第3話「今日の分だけ、生き延びた」
ギルドを出て十歩ほど歩いたところで、俺は立ち止まった。
(……待って、お金がない)
今さら気づいた。宿代がない。飯代もない。持っているのはギルドカードと、上着の裾を破いた名残だけだ。《波の宿》へ向かえと言われたけれど、一文なしで扉を開けるわけにもいかない。
俺は踵を返して、ギルドに戻った。
カウンターの受付嬢——けもの耳の彼女が、書類から顔も上げずに言った。
「忘れ物?」
「お金がないことを今さら思い出しまして」
彼女が顔を上げた。一拍の沈黙の後、小さく噴き出した。
「……本当によそ者ね、あなた」
「おっしゃる通りです」
「当日払いの雑用依頼ならある。薪割り、荷運び、倉庫の片付け。日が落ちる前に終わらせれば今夜の宿代くらいにはなるけど、やる?」
「やります」
「即答ね」と彼女は依頼票を三枚並べた。「せめて今夜の分だけでも稼いで。明日からちゃんとした依頼を選べるから」
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薪割りは、港近くの宿屋からの依頼だった。
斧の使い方は知っている。前の仕事で山小屋の管理を手伝ったことがあった。リズムさえ掴めば、体が覚えている。割れた薪が積み上がるたびに、少しだけ頭が静かになった。
荷運びは、市場の問屋への配達。重い麻袋を三往復。背中が悲鳴を上げたが、文句を言える立場じゃない。
最後の倉庫の片付けを終えたとき、空が橙色に染まっていた。三件分の報酬を合わせると、宿代と夕食代に何とか足りた。
(よかった。今夜は屋根の下で眠れる)
心底そう思った。こんなことで安堵する日が来るとは、昨日の自分には想像もできなかったけれど。
《波の宿》の女将さんは丸々とした人で、俺を見るなり「ギルドの紹介? 二階の三号室ね」とだけ言って鍵を渡した。夕食は一階のシチューとパン。素朴だが温かくて、空きっ腹に染みた。
部屋の窓からは、霧のかかった夜の港が見えた。波の音を聞きながら、俺はベッドに倒れ込んだ。
意識が落ちるまで、一秒もかからなかった。
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翌朝、鐘の音で目が覚めた。
体のあちこちが痛かった。薪割りと荷運びの代償だ。それでも起き上がって、朝食を食べてからギルドへ向かった。もう迷わなかった。昨日で道は覚えた。
依頼板には、さまざまな紙が貼られていた。魔物の討伐、物資の護衛、薬草の採取、街の修繕の手伝い。俺のランクで受けられるのは下の方の簡単なものだけだが、それでいい。まず稼ぐことと、この街を知ることが先だ。
今日は薬草採取と、港の荷降ろしを選んだ。
薬草採取は街はずれの草地での作業で、依頼主の老薬師が採り方を丁寧に教えてくれた。「この葉は裏が白いやつだけ、これは根ごと抜いちゃだめ」と言いながら腰を屈める老人の横で、俺は黙々と手を動かした。
「あんた、覚えがいいね」と老薬師が言った。「植物の扱いに慣れてる?」
「動物や自然に関わる仕事が長かったので」
「そういう人間は貴重だよ。また頼むかもしれないから、よろしく」
小さなことだったけれど、素直に嬉しかった。役に立てる場所があるというのは、この世界でも変わらないらしい。
午後の荷降ろしは港での力仕事だった。船から木箱を次々と運び出す単純な作業で、一緒に働く男たちは口数が少なかったが、悪い人間ではなかった。
作業の合間、ふと気づいたことがあった。
港の端に、魔人らしき男が一人いた。蜥蜴に似た肌の色をした、大柄な存在。荷物を運ぶ仕事をしているらしかったが、他の人間とは別の場所で働いていて、誰も声をかけない。水を飲む場所も、休憩する場所も、人間の作業員とは分けられていた。
見て見ぬふりをしている、というより——その状況が、ここでは当たり前なのだろう。誰も疑問を持っていない。
俺は黙って、木箱を運び続けた。
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夕方、報酬を受け取りにギルドへ戻ると、依頼板に新しい紙が貼られていた。
なんとなく目が止まった。
『 森の動物調査依頼 』
・街外れの森にて野生動物の生態調査および捕獲補助
・対象:小型から中型の野生種
・危険度:低
・備考:生態に詳しい者優遇
俺は少し考えてから、その紙を手に取った。
生態に詳しい者優遇。昨日判明したスキル、「生態看破」と「至高の手」——どういう力かはまだよくわかっていない。でも、動物や生き物を扱う仕事なら、何か手がかりが掴めるかもしれない。
それに。
あの森には、ホロがいる。
運が良ければ、また会えるかもしれない。
「これ、明日受けようと思うんですが」
カウンターに紙を持っていくと、受付嬢が確認して頷いた。
「森の調査ね。ランク的には問題ない。ただ——」と彼女は少し声を落とした。「その森、最近ちょっと様子がおかしいって話もあるから、無理はしないように」
「様子がおかしい?」
「魔物の気配が濃くなってるって、冒険者から報告が上がってる。捕獲対象は小型の動物だから、直接の危険はないと思うけど。念のためね」
俺は頷いて、依頼票を受け取った。
窓の外はもう夕暮れで、街の輪郭が橙色に滲んでいた。
明日、あの森に戻る。
そう思ったら、なぜか、少し背筋が伸びた。




