第11話「フミくん、という呼び方」
森の入り口を抜けて数歩のところで、何かが飛んできた。
飛んできた、というのは言いすぎかもしれないが、そのくらいの速さで走ってきた。灰銀色の髪と、揺れる尻尾。ルーナだった。足首の怪我などどこへやら、という勢いで駆け寄ってきて、俺の目の前でぴたりと止まった。
「フミくん!」
「……おはようございます、ルーナさん」
「昨日、また来るって言ってたから。ずっと待ってた!」
尻尾が、勢いよく揺れている。足首は大丈夫そうだ。一日でここまで回復するとは、獣人の体は丈夫らしい。
「待ってたんですか。早かったですね」
「朝、明るくなってすぐ来た。フミくんが来る前からいた」
あまりにも素直に言うので、俺は少し笑ってしまった。
「フミくん、って」
「だめ? なんか、そっちの方がしっくりきた」
「全然だめじゃないですけど」
ルーナが、犬歯をのぞかせて笑った。尻尾の揺れが、また大きくなる。
頭上から、気配がした。
見上げると、ホロがいつもの枝に座っていた。腕を組んで、こちらを見下ろしている。
「おはようございます、ホロさん」
「……おはよう」
返事は来た。ただ、いつもよりほんの少し、間があった。
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今日の作業は、昨日とは違う区域の記録だった。
ルーナは邪魔をするわけでもなく、でも俺のすぐそばをついてくる。距離が、ホロとはまったく違う。ホロが一定の間合いを保つのに対して、ルーナは自然に隣に収まる。歩幅まで合わせてくる。
「ルーナさん、この辺には長くいるんですか」
「ここに来たのは最近。前は北の方にいた」
「一人で?」
「……前は、仲間がいた」
尻尾が、少しだけ速度を落とした。
「群れ、ってこと?」
「うん。でも、いなくなった。一人になったから、南に来た」
さらっと言った。明るいトーンを保ちながら。でもその「いなくなった」が何を意味するのか、詳しく聞けなかった。聞かない方がいい気がした。
「……寂しかったですね」
「うん。すごく」
ルーナが、俺を見た。
「でも今日は寂しくない。フミくんがいるから」
屈託がなかった。作った明るさではなく、本当にそう思っている顔だった。
俺は何も言えなくて、ただ頷いた。
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昼前、倒木の近くで一休みしていたとき。
ルーナがぴたりと俺の隣に座った。本当に自然に、何の遠慮もなく。肩が触れる距離だ。
「フミくんの匂い、やっぱり落ち着く」
「匂い、ですか」
「うん。あったかい匂い。群れの中にいるときみたいな感じ」
そう言いながら、ルーナが少し身を寄せてきた。狼族にとって、匂いを確かめることは挨拶に近いのかもしれない。俺が動じないでいると、耳がぴくりと動いて、満足そうな顔をした。
「……毛並み、少し乱れてますよ」
「え、そう?」
「耳の後ろ。気になるので、整えていいですか」
「いいよ!」
即答だった。
俺は手を伸ばして、耳の後ろの毛並みに触れた。その瞬間、スキルの感覚が動いた。「至高の手」——どこをどう触れればいいか、手が自然に知っている。耳の付け根から後ろへ、毛の流れに沿って、ゆっくりと。
「……ぁ」
ルーナの声が、一段低くなった。
「気持ちいい?」
「……きもちいい。すごく」
尻尾が、ゆったりと大きく揺れ始めた。目が、とろりと細くなっている。あっという間に、力が抜けていく。
「もっと……」
「ルーナさん」
「……んー」
「寝ちゃいますよ」
「……ちょっとだけ、いい……?」
俺は苦笑しながら、少しだけ続けた。
木の上から、視線を感じた。
ちらりと見上げると、ホロが枝の上で静止していた。腕を組んで、こちらを見ている。目が合うと、すっと逸らされた。
表情は、読めなかった。
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しばらくして、ルーナがぱっと顔を上げた。
「ホロって、いつもここにいるの?」
「そうです。森のことを一番知ってる人で」
ルーナが木の上のホロを見上げた。
「……一緒にいるの、怖くないの? 蜘蛛族って——」
「全然怖くないですよ。ホロさんのおかげで助かってることが多いので」
ルーナが少し考えてから、ホロに向かって声をかけた。
「ホロも、フミくんの友達?」
ホロが、ルーナを見た。
少しの間があった。
「……少し違う」
「え、違うの?」
「……友達、とは言っていない」
「じゃあなんなの」
ホロが、視線を逸らした。「……知らない」と言いたげであった。
ルーナが首を傾げて、俺を見た。俺も、何と言えばいいかわからなくて、とりあえず「そういう感じです」とだけ答えた。ルーナは「ふーん」と言って、尻尾を揺らした。
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夕方、帰り支度を始めると、ルーナが元気よく言った。
「明日も来ていい?」
「もちろん。来てください」
「やった! じゃあ明日もここで待ってる!」
尻尾が激しく揺れた。笑顔で手を振るルーナに手を振り返して、俺はホロの方を向いた。
「また明日来ます、ホロさん」
「……うん」
一言だった。
いつもより短い。昨日もそうだったが、今日はもっと短かった。何か言いたそうな間があって、でも何も続かなかった。
「……気をつけて」
小さく、それだけ。
俺は頷いて、森を出た。
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一方、ホロは。
文人が見えなくなってから、枝の上でルーナを見下ろした。
ルーナは夕空を見上げながら、尻尾をゆっくり揺らしていた。邪気のない、明るい子だと思う。悪い子ではない。
でも。
「フミくん」という呼び方が、耳に残っていた。
自分は「フミトさん」と呼んでいる。それが当たり前だと思っていた。でも、あんなふうに気軽に名前を縮めて呼ぶことが——なんとなく、できない。
毛並みを整えてもらったときの、ルーナのとろけた顔も、頭に残っていた。
自分も、あんな顔をしていたのだろうか。※六話のあのとき。
(……関係ない)
ホロは膝を抱えた。
胸のざわつきに、そろそろ名前がつきそうだった。
でも——つけたくなかった。名前をつけてしまったら、それが本当のことになる気がして。
ルーナが、ふと上を見上げてホロと目が合った。にこりと笑って、また小さく手を振ってくる。
ホロは、無表情のまま、それを見ていた。
夜が、森に静かに落ちてきた。




