第1話「最初の一歩」
最初に聞こえたのは、低い、苦しそうな息だった。
茂みの奥から聞こえてくる。人間の気配ではない——でも、確かに誰かがいる。
俺——中村 文人は、足を止めた。
どこかの森の中で目を覚ましてから、まだ数分も経っていない。頭はぼんやりとしているし、ここがどこかもわからない。わかることといえば、自分が見知らぬ森にひとりでいるということだけだ。
でも、その息の苦しさだけははっきり届いた。
迷わず、茂みへ向かった。
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見つけたのは、鉄製の罠だった。
獣を捕まえるための、"トラバサミ"。それが、誰かの脚に、思い切り噛みついていた。
でも、その脚は。
人間のものじゃなかった。
黒く細長い、節のある脚。二本、三本……八本。木の陰に折り重なるように縮こまっているその存在は、上半身だけを見れば人間の女の子だった。長い黒髪、白い肌、細い肩。でも腰から下には、人間にはないものがあった。
蜘蛛の、脚。
その後ろの一脚が、鉄の罠に挟まれていた。
「——っ」
俺と目が合った瞬間、彼女は息をのんだ。金色がかった琥珀の瞳が、大きく見開かれる。恐怖だったのだと思う。隠れようとするように体を縮めるが、挟まれた脚が抜けなくて、動けない。
俺は、一瞬だけ立ち止まった。
(蜘蛛の……脚?)
正直、驚いた。頭が一回、止まった。でもすぐに動き出した。なぜなら、それより先に目に飛び込んできたものがあったから。
罠の刃が食い込んだ箇所から、血がにじんでいた。
「待ってください、助けます」
俺はすぐにしゃがんで、罠に手をかけた。
「——来ないで!」
鋭い声だった。
「触らないで、人間。来たら……来たら噛みつく」
声が震えていた。脅しているというより、必死だった。俺には引く理由にならなかった。
「噛んでもいいですよ」
「……え?」
「痛いのは嫌ですけど、このまま放っておく方が嫌なので」
彼女が、ぽかんとした顔をした。
俺は罠の仕組みを確かめた。バネ式だ。両側から力をかけて押し広げれば開く。
ただ、かなり強い。両手でぐっと力を込める。指が痛い。それでも、じわじわと、刃が離れていく。
「……抜けそうです、ゆっくり引いてみてください」
彼女がそっと脚を引くと——ぱかん、と罠が開いた。
解放された脚を、彼女は胸に引き寄せた。傷口を確かめるように、細い指でそっと触れている。
俺は自分のシャツの裾を少し破いた。あまりきれいではないが、ないよりはましだ。
「巻かせてもらえますか。そのままだと傷に土が入る」
彼女は何も言わなかった。でも、脚をそっとこちらに差し出した。
俺は丁寧に、傷口を包んだ。
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しばらく、沈黙が続いた。
傷の手当が終わっても、彼女はじっとしていた。俺のことを見ているような、見ていないような——何かを考えているような目をしていた。
「……なんで」
ぽつりと、彼女が言った。
「なんで、助けるの」
「困っていたので」
「でも私は、魔人よ」
魔人。
聞き慣れない言葉だったけれど、意味はなんとなく伝わった。人間ではない、ということ。そして——その言葉を口にするときの彼女の声の重さで、その「なんとなく」が確信に変わった。
魔人と呼ばれることは、この世界ではきっと、良いことではないのだろう。
「それが?」
彼女の目が、少し揺れた。
「人間は……みんな逃げる。怖がるか、武器を向けるか。助けようとした人なんて、今まで一人も」
言葉が途切れた。
俺は、その続きをあえて求めなかった。言葉の重さだけで十分だった。この子がどんな時間を生きてきたか、想像するには足りたから。
「……俺、ここに来たばかりで」と、俺は言った。「正直、この辺のことが何もわからないんです。あなたのことも、この世界のことも」
彼女が、ゆっくりこちらを向いた。
「来たばかり?」
「ええ。気がついたらここにいて。」(……たぶん、死んで、転生してきたんだと思う)
口に出してみると、改めて実感した。
死んだんだ、俺。横断歩道で、信号が青になって、一歩踏み出した瞬間に——そこで記憶が途切れている。痛みも、音も、何も覚えていない。ただ気がついたら、見知らぬ森の中にいた。
怖いとか、悲しいとか、そういう感情は不思議と湧いてこなかった。ただ、途方に暮れていた。
「……だから、あなたのことを怖がる理由がなかった、というのが正直なところです」
彼女はしばらく、俺を見ていた。
それから、ふっと息をついた。肩の力が抜けたような、小さな音だった。
「……ホロ」
「え?」
「名前。ホロ」
「ああ、俺は文人です。中村文人」
ホロは小さく頷いた。
「フミトさんは……街に行くの?」
「街? 行き方がわかれば、行きたいですね」
「そしたら、南に歩けばいい。この森を抜けたら、すぐわかるから」
ホロは街の方向を指しながら言った。
「ありがとうございます。ホロさんは?」
彼女の目が、少しだけ細くなった。
「私は……街には入れない。だから、ここにいる」
それ以上は言わなかった。俺も、聞かなかった。
ただ、「入れない」という言葉が、じわりと胸に残った。
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立ち上がろうとしたとき、ホロがぽつりと言った。
「……罠、踏まないように気をつけて。この辺にはまだある」
「教えてくれてありがとうございます」
「……べつに」
顔を逸らして、ホロはそう言った。耳が、少し赤かった。
俺は南へ歩き始めた。木々の隙間から、遠くに街のシルエットが見える気がする。
十歩ほど進んで、なんとなく振り返った。
ホロはまだそこにいた。木の根元に座って、こちらをじっと見ていた。目が合うと、すぐに逸らされた。
でも——その一瞬だけ。
ほんの少し、口の端が上がっているのが見えた。
気のせいかもしれない。でも俺は、それで十分だと思った。
前を向いて、歩き出す。
足元に気をつけながら。南の空に向かって。
何も持っていない。知り合いもいない。この世界のことは何もわからない。
それでも——なぜだろう。
胸の中が、少しだけ温かかった。
――この出会いが、すべての始まりだった。




