悪い奴
悪い奴と、その話し
恋愛と結婚は別。だから不倫だって出来る。
好きとセックスも別。それだから愛の無いセックスが存在する。
「ややこしいね」
ちょうど妻が昔からの友人宅に泊まりに行っていなかったので、仕事帰りにバーへ寄り道した。普段ならそんなところ一人ではいかないが、妻が最近ハマッてるとか言っていたから、少しだけ気になっていた。
とりあえず街に出て、……よく分からなかったから1番最初に目に入ったところに入った。
開店後なのか、それとも売れてないのか。客は俺以外誰もいなかった。
「いらっしゃいませ」
黒い眼鏡と、黒い髪の毛。黒いベストに黒いパンツ。Yシャツには縦線のストライプが模様となっていて、まさにバーテンダー、的な男がいた。
程よい暗さと、落ち着いたジャズ。男とバーの雰囲気もマッチしている。
「どうしますか?」
メニューを渡され、困惑した。カクテルの事は何も知らなかったから、何か美味しい物を、と、適当に注文する。少し間を置いてから了解しました、と静かに声を出したそのバーテンダーは、俺の目の前で手際よくカクテルを作り出した。手際がよすぎて少しだけ圧倒された。だから行程は全く覚えていない。
気付いたときには色鮮やかなスカイブルーが目の前に出されていて、俺はただゆっくりその鮮やかな色をした液体を飲むだけ。
「……うめぇ」
チマッとした小さな底に、長い持ち手。少ないその中身をぐいっと一口飲んだ。中身はもう半分もない。海見たいに綺麗な青色をしていた。だけど海より何倍も甘い。アルコール分はあんまり感じなかったが、本当に美味しかった。
残りの半分を飲み込むが、やっぱり美味い。
「おい、これと同じの。もっとくれ」
また同じものを頼んだ俺に、バーテンダーは何故か小さく笑いをこぼした。
「お客さん、コレはそんなバンバン飲むものじゃないんですよ」
「美味ぇんだ。だから飲みてぇ」
「甘かったでしょ、ソレ。次は少し酸味のあるの作ってあげますよ。お金大丈夫?」
商売やってる癖に金の心配するのか、なんて不思議に思いながらも、俺は財布の中身を確認する。
「10000円しかねぇ」
「じゃ、それ以内で作ればいいんですね」
それから、そのバーテンダーは次々にいろんなカクテルを作ってくれた。さっぱりしたのとか、喉の奥が少しピリっとするくらいの辛みのあるカクテルとか。様々な物を作ってくれた。
俺がいちいち酒の種類の名前を気にするような人間では無いと察知したのか、深い説明はされなかったが。ただ美味しいでしょ? と軽い笑みを浮かべるだけ。
綺麗だった。
「なぁ、お客さん。あんた、サラリーマン?」
「あぁ、営業職だ」
「そりゃ凄いな。疲れねぇの? 毎日毎日暑い中街歩き回って頭下げててさ」
「疲れるが、やり甲斐はある」
「ふーん、お客さんは努力家だね。偉いなぁ、なんか売り上げ成績とかあるんだろ? ドラマでやってるような」
「ん、あぁ。ドラマ、……そうだな、そんな感じだ」
サラリーマンをやっていて、お疲れ様。だとか、頑張って、応援してるよ。だとか、そんな言葉を言われる事はしょっちゅうだったけれど、偉いなんて言われたのは初めてだった。
仕事をするのは当たり前。俺はただ当たり前の事をしているだけなのに。それを偉いと口にするこのバーテンダーは、深い真っ黒な目に、俺を映していた。
「なぁ、アンタっ――」
「ただいま。店番させちゃってごめんなぁ。お客さん、いらっしゃい」
俺がバーテンダーに話しかけようとしたら、店の入り口で何やらそんな声がした。顎と鼻の下にヒゲを生やし、サングラスをかけ、シワの無い紺色のベストとズボン、それに合わせたかのような、同じ色の蝶ネクタイ。それに丈の長いソムリエエプロンを付けている。
「すみませんねぇ、お客さん。気まずかったでしょ?」
「え? いや、……そんな事は…」
接客なのは分かってるが、バーテンダーから色々話しを振りかけてきていたし、それに会話も弾んでいた。
「わざわざ店番してやってたのに、それは無いですよ店長。早く位置に戻ってください」
「へーへー」
何やらコンビニかどこかで足りない食料でも調達してきたんだろうか。誰もいないフロアでコンビニ袋の中をあさったりしている。
「なぁ。また来なよお客さん、サービスするぜー?」
「おいおい。アルバイトの癖に何言ってんだぁ?」
俺に向けて言った筈の言葉に、その店長が声を上げた。
「アルバイトで悪かったですね! ……ていうか、俺目当てで来る客だっていんだぞ! ありがたいと思ってくださいよ」
アルバイト。……コイツの本職は別にバーテンダーでも無いってのか? あんなに美味い酒を知って、それを作れているのに。
心の底から勿体無いと思った。
「それでもお前未成年だろ? 今日はもういいから、早く帰んなさい」
「未成ねっ……?!」
驚いて声を上げた。目の前に居る、真っ黒いバーテンダー服に身を包んだコイツが、未成年だと? いや、……そう言われてみれば、そんな気もしてくるが。
つまり俺は未成年に酒を作らせてたのか。
「そーなんですよコイツ、18歳なの」
若ぇ。俺なんてもう今年で26、四捨五入すれば30だ。
「あ、内緒にしといてくださいよ、お客さん」
グラスを拭きながらそう言うバーテンダーは、言われれば、その笑い顔に、まだ少しだけ幼さが残っているような気もする。
ワックスで軽く整われた髪の毛。かけている眼鏡は少しダサいと思わせるような気もするが、若い奴の今の流行なんて分からないから、今はコレが良いのかもしれない。それでも、……こんな綺麗な目を眼鏡で隠すなんて、それも勿体無い。
「お客さん、どうしました?」
自分の顔をジッと見てる俺に、バーテンダーはまた笑いながら不思議そうに俺を見た。
「いや、……会計…してくれ」
「……はぁ」
さっきから思っていたが、このバーテンダーの笑い顔は、なんて綺麗なんだろうか。人それぞれ格好良く、可愛く見えたりする表情やアングルはあるが、笑い顔がこんなに似合う人間はそうそういないだろうと思う。
「7400円になります」
スーツの内ポケットに入った財布を取り出し、1万円をバーテンダーに渡した。
「まいどっ」
手渡しで2600円を返される。
「美味かった。ありがとな」
「……うん」
美味かった。そう言うとバーテンダーが少しだけ頬を染めるのが分かった。大人染みた格好をしていても子供だな。なんて思い、カバンを持って出口へと向かった。
8000円近く無くなってしまったが、久しぶりに良い酒を飲んだ。バーに来たのは久しぶりだが、ココにはまた来たいとそう思った。
今日は気分が良い。
バーから出ると、涼しい風が吹き抜けた。
*
「え、……もう明日まで?」
「うんー、ごめん、…やっぱ駄目だった……?」
「いいよ。久しぶりなんだろ? 俺の事は気にしなくていいから、ゆっくりして来い」
「なんか優しいねぇ、ありがと。お土産買ってくね!」
朝、いつもより早く起きて、コンビニで朝食を買って食べた。それから会社に行き、すぐに街を歩き回り、仕事の間だけはいつもと変わらない時間を過ごした。
10時くらいに家に帰ると、鍵も掛かってるし灯りもついていない。ピカピカ光る家電の留守番は2件溜まっていて、その二つとも妻からだった。
2件目には帰ってきたら電話をくれと言う伝言が残っていたので、こんな遅い時間だから遠慮しようかと思ったけれど、何か事故が起きたりしてるのなら心配なので、妻に連絡をとったら、明日まで友人の家に居たいと言われた。
それを潔く承諾した俺は、もうこんな時間なのにそれを拒否するのは理不尽だし、それに、普段妻が忙しく動いているのを知っていたからだった。だから感謝もしているし、好きだから結婚した。だから大事な存在だ。妻が幸せならおおかたはそれでいい。だからOKした。
「さて……」
電話は切ったが、明日までどうしようか。
まずは飯だ。……とは言っても、どうするかは大体察しがつく。
「コンビニ……行くか」
飯なんか作れない。料理を作ったのは妻が熱を出して倒れこんだ時の、あの味の無いドロドロのお粥が最後だ。去年の冬だったか……半年以上も前だ。
玄関を出て、鍵を閉める。空腹の体で少しばかり歩き、コンビニの中へ入った。カゴを持ち、弁当とカップ麺と、缶ビール4,5本をソレに入れる。
「酒……」
昨日飲んだカクテルの味はいまだ忘れられない。人間良いモノと一回でも出会えばそれを求めてしまうものだ。……少し物足りないが、それはまぁ仕方ないと思った。
深いため息を付きながら何かつまみはないかとしばし店内を物色する。
「あれ、昨日の……お客さん?」
聞き慣れないが、最近聞いた事のある声だった。
「……あぁ、アンタ」
昨日のバーテンダー……らしき人物がそこにはいた。パーカーのチャックを半分ばかし明け、腕まくりしている。下はジャージで、昨日とは打って変わってラフな格好だった。髪の毛もセットしていないし、……それでも髪の黒さと、綺麗な目と、それを隠そうとする眼鏡は、昨日のままだった。
「何やってんだ? こんな遅くに」
「遅く? ……って、まだ10時半だよ」
今時の高校生はこんな時間にも出歩いているのか。まぁ、女でもないし。……そんな心配する事でもないか?
「お客さんこそ、何やってんの? 飯買いに来たとか……っと、お客さんってもしかして酒豪なの? 昨日も飲んでたのに」
「いや、酒には弱いが。……酒は好きなんだ」
ふーん。……と物珍しそうにバーテンダーが俺を下から覗く。
「お客さん、変わってんね」
そうニカッと笑った。幼さの残る笑顔。一瞬、本当に見惚れて固まってしまった。本当に笑顔が似合う人間。
「お客さん?」
「あぁ。いや……」
思考がしばし固まっていたのが、急に解けた。黙っていた俺はさぞ変人だろう、なんて思いながら、必死に話題を変えようと話しのネタを探る。
「……お前も弁当か?」
ふいに視界に映ったのは、バーテンダーの持つカゴの中に入った紙パックの飲み物と、カップ麺だった。
「あぁ、うん。家、一人でさ。料理とか……あんまりした事ないんだよね」
今は家に誰もいないのか。……まぁ、なんと言うか、俺とそっくりだな。
「俺も今家に誰もいねぇんだ」
「へぇ……そりゃあ…」
バーテンダーがふと俺の左手の薬指を見る。
「……お客さん、嫁さんに逃げられたの?」
何言うかと思ったらそんな……。最近のガキってのは本当に恐ろしい事考えるな。
「アホっ! 変なこと言うな馬鹿。ダチんとこに泊まりに言ってんだ。その間俺は一人なんだよ……ていうか、お前。バーに行かなくていいのか? 今営業中だろ。バイトは?」
「あぁ、今日は休み取らせてもらってんの。明日からまたバシバシ働くよ」
未成年なんだし、誰かにバレたら偉い事になるだろうな。
「無理すんなよ」
「うん。あ、なぁなぁ。お客さん今家一人なんだろ? 俺今から行ってもいい? どうせなら交友でも深めよーぜー? こんなコンビニ飯でも、一人より二人の方が美味いだろ?」
知らない未成年を家に入れる……ってのは、犯罪にならねぇんだろうか。でも男だし、今は家に親もいないんだろうし。それに今は妻もいないし、バーテンダーの言うとおり、一人より二人のが楽しいだろう。
「いいぞ。俺ん家で飯食うか」
「……っうん!」
そんな俺の返答に何が嬉しかったのか、本当に目を輝かせながら笑ったバーテンダーに、俺はまたも思考を奪われた。
そんなこんなでそれぞれレジで金を払い、それから互いにペチャクチャ喋りながら俺の住むマンションまで歩いてきた。そもそも俺はこのバーテンダーの名前は知らなくて、交友を深めるのにいつまでもお前だとかアンタだとか、バーテンダーって呼び方はおかしいと思い、バーテンダーに名前を聞いた。
「お客さんの名前は?」
人に名前聞くときはまず自分から名乗れ……ってか?
「伊崎だ。伊崎瑛太」
「へー、お客さんすっごいカッコイイ名前だね」
「……名前教えたんだからそのお客さんってのやめろって。…んで、お前は?」
「アオキ」
「……苗字か? 下は?」
「下? んー……下。下は良いよ。アオキって呼んで」
下の名前は言いたくない? 交友深めるっつったのは自分の癖にか。……いや、もしかしてバーで本名とは違う名前を使ってるとか。……源氏名って言うのか? そういう事をバーでしていたり……って、…バーで源氏名なんか使うのだろうか。
わからんが、まぁいい。
「別にいいが、言いづらいな」
「言いやすい発音で良いよ。実際下の名前にしっくりくる感じで呼ばれる事のが多いし」
下の名前にしっくりくる感じって……アよりキのが低い音になってる感じか?
「ふん……まぁいーや。入れ」
鍵を開けて、扉を開けて、先にそのバーテンダー……アオキを中に招き入れた。
「お邪魔します」
そう挨拶して、脱いだ靴もきちんと揃える。行儀の良い奴だと少し関心した。廊下を渡り、居間に入る。ワンレンポ遅れて俺も居間に入ると、何やら興味有りげに頭をうろちょろさせていた。
「へー、綺麗だなー」
「掃除してくれてるからな」
「部屋じゃなくて、あ、部屋もだけど。奥さんの事」
アオキが指さした先の棚の上に、昔旅行を行ったときにとった俺と妻が映る写真があった。
「……惚れるなよ?」
我ながら臭いセリフだとは思ったが、自分の妻を他人に褒められる事がこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「すっごい幸せそうだ。……奥さん。知的そうで、優しそうで。…良い人だね。」
良い人。
そこに映る小さな妻を見て、アオキは目を細めた。羨ましそうに、その写真に触れようとしたんだろうか。手がそこに伸びて、だけど目の前で止まった。空を掴み、その手は行き場を失う。
それから少しだけ俯いて、アオキが笑った。悲しそうで、綺麗だった。
そんでその一瞬。
「アンタも本当に幸せそうだな。ごちそうさまー」
空気を変えるかのようにわざとらしく俺に手を合わせるアオキに、少しだけムッとする。
「名前で呼べっつの」
ペチっとデコを軽くたたくと、へへ、ってガキ見たいに笑った。
「ちょい待ってろな。すぐ湯沸かすから。どこ座っててもいいぞ」
「ありがと。よろしくです」
カーペットの敷いてある床にベタンと座って、コンビニ袋からカップ麺やらなにやら取り出し、蓋を開けて粉スープやら火薬やらを入れていた。俺はその間にやかんに水を汲み、火にかけてまた居間に戻ってくる。自分の分はやり終わったのか、俺の分も開けて火薬やらを入れていてくれて、結構気のきく奴だなと関心した。
「ソファ、座ればいいのに」
「あー。……俺ん家ソファ無いから、逆にぎこち悪いっていうか…」
「ふーん」
そうか、と、俺はそのままソファへ腰を沈め、缶ビールを袋から取り出した。それを見たアオキも何やらアセアセと袋から紙パックのジュースを取り出す。ストローを差込み、俺の前へ突き出した。
「カンパイ」
「……」
その言葉に、笑みが零れる。缶ビールと紙パックのジュース。プルタブを明け、それにコチっと当てた。そのままグイっと中身を飲み込む。アオキの作った酒ほどではなかったが、中々上手かった。
それから会話は弾みまくった。わざわざ作ったカップ麺も、最後らへんには延びきっていてそれほど美味しいとも感じられず。それでも、美味しかったというか……何て言えばいいのか分からんが。さっきの酒と一緒だ。コイツが居たから美味しい。美味しかった。
アオキは子供と大人の境目みたいな感じの奴だった。子供の辛さはもう分かっていて、今まさに大人の厳しさを習っているところだろうか。俺の仕事をドラマに例えていたのと同じで、社会の事はまだ良く分かっていなかった。何か教えてやれば苦い顔をしたり、楽しそうな顔をしたりと。
酒も回って、俺はいつもよりもかなり饒舌になっていただろう。俺の生い立ちを初め、妻との出会い、妻の事。会社の事や、友達の事。愚痴や思い出ありのままを喋り捲っていた。それに、男と男という事もあって、かなりの下なネタや、少しグロっぽい事なども話していたと思われる。相手が未成年だという事を完全に忘れきっていた。
そう、完全に忘れていたのだ。
いつ眠ったのかはよく覚えていない。確か最後にみた空は黒よりも明るくて、紺色だったと思われる。シーツと肌が触れ合って、心地良い。少し肌寒い気もしたが、とにかく温かだった。スズメの鳴き声が聞こえ、続いてカラスの声や、ゴミを収集する作業の音などが立て続けに続いた。
「ん……」
俺よりも高くて、でも男の声が聞こえた。俺は何一つ声を発してはいない。不思議だった。一瞬妻とも思ったが、いくら寝起きが低血圧な妻でもこんな低い声を出した事はない。
じゃあ誰か。
そんな事考える余裕も無く眠い。
とりあえず、寝よう。寝直そう。そう思って、ふと寝返りを打ってみた。時々妻は友達と温泉に泊まり行ったりする事はあったので、ダブルのベッドは1人だけじゃ少し広く、割と寂しいものだと分かっていた。
それなのに、少しも広くない。寂しくもない。
寝返りを打った先の温かさが、人の体温だという事を知った。伸ばした腕には誰かの肌があって、その感触が余りに柔らかく、素肌という事を知る。
「な……」
重い瞼が、一気に上がった。
カーテンが閉まっていて、少しばかり暗い。それでもはっきり見える。見えた。目の前には俺よりも若い男の顔があって、目を閉じて、キレイに眠っている。
「な…っ」
アオキだ。裸で。同じベッドで。寝ている。アオキが。未成年だ。いや、それよりも……。何でこんなになってんだ。
気付けば、俺も裸だった。
わなわなと怒りが込み上げる。一触即発。
「ぅん……」
軽い寝言。それが簡単なほどに俺の怒りを爆発させた。
「てめぇっ、なにやってんだっ!!」
ダブルベッドは、二人で寝るには丁度良く、それでも何か物足りないって事を俺は知っていた。
布団を剥ぎ、思いきり眠っているアオキの腹を蹴り上げる。衝撃でアオキの体は後方へ飛ばされ、そのままベッドの下へと落ちて行った。ドスンという大きな音と共に、アオキの呻き声が聞こえる。
「いづっ……ぐっ!」
腹を押さえうずくまるアオキの髪を、俺は怒りのままに持ち上げた。そのまま顔面をぶん殴った。
「がふっ! …っ……!」
「何やってんだテメェっ!」
我を忘れていた。
コレはアレだ。所謂アレだ。『不倫』ってやつじゃないだろうか。状況からして、俺はコイツと、アオキとセックスを…してしまった? んじゃないだろうか。……男と男同士でも不倫になるのか? カウントされるか? ……いや、体を重ねたのなら男も女も関係ねぇ。
そんな事を思って、我を忘れていた。
見下ろす先のアオキは、パンツも穿いてないような真っ裸だった。醜い。なんつー醜い。俺は何て奴とヤッてしまったんだ。ていうか何でやったんだ。俺はノンケだぞ。そんで結婚してんだ。それがちゃんと証明してんだろうが。なんで男とヤッてんだ。
「ごめんね」
呟いた言葉は、謝罪だった。
ごめんで済んだら警察はいらねぇんだ。
「ごめんなさい」
だから……。
「大丈夫」
……。
「忘れるから、忘れよ」
アオキが笑ったので、俺はあんぐりした。
「お互い口に出さないで。もう会わないから大丈夫。」
鼻から赤い血が、細い糸みたいに垂れている。既に腹も頬も、赤紫色になっていた。それでもアオキは笑った。
『もう会わないから大丈夫。』
何回も頭の中でグルグル回る。俺はそのまま固まってしまった。目に写るアオキは慣れない手つきで床にバラバラに落ちている自分の服をかき集め、着直していた。
「ごめんね」
笑った顔は、とんでもなく綺麗だった。扉を閉める音が聞こえて、俺はベッドの上に腰を降ろした。
――なんだったんだ……。
数秒の事にも、数分の事にも、数時間の事にも感じられる。
「……はっ…」
上手く息が出来ない。冷静になろうとしても、冷静になんかなれなかった。それでもさっきより怒りの爆発は落ち着いて、俺の脳は次第に昨日の事を思い出していく。
酒を飲みまくったんだ。気持ち悪い程機嫌が良かった。心配したんだろうアオキがこっちに近づいて来て、俺から酒を遠ざけて、背中をさすったりしてくれた。何回も大丈夫? と問いかける声が耳元から聞こえてくる。その声が妙に心地よくて。
見たアオキの顔は驚くほど綺麗で、心配しながら眉を引きあげて、微笑っていた。
綺麗で、綺麗で。綺麗だった。
これ程までに思った事は確か無い。つい触れて見たくなって、少しだけなら大丈夫かと、ゆっくりとその頬に触れてみた。温かくて、柔らかくて、吸い付いてきて、心地よくて。
「伊崎さん?」
それから先は……。
「……な、…って…」
何て事をしてしまったんだろうか。
辿った記憶に、アイツは何一つ謝る事はしていなかった。
むしろ俺が。……何も無いアイツを殴ってしまった。蹴ってしまった。最悪だ。社会人として、年上として、人間として。
「俺は……なんつー…」
俺は、何て。
なんて、
続きます。
NEXT→ 悲しい子