悲しい子
久しぶりの更新・・・遅くなってすみませんでした
俺だってそれくらい、分かってた筈なんだ。
*
「ねぇ最近、元気ないね」
ザーザーと雨の降る日曜日。
休日の今日で、じゃあどこかに出かけようか。なんて考えていたまさにそんな時振り出した雨だった。雨は一向に止む気はなさそうで、空は曇天、たまに雷さえ降りてきている。
「そうか? ……あぁ、最近契約取れなくてなぁ。ちょっと苛ついて沈んでるかも」
しょうがないので、今日は1日ゆっくり家で寛ごうと、妻とTVを見たりゲームをしながら会話をしていた。
「そっかー、大変だね。頑張れっ」
――お客さんは努力家だね、偉いなぁ。
仕事頑張れとか、応援してるよ、とか、そう言われる度に思い出すのがアオキのあの言葉だった。初めて言われた、偉いの一言。仕事をするのは普通の事だと思っている俺だったけれど、正直、あれは嬉しかったのかもしれない。
「瑛太、コーヒー飲む?」
「飲む」
俺は最低な人間な筈なのに、何故今ここでこうして笑っているんだろうか。妻と言う女がいて、立派なサラリーマンで、毎月給料だってちゃんともらっている。
『大丈夫』
あの日のアオキは、酷く醜くて、酷く綺麗だった。
『忘れるから、忘れよ』
妻が遠く友達の家へ泊りに行っていた夜、この家で一緒に夕飯を食べていたアオキを、俺は酔っていたせいで訳も分からず抱いてしまった。その癖朝起きて何故か裸の俺の隣に裸のアオキがいて、訳も分からずパニックになってアオキを殴って蹴って。
アオキを家から追い出してから記憶が鮮明になっていった。
そうだ、確かに、何度思い出しても最後は俺から誘っている。アオキは殴りも蹴られもするような事はしていない。
『大丈夫』
何にも大丈夫なんかじゃない。
『お互い口に出さないで。もう会わないから大丈夫。』
もう会わないから大丈夫。そうアオキは最後に言って、笑った。でも、だから大丈夫なんかじゃない。俺はもう1度、あの子と会って話しをしなきゃいけない筈なのに。謝らなきゃいけない筈なのに。あのバーには罪悪感と遣る瀬無さから、その場に行っても入り口に立ったまま、そのまま中に入れないでいた。入口の前に立って、そうして少しすれば諦めて電車に揺られる。
それが何回続いた事だろうか。
やっぱり、アオキの言う通りもう会わなくなってしまうのだろうか。
「あ、そうだ瑛太。今日の夜さ、出かけよ!」
雨が降っているというのに、突然妻がそんな提案をし出した。
「雨降ってんのにか? ……どこ?」
「こないだ言ったとこ。いきつけのバー」
コーヒーを口に含みながら、俺に笑いかける。
「っ……」
ドキリとした。
もしかして、もしかして俺があの日アオキと寝た事に感づいているんだろうか、なんて、そんな疑問が心臓をバクバクとさせる。その笑顔の意味は何なんだと。
「――」
でもすぐに、この言葉はそんなモノじゃないって事に気付いた。最近はまってると、よく聞かされていた。俺がアオキのいるバーにたまたま入ったのも、妻がよく言っていたのが耳に残っていたからで。
「ね、行かない?」
多分、こんな提案をしたのは、沈んでいる俺の為なのだろう。ニコっと笑ったその顔に、心の中で謝った。
「わかった、いーよ」
雨はそれからも空気も読まずに降り続け、止む事は無かった。夕飯を食べ、お互い出かける準備をし、家を出たのは夜の9時くらいだった。行こうか行くまいか二人で悩んだりもしたものの、結局外へ出ることにした。駐車場へと向かい、車に乗り込む。会社には車には乗らず電車で行くから、久しぶりのその匂いを懐かしんだ。それから妻に場所を案内させられながら人気の多い街道へ入った。
いつも仕事帰りに通っている道。
「あ、そこの信号左」
「ん」
言われた通りの場所で言われた通りに曲がる。曲がったところで、また思い出す。この辺りに、アオキのいるバーがある。あれから何度も立ち寄った癖に入れないバー。お世辞にも綺麗とは呼べないキラキラしまくりの外に目をしかめる。ネオンが集まった蛾を無視する人がうじゃうじゃとそこら辺を歩き回っているのを、俺は運転しながら見つめていた。信号を左へ曲がり、少しだけ車を走らせる。走った先にあったのは駐車場で、鉄で作られた小さな箱から駐車券を取り出し、車を駐車した。
「あっち、早くいこ?」
ウキウキと、無邪気な笑顔と軽快な声で嫁が俺を促す。はいはいと、俺は少しばかり呆れながら手を引かれて行った。
「ちょうどここら辺に……あ、あそこっ!」
無邪気な笑顔で妻が指差した場所を、俺は確かに目に映した。今はそう、前も、この場所を目に移している。入りたくて、それでも入れなくて。足が竦んで。
「こんな……」
こんな偶然なんて、無くていい。偶然? 俺はさっき、何を疑っていた。……そうだ、俺があの日アオキと寝た事に妻が感づいているんだろうかと、そう心臓をバクバクとさせていた。…こいつは本当は分かって――。
「瑛太ー、何やってんの。早く入ろう? 雨、当たるよ」
その笑顔に、そんな裏なんか見えなかった。俺を促す声だって、俺に来い来いとする手振りだって、感づいているようには思えない。
じゃあなんだ。本当にただの偶然なのか?
「えーいーたー!」
「い、ま…いく!」
声が裏返る。急激に喉が渇いた。
竦む足は妻によって、俺が浮気した相手の居る店に徐々に近づいて行っている。なんつー地獄なんだ。誰か、俺を今すぐここから逃げ出させてくれ……。
そんな願いも空しく、カランカランと音を立てて店の入口が開いていく。
「いらっしゃいませ……おや、お久しぶりです」
また心臓がドキっとした。もしかして俺に向かって言っているのか。こないだ買い出しに行っていて途中から戻ってきた……店長? だろうか。
「ご友人宅への旅行はどうでしたか?」
「オーナー! お久しぶり! すっごい楽しかったですよー!」
二言目、それで、それは俺に向けられたものではないと言う確信に導いた。妻の返答も親しそうにやけにフレンドリー。そんな親密になれる程ここに通ったのか、とか、あんな高いもの飲んでたのか、とか、そんな驚きだって、今の状況に比べれば安いもんだった。
妻が中に入って、まだ店の入り口に立っている俺に気付いて手招きをした。
「ぅん……あなたは…」
俺を見て、少しだけ不自然に目を見開く。
「この人、ウチの夫なの」
「……あ、ど。…どうも」
「…そうですか。それは歓迎しなければいけませんね」
満開の笑顔で、少しだけおちゃめにそう言った。
「どうぞどうぞ、お座りになってください」
素知らぬ顔をしているのだろうか。それとも本当にこの前来たって事も忘れているのか。できれば後者の方がありがたいのだが。
カウンターに通され、そこに座らされる。俺の記憶が正しければ、前来た時と同じ席に座っている。そんな感じに、俺は着々と『逃げたい』と言う気持ちをまるでいつか学校で習った『細胞分裂』の容量みたいな感じで、それを倍増させていった。
ふいに視線に気付いた。
座った俺の頭の、少し先。
「……」
その視線は、誰に聞かなくとも、誰か分かる。妻にオーナーと呼ばれた男は、気付いている。俺の事を忘れてなんかいない。それに、きっと、他から初対面の取られるような言葉を敢えて使っていたのも、俺とアオキの間の事情を知っているのだろう。
恥ずかしさで顔なんかあげられなかった。
「今日は何に致しますか?」
「んー、私は――…じゃあジン・デージーかなー」
「かしこまりました、旦那さんはどう致しますか?」
「えと……俺は…」
メニューを見たって、何が何だかよく分からない。意味の分からない名前がずらりずらりと並んでいて、これは本当に酒の名前かと言う程にオシャレすぎる。
「ぷ……ぷりめーら…?」
よく分からなかったので、目に付いたモノをとりあえず声に出してよんだ。
「かしこまりました」
オーナーそれから、色々な液体を次々とカップに入れ、それをお決まりのポーズでミックスし、手際よくグラスの中に液体を注いでいった。あっと言う間に違う種類の二人分。
「……」
アオキの作った青とは程遠い色。グラスを持って、恐る恐る一口だけ口を付けた。ほろ苦くて、そして美味い。
「んー! やっぱオーナー作るの美味しいなぁー」
「ありがとうございます」
薄くはにかみながらオーナーが会釈をする。頭を上げる時に、オーナーがちらりと俺の方を見たのを、見逃せる筈もなく。ドキリと胸がしなり、それからバクバクと高い振動を鳴らし続けた。
「あぁ、そうだ。……オーナー、あの子は?」
「……?」
バクバクバクバク。
「『青木』君!」
バクバクと鳴った心臓は、その妻の一言で鳴りやんだ。一瞬だけ耳がキンとして、それから止まった。俺の何もかもが止まった。それでも視界向こうの世界は止まずに進む。
「青木君の作ったお酒もすっごい美味しいんだよねー。瑛太も飲んでみたくない?」
「あ……あぁ…」
小さな声で呟いて、目を覚まそうとカクテルを口に含む。
苦い。苦いから、苦いけど目が覚めないから、きっとこれが現実で、物凄く苦かった。
「オーナー、今青木君は? 休み?」
「彼、ですか? 彼は――」
休みの筈がない。彼はあまり定休日以外は休まないと自分でそう言っていた。今日はなんだ。定休日ならマズ俺はここには座っていないだろう。
アオキは居る。ピッシリと服装を決めて、また酒を作りにくる。
地獄だ。俺は、どうやってあの子に顔を合わせればいい。妻が隣に居る。それなのにテンション高く彼に話しかけられやしない。それこそあの子にとって最低の行為になる。謝る? 全部が妻にばれてしまう。
どうすれば……どうすれば――。
「買い出し戻りましたー」
高いような、低いような、そんな声。
ガチャリと音を立てたドアから、どっかの車の走行音と共に上げられたその声に、俺は少しだけ身を震わせた。
「青木君ー! 待ってたよー。またお酒作って!」
顔なんか絶対に上げてらんなかった。この声は完全にアオキで、妻だってこの声の主を『青木』と言った。
アオキだ。
「あ、伊崎さん。ご無沙汰です」
その一言に、硬直する。伊崎さんてのは、それはもしかして俺の事か? 1週間ぶりの再会。何も嬉しくない。
「『お泊りは楽しかったですか?』」
お泊り。……お泊りは楽しかったですか? 確かにアオキはあの日あの家にお泊りした。それでも、だから……いや、この聞き方はおかしい。
あれ?
これじゃあまるで、妻に……。
『オーナー、今青木君は? 休み?』
俺の妻は、どうしてアオキを知っている。
『伊崎さん。ご無沙汰です、お泊りは楽しかったですか?』
アオキは何故、どうして妻を知っている。
『すっごい幸せそうだ。……奥さん。知的そうで、優しそうで。…良い人だね。』
あの時のあれは何だ。羨ましそうに俺と妻が写る写真を掴みかけて、結局は途中で手を止めた。何やら悲しく羨ましそうに笑ったあれは、何だ。
「あ、青木君。紹介するね、私の夫の、瑛太!」
「……っ!」
突然の紹介に、ビックリした。ふいに顔が持ち上がる。黒縁メガネのその奥の瞳。その瞳と、たった今、目が会った。バクバクと心臓が高鳴る。何も言えない。このままじゃ妻に不審がられる。どうする。アオキは何を言う。復讐するか? 全てをバラすか? おい、……。
「初めまして、青木です。どうぞよろしく」
その瞳は、たった今、生まれて初めて俺と目が会ったような、そんな顔をしていた。無意識に見開いた目から映るその瞳も、何も変わらない。
「――」
何言ってんだ。お前、俺に酷い事されたんじゃなかったのか、アオキ。俺は今の環境を崩されても良いくらいにお前に酷い事をしておいて、どうして何も言わない。何もしない。そればかりか、俺の事を全然知らないふりして、『初めまして』だと?
その目も笑顔も、俺はちゃんと知っている。
ちゃんと見た。それで崩壊させてしまった。
この建物の前に立ち尽くしたまま入れずに、来ては帰って来ては帰って。ようやく入れたかと思えば隣には妻が居て、妻に真実がバレるのが怖くて下を向いてる俺に向かって、お前は何を言っているんだ。
「店長、これ、領収書」
「ごくろうさん」
カウンターに入ってオーナーに領収書を渡し、袋の中から買って来たものを取り出す。俺は何やらゴソゴソと動いているアオキをジッと見ていた。
酒の味がほんのりと苦い。
まさか本当に忘れてしまったって事はないだろう。あんな事、忘れたくても忘れられない筈だ。この子は絶対に本人に間違いはない。オーナーだって、妻だってこの子の事を『青木』とそう言った。もしかして双子とか……そんな事なんか無いだろう。
「青木くーん」
妻の一言に、ビクっと体が震えた。
「なんでしょうか?」
妻の言葉に、薄くはにかみながらの応答。曇ったモノなんて、何も無かった。
「青木君も何か作って!」
「かしこまりました、何に致しますか?」
「青木君イチオシのでお願いします!」
「了解です」
そんなやりとりを、俺は不思議そうに見ていた。あれを不倫だとか、浮気だとかと呼べるようなモノかは分からないが、ヤってしまえば結果浮気にはなるだろう。
俺がヤってしまったその浮気相手と、俺の妻が笑顔で一緒にしゃべっている。
わけがわからなかった。
――とっとと終わってくれ……。
まさに地獄みたいな時間を過ごしていると思った。
「……」
小さな動作で顔を上げ、目線だけをカウンター奥へと追いやった。オーナーは真っ白で清潔そうな布巾でグラスを拭いている。その横で、何やらカチャカチャと小さな音を立てて準備をしているアオキがいた。奥の棚から何やら数種類の酒を手に取り台に置く、蓋を開け、酒を色々な分量でシェイカーに入れて言った。
蓋を閉めて、強く閉めて、アオキはそれを見事にテレビで見るようなしぐさでふった。この前来た時も確か、きっと変わらない。
淡々とした、すごいなと言う感想だって一緒だった。
それから何回ふったかは数えてないから分からないけど、数十秒たって、酒が混ざり合う音が止んだ。アオキは一息吐く暇もなく、シェイカーの蓋を開ける。ちまっこいグラスを二つ並べ、そこに酒を注ぎだした。
糸みたいな青い液体が透明なグラスの中に注ぎ込まれる。今にも途切れてしまいそうな細さに、一瞬目が狭まった。
綺麗な青だった。
薄暗い店の中の小さな明かりがグラスに反射して、水面に反射して、それすら美しい。
「……」
息を飲み込んだ。
空のように鮮明な青い色、海みたいな綺麗な色。
俺はこの色を知っている。俺は忘れてなんかいない。アオキが作り出したこの色。この記憶は、無かった事になんかならないだろう。
「どうぞ――」
渡されたグラスは二つ。一つは妻で、一つは俺。それぞれ目の前に出されたグラスは、チマっとした小さな底に、長い持ち手。
あの時と、何ら変わりはない。
俺はその長い持ち手を持ち、あの時より少しだけ躊躇しがちにグラスに口を付けた。口の中に僅かだけそれを含む。
海みたいに綺麗な青色は、だけど海より何倍も甘い。だからきっと、空を液体化してそれを飲み込んだら、きっとこんな味になるんじゃないだろうか。
「……うめぇ」
やっぱり美味しくて、俺はチマッとした中身を、いっぱいに口に含んだ。
そんな俺に、横にいる妻がクスッと微笑む。
「瑛太ー、いいとこでしょぉ?」
「……あぁ…」
「えへへー。私のお気に入りのとこなの。また一緒にこよ?」
カクテルを飲みながら上目遣いでそう言われる。
断るなんてできなくて、それでもまた来たいなんてそんな事も言えなかったので、俺は出来るだけ小さく笑った。
*
その次の日、俺は仕事を出来るだけ早くこなし、会社を出た。朝から外は昨日とは打って変わっての晴天で、確かアオキに初めてあった時の朝の日もこんなんだったな、なんて思った。
会社を早く出た俺は、そのまま真っ直ぐ妻の居る家には戻らずに、店の目の前に居た。昨日来たからなのか、心の中で何かを決意したからなのか、足の竦みや躊躇などはあまり無い。ただその奥を見据えて、ドアを強く押した。
チリンチリンと涼しい音が聞こえる。
「いらっしゃいませ――すいません、開店まであともう少し時間があって、少々お待ち頂ければ……」
こちらを向いてから、酒の瓶を並べている手と、言葉を紡いでいる口が止まった。
「おや、……今日はお一人ですか?」
そこにはオーナーが居た。
「はい、…あの、今日はアオ……『青木君』は……?」
アオキと呼ぶには余りに失礼な気がした。
「青木はまだ出勤時間じゃないんです。もう少し経ってからきますよ」
「はぁ……」
「立ち話も何ですし、さ。どうぞこちらに」
昨日と同じカウンター席に通され、俺は鞄を隣の椅子に置き、そこに座る。まだ酒を作る準備ができてないからと、割った氷と水を入れたグラスカップを差し出してもらった。
「昨日はどうでしたか?」
ふいにオーナーにそんな事を聞かれた。
「美味しかったですよ、酒」
水を一口だけ口に含む。冷たくて、それさえも美味しい。
「驚いたでしょう」
それから急にそんな事をさらっと言われて、口に含んだ水をごくんと飲み込んだ。
「青木のあの態度。少し混乱したんじゃないですか?」
少しどころじゃない。
「あの……やっぱり、事情知って…?」
「いや、青木の態度が最近おかしくてね、喋ってみろって言ったら、すこしだけ話してくれました。昨日伊崎さんと一緒に来たのがあなたで、ピンときました」
「……あの、今回は本当に…申し訳ありませんでした…」
テーブルにくっついてしまいそうなところまで、頭を深く深く下げた。
「私はいいんですよ、……それに、青木にも否がありました。奥さんの伊崎さんは一月二月、…少し前からしばしば来ていただいていたんです、青木とも仲が良く、あなたの事もよく話されていました」
「……」
「あなたは青木の事を知らなかったが、青木はあなたの事を知っていた。その真実だけでも、悪いのは青木の方だ」
「そんな事……」
「それでも、あの子を……あまり青木を悲しませないであげてください」
その一言に、俺の後悔がにじみ出た。俺はもう、アオキを酷く苦しめて悲しませている。
「あの子は、あなたに自分の家や家族の事を話しましたか」
『あぁ、うん。家、一人でさ。料理とか……あんまりした事ないんだよね』
コンビニでの会話。今は家に一人。それ以外に、何も聞いていない。そういえばと思い出すが、俺は自分の家でアオキと会話している時だって、アオキは自分の事は余り話さず、俺の話しを聞くばかりだった。
「いえ、……特には…俺が自分の事を話していたばっかりで…」
「そうですか、……また悪い癖が…」
「……?」
「あの子、親がいないんです」
目が点とした。
「本当の親から虐待を受けていて、小さい頃親が自殺しているのを間近で見ていたんです」
言葉を失くした。
「『自殺に及ぶのから死んでいくまで、ちゃんと見ていろ』と、親にそう言われたんだそうです。小さい頃の青木からすれば、あの子の世界はまだ親だけで、それが1番ですから、ちゃんと言う事を聞いていたんでしょうね。それからは親戚や色々なところを転々としたんだそうです。だけど、『親が死んでいるのに泣きも助けもせずにそれをただジッと見ている』そんな言葉が転々としている間いつまで経っても消えず、周りから向けられる目もいつまで経っても変わらない。」
「幼い子供の頃の気持ちを忘れてしまった大人からすれば、青木は奇妙で気持ちの悪い子供でしょう。誰しも多くは子供のころ、『親の言う事は聞け』と言われる。青木はただそれをしただけだった。幼い脳では、それに逆らうなんて言葉は知らない。なのに気持ち悪がられる。ただ言われた事をしただけだったのに、それが自分にとっての普通で、当たり前の事だった。それでも周りは青木の事を気味悪がる。だから青木は自分の事を他人に話さなくなったんです」
「……なんで…」
「それはきっと、嫌われたくないからでしょう。誰かに自分の事を喋ったら嫌われる。それが青木にとっての1番になってしまった。好きになった人には絶対に好きとは言わない。思い出も、悲しかった事も嬉しかった事も話さない。話したら嫌われると、小さい頃から勝手に自己解釈して、そう思い込んでいるんでしょうね」
だから、アオキは妻の事を話さなかったのか?
写真に写る妻に、アオキは気が付いていた。それでも何も言わない。何かを思って、そこで止めた。嫌われると思ったから? …俺がアオキを殴った時も、俺からアオキに何かしたのを、酒の1滴も飲んでいないアオキは知っていて、それでも何も言わなかった。嫌われると思ったから。 昨日の初対面のような態度もそれだ。嫌われたくないから。
「あの子は我慢することしか知らない馬鹿な子だ。我慢して我慢して、その我慢を爆発させることもなく、蓄積させ、そんな辛い事すら我慢する。あの子の昔の事を聞くのにも苦労した。あ……青木の飲み物に酒を入れたってのは内緒ですよ?」
オーナーのギャグだって、あまり耳には届かなかった。
「今は親戚の家を出て、ボロいアパートで独り暮らししています。1回行った事がありますが、本当に必要な物しかなくてビックリしました。買いたくても、我慢しているんでしょうかね……?」
『あぁ、うん。家、一人でさ。』
「私の余談はここまでです。長いお話しにお付き合い頂いて感謝します」
小さく会釈したオーナーは、それからまた口を閉ざし、グラスを綺麗な布で磨いていた。
その目の前で、俺は言葉を失くして俯いた。
アオキの過去話しを聞いて、そして改めて、俺はアイツに何て事をしてしまったんだろうと、そんな虚無感を覚える。そんな気持ちだって後の祭り。ずっと前からわかっていた事だ。
アイツを傷付けてしまった当人の俺には、アイツの傷を癒す事が出来るだろうか。……いや、そんな事は絶対にできない。俺はアイツに妻にも、誰にも言えないくらいに酷い事をした。酷い以上に、酷い事をしてしまった。謝ったって、それは許されない。
かと言って、このままではいけない。それは一番ダメな事。
じゃあ俺は――。
「俺は、『青木君』に何をしてやればいいんでしょうか……」
「……」
「勿論謝る。土下座だって出来る。……ただそれで、『青木君』の傷が治るわけじゃない。俺は何を……」
項垂れた。
目の前のオーナーからしてみれば、俺は子供みたいな男に見えるだろう。それでもしょうがない。俺は見た目だけ大人の子供だった。
「アオキはあなたの事が好きです」
「……は、ぁ?」
いきなりの一言に俺は目を見開いた。
「な、に言ってんですか」
「友好的にか、恋愛的にかは定かではありませんが、それだけは分かります。」
たった1度会っただけなのに。いや、正確には2度だけれど。酔った勢いでアオキを押し倒してセックスした。寝ぼけて、何も考えず、セックスしてしまった事を全てアオキのせいにした。いつまでも謝りに来なかったのに、ある日突然妻と一緒に現れた。こんな最低な事をしてた、そんな俺が好きだと。
「一途なんです。」
オーナーがそう言って笑ったので、俺はついつい眉をしかめた。
「あの子は自分が人に嫌われた分、誰かを嫌いになんかならないんだと思います。嫌われるのが嫌だから、人を良く観察する。長所短所を見つけ、短所を踏まえた上で人を好きになる。子供なのに大人なんだ。……まぁ、青木にとってそこが短所なんですけど」
「……」
「だから、あなたの短所だってきちんと分かっている。その上であなたを好きになった」
「俺の短所……」
「謝るだけなら謝るだけでいい。それだけだって、ちゃんと区切りはついている。……ただ、中途半端は良くないし、俺も止めて欲しい」
俺を睨みながら、少なからず笑ったオーナーを見て、チリチリと頭皮から緊張が走って、体中を駆け巡った。
「中途半端?」
「さっきも言いましたが、青木はあなたが好きです。どっちの好きであれ、体の関係を持ってしまった。それだけはたとえ青木が無い事に仕立て上げたとして消えません。青木にちゃんと謝った。でもそれだけじゃ青木の傷は癒えない。じゃあどうしよう、このままさよならはいけない、じゃあどうしよう。……なんて、そんな中途半端な付き合いをされちゃ困るんです。それがあの子をもっと傷つける事になる」
ちゃんと答えを決めてから青木と付き合え。
オーナーはそんな真剣な顔をして、俺を睨みあげた。そこで俺は気付く。この人は俺を憎んでいる。……いや、怒っているのか。
「……はい」
それも当然か。
この人は青木を心配している。自分じゃどうしても青木の幼い頃からの心の溝は埋められないと分かっていて、それでもなんとか埋めてやりたいと必死になっている。そんな中、横から現われた俺が青木の心の溝を深めやがった。
キレてしまいたいのは当然だ。
「あなたには奥さんが居る。青木とも関係を持ってしまった。良い奥さんを選ぶか、傷つけてしまった青木を選ぶか。……あなたの好きな方を選べばいい。どちらにせよ、私は何も言いません。ただ、どっちもなんてそんな中途半端は、絶対に許しません」
それは分かっている。
妻に対しても、アオキに対しても、オーナーに対しても失礼で、侮辱だ。
それでも俺は――。
「――オーナー、おはよーゴザイマス。…っ……あ、と。いらっしゃいませ。昨日もいらしてましたね」
入口のドアが開いて、夕方だと言うのにおはようと挨拶しながら、アオキが入ってきた。まだ髪型もセットされていない。多分これからセットするのだろう。
俺を見たアオキは、やっぱりあの日の事を無かった事にしようとしていた。
忘れるから忘れよう。大丈夫。あの時アオキがそう言った。お前一人忘れようとしたって、忘れられる事じゃない。俺は絶対に忘れてなんかやんねーし、お前にだって忘れようと、そんな我慢なんてしてほしくない。
「オーナー、帰ります。水、ありがとうございました」
「そうですか」
小さくつぶやいて、オーナーが少し残念そうに笑った。俺をそれを見た後で、横の椅子に置いた鞄をとり、席を立つ。入口の前へスタスタ歩き、それでもそのまま入口を出ずに、アオキの目の前で止まった。
「アオキ、今日は何時に仕事が終わる」
「……、ん……え?」
アオキは大きく戸惑った。
「何時に終わるんだ?」
「えと……あの、…12時。過ぎると思いますけど……」
未成年は10時過ぎて働いたらダメとか、なんかそんな法律があっただろうとか思ったけれど、こいつは未成年にして酒を作ったりしていたので、思っても口には出さなかった。
「終わったら、あのコンビニに来い。……待ってる」
「え……っちょ。…っ伊崎さんっ?!」
困惑しながら俺を呼ぶアオキを背中に、俺は今度こそ入口から外へ抜けた。
風は少しだけ強くて、それでいて少しだけ冷たい。空は茜色の空から赤やオレンジや紫や、さまざまな色が所々に変わっていた。
綺麗で、アオキを思った。
*
「寒いでしょう、明日も仕事あるじゃないんですか? 夏風邪引いてもアレですし。俺の家行きましょう。家、誰もいないんで」
相変わらず紛らわしい言い方をするアオキの頭を、ムッとしながら睨んだ。
深夜過ぎ。妻はもうとっくのとっくに眠りについていたので、俺は少しだけ厚着をしながら家を後にした。あのベッドで妻と寝るのは、やっぱりまだ辛い。
15分くらいたったくらいに、髪の毛をセットしたままのアオキがコンビニの影から顔を出した。少しやりづらいような、そんな顔をしていた。そんな顔をしながら自分の家に行こうと言われたので、俺はムッとしながらアオキの後ろについていく事にした。
ついたのは本当にぼろアパートと呼ぶべきにふさわしいような、そんなアパートだった。階段も屋根も錆びついていて、土からは1メートルも無いだろうが、それでも長い雑草だって生えている。
「ここです」
ポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込みカチャリと音を立てさせる。そうして開いたドアの向こうに入り、俺を招いた。
さっきから俺の心臓はバクバクしっぱなしで、本当に情けないと、そう心の中で思う。
少し経ってからアオキが居間の電気を付けて、ビックリした。
「……」
畳まれた敷布団とタオルケットと掛布団と、その上に置かれた枕1つ。TVなんて無くて、冷蔵庫と、タンスと、小さなテーブル。横には散らばったような、所々整理されているような参考書と問題集の山。台所にはフライパンと鍋と食器棚と、封の空いてる、でも新品のように使われていない少しの調味料があった。食器棚には皿の数枚とコップしかない。
オーナーの言った通り、必要な物しか置いていない殺風景な部屋模様だった。
「すみません、ロクなもてなし出来なくて」
「いや……いいんだ…」
俺にそんな事してくれる必要は、お前にはない。
「あぁ、膝痛くなるでしょ、すみません。座布団の変わりに布団に座ってください」
来客はあまりないのか、座布団は無いらしい。俺は遠慮しがちに、それでもしっかりと布団の上に座った。
その目の前に、アオキが座る。
「……で。…どうしたんですか?」
「どうって……」
まるで何も無かったかのように、目ん玉を丸くしながら聞いてきた。
「お前、……俺とお前の間に何があったか、…ちゃんと覚えてんだろ?」
「うん」
黒い瞳が、少しだけ俺から逸れた。
「俺がアンタを誘ったんだ。……だから、ごめんなさい。もう二度と会わないとは思ってたんだ。でも会っちゃったから、……でもさ、忘れるって約束したから俺は…」
「そうじゃないだろっ」
「え……?」
こいつは、どうしてこう全てを自分のせいにするんだろうか。それで相手が満足するわけがないじゃないか。
「俺にだって、否があっただろう」
「……無いよ」
あまりにも綺麗に笑いながらそんな事言いやがったので、やっぱりまた俺はあんぐりした。心からわなわなと湧き上がる……コレはなんて感情なんだろうか。
「大丈夫。全部俺が悪い。伊崎さんは、何も悪く無いんだ。大丈夫だから、…だから……」
ダイジョウブ。またそれか。大丈夫。
「ごめんなさい」
「やめろっ……!」
大丈夫だのごめんなさいだのを連呼しまくるアオキが怖くなってきて、俺は少し強めにそう言った。
「ちゃんと考えろ。あの日。本当にお前だけに否があったか? 嘘なんか吐いたって無駄だ。……俺は全部分かってんだ」
「……」
お前が俺の事、妻の事を知っていた事。俺からお前を誘った事。それに加え、お前の過去も、お前の短所も、全てを分かった。
嘘なんか吐かなくてもいいんだ。
「お前はどう思った。お前の思った事を全部話せ。嘘や我慢は無しだ」
「……俺はどうなんて…」
答えずらそうに下を向くアオキに、またしても俺の心に湧き上がる分からん感情。
「アオキ……」
「伊崎さんの奥さんは、すごくいい人だった。初めに会った時からそれは変わらなくて。……この人がお母さんなら、俺は多分、生まれてから死ぬまでずっと幸せだったんじゃないかなって思ったんだ。そんな人の旦那さんは、やっぱり良い人なんだと思った」
「お前にとって、俺は本当に良い人だったか?」
「うん、すごく良い人なんだ。こんな俺をいつまでも気にかけてくれる。……今だってそうだ。…きっとあの時から沢山悩んだと思う。憎むんじゃなくて、……それだけで俺は嬉しい。それでも俺は。…俺だってそれくらい、分かってた筈なんだ。」
何を……。
「あの時、アンタの家の写真に写ってた奥さんと伊崎さんを見て思った。本当に幸せそうで、……俺はいままで、俺の近くでこんな幸せそうな顔で笑った人を見た事がない。きっと俺は疫病神みたいな奴で。人に嫌悪感を与える事しかできないんだと思う」
「そんな事……ねぇだろ」
「あるよ、伊崎さんが俺を殴ったのだって、それだろう?」
反論は出来なかった。
「きっと絶対、俺があんた等の近くに居たら、また写真みたいなあんな幸せそうな笑顔は出来ない。それが分かってて、俺はあんたとセックスした。こうなる事も、薄々は全部分かってたんだと思う」
「――」
胸がツキツキと痛み続けて、苦しい。
「だから、ごめんなさい。本当に忘れてくれたら嬉しい。俺はあんたと奥さんの関係を崩したいわけじゃないんだ」
なんだ。なんなんだ。じゃあ、俺と妻の関係を崩したくないなら、お前が傷を背負っても良いってのか。それは。
それは違うだろう。
「なんで、全部自分のせいにしたがる」
「……なんでだろう」
冗談半分にそう答えて、アオキが少しだけ黙る。何かを考えて思いついたのか、しばらく経って口を開けた。
「嫌われて欲しくない」
目を見開いた。
この子は本当は全部、分かっているんじゃないだろうか。自分の長所短所。自分の性格も、自分の存在も。多分自分の考えが間違っているって事にも、自我的にじゃなくても気づいている筈だ。それでもそれを直そうとしないのは、幼い、昔から受けてきた中傷と罵声と――。
さっきから止まらん心の中の変な感情の意味を悟って、俺は自分の胸板にアオキの頭を押し付けていた。強く強く、アオキが暴れるのを無視して、ぎゅうっと強く。諦めて暴れるのが収まっても、強く強く抱きしめた。
切なさも一理、苦しさも一理、寂しさも一理、空しさも一理。
そんな悲しさが全て。
*
それからこの部屋を何度と訪れるのは――。
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