The Age of Seventh 幕間の追憶、ユウシャノシシツ。
the other side, Mig's...
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久々に『あの夢』を見た。
眠る前、八年振りに大泣きしてしまったからだろうか?
久しぶりに、『しゅーくん』なんて昔の呼び方をしてしまったからだろうか?
ファルマの東にあるシェルムの片田舎、私とシュリト様が生まれ育った村で、私がもう泣かないと決めた時の夢。
結局また泣いちゃったけれど、人生で一番怖ろしかったあの時の夢を見た。
シュリト様はいつも森まで遊びに出かけられていた。
私達の村の子供達は、私達より五つくらい上か下にしか居なかった。
同世代といえば私とシュリト様、その二人だけだ。
まだ性差がはっきりと出ない幼少の頃は、毎日シュリト様と遊びたくて仕方なかったっけ。
けれどシュリト様は、五つ年上の男の子達と森の方に出かけられてしまう。
一緒に行けないのが悔しくて、いつもシュリト様の後を追いかけていたのを覚えている。
「しゅーくん、まってー!」
思えば、あの頃は一日に何度この言葉を言っただろう。
「あぶないからミグちゃんは来ないほうがいいよ」
シュリト様はそう言って私の頭を撫でた後、いつも手を繋いで村まで連れ帰ってくださった。
その後は私と遊んでくださるから、毎日シュリト様を見失うまいと必死に追い掛けたものだ。
五つの時、頼み込んで森まで一緒に連れて行っていただいたことがある。
その頃の私は何一つ学びもせず、ただの一つの力も身に付けずシュリト様に甘えていた。
転びそうになった私を庇い、シュリト様は怪我をされた。
枝木が裂いたのだろう、左の二の腕に走る細長い裂傷だった。
幸いそれほど大した怪我ではなかったけれど、それまで私が見てきた中で一番多くの血が出ていて大怪我に見えた。
初めて後悔というものを知った。
シュリト様が死んでしまったらどうしよう、シュリト様に嫌われてしまったらどうしよう。
そればかりが頭を埋め尽くし、泣きながらごめんなさいと繰り返し続けた。
多分、今の私が見れば叱咤するだろう。
謝る前に手当てをしなさい、嫌われたくないのなら治療術を学びなさい、と。
そんな私を尻目に、シュリト様はご自分で怪我の手当てをされた。
服の裾を破り、片手で器用に傷の上から巻きつけたのだ。
それなりに血が出ていて痛かったと思う、まだ五つだというのに泣き出しもせずに手当てを済ませた。
その後私の頭を撫でながら、
「だいじょうぶだよ。でもいちどむらにもどろう」
とおっしゃった。
幼い頃から本当はご立派な方なのだ。
簡単な手当ての後、シュリト様はまだぐずる私を連れて村の治療院に向かった。
治療院のお姉さんはシュリト様の腕に巻かれた布を手早く解いて驚いていた。
「小さいのに我慢できて偉いね」
とシュリト様の頭を撫でて、すぐに治療術を発動させる。
初めて目にする治療術に、私は息を呑んで見入っていた。
シュリト様の左腕、傷の周辺を覆う白い光。
徐々に弱くなる光の中から、痕一つ残さない腕が現れる。
「もう痛くない?」
「おねえさん、ありがとう。これくらいならだいじょうぶ」
シュリト様はそう返すと、にへへ、と笑った。
治療院に入ってから、お姉さんの目を盗んでは胸元に目をやっていたことをはっきりと覚えている。
幼い頃から本当にませた方なのだ。
……今の私が手当てをすれば、同じように胸元を凝視なさるだろうか? 今度シュリト様が怪我をされた時には試してみるか……?
兎に角、治療術を初めて見た私は、お姉さんに頼み込んで治療術を教えてもらうことにした。
結果的にそれがシュリト様のお命を繋ぎとめることになるのだ。
減点はいくつもあるものの、その点に限っては褒めてやってもいいだろうと思う。
日々森に出かけられるシュリト様、それを追う私。
そして徐々に広くなる行動範囲。
その足は、大人達に散々入ってはいけないと言われ続けた山の裾まで伸びていた。
年上の男の子達は、どんどん広がっていく未知の世界に心を奪われていた。
先頭を進むのは常にシュリト様だったように思う。
この頃になると、私が追っても見失ってしまうことが多いくらいに男の子達の足は速くなっていた。
その日も、私はシュリト様を見失った。
いつもなら、目に付いた薬草を摘みながら村まで戻る。
シュリト様もそれを知っていたようだったし、置いていくことにそれほど心配はしていなかったのだろう。
けれど、なぜか私はその日に限って後を追ってみようと思ってしまったのだ。
始めのうちは良かった。
何度も入ったことがある場所だったし、踏み均されて露出する土に男の子達の足跡が残っていたのだから。
それを追っていく内に、森はどんどん深くなる。
子供が来るような村に近い場所から、大人しか来ないような場所、そして、大人すら分け入らない奥地。
ふと、足跡がなくなる。
近くにないかと少し辺りを探しても、新しい足跡は見つからなかった。
仕方なくもと来た道を戻ろうとして、足跡を見失ったことに気付く。
途端に、心細くなった。
風が撫でる木々のざわめきが、聞いた事もない鳥や獣の鳴き声が、意味もなく不安を助長する。
「しゅーくん!」
不安を掻き消すように、シュリト様の名前を呼んだ。
帰ってくるのは、不規則な音と、合間の静寂だけだった。
「しゅーくん!!」
今度は力の限り叫ぶ。
結果は同じだった。
幼い頃の私の小さな胸が不安で一杯になる。
地面は緩やかな斜面になっていた。
きっとこれの下に向かえば村に出られるはずだと自分に言い聞かせて走った。
そして、これがいけなかった。
森の中で大声を出すということは、捕食者に不用意に場所を知らせることに他ならない。
この時、きっと私の運命は死に向けて転がり始めていたのだろう。
走る、走る、走る。
これまで走ったこともないくらいに速く、遠くまで。
不安に押しつぶされそうになりながら、不安から逃れたい一心で。
ずっと遠くまで意識を伸ばしていた私は足もとに飛び出た木の根に気付かず、躓く。
不意に後ろから音がした。
「しゅーくん?」
息を切らしながら僅かな安堵を覚えて振り向いた先に居たのは、
子供の無知という魔物が形になったような、四つの目の黒く大きい狼だった。
それから私がどうしたのかは、あまり覚えていない。
狼を見たのは陽が傾き始めてしばらく経った頃だったと思う。
次に記憶が繋がるのは陽に赤みが混ざりだした頃。
その間、私は必死で走ったことは覚えている。
多分シュリト様の名前を何度も口にしながら、それ以外のことも喚きながら。
幼児の足で四足の魔物から逃げられるはずはなく、アレはその間ずっと後ろから私を眺めて走っていたのだろう。
四つの赤い目に嗜虐を滾らせて。
意識は、また転んだ所で繋がる。
その時は足を何かに引っ掛けた、という訳ではなかった。
単純に、後がなくなったのだ。
体力が底を尽き、足を縺れさせて倒れた。
そして後ろから聞こえる足音。
足音を消すこともできただろうに、わざとらしく音を立てながらゆっくりと魔物の狼は私に近付いてきた。
一歩、また一歩と近付く死の気配に、私は震え上がった。
歯から零れるかたかたという音。
鼻から口から漏れては入る空気は声にならない声を上げ、浅い呼吸を何度も繰り返す。
目を見開き、滂沱と頬を伝う涙を感じた。
狼がその口を大きく開き、屈む。
ゆっくりと見える跳躍。
無限にも思えるほど鈍化した刹那の内に、あの牙が私を殺すのだと理解した。
「ミグちゃん!」
横から、私と獣の間に飛び込む影が見えた。
「しゅー、くん?」
ほんの僅かな交差の最中、空に描かれた弧が獣の前足を一つ切り落とす。
長い剣を両手で持ち、体当たりで獣の跳躍を逸らしたシュリト様が立っていた。
空を舞う獣の足が地に落ちた時、流れを取り戻した時間の中で私は私が発した声を耳にした。
物語の勇者のように勇敢に、人を守った英雄のように悠然と立つシュリト様を見た。
その手に握られるのは、シュリト様のお父様が遺した剣。
過去に一度、この時に一度、それから何度も目にすることになるシュリト様の愛剣だった。
私を背に、シュリト様は狼と対峙する。
右足を前に、重心を僅かに落とした正眼の構え。
そこから切先をゆっくりと降ろし下段に構えた時、狼が再び跳躍した。
再び時間が失速する。
先ほどより速く鋭い狼の跳躍、それより素早く下段から振り上げられるシュリト様の剣の軌道。
その軌道の上に、狼の首が入り、寸分違わず切り飛ばした。
一方でシュリト様の胸に吸い込まれる狼の前足は、その胸を深く深く切り裂いた。
私は声にならない絶叫を上げる。
自分の死に感じた恐怖よりも色濃く胸を塗りつぶす恐怖を感じた。
首を失くした狼の体が私の遥か後ろに落ちる音がする。
振り返ったシュリト様の胸に走る裂傷は赤々と血を流している。
私は自分を強く呪った。
なぜ今日に限って森の奥までシュリト様を追おうとしたのか。
なぜ魔物に見つかった場所で死ななかったのか。
なぜシュリト様の怪我をすぐにでも治そうとしていないのか。
なぜ……。
「ミグちゃん、よかっ、たぁ」
一歩、私に歩み寄ろうとしたシュリト様はその身を傾ける。
私の体は思うより先に駆け出し、その体を抱きとめる。
意識なく脂汗を流すシュリト様の体を抱き、可能な限りの治療術を試みる。
呼吸はなく、鼓動も聞こえない。
足りない、もっと強く。
足りない、もっと速く。
出血が止まった。
足りない、もっと深く。
足りない、もっと優しく。
シュリト様の顔色は戻らない。
頭の中で何かが囁く。
分からない、もっと温かく。
胸の内から魔力を搾り出す。
何か違う、もっと甘く。
シュリト様の、心臓が鳴った。
そう、心臓だ。
魔力を練る時にイメージする胸の中で高まる力。
心臓から心臓に直接に治療術を流し込んではどうだろうか?
シュリト様と胸を合わせるように抱きなおし、治療術を再開する。
これだ、もっと親しく。
シュリト様の胸の傷が塞がっていくのを感じる。
でも、足りない、もっと柔らかく。
まだ足りない、もっと愛おしく。
シュリト様の息が、私の頬を撫でた。
浅いが、穏やかな寝息が聞こえて体の力が抜ける。
シュリト様の体がずり落ちる。
ほとんど言うことを聞かない体で無理矢理に抱きとめた。
今度は離さないように、シュリト様を抱いたまま腰を下ろした。
治療術を続ける。
どれだけ経っただろう。
そろそろ日が落ちようという頃、シュリト様が目を覚ました。
「っ! ミグちゃん!」
「しゅーくん!」
それから大人達が私達を探し出すまでの間、『ありがとう』とシュリト様に抱きついて泣きながら連呼した。
シュリト様はその間、笑顔で『よかった』としきりに呟いていた。
その後子供達は森に入ることを禁止され、親の同行なしでは村から出ることすら難しくなった。
シュリト様は剣術の訓練を本格的に始められて、合間に魔術の勉強も始められた。
私も治療術を更に磨き、自衛のための格闘術の訓練と、シュリト様との時間を確保するために魔術の勉強を始めた。
それから三年後、女性にして侯爵の爵位を頂いたシェルム・トレラ・ノーグレイス女侯からシュリト様は勇者に推挙された。
その際、シュリト様を痛く気に入ったシェルム女侯からシェルムとノーグレイスの名を与えられている。
シェルム女侯は現在二十歳にして未婚、まさかシュリト様を狙ってご自身の名を与えたのだろうか?
それはともかく。
確かな死の運命から救ってくださったシュリト様に、少しは恩返しができているだろうか?
今日は困らせてしまったけれど、お一人で旅立たれては間違いなく道半ばで死んでしまうことになるだろう。
それだけは避けたい。
私はまだ、私の勇者様に恩を返しきってはいないのだから。
"Brave" dreams of "Dear".
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久々にミグが泣いているのを見た、その後の夢の中ででもだ。
『しゅーくん』『しゅーくん』なんて連呼するから昔を思い出したんだろうか?
いや、シチュエーションが似てるなーなんて思ってたからか?
思い出す故郷の景色を考えれば、随分都会に出てきたものだと思う。しかし今更こんな夢見るなんてな。
真面目に剣に打ち込むきっかけになった、人生で一番の恐怖を感じた時の夢なんてのを。
あの頃は年上の男連中とつるんで森に入るのが流行ってたっけ。
まあ、娯楽なんてない村だったしな。
あとは、同年代の子供がミグしか居なかったってのもデカいか。
やっぱ体動かして遊びてえもん、子供の頃はさ。
下にはよちよち歩きする子供しか居なかったし、体動かすには上についていくのが手っ取り早かったからなぁ。
ミグはいつも俺を追いかけて来てたな。
「しゅーくん、まってー!」
って。あの言葉を聞かなかった日はなかったように思う。
「あぶないからミグちゃんは来ないほうがいいよ」
なんて言いながら頭撫でて家まで連れ帰ったっけ。
一人で森に入る、なんて無茶するのはなんとなくやばいと思ってたし、その後はいつもミグと遊んだ。
ただ、なんでか煩わしいと思ったことはないんだよな。
妹ができたみたいだなーとか思って可愛がってたように思う。
五歳の時だっけ。
「しゅーくん、つれてってー!」
って今日みたいなこと言い出して、仕方なくミグを近くの森まで連れて行ったことがある。
俺の服の袖掴んでとことこついて来るミグって今じゃちょっと想像できねえよな。
で、ミグが転びそうになった時に抱きとめようとして一緒に転んだんだったか。
格好つかないなと思いながら顔真っ赤にしてさ。
なんとか俺が下側になったからミグに怪我はなかったけど、俺は左腕が結構ぱっくり裂けちまったんだ。
あの時は痛いより恥ずかしい方が強かったのを覚えてる。
それよりもミグがずっと『ごめんなさい』って泣いてた方が印象に強かったな、こっちも当然覚えてる。
ばつが悪いのと照れ隠しで服破って適当に腕に巻いたな。
どうせ腕のところ破れてるから雑巾か何かにすることになるだろうし。
ちょっと強めに巻いて痛みを誤魔化した。
ミグはどこか怪我してないかと見てみれば、ずっと俺の左腕見てたな。
他人の怪我でもまじまじと見るのは気分の良い物じゃないからなあ、まして子供の頃だし。
仕方ないから頭撫でて誤魔化して、
「だいじょうぶだよ。でもいちどむらにもどろう」
ってうやむやにしようとしたっけか。もう少し早くそうしてれば良かったなと思う。
なんというか、あの頃はミグの頭を撫でるのが癖になってたような気がする。
村に戻ってからもずっと俺の怪我を気にしてたから、治療院に行ったんだよな。
お姉さんが怪我の上に巻きつけた布を解いて、
「小さいのに我慢できて偉いね」
って頭撫でて来た。
天女か何かかと思った。
美人だったし、スタイルも良かったし。
で、見蕩れてたらいつの間にか治療が終わってた。
「もう痛くない?」
「おねえさん、ありがとう。これくらいならだいじょうぶ」
お姉さんの笑顔に照れ笑いで返した。
……胸とかずっと見てたの、気付かれてなきゃ良いんだけどな。
その後、何か目を輝かせたミグが治療術を教えて欲しいって頼み込んでたっけ。
あの怪我のおかげで俺も生きてるし、ミグにも怪我させなかった。
ミグを早めに村に返せたってのもあるな、あの日の俺はかなり輝いてたね。
褒めてやりたい。
まあ、そんな感じでほとんど毎日森に行ってたな。
今まで行ったことのない場所までどんどん行けるようになっていった。
で、山の麓まで進んでたっけ。
周りの大人には止められてたけど、自分の足で初めて見る場所まで行くのはなかなか面白い。
のめり込んでたんだよな、冒険者ーみたいな感じに憧れてさ。もうみんな我先にと先に進んだね。
その頃から、あんまりミグに呼び止められなくなってた気がするな。
それが気のせいだったって気付いた時には、正直手遅れかと思ったよ。
山の麓までもう少し、って所だったかな。
四つ目の魔物が居た。それを見て、全身に鳥肌が立った。
見つからなかったのが幸いだったな、後から調べてみたら結構傷だらけで、多分自分の血で鼻が馬鹿になってたんだろ。
流石にやばいと思って、真っ直ぐに街に戻って大人に魔物の事を話した。
そりゃこってり説教食らったさ。ついでに拳骨も。
ようやく開放された時にふとミグの顔が頭によぎった。
アイツはあの頃、森で薬草なんかを取ってくるようになってたらしいからな。
ミグにしばらく森に入らないように言いに行ったら見つからない。
まさかもう森に入ったのかと周りの奴らに聞いたら、どうやら俺達の後を追ってたらしい。
生まれて初めて血の気が引くのを感じた。
気付いたら親父の形見の剣を握って森の中を走ってた。
「ミグちゃん!」
返事を期待して叫んだ訳じゃなかった。
頭の中が探さなきゃ、で埋め尽くされてたよ。
「ミグちゃん!!」
叫ばないと気が狂いそうで、死に物狂いで叫んだ。
当然、返事なんかない。
悪い想像で頭が埋め尽くされたよ。
その恐怖で胃の中全部ぶちまけそうになった。
胃の中より泣き言が口から出そうになって必死に全部飲み込んだ。
森の中を走り回る。なんでミグは森なんかに入ったのか。
そこで気が付いた、ミグは俺達を追っていた。
俺達は大体同じ道を通るから、足跡を追えば手がかりがあるんじゃないか? ってさ。
探した、走りながら、血眼になって探した。
これまで走ったことがないくらいに速く走った、間違いなくそれまでの人生で一番速かった。
走りながらミグの手がかりを見逃さないように集中して、辺りの全部が分かるくらいに探した。
魔物の存在は頭から消えてたな。気付けば山の麓まで走ってた。見つかるなら匂いでも足跡でも分け入った木の跡でも何でも良かった。
そこで、違和感を見つけた。
「ミグちゃん?」
小さな足跡、ミグの足跡だと直感したそれと、
それに沿ってできた四足の生き物の足跡だった。
そこからはどう走ったのかあんまり覚えてない。
とにかく速く、二つの足跡を見失わないようにしながら走った。
記憶の中で強くなり始める感覚があった、嗅覚だ。
はっきりとは思い出せないその間で徐々に強くなったことだけは覚えてる。
ミグの名を何度も呼びながら、足跡を辿り進む度に近付いていると分かる匂いを追って走った。
その頃のミグの足はそれほど速いわけじゃなかったから、まだ間に合うと自分に言い聞かせていた。
気付いた頃には、足跡じゃなく匂いを追っていたな。
匂いを追い始めた所から、記憶が鮮明になる。
見てみれば足跡は大きく曲がるところだった。
好都合だと思った。
匂いは真っ直ぐに届いてきている、真っ直ぐ進めばその分近道できるんだから。
徐々に近付いてくるミグと魔物の匂い。
どこかから死臭が漂っているような気がした。
それが酷く心をささくれ立たせた。
次第に怒りが強くなっていく。
なによりも……。
なによりも、獣がミグの近くにいることに腹が立ってきていた。
そして開けた枝葉の先に、今まさにミグに飛びかかろうとしている魔物を見つけた。
ミグを見つけた喜びと魔物への怒りが俺の中の恐怖を駆逐していくのを感じたよ。
とりあえずその魔物を、俺の手でぶち殺すことに決めた。
「ミグちゃん!」
ミグと魔物の間に割ってはいる。
「しゅー、くん?」
親父の剣を鞘から解き放つ。
刃は滑らかに魔物の前足一つを切り落とし、俺は全力で魔物に体当たりを食らわせた。
すぐさまミグの前に立ち、魔物を睨み付ける。
胸にあったのは間に合ったという歓喜。
そして、この時生まれて初めて『守る』という思いが俺の中に生まれたんだと思う。
子供の体には大きい親父の剣が、やけに手に馴染むのを感じた。
構えるは正眼。ただし、その先は少し違う。
魔物も飛び掛る体勢に入った。
前に出した右足、軽く落とした腰、切先を下げ、構えを下段に。
極度の集中で遅くなったように感じる時間の中、魔物が後ろ足で地面を蹴る。
失策を悟った。
同時に俺は剣を滑らせる。
予定通りに魔物の首を刈り取る確殺の剣、その位置が悪い。
切先で首を落とし、振り切る剣の中ほどで残る左足を落とす心算だった。
その前足は爪を俺の胸へと差し込んだ。
この時の俺でそれを成そうとするのなら、獣より数瞬速く動く必要があった。
だが、機は同時。
互いが互いの命を刈り取るのは道理と言えただろう。
もう少し、剣を真面目に振っていれば良かった。
もう少し、体捌きを身に付けていれば良かった。
もう少し、ミグを気にかけておけば良かった。
でも……、
「ミグちゃん、よかっ、たぁ」
ミグを守ることができて良かった。
一歩ミグに近寄ろうとした時、俺の意識は沈んだ。
何か柔らかい、良い匂いのするものに包まれたような気がした。
胸から流れ出る血が、そろそろ限界の量を超えようとしているのが分かった。
何かが強く流れ込んでくるような気がする。
その何かが体の中で速くなる。
喪失感が無くなった。
体の奥深くまで進んでくる。
それが優しく広がっていった。
少しくすぐったいような気がした。
でも、心地良いような気もする。
体が奥から温かくなっていく。
その温かさが広がっていく。
不意に甘い匂いを感じる。
体の中で何かが鳴った。
もう一度。
ゆっくりと、繰り返し鳴る。
多分この位置は、心臓だろうか?
良い匂いが強くなる。
心臓から懐かしい感覚が響く。
胸の痛みが引いていくような気がする。
懐かしさが柔らかく。
なんとなくミグのことを思い出す。
胸の中から何かが抜け出した気がする。
だから、吸い込む。良い匂いがした。
少し良い匂いが遠ざかったような気がする。
また近くなった。
良い匂いに包まれている感じが強くなる。
ずっとその良い匂いを嗅いでいた。
ここが天国なんだろうか、と蕩けた頭が惚けた事を考えた。
なんとなく、瞼を開いた。
「っ! ミグちゃん!」
「しゅーくん!」
目を開いたそのすぐ前にミグの顔があって少し驚いた。ミグは泣きながら『ありがとう』と連呼した。
ミグの胸に抱かれ、気恥ずかしさを誤魔化すように笑って『よかった』と何度も言ったように思う。
残念ながらミグの胸はその頃まだ育ち始めてもいなかった。実に残念だ。
死にそうになってなんとなく後悔したこと、つまり剣術を本格的に始めた。
ミグに猛烈に誘われて魔術も覚え始めたな。
森にはもう興味もなくなってたし、その後全面的に進入禁止になったからあれから故郷の森に入ったことはない。
毎日剣術の稽古と、ミグに引っ張られて魔術の勉強。
それなりに充実していたように思う。
まあ、懐かしむのはこれくらいで良いか。
そういえば、死にかけたところを助けてくれたミグに大した礼ができてないな。
一緒に旅に出る、ってのもむしろ借りを増やし続けるような気がする。
それだけは避けたい。
どうにか早いうちに、ミグに礼を返さないといけないな。
懐かしい夢を見ながら、俺こと元勇者候補シュリト・シェルム・ノーグレイスは一発逆転の方法を考えた。
懐かしい夢を見ながら、私こと勇者様のお付きミグ・ラテール・アルマタイルは恩返しの方策を固めていった。
あれ、しゅーくん子供の頃の方がレベルが高い……?
いやいやそんなまさか。