ」とは呼んでくれない。「お姉ちゃん」でしかない。どことなく丈雄を思わせるその顔を見るたびに切なくなった。二人は結局、会うことは許されなかったのだった。

「丈雄君、どうしてるのかなあ…」

 

男性に縁がなかったこと以外は、ごく普通の女子高生、女子大生としての生活を送っていた法子に比べると、丈雄の方が状況は厳しかった。本来第一志望だった県立高校は、共学ということで受験すらさせてもらえず、全寮制の男子校に進学させられた。丈雄の両親にとっては、やはりあの事件はトラウマで、なるべく女の子を近付けないようにという配慮のせいだ。大学はさすがに「男子大」というのはないので、地元の国立大に進学したが、女子との付き合いは両親に厳しく規制されていた。「就職するまでの辛抱だ」と両親には言われていたが、丈雄も自分は法子にとんでもないことをしてしまったという意識が強く、とても女性と付き合う気になどなれなかった。

 

そんな折、高校時代の同級生から、割のいいバイトがあるから、と紹介されたのが、「売り専バー」であった。ゲイの男性相手に体を売る、雄吾も勤めていたような店だ。その高校の同級生はゲイで、丈雄が全く女性に興味を示さないことから、丈雄のことをずっとゲイだと思っており、その仕事を紹介したのだ。丈雄はショックを受けたが、これも報いの一つ、自分はもう女性とは付き合えないと諦めていたことから、その店で働くようになった。

 

ある日、出張で派遣されたのが、何と叔父である弘彦の所であった。弘彦も驚いた。写真を見ずに、希望のタイプだけを店に告げたところ、自分の甥が来たのだから。丈雄もまた驚いた。自分の叔父にそんな性癖があったとは。しかも叔父には妻も子供もいるのに。

「まあ、両刀使いってやつだな。政界には結構いるよ。昔の武士の衆道の名残かな」

そういえば織田信長やなんかも、美少年と関係を持っていたらしいというのは丈雄も何かで聞いたことがあった。そう考えると、別におかしいことではないのかもしれない。

「で、お前はどうなんだ?仲間か?」

弘彦が聞くと、丈雄はそれまで抑えていたものが一気にこみ上げ、涙があふれてきた。法子を妊娠させたことを今も重くとらえており、女性を愛せなくなっていること、また、法子に会うことを許されていないが、彼女への気持ちが今も断てないことを弘彦に話した。

弘彦は、父親名義のマンションに法子という若い女性が住んでいることは知っていた。弘彦自身がそのマンションを使おうとしたところ、そういう女性がいるから気を付けろ、と父親に釘を刺されたからだ。だが、「お世話になった方の娘さん」と聞いているだけで、詳しい事情は知らなかった。それが今、丈雄からの話で全てを知ることとなった。

 

丈雄を不憫に思った弘彦は、法子と丈雄をもう一度会わせようと考えた。しかし、もし法子の方に別の人がいたり、丈雄への気持ちがなければどうしようもない。法子の居場所や連絡先は分かっていたので、法子に連絡を取り、その辺を確認した。法子もまた男性に縁がなく、それは丈雄の存在が原因であるということが分かったので、法子を地元に連れ出し、ホテルで逢引させた。六年振りだ。二十一歳になっていた。二人は互いの顔を見ると、一瞬固まった。すぐに言葉は出ず、長い沈黙があった。

最初に話したのは、丈雄の方だった。

「久し…振り」

そういうのが精一杯であった。法子も「うん」としか答えられない。またしばらく沈黙の後、今度は法子が聞く。

「元気…だった?」

どう答えるべきだろう。丈雄は確かに病気ひとつしていないが、この六年間は正直死んだようだった。そう考えると決して「元気」ではなかった。

「そうでもない…この六年、ずっと、君を…」

「…私も」

こうしてお互いの気持ちが変わらないことを確認した。だが、今すぐ復縁は難しい。そこで、丈雄の両親がおそらく丈雄を解放してくれるであろう、「就職まで」待つことになった。法子は一年遅れているので、法子の就職はさらにその一年後になる。その時にお互いの気持ちが変わっていなければまた付き合おう、ということでその場は落ち着いた。

 そして法子は、二人の子供である雄吾の写真を丈雄に見せた。二人が引き裂かれるきっかけになった子供だ。丈雄にとっては触れられたくない過去かもしれない。だが、これから復縁するとなれば、この話題は避けて通れない。法子の不安を拭い去るかのように、丈雄は写真を見るなり笑顔になった。

「この子が僕らの子…。大きくなったなあ」

「雄吾っていうの。父さんも母さんもしっかり育ててくれてる。来年小学校だよ」

「…早いよな…」

丈雄の笑顔を見て法子も安心し、これなら大丈夫、と確信した。あと二年。待てるだろう。

 

その後、丈雄は地元で就職し、後を追うように法子も一年後、地元に戻って就職した。就職後は法子は実家には住まず、一人でマンションを借りた。丈雄の両親も、やっと丈雄を解放し、家を出ることを許した。だが、二人がまた付き合い始めたことは、どちらも両親には話せずにいた。


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