「母上が選んでくれた指輪だ」と婚約者が言うので、親指にはめています。内側に『最愛の母上へ』とあります
「母上が選んでくれた指輪だ」
ジェラール様はそう言って、天鵞絨の小箱の蓋を開けた。
金の細い輪に、柘榴石が三つ並んでいる。粒は小さいけれど色が深く、客間の窓の光を受けて、熟れた木の実のように光った。
オルヴィエ侯爵ジェラール様は、私の婚約者だ。二十四歳で、侯爵家の当主で、穏やかな方だと評判だった。そのジェラール様の隣には、今日もお母様の前侯爵夫人ベアトリス様が座っている。婚約の指輪を贈る日に花婿の母君が一緒に来るという話を、私はこれまで聞いたことがなかった。
「着けてごらんなさい、ロジーヌ」
ベアトリス様に促されて、私は指輪を左手の薬指に通した。
通した、というより、落ちた。指輪は付け根まですとんと下りて、手を下に向けると、くるりと半回りして石が手のひらの側へ隠れた。
「あら」
ベアトリス様が首を傾げた。
「私にはぴったりだったのに。あなたの指が細いのね」
(私の指のせいでしょうか)
私は指輪をいったん外した。婚約の指輪を受け取った花嫁は、まず内側の銘を読む。銘は花婿から花嫁への言葉で、婚約披露の宴では司祭様がそれを読み上げ、そのまま二人の誓いの言葉になる。王都の娘なら、十かそこらで知っている習わしだ。
窓の明かりに内側を傾けると、細い文字が彫ってあった。
最愛の母上へ ジェラール
私は、もう一度読んだ。文字は変わらなかった。
「七年前、母上の四十の誕生日に贈ったんだ」
ジェラール様が、少し照れたように言った。
「母上が、いちばん大事な指輪だから、嫁にやるならこれだと選んでくれた。新しく作るより、ずっといいだろう?」
「この子の真心が刻んであるのよ」
ベアトリス様は満足そうに扇を開いた。
「オルヴィエの嫁になるのなら、この子の真心がどこにあるのか、最初に知っておくのがいいわ」
私は手の中の指輪を見た。それから、自分の左手を見た。
中指に通してみる。まだ緩い。人差し指は、関節を越えはするけれど、指を振れば抜けそうだ。最後に親指へ通すと、指輪は付け根の少し手前で、きゅっと止まった。手を振っても、下に向けても動かない。
「では、親指に」
「……親指?」
ベアトリス様の扇が止まった。
「お義母様の寸法ですので。ここなら落ちません」
婚約者は、私の親指と母君の顔を見比べてから、母君に尋ねた。
「母上、いいですか」
ベアトリス様は少し黙り、扇をもう一度動かした。
「……落とさなければ、いいわ」
「直していただくことは、できませんか」
一度だけ聞いてみた。宴で婚約が成るまで、指輪は花婿の家の物で、花嫁が勝手に直すことはできない。直すかどうかを決めるのは、ジェラール様だ。
「母上が選んだ物に、手を入れるなんて」
ジェラール様は、心から驚いた顔をした。
(そうですか)
婚約して、四か月になる。縁談はベアトリス様のほうから父に申し入れてきた。家の格が少し下の、おとなしい娘を探していたのだと、後で人づてに聞いた。父は格上の家との縁を喜び、婿が穏やかで素直そうなのを何より良しとした。
この四か月で、ジェラール様と出かける約束は七回あった。五回は流れた。三回はベアトリス様の頭痛で、一回は湯治の付き添いで、一回はベアトリス様のお客様が急に見えたからだった。残りの二回は、ベアトリス様が一緒だった。
二人が帰ったあと、侍女のニナが、閉まった扉と私の親指を見比べた。
「お嬢様、本当に親指でよろしいんですか」
「ぴったりよ。ほら」
手を振ってみせると、ニナは何か言いたそうな顔のまま、口を閉じた。
その晩、夕食の席で、父が私の手に目を留めた。
「ロジーヌ。それは、親指か」
「はい。お義母様の寸法ですので」
銘のことは言わなかった。言えば、父はすぐに侯爵家へ掛け合うだろう。そうすれば、銘はたぶん彫り直される。けれどそれでは、ジェラール様が自分で決めたことにはならない。彫り直した指輪をはめて嫁ぐ先は、何でも母君が決める家のままだ。
「侯爵家に、話してみようか」
「いいえ、お父様。直すかどうかは、ジェラール様がお決めになることです。それを見てから、考えます」
父は眉を寄せたまま、それ以上は聞かなかった。
寝る前に、私は鹿革の小布で指輪を拭いた。柘榴石が三つ、灯の下で深く光った。綺麗な指輪だった。ただ、私に宛てたものではなかった。
(お預かりしているのだと思えば、いいわ)
婚約披露の宴は、ひと月後だ。その夜、司祭様はこの銘を、百人を超える客の前で読み上げる。
* * *
九日後、オルヴィエ侯爵家の客間で、ベアトリス様の茶会があった。
お客様は、ルフォール伯爵夫人をはじめ、ベアトリス様と古くからお付き合いのある夫人が四人。宴の前に嫁を見せておきたいの、というのがベアトリス様の招きの言葉だった。
ジェラール様は、母君の隣に座った。私の席は、卓の向こうの端だった。
お茶はジェラール様が注いだ。最初にベアトリス様の茶碗へ、それから四人の夫人へ、一人ずつ丁寧に。私の茶碗に届いたときには、ポットの底のお茶はすっかりぬるくなっていた。
(宴の日も、この順番かしら)
茶碗を持ち上げたとき、ルフォール夫人の目が、私の手元で止まった。
「まあ、ロジーヌ嬢。親指に、指輪を?」
ほかの三人の目も、私の親指へ集まった。
「お義母様の寸法ですので」
茶器の触れ合う音が、ふっと止んだ。
「そうなの、私が選んだのよ」
ベアトリス様が、誰よりも嬉しそうに言った。
「私の指には、ぴったりなの」
「……まあ」
ルフォール夫人は微笑んで、ジェラール様のほうへ首を巡らせた。
「侯爵、お直しにはお出しにならないの? 宴まで、まだ日がありますでしょう」
「母上の指に、ぴったりなんです」
ジェラール様は、それで答えになっていると信じている顔で言った。
夫人たちは、また微笑んだ。ただ、どの微笑みも、さっきより少しずつ薄かった。二人の夫人が、茶碗の陰でそっと目を見交わした。
「それで、銘は何と?」
一人の夫人が尋ねると、ベアトリス様は扇で口元を隠した。
「宴のお楽しみよ」
私は、ぬるいお茶を一口飲んでから言った。
「宴では、司祭様が銘を読み上げますね」
「ああ」
ジェラール様が頷いた。
「母上がいいと言っている」
「読み上げていただけばいいわ。この子の真心ですもの」
夫人たちは、何の真心かを知らないまま、曖昧に頷いた。
話はすぐに、ジェラール様のことへ移った。来月から、王太子殿下の侍従に上がることが決まっているのだという。
「殿下のおそば近くにお仕えするのよ。この子なら、きっとお役に立つわ」
ベアトリス様の声は、指輪の話のときよりさらに弾んでいた。
私には、一つだけ確かめておくことがあった。
「ジェラール様。十一日後の、マリエルの結婚式のことですけれど」
幼なじみのマリエルが、ヴェルノワ侯爵家の弟君アンリ様に嫁ぐ。式には二人で出ると、ふた月前に約束していた。
「ああ、あれか」
ジェラール様の目が、母君のほうへ動いた。
「その晩は、母上が夜の祈りに行かれるんだ。一人では心細いそうだから、僕が付き添う」
「マリエル嬢のお式なら、あなたお一人でも行けるでしょう?」
ベアトリス様が、当然のことのように言い添えた。
「はい」
私は答えた。父と行けばいい。
茶会が終わって夫人たちを見送ったあと、玄関へ続く廊下で、ジェラール様と二人になった。ベアトリス様は客間に残っている。
「ジェラール様」
私は左手の親指を見せた。
「銘を彫り直すのでしたら、今からでも、宴に間に合います」
返ってきたのは、不思議そうな瞬きだった。
「母上がいいと言うなら、いいんだ」
「わかりました」
これで、二度目だった。
車寄せに出ると、先に出た夫人たちが、まだ自分の家の馬車のそばに固まっていた。
「親指ですって」
「お義母様の寸法、ですって」
囁きは、私が馬車に乗るまで続いた。
* * *
マリエルの結婚式は、聖ジル教会で挙げられた。
私は父と並んで、花嫁の側の三列目に座った。ニナは後ろの壁際に控えている。
白い衣装のマリエルは、緊張で唇を固く結んでいた。祭壇の前のアンリ様のほうは、反対に、今にも笑い出しそうな顔をしていた。
司祭のフィリベール様は、王都の古い家々の婚礼を三十年務めてきた方だ。白い髭の下から出る声は、教会のいちばん後ろの席まで、少しも割れずに届く。
アンリ様が結婚の指輪を差し出すと、フィリベール様はそれを高窓の光にかざし、内側の銘を読み上げた。
「『マリエルへ 一生分の朝食を、君と』」
参列者のあいだに、温かい笑いが広がった。アンリ様が朝食を何より大事にする人だということは、マリエルの手紙で私も知っていた。
「この言葉で、この方に誓われますか」
「誓います」
アンリ様の声は大きすぎて、もう一度笑いが起きた。指輪はマリエルの左手の薬指に、すっと収まった。マリエルは指輪を見下ろして、ようやく唇をほどいた。
私は、膝の上の自分の手を見た。親指の柘榴石が、三つ並んでいる。
九日後、あの声が、この指輪の銘を読む。
式の後は、ヴェルノワ侯爵家の屋敷で祝いの席が設けられた。庭に面した広間に、花と人があふれている。
マリエルに祝いを言おうと人の輪の外で待っていると、近くの夫人たちの話し声が聞こえてきた。
「あちらが、花婿の兄君のヴェルノワ侯爵よ。三年前から、王室宝物庫の管理長官をなさっているの」
「王冠の石を、一つ残らず覚えていらっしゃるのですって」
「でも、宝石しか見ない方よ。お見合いの席で、お相手の真珠の首飾りを『染めてある』とおっしゃって、それきり」
「本当に染めてあったそうよ」
灰色の上着の、背の高い人だった。砂色の髪を短く整えていて、祝いの席なのに、仕事の続きのような顔をしている。
その人が、ふと顔を上げた。人のあいだを縫って、まっすぐこちらへ歩いてくる。目は、私の顔ではなく、私の左手を見ていた。
「失礼。その指輪を、見せてもらえるか」
低く、平らな声だった。私は親指から指輪を回して外し、手のひらに載せて差し出した。侯爵閣下は指輪に触れないまま、少し身をかがめて、輪の内側をのぞいた。
「王都の組合の印。年の印は七年前のものだ。号は、十三」
閣下の目が、そこで一度だけ止まった。印の隣には、銘が彫ってある。けれど閣下は、銘のことは何も言わなかった。
それから、目を上げずに続けた。
「君の指は、九号だな」
「……測ったことが、ございません」
「測らなくても分かる。それが仕事だ」
閣下が、ようやく顔を上げた。黒い瞳だった。
「なぜ、親指に」
「お義母様の寸法ですので」
笑われると思った。茶会の夫人たちのように、薄く微笑まれるか。けれど閣下は笑わず、もう一度指輪に目を落とした。
「曇り一つないな。毎日、拭いているのか」
「お預かりしているものですので」
「預かり物」
閣下は、その言葉の重さを量るように繰り返した。
「宝物庫の物も、全部そうだ。王冠も、私の物ではない」
私が指輪を親指に戻すのを、閣下は黙って見ていた。それから、少し低い声で言った。
「……銘は、宴で読まれる」
「存じております。一度はお二人に、もう一度はジェラール様に、お伝えしました。このままでいい、とのことでした」
閣下の返事は、すぐには来なかった。
そこへ、花嫁衣装の裾をつまんだマリエルが、人のあいだを抜けてやってきた。
「ロジーヌ! お義兄様と、何のお話?」
マリエルは私と閣下を見比べて、目を丸くした。
「お義兄様が、人の顔を見て話してる……」
「マリエル」
「だって、アンリ様に頼まれて私の指を見てくれたときは、私の手しか見なかったのよ。号を言い当てて、それでおしまい」
閣下は弟の花嫁を一度だけ見て、それから私に向き直った。
「オルヴィエ家の宴には、私も招かれている」
それだけ言って一礼し、閣下はまた人のあいだへ戻っていった。
帰りの馬車で、ニナが我慢しきれないように口を開いた。
「あの方、途中から、指輪じゃなくてお嬢様を見ていらっしゃいましたよ」
「宝石しか見ない方だそうよ」
「でしたら、お嬢様が宝石なんです」
向かいの席で、父が黙って窓の外へ顔を向けた。
四日後、ヴェルノワ家の使いが小さな箱を届けに来た。
中には、柔らかな鹿革の小布が一枚と、カードが一枚。角のない、整った字だった。
預かり物の手入れに。 ルシアン・ヴェルノワ
私の使っていた小布は、端がほつれかけていた。鹿革で拭いていることまで、どこで見て取ったのか。石の光り方で分かるのかもしれない。
宴の朝、私は新しい小布で指輪を拭いた。柘榴石は三つとも、いつもより少しだけ明るく光った。
* * *
オルヴィエ侯爵家の大広間には、百二十人ほどの客が集まっていた。
王都の古い家の方々に、宮廷にお役目のある方々。侍従長のラサール伯爵の白い頭も見えた。来月から、ジェラール様の上役になる方だ。ルフォール夫人たちは扉に近い卓に、マリエルとアンリ様とヴェルノワ侯爵閣下は、その斜め向かいの卓にいた。
上座の長い卓の真ん中に、ジェラール様が座った。その右に、ベアトリス様。私はジェラール様の左で、さらに私の左に父がいる。
宴の初めに、両家の当主が婚約を告げた。父の口上は短かった。ジェラール様の口上は長く、一文読むごとに右を見た。ベアトリス様が小さく頷くと、次の一文へ進んだ。口上を書いたのが誰かは、広間の半分くらいが察していたと思う。
それから、司祭のフィリベール様が上座の前へ進み出た。
「指輪を」
広間が静まった。ジェラール様が立ち上がり、私も立った。私の左手を取ったジェラール様は、薬指を見て手を止めた。
「……ああ、そうか」
それから、私の親指をつまんだ。
客席のあちこちで、椅子のきしむ音がした。
「親指?」
「婚約の指輪を、親指に?」
指輪は、付け根の少し手前で引っかかった。ジェラール様が引くと関節で止まり、もう一度引くと、ようやく抜けた。そのあいだ、百二十人ぶんの目が、私の親指を見ていた。
(抜けにくいのは、ぴったりだったからです)
抜いた指輪が、司祭様の手に渡った。
フィリベール様は、それを燭台の灯にかざした。内側の文字を読むために少し目を細め、それから、教会の後ろの席まで届くあの声で読み上げた。
「『最愛の母上へ ジェラール』」
「……母上?」
どこかの卓で誰かが聞き返し、その声を最後に、広間から音が消えた。
給仕が水差しを傾けたまま止まり、誰かの杯から、葡萄酒が一滴、卓布に落ちた。フィリベール様はもう一度、声に出さずに内側を読み、それからジェラール様を見た。
「オルヴィエ侯爵。この言葉で、この方に誓われますか」
ジェラール様は答えなかった。
代わりに、右を振り返った。
「母上……」
百二十人が、ジェラール様の目の先を追った。
ベアトリス様が、すっと立ち上がった。頬が上気していた。恥ずかしさのせいではなく、誇らしさのせいだと、私には分かった。
「何をためらうの、ジェラール。この子の真心ですわ、司祭様」
ベアトリス様は、広間を見渡した。
「オルヴィエの嫁になるのなら、この子の一番が母だということを、最初に分かっておくべきでしょう。だから私が、その指輪を選んだのです」
どこかで、フォークが皿に落ちる音がした。
拾う人はいなかった。
フィリベール様はベアトリス様に一礼し、もう一度ジェラール様に向き直った。声は、銘を読んだときと同じ調子のままだった。
「侯爵。誓いは、花婿ご自身の口で、花嫁に向けて立てるものです。どなたに誓われるのか、ご自分でお答えください」
「母上が……このままでいいと……」
「では」
フィリベール様は、指輪を持った手を下ろした。
「この指輪で、この方との誓いを祝福することはできません」
ジェラール様の顔から、血の気が引いた。
「ま、待ってください。はめればいいんだ。母上がいいと言っているんだから」
ジェラール様は司祭様の手から指輪を取り返すと、私の左手をつかんで、薬指に押し込んだ。指輪は付け根まで落ちて、くるりと回った。それを押さえようとジェラール様が手を持ち替えたとき、私の手が少し傾いて、指輪は指先から滑り落ちた。
金の輪は上座の段で一度跳ね、灯を映しながら床を転がっていった。客の卓のあいだを抜けて、一つの靴の前で、こつんと止まった。
灰色の上着の人が、上着の内から白い手袋を出して、両手にはめた。それから身をかがめて、指輪を拾い上げた。
「ヴェルノワ侯爵だわ」
「宝物庫の……」
囁きの中を、閣下は上座の前まで歩いてきた。手袋の指先で指輪をつまんだまま、ジェラール様ではなく、司祭様に向かって言った。
「王室宝物庫の者として、一つだけ申し上げる。この指輪の年の印は七年前、号は十三。ヴァレ嬢の指は、九号だ」
黒い瞳が、ジェラール様に向いた。
「最初から、彼女の指のために作られた物ではない。合わない物を、無理に押し込むな。指輪も人も傷む」
フィリベール様が、私のほうへ顔を向けた。
「ヴァレ嬢。あなたは、この銘をご存じでしたか」
「はい。いただいた日に、読みました」
私は、何もはまっていない左手の親指を、少しだけ持ち上げた。
「お義母様の寸法でしたので、親指にはめておりました。宴の前に二度、銘のことをお伝えしました。一度目はお二人に、二度目はジェラール様に。お返事は二度とも、このままでいい、と」
扉に近い卓で、ルフォール夫人が何かつぶやいたらしかった。そばの卓の人たちが口元を押さえ、その言葉が、卓から卓へ囁きで運ばれてきた。
「それで、親指に……」
上座の近くの卓で、若い騎士が葡萄酒にむせた。むせる音につられて、あちこちの卓で、こらえきれない笑いが肩を揺らしはじめた。
父が立ち上がった。
「オルヴィエ侯爵。婚約は、成らなかった。あとは契約のとおりに」
父の声は、いつもどおり短かった。
ジェラール様は父を見て、私を見て、それからまた右を向いた。
「母上、どうすれば」
ベアトリス様は答えなかった。広間を見回し、扉の近くの卓に目を留めた。茶会の夫人たちの卓だ。ルフォール夫人は扇を開いて、壁の燭台を眺めていた。ほかの三人も、それぞれ別の方角を見ていた。
白い頭の侍従長が、静かに立ち上がった。
「オルヴィエ侯爵。来月からの殿下の侍従の件は、なかったことにしていただく」
「そんな……」
声を上げたのは、ジェラール様ではなく、ベアトリス様だった。
「侍従は、殿下のお言葉を、自分の口で相手へ運ぶ役目です」
ラサール伯爵は、ベアトリス様のほうを見ずに言った。
「ご自分の誓いを母君に伺う方には、務まりません」
閣下が、手袋の指先の指輪を、上座の卓のベアトリス様の前に置いた。
「銘のとおりの方の物だ」
私は父と一緒に、広間を出た。
扉のそばで、閣下が待っていた。手袋は、もう外していた。
「親指が、軽そうだ」
言われて、私は左手を見た。ひと月ぶりに、どの指にも何もはまっていなかった。
「はい。少し、寒いくらいです」
閣下は、ほんの少しだけ目元をゆるめた。笑ったのかどうかは、まだ私には分からなかった。
* * *
婚約の解消の書面は、翌日に整った。
署名にはジェラール様が来た。ベアトリス様も一緒だった。話をしたのはほとんどベアトリス様で、ジェラール様は母君の指さすところに名前を書いた。最後まで、そういう方だった。
契約で決めた償いの金貨二百枚は、オルヴィエ家から払われた。侍従の任命の取りやめも、その週のうちに宮廷から正式に届いたそうだ。
社交界でジェラール様が「最愛の母上の侯爵」と呼ばれるようになったことは、マリエルの手紙で知った。オルヴィエ家にはしばらく縁談が来ないだろう、とも書いてあった。ベアトリス様は次の茶会の招きを出したけれど、ルフォール夫人をはじめ、招かれた方々が次々に断りの返事を送ったという。
手紙の終わりに、一行だけ書き足してあった。
あの指輪、ベアトリス様の左手の薬指に、ぴったりはまっているそうよ。
* * *
宴から十日後の午後、ヴェルノワ侯爵閣下が屋敷を訪ねてきた。
閣下は先に父の書斎へ通され、しばらくして出てきた。廊下ですれ違うとき、父は何も言わずに、私の肩を一度だけ軽く叩いた。
客間では、ニナが窓際の椅子で、刺繍をするふりをしていた。
閣下は、平たい革の箱を卓に置いて開けた。
片側には、大きさの違う銀の輪を何十も紐で束ねたもの。もう片側の盆には、まだ台に留められていない石が、柔らかな布の上に並んでいた。青、赤、黄、透きとおった白、淡い緑。
「号の輪だ」
閣下は、輪の束を持ち上げた。
「測らせてほしい」
「どの指を」
「君が決めてくれ」
私は少し考えてから、左手を出した。薬指を、ほんの少しだけ前にして。
閣下は上着の内に手を入れかけて、その手を止めた。白い手袋は出てこなかった。
「宝物庫の物には、手袋で触れる」
素手の指先が、私の手を下から支えた。思っていたより温かかった。
「君は、預かり物ではないから」
銀の輪が一つ、私の薬指を通った。少し緩い。次の輪は、関節で止まった。その間の一つが、付け根まですっと下りて、そこで止まった。手を振っても、回らなかった。
「九号」
閣下は、輪の内側に打たれた数字を見せてくれた。
「見立てどおりだ」
私は、自分の薬指を見ていた。十九年、誰にも測られなかった指だった。測ってみれば、こんなに簡単なことだった。
「石も、台も、君が選んでくれ」
閣下は、盆を私のほうへ押した。
「銘は、まだ彫らない。誓いの日に、私が自分の口で言う。彫るのは、その後でいい」
誓いの日。
盆から顔を上げると、閣下は石ではなく、私の顔を見ていた。
「ロジーヌ。私と、結婚してほしい」
宝石しか見ないと噂される人の目が、まっすぐこちらを向いていた。
私は盆の上の石を、一つずつ見た。どれも綺麗だった。最後に、小さな淡い緑の石を指さした。
「これを」
「理由を聞いても?」
「私の目の色に、近いので」
「知っている」
閣下は、その石を布の上から取り上げた。
「だから、持ってきた。選ぶのは君だと決めていたが」
私は、少し笑ってしまった。それから、返事をした。
「はい」
閣下は、肩から力が抜けたように、目を伏せた。もう一度私の左手を取る。今度は、測るためではなかった。
「君が選んだ指輪だ」
閣下――ルシアン様は、そう言った。
「出来上がったら、最初に君の指に通す。ほかの誰の指でもなく」
* * *
ひと月ほどして、マリエルの新しい屋敷で、小さな茶会が開かれた。
淡い緑の石の指輪は、その前の日に、ルシアン様が自分で届けに来た。父とルシアン様が婚約の書面に署名したあとで、ルシアン様は約束どおり、最初に私の指に通した。内側には、まだ何も彫られていない。
卓の向こうから、ルフォール夫人が身を乗り出した。
「まあ、ロジーヌ嬢。今度は、薬指に?」
私は左手を少し持ち上げた。指輪は付け根でぴたりと止まって、少しも回らなかった。
「はい。私の寸法ですので」
お読みいただきありがとうございます。宝物庫の侯爵の側から見た宴も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。




