丘の上で待ってる 5
あの日から、幾日たったのだろうか。森で殴られた時の頭の痛みはいまだに消えはしないし、それに体の至るところがジクジクとズキズキと痛い。鞭で叩かれた後は熱く炎症を起こし、酷いところは赤紫に変色し、早く手当をしなければ膿さえも膿んでくるだろう。
今日も鞭で打たれ、あの手に足に叩かれ蹴られ体を重ねなければいけないのだろうか。
一体。一体ここはどこなのだろうか。
情事に至る前、男は誰かに金を払っている。それから誰かに何かを言われ、鞭を手にして私を打つ。私の悲鳴に気持ち悪く笑い、私の涙に興奮する。
「変態め」
その言葉にもっと気分を良くし、さらに私を鞭で打つ。
気持ち悪い。気持ち悪い。ここはもしかして、私の願った外の世界? ここが? 違う。ここは家よりももっと檻だ。牢だ。地獄だ。私の考えはもしかして甘かったのか。あの屋敷を出たいと思ったのはいけない事だったのだろうか。
そうなの?
――違うと思うよ。
そんな幻聴が聞こえた気がした。あの夢で見ていた男の声だ。
違うと言うならば、そう言うのならば、じゃあなんで私はここにいるのだろうか。外へ出たいのに、ここは屋敷に居た時よりも地獄じゃあないか。違いますか?
返答は無かった。だから私は泣いて、それから少しばかりを寝て過ごした。
「もし? ……すみません」
「死にはしていないですか?」
「起きてください。もし――」
何やら声がして、私はそれで鬱陶しく目を覚ました。何だ何だと重たい瞼を指ですり辺りを見回す。若い、私と同じ年くらいの女が、私の牢の向こう奥の牢から覗いていた。
「もし。花栄村ふもとのお屋敷に住む長様の、次女様ではなかですか?」
「いかにも、そうですが」
眠い脳が復活した。何故この女は私を知り得ているのか、不思議に目を点とさせる。
「あなた様はどなたですか」
「村に住む、キヨと言います」
女はキヨと名乗った。
キヨ?
何か聞き覚えのある名前に、うん? と声が出る。頭を一つ傾げて、それから思い出した。あの日、屋敷を飛び出して婆やのところへ言った時に、百姓に聞かされた話しだ。キヨがいなくなったと、神隠しにあったと。
「……ここにいたのですか」
私があれだけ苦しい厳しい生活に逃げた、逃げたのだと罵倒していた女だ。
「私は良いのです。何故、何故、次女様がここにおられるのですか」
震えた声で、私を睨む。
「助政と市兵衛に連れられ海へ向かったのです。動物が動いたと思い森の中に入ったところ、脳を後ろから叩かれ、気を失い気が付けばこのありさま」
「助政、市兵衛…なんてこと……」
震え、ふっくらとした目から細い涙を垂らしたキヨが、口を開く。
「ここらで不審な船が迂回していると、そんな話はお聞き入れされておられましたか」
「いいえ。ただあなたが、キヨが居なくなり、皆神隠しだと叫んでおられました」
「長様は知っておられた筈です。この船は度々海近辺の家を襲い、食い物を盗っておられましたから。そして人さらい。私や、もう数人程の女が、この船に連れさられました」
「そんな……」
「ふもとからそう遠くない方々はあまりお知りにはなられてなかったのでしょうか。近辺に住む私たちは、外へは出るなと固く禁じられておりました故」
そんな事があるなんて、私は母様から一言も伝えられはしなかった。
「船を落とそうとしても、花栄村にはその為の武器も銭もなかったので、長様は隣村へ協力を求めに行きました」
隣村?
あの男の所か?
「私はその時にちょうど連れ去られましたので、知っているところはそこまでですが。次女様、屋敷を抜け出すなと、言われてはいなかったのですか」
「……」
言われていない訳はない。ずっとずっとそう言われていた。隣町の男と結納を結ぶ。もしかして船を打ち落とす勢力を付けようとしたのか。キヨや、その他の女達が連れ去られてたから。その為に私を……。
じゃあ、私は何て事をしてしまったのだろうか。思ってしまったのだろうか。
「……ごめんなさい」
「次女様?」
「私は、……アナタを、アナタが居なくなった事を村の貧困が耐え切れなくなったからだと罵ってしまった。母様の思っている事にも気付かずに、屋敷を抜け出してしまった。……なんてことを…私は――」
最悪な、私は何て阿呆者で、馬鹿者なのでしょうか。
「今、村は大変な騒動になっておられるでしょうね」
「私のせいだわ……」
母様の言いつけを破って、駄々ばかりをこねて、挙句の果てキヨや女達を助ける為に必要だった婚約を嫌がり、私の方が疫病神じゃないか。
「次女様、泣かないで。絶対にここを出られるわ」
キヨと私は、それから声を殺して沢山泣いた。
母様や姉様、兄様、村の人にも私は最後まで迷惑をかけてしまった。母様は村の危機をどうにかしようと必死だったというのに。私は何て役立たずな次女なのでしょうか。
逃げたいなんて、ただのわがままです。
「……」
――違うよ。
あの男の声がまた聞こえてきたので、私はまた悲しくてそれから泣いた。
*
「キイチ、飯の時間だぞ」
「……今日はいらない」
「さっきからなんだ。今のお前は飯食べないと。体すぐ弱くするぞ」
「……じゃあ、少しだけ」
体を弱くするぞと言われれば、俺は何も拒否出来なかった。何度も言う通り、この体は俺の物ではなく彼女の物だから。今は俺がこの彼女の体を借りているようなものだから。借りている以上は、大事にしなければいけないものだろう。
渋々とベッドから身を起こす。ロビンから受け取ったスープにスプーンをつける。ロビンの作った黄金色のオニオンスープは、憎らしい程に美味しい。
だから最悪。
「で、どうしたんだ」
「どうしたって何が」
「なんでそんなに苛ついてるんだ」
なんでそんなにだと? 自分で俺の事を苛つかせているって気づいてもいないのか? 呆れたようにロビンをゆったりと睨みつけると、ため息を吐き、それから少しだけ笑った。
俺は笑う気分じゃないっていうのに。
理由はロビン。ただ一つだけ。今日の昼くらいだ。外に出ようと海や景色が綺麗に見える丘へ連れて行ってもらった。久しぶりに太陽の日を浴びて眠くなってきて寝ていたら、彼女の夢を見た。ここに来る前に、日本から連れ去られる前までの記憶。悲惨で悲痛で仕方なかった。
彼女の痛みがリアルに伝わる。心の傷み。涙腺が緩む。涙が止まらなかった。
夢から冷めると、ロビンが俺に声をかけた。何故か安堵のできる優しい響きで、気持ちよかった。安心した俺は、何故かロビンにキスをされた。
それだけ。
それだけが、何故か苛ついた。
彼女の体だからってのもある。彼女の体だから、顔も彼女の、口も彼女のものだから。それでもその体についている意識や魂は俺自身なのだ。それも苛ついた理由。
あと、ただ一つ。
俺のではない心臓が、ドクンと波打った。
きっと彼女のもの、だってそれ以外ありえない。心臓だって彼女のものだから。
「そんなに嫌だったか」
「……何が?」
「キスした事」
「わかってんじゃんか」
「で? 嫌だったのか?」
「嫌ってわけじゃない」
そういうわけではなかった。嫌だったら俺はあの時点でロビンを突き飛ばしていただろうから。だから、じゃあなんなんだと言われてみれば、俺にもよく分からない。
ただ一つだけ、あれ? っと思う事がある。
「最近、よく彼女の考えとか思いが浮かんでくるんだ」
あの時、あの夢を見た時、あたかもあの場所で自分があの仕打ちを受けていたみたいな感じに痛いと呟いた時も、ロビンにキスをされて心臓がうねった時も。
あれは確かに俺の思いじゃなかった。
すべて彼女の思い。だから少し、苛ついて、焦った。
「最近、彼女が戻って来ているような気がするんだ」
「……」
ロビンが、スープを飲む手を置いた。目を普通より少しだけ開いて、俺の目を見る。瞳の奥が、少しだけ震えているような気がした。
「どういうことだ」
「たまに、俺の物じゃない思考や言葉が浮かんでくる。ちょっとずつ。戻ってると思うんだ」
「何が……」
「彼女がだよ。この体の、持ち主」
俺が幽体離脱して何故かこの体に入り込んでしまった。入りこんでしまったのなら、ふいに出ると言う事もあると思うのだ。
「この体から俺の魂が抜けて、元に戻る。彼女の魂は、この体に戻ってくる」
元に戻るんだ。
「もとに、戻るって……」
「彼女は彼女の体に戻る。俺は自分の体に戻る」
「お前、戻るって……自分の体は…」
ロビンがその先の言葉を言いかけて止めた。何かバツが悪いようにして下唇を噛み、それから小さくごめんと謝る。何故謝る必要があるのか、俺は逆に不思議に思ってみた。だってその言葉の先を、俺はよくよく分かっていて、別にダメとも悪いとも思っていないんだから。
「分かってるよ。俺はもう死んでるかもしれない、そうだろ?」
「……」
「俺だってここにきてから。何も考えてなかったってわけじゃないんだよ。色々色々考えて、俺の魂はここにあるけれど、体はもう無いかもしれない。なんせ最後に見た自分の体は、もうピクリとも動かなくて、ただ心臓が動いているだけだったからさ。別に死んでても不思議じゃない。そうでしょ?」
ロビンは何も言わなかった。
「別にそれが嫌だってわけじゃない。自分の体が無いって事に、もう何も思ってないんだ。もう俺の体がどうなっていても、俺はそれを受け入れる。だから別に、それでいい」
「お前、……それでいいとか、簡単に言うなよ」
震えた声が、耳に届いた。
簡単に言ったつもりは別になかった。俺だって良く考えたつもりだ。ゲーム出来ないなぁとか、遊び足りなかったとか、ろくに仕事してなかったとか、そんな事だけれど、親にだって、兄や妹にだって感謝の気持ちを思ったりもした。彼女の心を借りて。
「お前が元に戻って、その時お前の体がもし死んでいて、お前の魂が戻ったと同時にあの世へ言ってか。……俺の気持ちはどうなるっ?」
「お前の気持ちって……なに? お前には迷惑をかけてないなんて絶対言えないけれど、確かにお前には凄く世話になったよ。それは感謝してもしきれないくらいだ。心配してくれるのはすごいありがたいけど、でも。……言い方があれだけど、俺の体が有ろうが無かろうが、…それはロビンには関係の無い事じゃないの?」
苦渋を噛んだように。
ロビンは自分のスープの皿と、俺の手の中にあったスープの皿とスプーンを取り、棚の上に置いた。それから空いた俺の手を両手でぎゅっと掴んできた。
「関係無いなんて、そんな事言うなよ」
力強く、その手を握られる。
「もし元に戻って、お前が死んでさ。お前がそれを何とも思っていないのなら」
「生きてて欲しいと願っている俺の気持ちはどうなる」
「戻って欲しくないと思っている俺の気持ちはどうなる」
心が弾まない。
気持ち悪いくらいの心の沈みようだった。俺にとってはすごく、すごくすごく嬉しい言葉の筈なのに、何故だか酷く苦しく辛い。きゅうっと胸が締め付けられて、悲しい。
彼女の気持ち。
「そんな事言っちゃダメだよロビン。彼女の体なんだ」
彼女の体。
彼女の心。
彼女の思い。
彼女の気持ち。
「好きでもか、」
彼女は――。
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