おーまいえんぷれす、ちょっと手合わせしようよ!
「んー。まだ晩飯までに時間ありそうだな」
あの後一通り土産物屋を冷やかして、時刻はそろそろ陽が光を和らげ始めた頃合。
日没まで、あと二刻はある。
んー、朝できなかった鍛錬でもやっておくか。
「亜弓。今日は神社に泊まります。夕餉の支度を頼めますか?」
「はい、揚羽様。父も喜びます」
「では……陽が沈む頃に食事を始められるようにしておいてください」
「承知しました。失礼致します」
アゲハがアユミを帰し、その姿を見送った後振り返った。
今夜は神社に泊まるのか。
昨日神主と交わした約束に違わない。
確かに鬼は、いや、少なくともアゲハは義理というものを持ち合わせているようだ。
「シュリト。鍛錬の続きをするのでしょう? 棋王尊の鍛錬場を借りましょう」
お見通しか。
確かに場所を借りられるのはありがたい。
ここはアゲハの言葉に甘えておくことにするか。
「そうだな。昼過ぎの庭より広くて殺風景な場所ってあるか?
あの広さだと体裁きと剣を振るってのが同時にやり辛いんだ」
多分、木とか地面とかに結構な被害が出る。
あの庭でそういう方法を取るのは流石に気が引けのだ。
「では、石切場を借りましょうか。リシアもそろそろ藁巻きでは物足りなくなってきているでしょう」
事も無げに言い放つアゲハ。
それってもしかしなくても岩を斬るってことか。
今日初めて刀を握った奴に無茶な注文をする……。
「い、岩を斬るのか?」
「そうです。刀の前では硬さなど飾りですよ。
何、二刻も打ち込めば岩くらいなら両断できるようになるでしょう」
確かにリシアは騎士剣の類より刀が向いていそうではある。
昼過ぎに見た限り、軽く慣らしただけの振りですらこれまでの太刀筋より鋭くなっていた。
本人が気付いているかどうかは不明だが……。
「刀、痛みそうだな」
「鍛錬用の鈍らを借りれば良いでしょう。あそこなら無数にあるはずです」
鈍らで岩を斬れってか……。
俺とアゲハなら確かに造作もないことだろう。
ただ、それをこれまで慣れ親しんだ剣ですら成し遂げたことのない相手に求めるってのはどうなんだ。
「私はリシアなら二刻でできると思ったから言っているのですよ?」
アゲハの見る目……か。
いや、それって俺を酷く過大評価してるようだしあてにならないんじゃないのか?
リシアは迷っているようだ。
鬼の王にできると言われれば、確かにできそうな気になるのもわかる。
だが、リシアとは一応俺が剣を教えると約束しているのだ。
まだ止めておいた方が良いだろう。
せめて明後日……いや、明日になってから入った方が良い段階の鍛錬だ。
「手とか痛めそうだしあんまり無茶させるなよ」
「手早く強くなろうというのですから、無茶の一つや二つ難なくこなさなくてどうするのです?」
「そりゃそうだけどさ」
「……いや、その通りだ。せめてシュリトが旅立つ前に、私が姫様を守れるだけの力を付けなければいけない。
なら、多少の無茶は飲むべきだと思う」
それは……確かに俺が考えてることもそこなんだが、だからといって身体を痛めかねないような無茶は避けた方が良い。
手合わせなら、俺やミグが相手をすれば体を壊させない鍛錬の方法なんてのはいくらでも取れる。
今回リシアが刀を向ける先は岩だ。
岩に向かい、一人で刀を振るう。
俺かアゲハが見ていればそれでも問題はないだろう。
だが、アゲハが大人しくリシアの様子を見守るなんて真似をするだろうか?
もちろん、俺の方だって自分の鍛錬に集中しているだろうからそんな余裕はない。
「頼む。やらせてくれ」
止めさせるための言葉を探していると、リシアが頭を下げた。
……なんでこうも頼みごとに弱いのかね、俺は。
「……ミグ、リシアを見ていてやってくれるか?
無茶だと思ったらすぐに止めて治療してやってくれ」
「うん……でも、しゅーくんは?」
「そんな無茶しねーよ」
アゲハさえ暴走しなければ、だが。
ただ、そうなるとミグは離れていた方が安心できる。
アゲハ相手にミグを守りながら戦うなんてのは確実に不可能だ。
逆に言うなら、何を置いてでも俺はまずそこを目指すべきなんだろう。
「シュリト、なら」
「ああ。そこまで言うなら、好きにやってみると良い。
ただし、怪我する前にミグに診てもらうこと。それが条件だ」
「ああ! 分かった!!」
折角弟子がやる気出してるんだ、応援してやるのも師匠の役目だろう。
そう、思うことにしよう。
多少の怪我はミグが居ればどうとでもなる。
……できれば、怪我なんてのはして欲しくねーのが本音なんだけどな。
などと考えているとフィリが服を引っ張ってくる。
「どうした?」
「……」
じっと見つめてくるフィリ。
言いたいことは分かるがそれなら言葉にしろよ……。
「私も、刀を覚えてみる」
ミラまで乗り気になりだしたぞ。
あーもう好きにしろ。
「へいへい。ミグ、すまんが見てやってくれるか?」
「うん……」
ミグの頷きを見て、とりあえず出発することにする。
「アゲハ、案内頼む」
「良いでしょう」
アゲハの案内で、件の石切場へと向かう。
本能が発する嫌な予感を振り払いながらとにかくアゲハの後を追った。
「ってーか、弦慈公の名前便利すぎんだろ」
場所は石切場。
山肌が削り取られた一角には五十人ばかりの人が乗れるのではないかという大岩がごろごろと転がり、拓けた場所も昼に使った庭とは比べ物にならないほど広い。
そして、大量の刀が満載された刀掛け付きの台車、これは圧巻だ。
アゲハの『刀の稽古をする』という一言でこれだ。
その上師範代と思しき人物が三名即座に駆けつける始末。
ミラとフィリに刀の振り方を教えるのに丁度良い。
任せることにしよう。
ちなみに、師範代と思われる人物は二十代後半らしき女性が一人、二十代前半らしき女性が一人、どうみても十代半ばの女の子が一人だ。
ぱっと見では姉妹かと考えるところだが、昨日の温泉地に居た番頭さんを忘れた訳ではない。
きっと親子だ。
騙されるまいと見ていると、二十代前半っぽい女性が口を開いた。
「母とひ孫ですよ」
「えっ」
えーっと、二十代後半っぽい人が母で、十代の子がひ孫?
え、ひ孫って、何?
「母はこっちですよ」
「はっ」
「あー! 沙耶ちゃんなんでバラすの?」
十代の子が騒いでいる。
ちょっとどころじゃなく意味が分からない。
俺の混乱を読み取ったらしい沙耶という女性が続けた。
「鎬ちゃんは出戻りですからね。ずっとリュフェに居たらそんなに老け込まなかったのに……」
「老け込むって、どう見てもまだまだ若いんですけど」
「何言ってるんですか、リュフェで歳相応に見えるなんて悶死ものの老け込み具合ですよ」
ばっとミラを振り返る。
となるとミラも中身は相当……とかだったりするのか?
「私は見た目通り」
「……そうか」
いや、良かった。
出会ってから同じように成長してたもんな。
高齢者が成長する訳がないか。
「十九歳」
「え……?」
いや、出会った頃今のミグくらいの身長だったぞ?
あれで、十五? あ、ミグも十五だ。
いやそうではなくてだな……。
「……ずっと、同い年くらいだと思ってたわ」
「……そう」
そうか。
ミラ、年上だったのか……。
「十九歳だって。樋高ちゃんと同い年だね」
「母さん、初玄孫だからって反応しすぎですよ」
思わず鎬と思われる女性に目を向ける。
「……私の子です」
「全然見た目通りじゃねーじゃねえか!!!」
どう見ても十九歳の子供が居るようには見えないって!!
リュフェ、どうなってんだよ!!
「来孫、まだかなぁ。樋高ちゃんもそろそろ年頃だし浮いた話の一つや二つや三つや四つあっても良いと思うの」
いやいや、どんだけ自分の玄孫に浮気させる気だよ。
ってか、初玄孫って言葉自体初めて聞いたわ。
「あ、そうだ。お兄さん樋高ちゃんとお見合いしてみない?
それだけ女の子連れてるし、甲斐性はありそうだもんね」
「何言ってんだよ……俺そういうの間に合ってるから」
本当に何言い出すんだか。
今はそういうのにナーバスになってんだから余計な事は言わないで欲しい。
「そう言わずに。今なら私と沙耶ちゃんも付けても良いんだよ?
連れ合いと別れてもうしばらくだもんね? ね、沙耶ちゃん、そろそろ寂しいよね?」
付録じゃねーんだから。
しかも差し出すのが自分とその娘ってどういうことだよ。
「んー、私はもうちょっとこう、逞しい人の方が好みですね。
鎬ちゃんならこういう男の子好きなんじゃないですか?」
「……お婆ちゃん達、やめてよ。早くお稽古始めよ?」
「全くだよ。とりあえずあの茶髪の子に岩の斬り方、この二人にまず振り方から教えてやってくれ」
鎬さんというらしい人の尻馬に付くことにしよう。
というか、これ以上会話すると面倒そうだ。
勢いで流したい。
「お兄さんと銀髪の子は?」
「俺は一人で勝手にやってるから良いよ。ミグは……どうする?
刀とか使ってみたいか?」
「……そうだね。一応、覚えておく」
何か考え事でもしてる感じだな。
そっとしておいた方が良いか?
「んー。じゃあ、三人に振り方から、頼むわ」
ミグに限っては俺が気を揉むようなこともないだろう。
とりあえずこの三人からは早く離れた方が良い気もする。
ぶん投げてさっさと自分の鍛錬に入ろう。
「シュリトの面倒は私が見ますよ。三人は彼女達の指導を頼みます」
「……ちぇー、弦慈公様がそう言うなら仕方ないね。確かに承りました」
ちょっと聞き捨てならない言葉が混じってたような気がするんだが?
いや、アゲハ。俺は勝手にやるから本当に変なことするなよ?
「……一人で十分だからな?」
「わかっていますよ」
信じて良いのか? 良いんだな?
……いや、こんな睨み合いに時間使っても仕方ないか。
さっさと始めよう。
縮地の一歩。
ミグ達から二百歩ほど離れた場所に出る。
流石にアゲハもついて来なかったか。
さて、まずは体力を吐き出すところから始めるか。
全身に身体強化を行き渡らせる。
限界ギリギリの強化にも慣れてきたな。
そろそろ少し強められるか?
そんなことを考えていると、遠方、百五十歩程離れた場所で閃く銀閃が目に届いた。
アゲハである。
アゲハが居合いというらしいそれで刀を抜くと同時に、白い魔力のようなものが形を作る。
鳥だ。
白く、目だけが赤い。その赤はアゲハの瞳と同じ色、深い赤で俺を見据えていることが手に取るように分かった。
アゲハが刀に手を置いた瞬間に俺の全神経は警戒を向けていた。
だからこそ反応できた。
ふ、と、風が通った。
切り裂かれる地面、その切り口は白い鳥が飛ぶその跡に尾を引くように追随する。
咄嗟に刀で流し斬る。
手応えが……ない。
しかしその鳥が運ぶ猛威はこの目が捉えている。
「どういうつもりだよ」
まだ百歩は先に居るアゲハは、しかし確かに言葉を返してきた。
「ようやくまともに指導できそうですからね」
その形に動く唇を目が捉え、その音が届くかどうかという瞬間。
「ッ!!」
俺が立っていた場所に大きな地割れが開いた。
いや、地面がアゲハの刀に断ち切られたのだ。
何のつもりだ、そう言葉を上げる間もなくアゲハは続けざまに刀を振るう。
その太刀筋に沿って裂ける大地と、閃く度に飛び立つ白い鳥は俺を目掛け襲い来る。
逃げ場は……いや、ないな。
逃げようとすればアゲハは容赦なく刀を振るうだろう。
それを避けながら逃げる?
相手の方が足が速いのに、か?
不可能だ。
全力で警戒に入った脳を戦闘用のそれに切り替える。
飛び去った鳥は空を旋回しながら俺の隙を窺っている。
あの鳥の一撃は間違いなく俺を昏倒させるだけの威力を秘めている。
そしてその弾道に合わせた刀など意に介すこともなく大地を抉っている。
まずは、あの鳥の解析からだ。
「……」
再び振るわれる刀は大地を切り裂きながら、新たな鳥を生み出す。
この剣撃は確実に躱す。
これだけは当たってはいけない。
直撃を受ければ、どうしようもなく俺は死んでしまうだろう。
そして回避動作の中にダミーの隙を作りこむ。
空へ向けた隙だ。
それに飛び込む鳥の群。
やはり、この鳥は俺の隙を狙っている。
それを容易く躱し、地面へと誘導する。
……どうやら、動きを止めればあの鳥は消滅するようだ。
そしてもう一つ分かったこと、この鳥はどうやら魔力で練り上げられたものではない。
魔力を含まない訳ではないが、それは行動の思考パターンを刻み込んだだけのものだ。
魔力自体を形にしたものではない。
では、この鳥は何でできている……?
勁。
その言葉が脳裏に過ぎる。
「もう気付きましたか。そうです。その鳥は勁を練り上げて作ったもの。
勁を伴う斬撃で撫で斬れば、それだけで霧散しますよ」
彼我の距離は、五十歩。
止まることなく、だが急ぐこともなく近付くアゲハの足音。
一歩、一歩と、彼女が近付くたび、警戒が強まっていくことを自覚する。
一閃。
斬撃と、その後を襲い来る鳥をやりすごす。
「勁、つってもな。俺はそんなもん扱えねーんだけど?」
「なら、覚えればよいではないですか」
三十歩。
まだアゲハの足は止まらない。
一閃、そしてそれに繋ぎ二閃、三閃。
躱し、防ぎ、飛来する鳥に刀を合わせる。
「無茶だろ。一日やそこらで身に付くとも思えねーぞ」
「なら、ここで死んでしまうかもしれませんね」
……言葉から真意が測れない。
右手に持った刀に目を落とす。
左手でバスタードソードの柄を撫でる。
ああ、逆だな。
刀を左手に持ち替え、バスタードソードを引き抜く。
同時に、アゲハは剣舞を始める。
一撃、それを認識すると同時に襲い来る既に五撃目の斬撃。
五つの斬撃を同時に避けながらも、まだ余裕はある。
それが二度三度、四度五度と来ればそれに託けて生まれ出る白い鳥が気付けば空を埋め尽くしている。
尚も刀を振るうアゲハ。
剣撃と白鳥、そして空から強襲を掛ける鳥全てを感覚で捉える。
極限の集中。
アゲハの剣舞が途切れた時に一度落ち着けることにしよう。
……途切れない。
…………途切れない。
増えていく鳥の数に僅かな寒気が背中を通り過ぎる、ッ!
急ぎ逸らした上体があった軌道を飛び去る二羽の白い鳥を見た。
空を埋め尽くす白い鳥?
冗談じゃない。
あの程度、まだまだ序の口だったという訳だ!
尚も増え続けるその鳥に初めて脅威を感じるッ!
一振りで増える数は十羽余りか?
もうアゲハはどれだけの刀を振るった?
もはや身動ぎ一つで飛び来る鳥と、絶え間なく注がれるアゲハの剣閃!
速閃と翻閃を併用してその全てを避け、撫で斬り、躱す!
切り抜いた白鳥の身体に綻びが生まれた。
なるほど確かに、少なくともアゲハに教わった剣技を使えば鳥は斬り捨てられるらしい。
今やアゲハの一閃で襲い来る鳥は五十を超えようかという数。
その半数に刀を、剣を、刃を通す!
綻びが限界を超えた鳥から地に落ちていく。
足りない。
一閃で生まれる鳥の数に完全に押し負けている。
そして腹の底に湧き上がるこの奔流は何だ?
そろそろ百を超える鳥を落としただろうか。
どれだけ剣を振るっていた?
時間の感覚が曖昧だ。
あれから途切れず最高潮の集中力を維持している。
何がどうなった?
ここまで鈍化した時間を途切れず味わったことなどない。
ただ分かるのは鳥を一羽落とす度に腹の底から溢れ出すような熱だけだ。
感覚がそれを求めている。
本能がそれを剣に流せと命じてくる。
その直感に従いイメージするのはこの身体の底から湧き上がる力を汲み上げ、剣に注ぐ光景だ。
見なくとも理解できる。
その力は間違いなく両の手の刀身へと『通った』。
その剣を襲い来る白鳥へと通す。
そして初めて、イメージの通りにその鳥を両断することに成功する。
「っ、はっ」
思わず笑いが込み上げた。
何故かって、襲い掛かってくる五十余りの鳥を切り落としたその目の前で、アゲハは百を超える白鳥を新たに放ってきたのが見えたからだ。
「どういう冗談だよ、そりゃ」
思わず脱力する。
これは、ダメだ。
何羽切り落とそうといくら上手く躱そうと、致死量を超えるだけの数を被弾することになる。
全方位から押し寄せる白。
僅かに脳裏を掠める光景があった。
これが、走馬灯というやつだろうか?
ああ、大半がミグとの思い出だよ。
その姿を思い出して、何故だろう。
「んな所で死んでる訳にもいかねーか」
何故だろう、こんなに闘志が溢れてくるのは?
これまでより、更に鈍くなる時間。
今なら一つの清浄すら読み取ろう!
迎え撃つのをやめる。打って出る。
縮地を繋ぎそこからの翻閃、速閃からの迅閃に、阿摩羅に届こうかという精度で気閃を放つ!
背後から強襲を掛けていた白鳥諸共に一閃の下に斬り捨てるッ!
この時間の中で舞うことが許されたのは俺と、そしてもう一人。
アゲハと切り結ぶ!
アゲハは笑っていた。
肝が冷える程無邪気に。
どこまでも穢れのない笑みを浮かべている。
刹那の間に幾度となく交わされる命を賭けた閃きの最中で。
もはやこの時間に白鳥など存在しない。
在るのは俺自身とアゲハそのもの、そしてその手で振るう三振りの刃のみだった。
五合、十合、百合までは数えた。
今打ち合わせる刀は何合目だったか?
もっと打ち合っていたい。
純粋にそう思った。
一振り毎に強くなっていく、まだ強くなっていけるのが分かる。
前の振りより早く、速く、鋭く。
ふとアゲハの寂しげな顔を見た。
時間が、吹き飛んだ。
「……ヒュ、……カハッ。…………カヒュッ」
呼吸が難しい。
現在俺は死にそうな呼吸音を発しながら石切場の岩肌に横たわっていた。
最後のアゲハのあの顔、それを見て、次に目にしたのは一面朱に染まる空だった。
いつの間にか、空を覆いつくしてた鳥は一羽残らず消え去っている。
時刻は既に夕暮れ。
一体どれだけの時間アゲハと打ち合っていた?
空の様子を見るに、二刻、といったところか?
それと、俺はアゲハに負けた。
今死にそうになっているのは別にアゲハの攻撃が原因ではない。
むしろ最後のアゲハの攻撃は当身のようなもので、相手の動きを止めるための攻撃だ。
身体能力の限界を裕に超えた動作でアゲハと切り結んでいたがための自壊。
ってか、口の中全部で血の味がする。
あのままあと百合も斬り合いを続ければ間違いなく壊れていただろうと自覚する。
「しゅーくん、大丈夫?」
気遣わしげに俺を見つめるミグの姿があった。
ああ、俺は生き延びたのだと理解する。
胸中にこみ上げるものがある。
達成感と、安堵。
一心に噛み締める。
「ミグ、治療術を。それにしても、今日は死ぬような目に遭わせて勁を理解させるだけのつもりだったのですが……僅か一日で勁をものにするとは。
ふふっ。好敵手を自分で育てるというのは、悪くないものですね」
頭が考えることを拒否する。だが無理矢理に働かせる。
『今日は』ってのは、あれか。
明日も、というかこれからずっとこんな感じで乱入してくるつもりなのか?
俺は毎日ボロ布のように転がされることになるのか?
……癪だが、確かに僅か数刻で確実に強くなった実感はある。
そもそもこれまで半刻もの間あれだけの集中力を発揮し続けることなんてのはできなかった。
それが、いきなり一刻以上である。
そして、勁を練り、刀身に乗せた時のあの感覚。
もはや如何なる物をも一刀の下に切り捨てることが可能だとすら思わせる全能感があった。
ふと、ミグの治療術に包まれる感覚。
時間の感覚が曖昧だ。
もしかすると、二刻どころか一日と二刻も剣を振るっていたのではないかとすら思えてくる。
もちろん夜の情景とは連続していない記憶がそれを否定するのだが。
あれだけ長時間集中していた反動だろう。
僅かに呼吸が楽になる。
鼻がミグの匂いを捉える。
……これ、ミグの膝枕か。
おい、何で今まで気付かなかった?
ここはミグの太ももの感触を楽しみながらその双丘を視界に治めつつミグの顔を眺める場面だろ?
もちろん全神経を鼻に集中させながらだ。
俺は馬鹿なんじゃないのか?
などと考えつつ、ミグの心配顔を見ればそんな下らない考えは即座に霧散する。
ものの見事に『泣きそうな顔』そのものだった。
「ああ。だいぶ楽になってきた。ミグ、ありがとな」
ただ、まだ腕は上手く上がらないだろうと確信する。
それどころか、多分宿に戻るにも誰かの肩を借りないと辿り着けすらすまい。
無性にミグの頭に伸ばしたくなった手を抑えつける。
代わりに自分の額に手をやった。
そこに置かれたミグの手に触れる。
小さく、ひんやりと僅かに冷たい心地良い手だ。
目を閉じる。
五十歩ほど離れた場所で、空間ごとずれるような錯覚があった。
刀が振られたのだろう。
目を開き、そちらを見やる。
リシアが大岩を切り捨てているところだった。
自分で驚いているのか、驚愕の気配がここまで伝わってきている。
「リシアも、一日で刀の振り方を掴み始めていますね」
「みたいだな」
岩を斬るというのはある種の試金石のような面を持っている。
冒険者の剣士なら、Aランク上位の腕前を持つかどうか。
リュフェの刀を使う剣士なら、一人前に差し掛かるかどうか。
もっとも、リシアの場合まだ『溜め』が強すぎる。
ようやく、一人前の太刀筋がどのようなものかおぼろげながら理解したというところだろうか。
考えていると、リシアが駆け寄ってきた。
「私が岩を斬るなど……夢でも見ているんだろうか」
「いや。見たところ会った頃からそんなに弱くはなかったぞ?
単にこれまでの剣の振り方とか戦い方がリシアに合ってなかっただけだろ」
ある程度の身体能力が備わっていたからこそ、ここにきてそれが開花しつつある。
言ってみれば、それだけだ。
本当に、師に恵まれなかったというだけなのだ。
いつの間にか師範代の三人も近付いて来ていた。
嫌な予感しかしない。
「お兄さん、強いねー。やっぱり樋高ちゃんとお見合いしてみない?
あ、でも。そうだ、何なら私単品だけでも良いから! お願い!!」
「母さんはそろそろ落ち着いた方が良いでしょ? ここは私が一肌脱ぎますよ」
「……お婆ちゃん達、どっちももうちょっと落ち着いてよ」
全くだ。
「いやそういうの良いから。ってか、突っ込むのももうしんどいわ」
「私なら都合の良い女になるよ? 尽くすよ?」
「だからそういうのいらねーって」
この一族は一体何なんだよ!
「ほらほらぁ、そんなこと言ってぇ。私に突っ込みたくさせてあげようか?」
「母さんじゃ包容力が足りませんよ。やっぱりここは私の出番でしょ?」
それはどういう意味でだよ。
ってか見た目妙齢の女性のなりで何口走ってんだよこの人達は。
沙耶さん、だっけ? あんた俺は好みじゃないんじゃなかったっけ?
というのが顔に出てたんだろうか。
「剣持の家系は強い男が好きだからね!
私らより強い男ってそんなに居ないから、結婚してもすぐ離婚しちゃうんだよ。
その点、お兄さんならばっちりだよ! 何なら一族全員貰ってよ」
「ああ、そう。一族全員って、どんだけだよ……。
ってか、すまん。本気で休ませてくれ」
「じゃ、お風呂入れよっか。うんうん。お世話するよ」
「ダメですっ! 私がお世話しますから!!」
あー、ミグが敬語モードだ。
って言ってもこれはどっちかって言うと外向けのモードかな?
声に強張ってる感じがない。
「なんか、もう、なんでも良いや」
「ほら、お兄さんも良いって!」
「なら私もご一緒しますよ。母さんだけだと不安ですし」
「……監督役、要りそうだよね」
「ダメっ! 三人もそれ以外も触ったらダメです!」
どうでも良いから、早く休みたい……。
……一つ引っかかってるものがある。
何で俺はアゲハ相手に本気の剣を振ることができたのか。
当然、当たると見れば寸止めする気ではいた。
だが、本当にできただろうか?
そんな思考を覆い隠すように眠気が襲ってくる。
ミグが騒ぐ可愛らしい声を聞きながら、俺こと元勇者候補シュリト・シェルム・ノーグレイスは少し自分が分からなくなった。
いわゆるロリババア登場。
ちょい役ですけど。




