第5話「差し出された手のひら」
その週、俺は三度、森に入った。
捕獲調査の依頼が続いたこともあるが、正直なところ、街の雑用より性に合っていた。体を動かしながら生き物の気配を読む作業は、頭を余計なことで埋めなくて済む。この世界に来てまだ一週間も経っていない。慣れないことだらけの毎日の中で、森の時間だけが、妙に落ち着いた。
それに。
行くたびに、ホロがいた。
最初から待ち構えているわけではない。気がつくと木の上にいる、という感じだ。声をかけると返事をしてくれて、聞けば答えてくれる。聞かなければ静かについてくる。それだけの関係だったが、それだけで十分だった。
今日も、森の入り口を抜けてしばらく歩いたところで、頭上に気配を感じた。
「こんにちは、ホロさん」
「……こんにちは」
枝の上から、静かな声が返ってくる。すっかり慣れた挨拶になっていた。
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今日の依頼は、前回より奥のエリアだった。
指定区域に向かいながら、俺はスキルの感覚を頼りに足を進めた。「生態看破」が少しずつ使いこなせるようになってきた気がする。動物の気配の種類が、何となく区別できるようになってきた。小型の草食獣、鳥類、それから——
(……少し、違う気配がある)
奥の方から、重い気配が漂っていた。魔物、だろうか。近くはないが、前回よりは確実に濃い。受付嬢の言っていた「魔物の気配が強まっている」というのは、本当らしかった。今日の依頼範囲には関係ないが、頭の隅には入れておいた方がいい。
罠をいくつか仕掛けながら進んでいると、ホロが枝の上から静かに言った。
「奥に、行かない方がいい」
「気配、感じますか」
「三日前から、ずっと。いつもはいない種類の魔物がいる」
「ホロさんは大丈夫でしたか」
「……近づかなければ、問題ない」
「そうですか」と俺は頷いた。「今日は奥には行きません。依頼の範囲もここまでだし」
ホロが、少し安堵したような気配がした。表情は木の上からでは読めなかったが、肩の力が少し抜けた気がした。
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午前中の作業がひと段落したところで、俺は木の根元に腰を下ろした。
そのとき、腹が鳴った。
盛大に。静かな森の中に、わりと響いた。
(……しまった)
今日は朝食を早めに済ませていたし、作業に集中していて昼を食べるのを忘れていた。
苦笑いをしていると、頭上でがさりと音がした。ホロが枝を伝って移動している。少ししてから、すぐそばの低い枝にするりと降りてきた。
無言で、何かを差し出してくる。
木の実だった。丸くて、表面が少し赤みがかっている。三つ、小さな葉に包まれて、そっと差し出されていた。
「……食べられる。甘い」
ホロが、目を逸らしながら言った。
「ありがとうございます」
俺は素直に受け取って、一つ口に入れた。
甘かった。みずみずしくて、さっぱりとした甘さ。空腹だったせいもあって、思っていた以上においしかった。
「おいしいです、これ」
「……そう」
「この辺に生えてるんですか」
「少し奥に。人間は知らない場所にある」
「わざわざ取ってきてくれたんですか?」
一拍の間があった。
「……通りかかっただけ」
「そうですか」と俺は笑った。「ごちそうさまです」
ホロは返事をしなかった。でも、顔を背けたその横顔が、耳の先まで赤くなっていた。
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午後の作業を終えて、記録をまとめながら俺は木の根元に座っていた。ホロはいつの間にか隣の木の根に腰を下ろしていた。地面に降りてくることは滅多にないのに、今日は何度かそうしていた。
「この森、ホロさんが守ってるみたいですね」
ふと、そんなことを思って口に出した。
「……守ってるわけじゃない」
「でも、動物の居場所も知ってるし、魔物の動きも把握してる。俺が気づかないことを全部わかってる」
ホロは何も言わなかった。
「俺、今日もホロさんがいてくれて助かりました。一人だったら半分も終わらなかった気がします」
「……依頼の仕事なんだから、一人で気楽にやればいい」
「それはそうなんですけど」と俺は少し考えてから続けた。「一人でやれることと、誰かと一緒の方がいいことって、あると思うので。今日は後者でした」
またしばらく、沈黙が続いた。
ホロはじっと地面を見ていた。何かを噛み締めるような、静かな横顔だった。
「……また、来るの」
「来ます。依頼がなくても」
「……なんで」
「また木の実、食べたいので」
ホロが、ちらりとこちらを見た。
「……それだけ?」
「あとは、ホロさんと話したい」
今度は逸らさなかった。少しの間、俺の目を見ていた。それから静かに前を向いて、小さく言った。
「……変な人」
「二回目ですよ、それ」
「二回目でも、変な人は変な人」
「否定はしません」
ホロが、ほんの少し、口の端を上げた。
笑った。前回より、少しだけ長く。
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帰り際、森の入り口まで来たところで振り返ると、ホロは木の上からこちらを見下ろしていた。
「また来ます」
「……気をつけて」
前回と同じ言葉だった。でも今日は、返事があった。
小さな変化だ。気のせいかもしれない。
でも俺は、それをしっかり受け取って、街への道を歩き出した。




