第10話「灰色の尻尾」
今日も、ホロは早くからいた。
倒木の上に座って、取り澄ました顔で正面を向いている。俺が「おはようございます」と言うと、「……おはよう」と短く返ってきた。もう、この挨拶が当たり前になっていた。
依頼の区域に向かいながら、昨日より動物の気配が戻ってきていることに気づいた。灰燐獣が去った影響も落ち着いてきたのかもしれない。生態看破が、穏やかな情報をいくつか拾う。小型の獣、鳥、それから——
少し離れた方角から、何かが引っかかった。
動物じゃない。もっと大きい。でも、魔物の気配とも違う。焦り、と表現すればいいのか——何かが困っているような、そういう感覚だ。
「ホロさん、あっちの方に何かいますか」
「……いる。昨日から、近くをうろついてる」
「何者か、わかりますか」
「……狼獣人。若い。一人みたい」
狼獣人。
「ちょっと見てきていいですか」
ホロが、わずかに眉をひそめた。「……行くの?」と短く聞いてきた。
「気になるので」
「……気をつけて」
いつもの言葉だったが、今日は少しだけ間があった。俺はそれに気づきながら、気配のする方向へ足を向けた。
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茂みを抜けると、すぐに見つかった。
木の根に張られた細いワイヤーの罠——獣用の、足首を絡める型だ。そこに、片足を取られて動けなくなっている子がいた。
灰銀色の、肩くらいまでの髪。頭の上に、ふわふわとした狼耳。感情豊かな琥珀色の目が、こちらを向いた瞬間、ぱっと警戒の色に変わった。腰の後ろで、灰色の尻尾が低く抑えられている。
「……来ないで」
牙を少し覗かせながら、そう言った。でも声が、かすかに震えていた。痛みからか、恐怖からか、あるいはその両方か。
俺はゆっくりしゃがんで、目線を合わせた。
「大丈夫ですよ。助けにきました」
「……人間が、なんで」
「困ってたら助けたくなるので。足、痛いですよね」
警戒の目が、少しだけ揺れた。
それから——すんすんと、鼻が動いた。
「……この匂い」
「匂い?」
「……安心する匂い、がする」
呟くように言って、尻尾の力が少しだけ緩んだ。完全には信用していないが、とりあえず噛みつくのはやめる、という感じの間合いになった。
「罠、外しますね。動かないでください」
ワイヤーの仕組みを確かめる。ホロのときと同じバネ式だ。ただ今回は細いワイヤーなので、力より角度が大事だ。ゆっくりと丁寧に緩めていくと、足首がするりと抜けた。
「……抜けた」
「よかった。傷は?」
「……ちょっと、擦れたくらい」
「見せてもらえますか」
少しためらってから、足首を差し出してくれた。赤くなっているが、深くはない。上着の裾を少し破いて巻こうとすると——
「また裂いてる」
後ろから、ホロの声がした。
振り返ると、いつの間にか近くの木の枝に降りてきていた。腕を組んで、俺を見下ろしている。
「……いつもそうするの?」
「緊急のときはこれしかないので」
「今日で何枚目」
「数えてないです」
ホロが、小さくため息をついた。狼娘の方が、ホロを見てまた警戒の目になった。
「……その人は?」
「ホロさん。一緒に森にいる人です」
「蜘蛛……族?」
「そうです」
狼娘は少し固まってから、ゆっくりホロを見た。ホロも、無表情のまま見下ろしている。数秒の沈黙。
先に折れたのは狼娘の方だった。耳がぺたんと下がり、尻尾が小さく揺れた。
「……ありがとう、ございます」
ホロは短く「別に」と言った。
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「名前、聞いてもいいですか」
包帯を巻き終えてから聞くと、狼娘はわずかに考えてから答えた。
「……ルーナ」
「ルーナさん。俺は文人、中村文人です」
「フミト……」
「この辺に住んでるんですか?」
ルーナの表情が、少しだけ曇った。尻尾が、ぴたりと止まる。
「……住んでる場所は、ない。ずっと移動してる」
「一人で?」
「……うん」
その「うん」に、どれだけのものが詰まっているか。ルーナはすぐに視線を逸らして、立ち上がろうとした。足首をかばいながら、バランスを取っている。
「今日は無理に歩かない方がいいですよ」
「でも、ここにいたら——」
「少し休んでいってください。ここは安全です」
ルーナが、俺を見た。それからまた、すんすんと鼻を動かして。
「……本当に、安心する匂い」
尻尾が、ゆっくりと揺れ始めた。
「ここの森、しばらくいてもいいですか。また来ますか」
「俺は毎日来てるので」
その瞬間、尻尾の揺れが大きくなった。
「……じゃあ、もう少しだけいる」
笑うと、犬歯が少し見えた。明るくて、素直な笑顔だった。
木の上から、ホロがその様子を見ていた。
腕を組んだまま、何も言わない。表情は、いつも通りだった。
——いつも通り、のはずだった。
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夕方、帰り支度をしながら俺はホロに声をかけた。
「今日は少し早めに上がります。溜まった依頼をギルドに報告しておきたいので」
「……そう」
返事が、短かった。
「また明日来ます」
「……うん」
いつもより短い。でも何がどう違うのか、うまく説明できない。ルーナに「またね、フミト!」と元気よく手を振られながら、俺は少し気になりながら森を出た。
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一方、ホロは。
文人が見えなくなってから、倒木の上で膝を抱えた。
少し離れたところでは、ルーナが怪我した足首をさすりながら夕空を見上げている。
(……別に)
そう思った。何も感じない。今日は珍しいことがあっただけだ。狼獣人が罠にかかっていて、文人が助けて、それだけの話だ。
でも。
文人が罠を外しながら話しかけていたとき。ルーナの尻尾が、あんなに大きく揺れていたとき。「また来ますか」と聞かれて「毎日来てる」と答えたとき——
胸の中で、何かがざわついた。
名前もわからない感覚だった。怒りでも、悲しみでも、ない。ただ、ざわざわと、落ち着かない。
(……何、これ)
ホロは膝をきつく抱えた。
ルーナが、こちらに気づいて小さく手を振ってきた。ホロは無表情のまま、それをじっと見ていた。
夕暮れが、森を橙色に染めていく。




