第9話「待っていたわけじゃない」
昨日のことを、朝から何度も思い返していた。
あの目。戦闘中のホロの目。それから、震えていた手と、両手で包んだときの息をのむ気配。帰り道ずっと頭から離れなかったし、宿に戻ってからも、飯を食いながら、眠りに落ちる直前まで——ぐるぐると考えていた。
でも今日も、ギルドへ行った。
依頼板には新しい捕獲調査の張り紙があった。迷わず手に取った。迷う理由が、なかった。
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森の入り口を抜けて、いつもの区域へ向かう。
木々の間を進んでいると、早々に気配を感じた。頭上ではなく、少し先——倒木の上だ。
ホロが、座っていた。
俺が来るより前から、そこにいた。膝を揃えて、着物の袖をきちんと整えて、どこか取り澄ました様子で正面を向いている。俺が近づくと、さりげなく視線を逸らした。
「おはようございます、ホロさん」
「……おはよう」
「早いですね、今日」
「……たまたま」
たまたま、という言葉が、少し早かった。
俺は笑いをこらえながら、倒木の近くに荷を下ろした。
「昨日は、ありがとうございました。改めて」
「……もういい」
「よくないです。助けてもらったので」
ホロが、ふいと顔を背けた。耳が、少し赤い。
「……怪我は、なかったんでしょうね」
「おかげさまで。ホロさんは? 脚、昨日無理してませんか」
「問題ない」
「一応、後で確認させてください」
「……そんなに毎回しなくていい」
「固まってたらします」
ホロが小さく息をついた。呆れているのか、それとも別の何かなのか、横顔からは読み取れなかった。
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作業を始めると、倒木の上のホロは今日もついてきた。
でも今日は、何かが違った。
いつもは俺が話しかけるのを待っている。でも今日は——少しして、ホロの方から口を開いた。
「……昨日より、西の区域の方が動物の気配が多い」
「そうなんですか?」
「灰燐獣が出たから、みんな移動したんだと思う。しばらくはそっちの方が依頼に向いてる」
「助かります、教えてくれてありがとうございます」
「……別に。依頼をこなせた方が、あなたもまた来るでしょ」
さらっと言って、ホロは前を向いた。
俺はその言葉を、少しの間、頭の中で転がした。
また来るでしょ。つまり、来てほしい——そういうことだろうか。深読みしすぎかもしれない。勘違いして恥をかいた経験が蘇って、俺は黙って西の方向へ足を向けた。
でも、口元がゆるんでいるのは、自分でもわかった。
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西の区域は、ホロの言った通りだった。
動物の気配が豊富で、午前中だけで依頼の目標数に近いところまで達した。作業しながら、自然と会話が続いた。
「この木の実、前に貰ったのと同じですか?」
「違う。それは少し酸っぱい」
「食べていいですか」
「……一個だけなら」
かじると、確かに酸っぱかった。でも後から甘さが来て、悪くない。そう言うと、ホロが「そう」と短く返した。それだけなのに、なんとなく満足そうな間があった。
「ホロさんって、この森の植物、全部わかるんですか」
「全部は、わからない。でも、だいたいは」
「すごいですね」
「三年もいれば、わかる」
「俺、三年いても半分もわからない気がします」
「……あなたは、動物の方が得意でしょ」
「そうかもしれないです」
「それでいい」
短い言葉だった。でも、なんだか認めてもらったような気がして、俺は少し嬉しくなった。
ホロはもう前を向いていたけれど、その横顔は、昨日よりも柔らかかった。
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午後の作業を終えて、帰り支度をしていると、ホロが倒木から降りてきた。珍しかった。いつも俺が帰り始めてから、見送るように枝の上に残っているのに、今日は地面まで降りてきた。
「何かありましたか?」
「……別に」
「じゃあなんで」
「……見送ろうと、思っただけ」
言ってから、しまったという顔をした。
俺は道具の入った袋を肩にかけながら、ホロを見た。
「嬉しいです」
「……べつに、そういう意味じゃ」
「明日も来ます。依頼があれば」
「……依頼がなければ、来ないの」
また、さらっと出てきた。ホロ本人が一番驚いているような間があって、すぐに視線を地面に落とした。
「……なんでもない。忘れて」
「依頼がなくても来ます」
「……」
「来たいので」
ホロは何も言わなかった。ただ、俯いたまま、着物の袖をきゅっと握った。
「また明日」
俺が言うと、ホロはかすかに——本当にかすかに——頷いた。
森を出ながら、背中がじんわりと温かかった。
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一方、ホロは。
文人の足音が完全に聞こえなくなってから、倒木にゆっくりと腰を下ろした。
(……来たいので、と言った)
その言葉が、胸の中でじわりと広がった。
依頼があるから来る、ではなく。来たいから来る。
今朝、文人が来る前からここに座っていたのは——たまたまではなかった。自分でも、それはわかっていた。気がついたら早く起きていて、気がついたらここにいた。
待っていたわけじゃない、と思おうとした。
でも、そう思おうとしている時点で。
ホロは両手で顔を覆った。
森の中に、静かな夕暮れが落ちてくる。
明日も、たぶん——早く起きるだろう。




