第6話「至高の手、発動」
その日の森は、穏やかだった。
魔物の重い気配は、今日は少し遠い。依頼の区域に異常はなく、動物たちも落ち着いていた。生態看破が拾う情報も、いつもより穏やかで、俺の気持ちも自然と緩んでいた。
ホロも今日は早くから近くにいた。木の上ではなく、少し離れた倒木の上に腰を下ろして、俺が作業するのをぼんやりと眺めている。最近はそういうことが増えた。距離は一定に保たれているが、その距離が少しずつ縮まっている気が、俺にはした。
「今日は魔物の気配、薄いですね」
「……少し奥に移動したみたい。でも、消えたわけじゃない」
「ギルドに報告した方がいいですかね」
「……した方がいいと思う」
こういう会話が、自然にできるようになっていた。
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午前の作業を終えて、倒木の近くで記録をまとめていたときだった。
生態看破が、何かに反応した。
動物の気配ではない。もっと近い。すぐ隣——ホロだ。
頭の中に、ぼんやりとした情報が滲んでくる。慢性的な疲労、緊張、特定の部位への負荷の蓄積。場所は——蜘蛛脚の、付け根のあたり。
「ホロさん」
「……なに」
「脚の付け根、痛くないですか」
ホロが、ぴたりと固まった。
「……なんで」
「なんとなく、わかって。スキルで」
しばらく沈黙があった。ホロは視線を逸らして、少し間を置いてから、小さく言った。
「……痛い、というより。ずっと、重い感じがする」
「ずっと、というのはいつから?」
「……覚えてないくらい前から。蜘蛛族は、脚の付け根に負荷がかかりやすいから。特に、緊張が続くと」
「三年間、ずっとですか」
ホロは答えなかった。でもそれが答えだった。
三年間、一人でこの森にいた。緊張しない日なんて、ほとんどなかっただろう。人間に見つかるかもしれない恐怖、魔物への警戒、孤独な夜。そのすべてが、あの細い脚の付け根に積み重なっていたのか。
「少し、触っていいですか」
ホロが俺を見た。
「……何を、するの」
「ほぐせるかもしれないと思って。動物の体のケアをしてたことがあるので。嫌なら言ってください、すぐやめます」
長い沈黙だった。
ホロは俺を見て、自分の脚を見て、また俺を見た。それから、ゆっくりと、脚の一本をこちらへ差し出した。
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触れた瞬間、スキルが動いた。
「至高の手」——ギルドで登録したとき、説明文がないと言われたあのスキルが、初めて明確に何かをした感覚があった。手のひらが、迷わず正しい場所を知っている。付け根の関節から少し内側、緊張が凝り固まっている箇所。そこへ、ほどよい力で触れる。
俺には「なんとなくここだな」という感覚しかない。動物をケアしていた頃の経験と、スキルの直感が混ざって、手が自然に動いているだけだ。
だから、ホロの様子に最初は気づかなかった。
「……っ」
息をのむ声がした。
「痛かったですか?」
「……ち、違う」
「じゃあ続けていいですか」
返事がなかったので、続けた。
もう少し力を込める。関節の奥、蜘蛛脚の構造に沿って、ゆっくりと圧をかける。すると——
「……ぁ」
今度ははっきり聞こえた。
俺は手を止めた。
「やっぱり痛い?」
「……っ、痛く、ない」
ホロの声が、かすかに震えていた。顔を完全に背けていて、表情が見えない。でも、耳が。首の後ろまで、真っ赤に染まっていた。
「気持ちいい、ですか?」
「……っ……そういう、聞き方は」
「ほぐれてるならよかったです。もう少しだけ」
「……っ、ま、待っ」
「ここ、特に固いですね」
「……!」
ホロが、倒木の上でぎゅっと木を掴んだ。声を必死に堪えているのが、背中越しでも伝わった。体が小さく震えている。
俺は、それを「ほぐれているサイン」だと思っていた。
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少しして、手を離した。
「どうですか」
「……」
「ホロさん?」
「……少し、待って」
しばらく、ホロは動かなかった。倒木に手をついて、ゆっくりと呼吸を整えているようだった。
やがて、ゆっくり振り返った。
顔は、平静を取り戻していた。でも目が、いつもより潤んでいる気がした。
「……どうでしたか、と聞いているのに」
「だいぶ楽になった……と、思う」
「よかった。また固くなったら言ってください」
ホロが、目を丸くした。
「……また、するの」
「ほぐれても、また固まるので。動物も同じで、定期的にやらないと意味がないんです」
「……」
ホロはしばらく、何かを言おうとして、言えないでいた。口が開いて、閉じる。開いて、閉じる。
結局、小さく「……わかった」とだけ言った。
俺は道具をまとめて立ち上がった。
「じゃあ今日はこれで。また来ます」
「……うん」
「気をつけて帰ってください」
「……気をつけるのは、あなたの方」
「それもそうですね。おやすみなさい、ホロさん」
歩き始めてから、何歩か進んだところで、後ろからかすかな音が聞こえた気がした。
くぐもった、短い音。
何かを言ったのか、息をついたのか、それとも——
確かめようとは思わなかった。
でも帰り道、ずっと、何故か口元が緩んでいた。
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一方、ホロは。
文人の背中が木々の向こうに消えるまで、倒木の上で動けなかった。
脚の付け根がまだ、じわりと温かい。
(……なんなの、あの人は)
頭の中がうまく働かない。顔が、まだ熱い。
三年間、誰にも触れられたことなんてなかった。触れられることは、恐怖か、痛みか、そのどちらかだった。
なのに。
あの手は——怖くなかった。
それどころか。
「……もう少し、だけなら」
誰もいない森の中で、ホロはひとりごとを言った。
すぐに、両手で顔を覆った。
森に、静かな風が吹いた。




