第20話:最強のボディーガード
リリスは完全に凍りついてしまった。
突発的な事態。
空き地の空気までもがピンと張り詰める。
「ディアナ、よせ」
その緊張感を破るように、イヴァヌエルの穏やかな声が響いた。
「その娘から離れるんだ。感電するぞ」
見ると、イヴァヌエルはいつの間にか元の姿に戻っていた。
真っ黒に染まっていた髪や瞳は普通の色を取り戻し、異常に膨れ上がっていた体躯も普段の大きさに戻っている。
だが……。
「イヴァヌエル団長……ッ」
リリスの背後にいるディアナが、ひどく慌てた様子で声を荒らげた。
「ど、どうして上着を脱いでいるんですか!」
そうだった。
体が元の大きさに戻っても、破け散った服が元通りになるわけではない。
今のイヴァヌエルの上半身は、完全にむき出しになっていた。
そこには、思わず見とれてしまうほど美しく、均整の取れた筋肉が露わになっている。
彼の肉体美に、リリスは自分の首に短剣が突きつけられているという事実すら、一瞬忘れてしまう。
後ろにいるディアナという女騎士もひどく動揺していた。
リリスの首に回された腕の力と、押し当てられていた刃の感覚が、ふっと緩むのが分かる。
それでも、リリスは身動き一つできなかった。
下手に動けば危ないという直感もある。
たが何よりも、ただ怖かった。
一方、アダムとイヴァヌエルの戦いも止まっていた。
アダムはイヴァヌエルからあっさりと手を離している。
もう彼などどうでもいいと言わんばかりに、リリスの方へと向き直っていた。
イヴァヌエルもアダムを攻撃することなく、リリスたちの方を見つめている。
「リリス様!」
アダムが大声で叫ぶ。
「放電してください!」
「……え?」
「電気を出すのです。リリス様を拘束しているその人を感電させて、そのまま逃げてください」
「え? で、でも……」
リリスがただ戸惑っていると、アダムは声量を落とすことなく言葉を続けた。
「大丈夫です。後ろにいるその人は短剣で威嚇しているだけで、リリス様を殺めることはできないはずです。『魔法使いは必ず火刑に処す』という決まりですよね?」
「………」
ディアナもイヴァヌエルも沈黙を貫いた。
アダムの声にさらに力がこもる。
「ですから、恐れずに放電して、拘束から抜け出してください。そして、この場から逃げるのです」
「ぬかしやがって……!」
ディアナが、空き地の周囲へ向かって声を張り上げた。
「皆、出ろ! 周りを包囲しろ!」
すると、木々の陰に身を潜めていた兵士たちが、ぞろぞろと姿を現した。
その数は、ざっと見ても数十人はいる。
一瞬にして、空き地の周囲に隙のない包囲網が敷かれた。
だが、彼らは遠巻きに囲むだけで、それ以上近づこうとはしなかった。
動かない兵士たちに、ディアナが苛立たしげに命令を下す。
「何をぼうっと突っ立っている! 団長のそばにいる男を捕らえろ!」
だが、やはり誰一人として進み出ようとしなかった。
その面々には、はっきりと恐怖が浮かんでいる。
怖くないはずがない。
そこにいる皆が身を隠したまま、アダムの圧倒的な力の一部始終を見ていたのだ。
あれを見せられて、すぐに立ち向かっていける勇気など出せるはずがない。
それに、彼らが恐れているのはアダムだけではない。
電気を放つ魔女、リリスもいる。
実際、今リリスを拘束しているディアナでさえ例外ではなかった。
リリスの首に巻きつけられた彼女の腕が、ブルブルと小刻みに震えていたからだ。
「何人いても構いません」
すべて見通しだと言わんばかりに、アダムの淡々とした声が空き地に響き渡った。
「電気というのは、一人ひとりに順番に伝わるものではありません。水面の波紋が一気に広がるように、その場にいる全員へ同時に襲いかかるのです。電気の力の前では、人数の多さなど無意味です。何人いようと一瞬で気絶するでしょう。いや、最悪の場合、命を落とすことになります」
彼の冷静な説明が続くにつれ、空き地を包む恐怖の空気が次第に濃くなっていく。
息が詰まるような短い沈黙が流れた後――
「みんな」
アダムよりもさらに淡々とした声が響いた。
「武器を収めるんだ」
イヴァヌエルだった。
しかし彼が指示を出しても、兵士たちは戸惑いを見せていた。
近づこうとはしないが、構えを緩めようともしない。
それを見たイヴァヌエルは、叱る代わりに、穏やかな笑みを浮かべた。
まるで「大丈夫だ」と語りかけるように、周囲の兵士たちをもう一度、ゆっくりと見回す。
すると、ピンと張り詰めていた空気が、ふっと解れていった。
兵士たちは一人、また一人と剣を鞘に収め始めた。
槍や弓を構えていた者たちも、ゆっくりと武器を下ろしていく。
「ディアナも」
イヴァヌエルが、自身の副官にも声をかける。
「その娘を放してあげなさい」
「で、ですが、団長……」
「いいから、指示に従いなさい」
「……」
それでもディアナは納得しきれない様子だった。
するとイヴァヌエルは周囲にいる全員へ向けて、諭すように口を開いた。
「私たちの負けだよ」
騎士団長のその一言で、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
ディアナの腕から震えが消え、ゆっくりと拘束が解かれる。
リリスは恐る恐る、ディアナのそばから離れた。
いざ解放されると、リリスはなんだか余計に落ち着かなくなった。
実は罠で、いきなり背後から刺されるのではないかと怯える。
だがいくら身構えても、何も起こらなかった。
そこから数歩しか進めず、リリスがただおずおずと立ち尽くしていると、アダムがすぐそばまでやってきてくれた。
「リリス様」
アダムの優しい声が耳に届く。
「お体は大丈夫ですか?」
リリスの首筋には、まだ刃物を当てられていた冷たい感触が残っていた。
緊張で声が出せず、ただこくりと頷いて返事の代わりにした。
すると、アダムがそっとリリスの手を握ってくれた。
牢獄の中でもずっと握っていてくれた、優しい体温を感じる手だった。
「では、行きましょうか」
「うん」
そうして二人は駆け出し、森の空き地を後にした。
リリスはふと後ろを振り返った。
いきなり背後から矢でも飛んでくるのではないかと、不安になったのだ。
だが、矢が飛んでくることも、追手が来ることもなかった。
イヴァヌエルをはじめとする騎士たちは、ただその場に立ち尽くし、遠ざかっていく二人を遠くから見つめているだけだった。
***
二人が空き地から完全に姿を消した後。
「ご無事ですか、団長」
ディアナが早足でイヴァヌエルに歩み寄り、声をかけた。
「やはり、今からでも追手を出した方が……」
「いや」
イヴァヌエルは即座に言葉を遮り、彼女を制止した。
「それができるなら、最初から逃がしたりはしないよ」
「……はい」
結局、ディアナは完全に諦めたように息を吐き、周囲の兵士たちに手を挙げてその場に待機するよう命じた。
そして、自身のマントを脱ぐと、上半身がむき出しになっている上官の肩にそっとかける。
イヴァヌエルは「ありがとう」と礼を言ってから、先ほどの彼女の問いに答える。
「私は大丈夫だよ」
「そうには見えません。一体なぜ、服が……その、ちぎれてしまったのですか?」
目のやり場に困ったようにディアナが尋ねると、イヴァヌエルは平然と答えた。
「戦いをすれば、服がちぎれたりもするものだよ」
ディアナは少し頬を赤らめながら、イヴァヌエルのあらわになった上半身をチラチラと盗み見た。
「お怪我がなさそうで、何よりですが……」
そう言いながら、彼女はリリスたちが去っていった方へ再び視線を向ける。
「一体、何者だったのでしょう。あの男は」
「さあね」
イヴァヌエルは軽く肩をすくめた。
「あの娘のことを、主と呼んでいたな」
「主、ですか?」
ディアナが怪訝そうに首をかしげた。
「じゃあ、あの男はあの娘の従者ってことですか? でもあの娘は、貴族とかではなくただの孤児だったはずですが……」
「ああ。どうやら二人はただの主と従者といった、単純な関係でもなさそうだったよ」
「じゃあ、どんな関係なんですか?」
「私にもさっぱりわからないね。ただ、彼は自分のことを別世界から来た機械だと言っていた。確か『ロボット』だと説明していたよ」
「ロボッ、ト……?」
ディアナが眉間にしわを寄せる。
「何ですか、それ」
「わからない」
どうしようもない沈黙が流れた後、ディアナは再び口を開いた。
「とにかく、人間ではないということですよね?」
「本人はそう言っていたよ。あれは事実だろう。私の知る限り、人の姿をしてあれほどの力を出せる種族は存在しない」
「……」
(じゃあ、団長は一体何の種族なんですか?)
ディアナは一瞬だけそんな疑問を顔に浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
なぜなら彼女にとってイヴァヌエルは、神が人間界に遣わした天使であり、神話の英雄――
そういった高貴な存在に等しい、特別で神聖な対象なのだから。
その代わり、彼女はぽつりとつぶやく。
「団長が負けるなんて……団長の華々しい経歴に傷が……」
言ってしまってから失言だと気づき、ディアナは慌ててイヴァヌエルの顔色をうかがう。
しかし、イヴァヌエルは全く気にも留めていない様子で、むしろ清々しい顔をしていた。
「負けるときもあるさ」
「申し訳ありません。私たちがふがいないせいで……」
「いや、君たちは悪くないよ。むしろおかげで私の方が助かった。そのまま続いたら……」
イヴァヌエルはそこまで言って、ふと口をつぐんだ。
ディアナはそんな彼の様子を見て首をかしげたが、それ以上深く踏み込もうとはしなかった。
兵士たちが散らばっていた陣形を整え、森を出るための隊列を組み直していく。
それぞれが定位置につき、帰還の準備がすっかり整ったころ。
ディアナが暗く沈んだ声で尋ねた。
「本当に、これでいいのでしょうか」
「何がだい?」
「やはり、あのとき、短剣で娘を仕留めておくべきだったのではないでしょうか。あれほどの力を持っているのですよ。それに、付き添いの男も化け物のような力でしたし。あの二人をこのまま野放しにしておくのは、危険ではないでしょうか」
「それは大丈夫な気がするんだよ」
「どうしてですか?」
「何となくだけれど……」
イヴァヌエルは、部下が引いてきた馬にまたがりながら答えた。
「あの二人が、人に害をなすようには見えなかったからね」
「だ、団長……!」
ディアナは慌てて周囲を見回し、再びイヴァヌエルへと視線を戻した。
「みんなが聞いています。魔女に好意的な発言はお控えください」
「別に肩を持つつもりはないよ」
イヴァヌエルは言った。
「正直な感想を言ったまでだ。次に会ったら、必ず捕らえるつもりだよ」
「どうやってですか? 恐れ入りますが、結局のところ団長はあの男に勝てなかったではありませんか」
「次に会ったら勝てるさ。今日は分が悪かった。……周りに見る目が多すぎたからね」
最後の言葉は、独り言のように小さくつぶやかれた。
そう言ってからのイヴァヌエルの表情が、わずかに曇る。
その様子に意味深な響きがあったのだが、ディアナはそこに気づかなかったようだった。
「……やはり、手加減をなさっていたのですね?!」
ディアナの顔が、ぱっと明るくなる。
「周りの部下たちを巻き込まないように、わざと力を抑えておられたのですね? さすが団長……その深いお気遣いに感服いたします」
ディアナはそう言いながら、深い敬意のこもった視線をイヴァヌエルに向けた。
他の者が同じことを言えば、ただの言い訳にしか聞こえないだろう。
だが、イヴァヌエルの言葉であれば絶対に真実なのだと、彼女は微塵も疑っていなかった。
イヴァヌエルを見つめるディアナの目からは、いつの間にか副官としての厳しい色がすっかり抜け落ちていた。
もはや聖騎士団の副団長としてではなく、ただ彼に憧れる一人の乙女のような、うっとりとした表情になっている。
(……そもそも、ただイヴァヌエル様が好きだから聖騎士団に入っただけだし)
彼女にとって宗教や神様なんて、実際のところどうでもいい。
イヴァヌエルこそが彼女の宗教であり、神様なのだから。
ただ「イヴァヌエル様を近くで見たい」という一心だけで、過酷な訓練に耐えて聖騎士団に入隊し、副団長の座まで上り詰めた。
そして、この聖騎士団には他の騎士団と比べて女性騎士が格段に多い。
その理由はもちろん、ディアナとまったく同じであった。
「さて」
隊列の先頭に立ったイヴァヌエルが手綱を軽く揺らし、ゆっくりと馬を歩かせ始めた。
そして、前を向いたまま穏やかに告げる。
「戻ろう」
「はい! イヴァヌエル様……じゃなくて、イヴァヌエル団長!」




