隴を得て蜀を望む
丁度休日の昼下がり。仕事以外では鳴る事の無い方の携帯電話がチカチカと光った。休日出勤か? なんかミスでもしたか? そんなことを思いつつ、携帯を見てみた。表示される番号は裸で、どこの誰だかは分からない。不思議だな?と思い、きっと間違い電話だろうと思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし、」
回線は繋がっているのに、声がしない。ただ後ろからは人ごみの中にいるような、そんな騒がしい音が聞こえた。
「どちら様ですか?」
返答は無い。いたずらだろうか。それにしても仕事用の携帯にいたずら電話とは迷惑甚だしい。
黙って切ろうかと耳から離そうとした時に、その声は聞こえてきた。
「俺だ」
「……」
そう言った声には、確かに聞き覚えがあった。自ら連絡を絶ったのだ。そうしたくらいの関係。声を忘れる筈も無い。
「どちら様ですか?」
「ふざけんじゃねぇぞ」
軽くもう一度聞き返すと、そんなキレたような声が聞こえてきた。なるほど、変わってない。
「元気そうだな」
口には出さなかったが、それなりに気にはしていたのだ。連絡を絶ったのがこちら側でも。声は震えていないだろうか。
「元気……そうだな、元気だぜ? それなりに」
良かったと言葉を返そうとして、自分にそんな事を言う権利は無いのではと考えて、口を閉じた。
曖昧な返答に、昔の過ちを思い出す。まさか根に持ってはいるまい。一応は2人で決めたこと。全てを誰かになすりつけるような事を決してしない性格は健在であってほしい。
「で? どうしてこの番号知ってるんだ?」
「会社の一応の上司が名刺落としてな。名前がお前だったから、もしかしてと思って。M通と取り引き中だろ?」
聞いた会社は、確かに聞き覚えがあった。何回かその会社に行き、名刺の交換もしていた。
そうか、こいつはその会社に入ったんだな。
「そっか。うん、してるな、取り引き」
「会わないか」
急に一変したその話に、唾液を飲み込む。
「悪いけど、今日これから、急に出勤命令出てさ。ごめんな」
会うなら会うでお互いつらい。会わないなら会わないでお互いなにも変わらない。それなら会わない方が良いだろう。色々と。そう思って、嘘をつく。
「そうか、それは残念だ」
「あぁ」
「お前、あの時も同じ嘘ついて逃げてたけどな」
「……」
「確か、前は急にバイト代わりに出る事になったんだっけか」
そんなこと、忘れた。どうして覚えているんだろう。そんな小さな事。
「もう疲れた」
「……は?」
「ケリ付けようぜ。言いたいことがたくさんあるんだ」
どうケリをつけるつもりなんだろうか。まさか土下座しろと言うつもりではあるまい。それに、言いたいこととは何なのだろう。電話じゃ、ダメなん……だろうな、きっと。俺に何を警戒しているのかは知らないけど、こいつなら多分俺は携帯を切ると断るだろう。別に今切ってもいい筈なのに、懐かしい声を中々離せない。
『なぁ、お前さ――』
低く心地の良い声が、腹の中にズッシリと響いた。
あの時その質問に肯定したのは、きっと正解だった筈だろう。
「きっとお前は俺が嫌だって言っても会うんだろうな」
「……ああ」
「今どこにいるんだ?」
「駅前通、俺ん家に帰るところだ」
きっと、あの時と変わらぬ同じ家なんだろう。
「じゃあ、お前の家に行けば良いって事か?」
「外で話せるんであれば構わないが」
「……家で待っててくれ」
小さく分かったと言う声が聴こえたので、通話を切った。こんな日が来てしまうとは、想像もしなかった。いや、実際には脳みその奥深くでしていたかもしれないが、それも些細な事だ。
物好きなやつだな、あいつも大概。
そう呟いて、ジャケットを羽織る。
「思い出せば辛いだけなのにな」
そんな事を言ってみたが、今でも鮮明に思い出せる。
その日は、大学4年生の留年中退卒業問わず、ゼミの皆で集まって送迎会と称し、居酒屋でワイワイと騒いだ。俺はもう就職内定が出ていたもんで、ハイテンションに浮かれまくっていた。気付けば終電も無くなっていて、俺は徒歩でも帰れるそいつの家に泊まれと催促された。居酒屋を出ると、入った時とは一変したような土砂降りで、遠くの方で雷も聞こえる。そいつの家に着いた時にはもうパンツまでビシャビシャだった。先に風呂入れと促したそいつに遠慮せずに、風呂に入る。上がった時にはカゴの中に洗った後のTシャツとジャージ、それと、袋に入ったままの新しいパンツがあった。
少しだけ躊躇しながら、それらを着て、居間に行く。
「ちょいとでけぇな」
「あぁ、問題無いよ。ありがとう」
上半身裸で、肩にタオルを掛けたままソファに沈んでいるそいつが立ち上がり、入れ替わりで風呂に入った。雨の音がうるさい。
思えばいつからかソイツを友達として見れなくなっていた。いつからかは分からない。気付いたらそうなっていた。
やってらんねぇ……。そんな感じに、タバコに火を付けて、灰皿をテーブルの端から引き寄せる。あいつの誕生日に、雑貨屋で買ってやったキモカワの顔の形をした灰皿だ。鼻の穴がタバコを押し付ける部分になってて、「拷問じゃねぇか」とか言って、あいつ含め、友達と爆笑しながら買ったやっすい灰皿。
(使ってんのか)
嬉しいと思った。ただそれだけ。
3本目のタバコに火を付けようとしたときに、そいつは風呂から上がって来た。
「酒、無いよな?」
酒を1滴も飲まないそいつの家に、そんな物あるわけないと思ってたが、会話が続かないんじゃないかと思って、一応聞いてみる。
「あー……、あるんじゃねぇか?」
「え、あんの?」
「前に麻雀やっただろ、残りが数本そのままだったと思うが……」
冷蔵庫をあさるそいつが、そこから綺麗なカーブを描かせながら、俺に向かって缶ビールを投げる。小さくお礼を言いながら、蓋を開け、キンキンに冷えたそれを喉にグイグイと流し込んだ。
「美味いか?」
「ん? ん、美味いけど。……え、なに、お前、飲むの?」
居間に戻ってきたそいつを見ると、もう一本手の中にチューハイがある。
「あぁ、まぁ。美味いなら飲むが」
先程の居酒屋でも飲まなかったそいつが、缶を口につけ、一口二口ばかしそれを飲み込む。
「甘ぇな」
「ジュースみたいなもんだからな」
「ふーん、そっちはどうだ?」
「これ?」
「あぁ、一口飲ませろ」
その一言に、正直戸惑った。この年になってまで間接チューでいちいちドキっとするとは夢にも思わない。意を決して目の前に突き出したそれは、すっと手の中から重さが抜け、それからすぐに戻された。
一瞬だ、一瞬。
「苦いっつーかなんつーか、舌がおかしくなりそうな味だな」
「ばーか、こーゆーのは喉で飲むんだよ」
「? 何言ってんだ?」
「おこちゃまでちゅねぇ」
「うるせーな」
何か悪態をついていないと、ヤバイと思った。心臓がドクドクとうるさい。雨の音でもかき消せない程のうるささが、どうかこいつに聞こえないように。
「灰皿、使ってんだな」
「それな、毎日拷問してんぞ」
「ふはっ! 覚えてたか、俺も思い出した」
お互い、酒を飲みながら、タバコを吸いながら他愛も無い会話をした。やっぱり酒に弱いのだろう。すぐに顔を赤くしたそいつは、少しだけボーッとしている感じだった。
さすがに時計は針をどんどんと進ませ、もうそろそろ寝るか、とか思っていた時に、どこかで大きな音が聞こえた。その瞬間に、目の前にいたそいつが一切見えなくなってしまった。
雷のせいか。
「停電か?」
「停電だな、ちょっと待ってろ。いま、ブレーカー――」
もう一度、今度はすごく痛そうな音が近くで聞こえる。
「おい、大丈夫か?」
「頭打った」
「おいおい気をつけろよ、ブレーカーの場所どこだ?」
「玄関」
「待ってろよ?」
「あ、俺も……。お前きっと届かないぞ」
「傘かなんかでできるだろ」
そんな言い合いをしながら、暗闇を歩き玄関へと向かう。後ろの気配からして、多分奴も一緒に来ているのだろう。
「慣れてもねぇのにグイグイ酒なんて飲むもんじゃねぇな。停電なる。勉強になった」
「飲めねぇ酒飲んで停電するなんてお前くらいだろ」
俺とそいつの服が擦れる音が聞こえる。暗闇の部屋では、どんな状況にあるのかがよく分からない。きっと、密着している。
「あ、傘、傘使え」
「分かってるよ、つーか傘どこ」
2、3分奮闘して、ようやくブレーカーが上がる。
「あ、つい……」
ついたぞ、と口にしようとして、そのまま静止した。突然明るくなった居間の明かりが、玄関の暗闇も照らした。
今まで見たこと無い程近く、そいつの顔があった。小さく見上げると、見下ろすそいつも驚いている表情をしていた。
どちらかは分からない、酒の匂いがした。
傘がかちゃんと、手から滑り落ちる音がする。
どちらが先に目を閉じたかはわからない。先に顔を近づけたのがどちらかも分からない。ただ、なんとなく、キスをした。
一回、二回。
「タバコとビールで最悪だな」
「じゃーすんなよ。お前は結構甘くて俺は好きだけど」
「アホ、どっちがおこちゃまだ」
三回目は、外の豪雨と落雷に負けと劣らず激しかった。きっと、ここまで獣じみたキスをする女は存在しない。
ある意味俺の初体験だった。
足がガクガクと震え始めた頃、ようやくそいつは唇を離す。
「てめー、俺の事女とは思ってねーだろーな?」
「こんなゴツゴツした女が……あー、いや…」
反論の言葉が途中で止む。何か困った感じのそいつは、どう説明しようか迷ったように、緩く俺を抱きしめて来た。
「そーかもしんねぇ」
股間に当たる、隆起したナニか。
「おま、え……」
「や、引くなよ。てめーもだろ」
ぎゅっと握られた俺のナニかも、確かに隆起していた。
いや、当たり前の事だ。だって俺はこいつの事をそーゆー意味で……。
そこで止まる。こいつのことが好きでおったてたと理由付けたら、一体こいつは何て説明するんだ?
もしかしてこいつも俺の事が好ーー。
そこでやめよう。
勘違いは一番危ない。
こいつは自分で肯定しただろう。俺の事女として見てんだ。きっとそーゆー特別な視力してんだ。
「俺、終わった後に後悔とかされんのが一番やなんだけど。お前友達だし。遊びてーし」
我ながら一石二鳥な言葉を紡いだと思った。
これなら俺の事を友達かそれ以上に見ているのかがわかるし、この甘ったるい空気も一掃されて2人仲良く別々に何事もなく夜を明かせるだろう。と、思った俺が浅はか。
「そりゃこっちのセリフだ」
チーン、と、俺の中で何かが哀れんだ。
この答えはあれだ。俺の事を友達として見ていて、尚且つやめる気も無い。
(完璧に性欲処理じゃねーか)
そこから、俺は流されるようにそいつに体をさらけ出した。抵抗もしない、何かを進んでするわけでもない。ただ、喘ぎ、苦しみ、また快感を求め。
そう、たった一度。
一度だけ、あいつとセックスをした。
どちらから誘ったかと聞かれたら、それは答えづらい。『なし崩しに』とか、『雰囲気とか色々』とか、そんな曖昧な空気にお互い惑わされた。惑わされた結果の行為だ。
行為が終わってから、少しの間2人の息だけが部屋を支配していたように思う。ゴムを捨て、後処理をし、汗をぬぐい、服も着ずに一息ついて、その日は何か言葉を交わすことなく、倒れるようにお互い眠った。俺は行為の負担。そいつはきっと、酒のせいだろう。
後悔はしていない。
若さゆえのひょんな過ち。過ちと言ってしまえば語弊が生まれるが、そんなことはなく。単なる「熱に浮かされた」と、そんな感じだった。好きなやつと、しかも男とセックスをするのが、こんなに簡単だとは思わなかった。俺が異例だと言われれば、まぁそうなんだけど。
俺が次に目を覚ました時には、もう昼になるぞってくらいの時間だった。裸の状態で布団に包まっている。この家の主を探してみれば、一人だけ普通に衣服を羽織り、タバコをふかして座っていた。
「あぁ、起きたのか」
実はもう、寝起きの頭で足早に家を出たと思っていた。
「居たのか」
「あー…まぁな」
「講義はどうした? お前朝からあっただろ」
「休んだ。行けるわけ無いだろ」
何故に?
疑問を抱えてはみるものの、寝起きの頭では処理が追いつかない。
困った顔をしていると、それに気付いたのか、そいつはうっすらと笑った。
(あ……)
その笑みで気付いてしまった。寝起きの脳みそでも、全て理解できてしまった。
(そうか、うん。そーか。こんな時でもお前は優しいんだな、やっぱり)
揺るがない理解。
どう考えて見ても、あいつは後悔している。
別にわかりきっていたことだ。辛くは無い。
ただ俺が好きだっただけだ。空気に流されただけだ。こいつと俺は、ただの友達。それ以上でも、以下でも無い。
その時の自分は、何かこいつに対してよからぬ事を口走ってしまいそうで、必死に何回も何回もそれを言い聞かせた。
「なぁ、お前さ」
「……ん」
小さく呟く。
「お前別に、俺の事、そーゆー感じには見てねぇんだよな?」
「そーゆー、って?」
「や、だから。お前は、俺の事が好きとかそーゆーんじゃねぇよな? って、そーゆーこと」
好きなら何なんだ。好きって言ったらどーなるんだ。
「へへへ」
よくは分からないが、アホらしくて笑いが止まんない。
「あたりまえだろーが」
ばーかばーか。
「友達だろ?キモい事言うなよなー、ったく。あー……ふはっ! 笑い止まんねぇ」
多分、もし俺が好きなんて言うとすれば、こいつはこんな態度を取るだろうなー、なんて考えながら、 俺自身をあざ笑ってみる。
中々に滑稽で、そんでもって稚拙な対応だ。でもしょうがない。だって、キモいんだぜ、俺ってば。
「そうか」
そんな安心しきった顔するなよな。良かったな。おめでとう。
「おぅ、安心しろ安心しろ。そんでもってさ、昨日の事は忘れて、またパーっと遊ぼうぜ?友達だしな」
「あぁ」
「つーわけで、俺のタバコ取ってくんない?ニコチン切れで辛い」
投げられたタバコ。ライターの火。有害な煙。
俺かよ、クソが。
「カラオケ行くかー?」
そんなこんなで、良き友達として、大学を卒業するまでの間、俺とそいつは良き友達関係を保っていた。非常に楽しかった。ただの友達で充分幸せだな!
なんて思っている矢先、そいつに彼女ができた。なんとも聡明で奥ゆかしい、清潔感に溢れる彼女。
たくさん祝福の言葉を述べてあげたのだが、如何せん反動は強い。心の中はからっからに渇いた。
「つまんねぇ」
そんな荒んだ心で居た時に、ふいに、つまらないことでそいつと喧嘩した。どちらかが折れて、どちらかが謝れば終わる話しだった。
いい機会だと思った。
この期を逃すバカはいない。
「アホたれ。もーいーよ。うぜぇ、話しかけてくんな」
馬鹿げた言葉を並べた。
「おい、ちょっと待て」
掴まれた肩の手を、バチンと叩き落とす。
「悪ぃな、急にバイト代わる事んなったんだよ。てめーと話す時間は無ぇ」
自ら去った。
俺の携帯は一日置きに泣き続け、5日後には止んだ。
そーして、大学を卒業した。
新しい世界に枯れた心を潤わせ、忙しない日々を過ごしていた、3年後。
泣き止んだ電話はまた鳴る。
続きます