第8話「その瞬間、ホロは変わった」
その日の森は、妙に静かだった。
静かすぎる、という感覚はもう何度かあった。でも今日は質が違う。鳥の声がない。虫の音もない。草を踏む小動物の気配も、何も感じない。森ごと、息を止めているみたいだった。
生態看破が、ざわついていた。
何かがいる。大きい。近い——いや、複数。
「ホロさん、今日は奥に行くの控えた方がいいですかね」
頭上に声をかけると、いつもより早く返事が来た。
「……今日は、帰った方がいい」
珍しく、はっきりとした言い方だった。
「そうします。道具だけまとめて——」
踵を返そうとした、その瞬間だった。
茂みが、爆ぜた。
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大きかった。
四足で、俺の倍ほどの体躯。灰色の鱗に覆われた体が、低く唸りながらこちらへ突進してくる。討伐依頼の張り紙で名前だけ見たことがある。
——灰鱗獣。
実物を目にしたのは初めてだ。
体が固まった。
でも——魔物の目は、俺を見ていなかった。
頭上だ。枝の上のホロを、まっすぐ捉えていた。
逃げろと頭ではわかっていた。足が動いた。でも、向かった方向が違った。
森の出口ではなく、ホロのいる木の真下へ。
間に合わない、とわかっていた。それでも体が動いた。
次の瞬間。
何かが、視界を横切った。
ホロだった。
俺より先に、木の上から飛び降りていた。着物の裾が風を切って揺れる。俺と灰鱗獣の間に、音もなく降り立った。さっきまでと、何もかもが違った。
目が、違う。
いつもの琥珀色の瞳が、細く、鋭く、光を帯びていた。感情が消えた目だった。恐怖も、迷いも、何もない。ただ、目の前の脅威だけを映している。
蜘蛛の脚が、八本、静かに広がった。
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速かった。
魔物が爪を振るうより先に、ホロの糸が四方から伸びた。前足を絡め取り、後ろ足を縫い留め、動きを一瞬で封じる。魔物が体をよじって抵抗するが、糸はびくともしない。
ホロは一歩も動かなかった。
ただ、脚の一本を魔物の頭部に向けて静止させた。その先端に、何かがにじんでいる。毒だ、と俺は直感した。
魔物が、低く唸った。
それから——ゆっくりと、力を抜いた。糸に絡まったまま、動かなくなる。毒が回ったのか、威圧に屈したのか、どちらかはわからない。
数秒の静寂。
ホロが糸をほどくと、魔物はよろけながら茂みの奥へ消えていった。
森に、静けさが戻った。
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ホロが振り返った。
目が、元に戻っていた。琥珀色の、いつもの瞳。でも、どこかまだ焦点が定まっていない。
「俺は——」
「馬鹿」
静かな声だった。怒鳴るわけでもない。でも、今まで聞いたことのないトーンだった。
「さっき、前に出ようとしたでしょう。あの魔物が私に向かってきたとき」
「……気づいてたんですか」
「見てた。全部。あなたが——木の下に走ってくるのも」
俺は言い返せなかった。
ホロの言う通りだった。魔物が突進の向きを変えてホロへ向かった瞬間、俺は反射的に一歩前に出ていた。間に合うはずもなかったし、役に立てるはずもなかった。でも、体が動いていた。
「……あなたが怪我したら、どうするの」
ホロの声が、少し低くなった。
「私は、戦える。だから——余計なことを、しないで」
「すみません」
「謝れば、いいわけじゃ——」
ホロが、言葉を切った。
俺が一歩近づいたからだ。
「怪我、ないですか」
「……ない」
「顔色が悪いです」
「……平気」
見ると、手が震えていた。着物の袖に隠れているが、指先が細かく揺れている。戦闘中はあれほど静かだったのに——終わってから、震えている。
俺は何も言わずに、ホロの手をそっと両手で包んだ。
「——っ」
ホロが、息をのんだ。
逃げなかった。固まったまま、俺の顔を見ていた。
「無事でよかった」
「……っ、て、敵は私の方が——」
「わかってます。ホロさんの方がずっと強い。助けてもらった」
「……なら、なんで」
「怖かったんです。ホロさんに何かあったら、と思って」
ホロが、目を見開いた。
俺は続けた。
「助けてくれたこと、感謝してます。でもそれより、無事でいてくれてよかった。本当に」
長い、沈黙だった。
ホロはじっと俺を見ていた。両手に包まれた自分の手を見て、また俺の顔を見た。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないようだった。
震えが、少しずつ収まっていった。
「……変な人」
三回目だった。でも今日の声は、今までとすこし違った。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。もっと、柔らかい——なんと表現すればいいかわからない、そういう声だった。
俺はそっと手を離した。
ホロは何も言わなかった。でも、逸らした目が、じわりと潤んでいる気がした。
「……ありがとうございます。今日は、助けてもらった」
俺がそう言うと、ホロはかすかに頷いた。
それだけだった。でも十分だった。
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帰り道、俺は一人で森を出た。
今日は「また来ます」を言わなかった。言えなかった、というより——今日は、それだけじゃ足りない気がした。
あの目のことを、ずっと考えていた。
戦闘中のホロの目は、怖かった。本当に、一瞬だけ怖かった。でもそれより強く残っているのは、戦闘が終わった後の、震えていた手だ。
あれは、怒りじゃない。恐怖でもない。
もっと別の何かだ、と思った。
自分でもまだ名前がついていないような、そういう何かが、ホロの中で動いていた気がした。
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一方、ホロは。
文人が見えなくなってから、木の根元にゆっくりとしゃがみこんだ。
手のひらを、じっと見た。震えは、もう止まっていた。
(……知らない)
そう思おうとした。
でも胸の奥で、別の言葉がかすかに揺れた。
夕風が頬を撫でたとき、ホロは誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。
「……かばおうとしてくれて、ありがとう」
その声は、風に溶けて消えた。




