第8話 令嬢の生存術
この国の学制は以下のようになっている。
6歳から11歳までが初等学校。これはすべての国民が等しく受けなければならない。
12歳から15歳までが中等学校。職人や商人などになるための職業に必要なものを学ぶ。多くの国民はここで修学を終了して就職する。女性は婚姻する人も多い。
16歳から20歳までが高等学校。軍人の士官や王国の官僚、教員になるために学ぶところである。
さらにこの上にある王立大学校は、大学校とは言うが、高等学校までのような知識や技能を学習するところではない。ここはまだ知られていない、あるいは確定していない学問を研究する場なのである。
一般的な淑女は中等学校を卒業したあとで、婚約、結婚へ入ることが多い。貴族社会でも淑女が高等学校まで出たというのは、ちょっとしたステータスである。
「わたしはこれでも高等学校を出ましたのよ」
というのが、ひとつの“証明”になる。
なお、王立大学校へ通う令嬢は一般的には「変人」と言われるようである。
◇◇
王立大学校に逃げた令嬢といえども、王都に居る限りは、時たま社交のお茶会が回ってくる。
それは、花と香油と紅茶で飾られた――戦場だ。
そこで交わされるのは、知識ではない。序列である。話題の中身よりも、「誰が先に口を開き」「誰が頷き」「誰が笑い」「誰が黙らされるか」で、いつの間にか上下が決まる。
勝てる娘は、笑顔のまま踏める。
踏めない娘は、笑顔のまま踏まれる。
砂糖研究会の令嬢たちは、後者だった。
だからこそ、王立大学校に居場所を見つけた。理屈が通り、手順が通り、間違いが「間違い」として扱われる場所。息ができる場所。
だが、家の者は言う。
――家のために社交に出ろ。
――せめて序列を下げるな。
――貴族の娘である以上、それが務めだ。
それができないという引け目が、彼女らの胸に刺さっている。刺さったまま、抜けない。
お茶会の招待状が届くと、身体が先に反応する令嬢もいた。封蝋を見るだけで胃が痛み、息が浅くなり、指先が冷たくなる。軽いPTSDのような症状――と呼ぶしかない反応。けれど外から見れば「社交が苦手なだけ」と片づけられやすい、厄介な傷だ。
ミレイユ・ヴァーレンは、封筒の角の正確さを見て、もう負けた気がした。
フローレ・マルシェは「腹が痛い」と言いかけて飲み込んだ。
エルザ・リンドベルクは、手の平に爪を立てて、痛みで現実に戻ろうとした。
――出る。出るしかない。
家に貢献できていない。
その穴を埋めなければならない。
その「穴埋め」が、どれだけ恐ろしいかを、彼女らは知っている。
会場の小広間は、香りだけが豪華だった。
花の匂い、紅茶の湯気、焼き菓子の甘さ。飾られた言葉の、薄い蜜。
テーブルの上の菓子は上品で軽い。
けれど視線は重い。どこへ置いても、刺さる場所を探してくる。
「最近、大学校の“砂糖遊び”が賑やかですのね」
声は柔らかい。
内容は針だった。
「携行ケーキ、ですって?」
「前線の方々も、お菓子で慰められるのは結構ですわね」
「まあ、王女殿下の慈悲に皆さま救われて……」
「慈悲というより、気まぐれでは?」
「お菓子に王女印だなんて、可愛らしい。――戦争を飾るの、お上手ですこと」
笑顔が笑顔を叩く。
フローレの胸の奥で、何かが熱くなった。油の温度を上げる前の、あの焦りに似ている。
――違う。
――お菓子じゃない。前線の生命線だ。
言いたいことは山ほどある。封緘の規格。水分移動。腐敗の条件。材料の許容差。
けれど、この場で理屈を出すのは負けだ。理屈は踏み台にされる。
ミレイユは唇を噛んだ。息が浅い。胸が痛い。
エルザの指先が杯の縁を探した。震えをごまかすための動きだ。
そこへ、遅れて入室した人物がいた。
セリーヌ王女。
儀礼用の装い。胸元の紋章。動きは優雅で、表情は――完璧に王族のそれだった。
ただ、頬がほんのわずかに「ひくひく」と動いたのを、ミレイユは見逃さなかった。
――王女殿下でも、ここは退屈で、息が詰まる場所なのだ。
「皆さま、携行ケーキの話題で盛り上がっているようね。嬉しいわ」
笑みが増えた。増えた笑みほど危ないものはない。
誰かが針を太くする。
「王女殿下。あれは素敵ですわ。でも……“研究”と呼ぶほどのものなのでしょうか」
「ええ。研究よ」
セリーヌはにこやかに頷いた。
そのまま、声の温度だけを落とす。
「はじめは、そもそも何を作っていいかすら分からないものです。
そして、どういう物なら受け入れられるのかを、何度も試して作り上げる。
そこから手探りで条件を定め、同じものが再現できる形にする――それが研究です。
量産も同じ。必要な材料や手順を定め、無駄な手順や人件費を省き、製造手順を磨く。
誰がやっても同じ結果になる形にする。それもまた、研究です」
笑顔の刃が、わずかに引く。
だが完全には引かない。相手はなおも刺してくる。
「それでも所詮は、お菓子ですもの」
セリーヌの目つきが鋭くなった。口元の微笑は変わっていない。
「お菓子、と言い切れる方が羨ましいわ」
王女は笑顔を崩さない。
「携行ケーキは前線の生命線です。命を繋ぐための規格です。王女印は飾りではありません。採用品の印。責任の所在を明確にするための印」
室内の空気が、氷より冷える。
「もし、携行ケーキを“貶める”話が広まるなら――それは王家採用品を貶める話です」
笑顔のままの視線が、細く強くなる。
「王家の管理を揺らす話です。――皆さま、ご自分の言葉には責任をお持ちくださるかしら」
会話は急に無難になった。無難になったぶん、空気が薄い。
娘たちは最後まで息が浅いままだった。
屋敷へ戻る馬車の中で、ミレイユがようやく小さく吐いた。
「……王女殿下がいなかったら、潰れてた」
「理屈を言いたかった」とフローレが呟く。
「工房を笑われるのが一番嫌だった」とエルザが窓の外へ言う。
引け目だけが残る。
――今日も、あの戦場では勝てていない。
――家に貢献できていない。
胸の針は抜けないまま、数日が過ぎた。
◇◇
そして、その数日後。
今度は王家からの正式な召喚が来た。
紙の厚みと封の重さが違う。王女印ではない。王家印だ。
式典の広間は、先日の小広間よりもさらに静かだった。
静かさの質が違う。香りではなく、権威が空気を支配している。
そして――見覚えのある令嬢たちが、列の後ろにいるのが分かった。
先日の小広間で針を投げていた顔が、今日は揃って「無害」に整えられている。
欠席できない。王家の式典を欠席することの方が、序列に傷が付く。
だから彼女たちは、ここにいるしかない。
笑顔はある。だが、笑顔の下の顎がほんの少し固い。
拍手をする準備だけが、先に作られている。
壇上に立ったセリーヌ王女は、今日は表情が穏やか。
でも、声はピンと張っていた。
「携行ケーキの件。王家の名において、あなた方の功績を認め、表彰します」
その言葉が落ちた瞬間、後方で空気が一枚剥がれた。
噂は――ここから先は勝手にはできない。王家が記録を取るからだ。王家の決定事項に対する嘘や捏造は重罪だから。
「これは甘味の工夫ではありません。前線の生命線です。命を繋ぐための規格です」
その一語で、後ろの誰かが小さく息を詰めた。
“菓子”と呼んで笑った言葉が、今は喉に引っかかって飲み込めない。
王女は、三人の名を呼ぶ。
「ミレイユ・ヴァーレン。保存手法の確立と品質条件の策定」
「フローレ・マルシェ。製造工程設計と再現性の確保」
「エルザ・リンドベルク。包装封緘の規格化と量産運用手段の確立」
褒め言葉は飾られない。作業名で、功績が固定される。
その瞬間、背後の空気がさらに冷えた。笑顔の置き場を失った者がいる。
侍従が進み、三通の文書を差し出す。王家印。厚い紙。角の正確さ。重い。
「これは個人への褒章です。――そしてもう一つ、各家へも通知が届きます。
携行ケーキは“菓子”としてではなく、前線の生命線として王家規格に採用されました。
保存手法、製造工程、包装封緘――その確立は、それぞれが一つの“技術”です。
王家はそれらの技術を、王家規格として用いる許可を得ます。
その対価として、褒賞と使用料は各家へ支払われます。功績は、家の名にも記録されます」
後方の空気が、さらに冷えた。
噂で笑うのは自由だ。だがこれは噂ではない。
王家が金を払ってでも使うと決めた――「技術」だったのだ。
補給担当の士官が一歩前に出て、簡潔に報告した。
「行軍のとき、試験的に兵に持たせました。
すると、隊の疲労が目に見えて減りました。足が止まらない。愚痴が減る。夜営で倒れ込む数が減る」
士官は一拍だけ置いて、言葉を締めた。
「生産量が整い次第、全兵に持たせることを検討しています」
それで終わりだ。
拍手が起こる。遅れて波になる。
遅れた拍手が、いちばんよく分かる。――計算が入っている拍手だ。
後方の令嬢たちは少し遅れて手を叩いた。叩かないと、次は自分の家が沈む。叩いても、悔しさは消えない。
音だけが整い、表情だけが置き去りになる。
ミレイユは、そこで初めて息が楽になった。
フローレの指が少しだけ震えて、次に笑いに変わった。
エルザは、帽子を取って頭を下げる礼の角度が、工房で治具を合わせる時みたいに正確だった。
勝った。
社交で踏み返したわけではない。
“国の評価”で勝った。
それが、彼女たちにとって一番嬉しい勝ち方だった。
◇◇
ほどなくして、王家の通知は各家に届いた。
ミレイユの屋敷で、家令が封を受け取った手が震えた。
震えは恐怖ではなかった。重さに対する敬意だった。――王家印は、家そのものの立ち位置を変える。
「……旦那様」
当主が現れる。家令は封を切り、文書を丁寧に広げた。
読み上げる声は、いつもより少し硬い。
「携行ケーキ関連技術、王家規格採用。
保存手法の確立と品質条件の策定――ミレイユ・ヴァーレンの功績を認め、表彰する。
右、当該規格を王家ならびに軍需部門が使用するにあたり、規格使用料を定める。
使用料はヴァーレン家領の収入として計上し、年次で支払う――」
家令はそこで一瞬息を吸った。
“年次で支払う”。一度きりの褒賞ではない。制度として、金が流れ続ける文言だった。
当主は文書の末尾――金額ではなく、条文の形を見ていた。
規格。使用。支払い。監査。改訂の手続き。
つまり、これは噂でも気まぐれでもない。「国の約束」だ。
家令が、言い添えるように口を開いた。
「……お嬢様がしたのは研究であって、家業ではございません」
当主はゆっくり顔を上げ、短く言った。
「家業でなくていい。家の得になる」
そして文書の一行を指で押さえる。
「名が上がる。領に金が入る。――それで十分だ」
ヴァーレン領は、何か一つに賭ける領ではない。鉱山という強みはあるが、無理はしない。
だからこそ、こういう“確かな約束”を積み上げる。
声をさらに落として、当主は続けた。
「研究に逃げた娘が、国に必要とされた。なら、うちが守る」
それだけで終わりだった。
当主は文書を畳み、ただ一度だけ頷いた。
「よくやった」
社交の戦場で勝てない娘を責める言葉ではない。
別の戦場で、家を勝たせた娘への評価だった。
◇◇
マルシェ家の屋敷は、王宮の台所と一本の通路で繋がっている――わけではない。
だが距離と仕組みの上では、ほとんど“拡張部分”だった。
王宮に正式な調理場がある。
そして王宮の近くに据えられたマルシェ家の屋敷にも、同等の調理場がある。こちらは宴の本番を回す場所ではない。試作をし、若い料理人に勉強をさせ、忙しい季節には王宮へ人と鍋を送り出すための場所だ。火も刃も、王宮の延長として扱われる。
この場所を束ねているのが、マルシェ子爵――フローレの父だった。
彼は鍋を振るわない。包丁も握らない。代わりに献立の方針を決め、調達の契約を結び、人員の配属と衛生の基準を作り、帳面と時間で厨房を回す。王宮の調理部門を「部門」として成立させる役目の人間だ。
現場の頂点には、雇われの王宮料理長がいる。
味の最終決定と、火と刃の秩序は彼が握る。だが、その秩序が王宮まで滞りなく届くように、背後で道を敷くのが子爵の仕事だった。
その分厨房で、封書が届いた瞬間、火が弱められ、包丁が止まった。
止まったのは音だけで、動きは乱れない。熱源を守り、刃を伏せ、手を洗い、次の指示を待つ。王宮仕込みの癖だった。
雇われの王宮料理長が帽子を取って胸に抱えた。見習いがそれに倣い、下働きの者まで頭を下げる。
ここにいるのは屋敷の召使いではない。王宮の厨房で働く料理人が、研修や試作のために出入りしている。腕の良い者ほど、この台所の“試し”に呼ばれる。
マルシェ子爵――フローレの父が文書を読み終える。
彼は人と物資と手順を見て、足りないところを数える目をしていた。
「いくらか拡充が必要なようだな」
その言葉は大きな号令ではなく、現実の確認だった。
王宮の厨房は、もともと最大級だ。だからこそ、無闇な拡張は要らない。足りない場所だけ、少し厚くする。それで十分に回る。
子爵は台所を一度見回して、落ち着いた声で続けた。
「……試作が本番になるな。手順は崩すな。必要なところだけ、増やそう」
雇われの料理長が頷いた。現場の顔だ。
「はい。火口を一つ増やします。試作は私の班で詰める。若いのは仕込みと計量へ回しましょう」
「油、砂糖、粉の手当ては?」と子爵が訊く。
料理長はすぐに返す。
「こちらで見積もりを出します。王宮側の在庫も当たっておきます」
「頼む。……王宮へは私が話を通す」
料理長は帽子を胸に抱え直し、少しだけ息を吐いた。
「お嬢様の研究は、もう“遊び”ではありませんな。――国の仕事になります」
フローレは、この台所を遊び場にした娘だった。
鍋の縁の泡の立ち方、火の音、油の匂い。大人の手元を覗き込み、怒られ、笑われ、いつの間にか「次に何をすべきか」だけは身体が先に分かるようになっていた。
だから彼女の“工程設計”は、紙の上の理屈ではない。火の前で育った手順だった。
火が元の強さに戻る。
包丁が再び動き始める。だが切っているのは食材だけではない。工程と役割が、音の中で刻まれていった。
◇◇
リンドベルク家の工房では、封書が机に置かれた瞬間、床板に響く音が変わった。
打音は止まらない。止まらないが、全員の耳が同じ方向を向く。
工房主が封を切り、文書を読み終える。最後の行で視線が止まった。
「封緘規格、王家規格採用。使用許諾。量産時の優先契約」
工房主は紙を机に置き、ゆっくりと息を吐いた。
それから、工房の音に埋もれない声で言う。
「封をする道具が、王家規格になるってことだ」
職人の一人が、小さく息を吐く。
「……王宮で使う封緘を、うちの道具で回すってことですか」
「そういうことだ。量が出る。間違いは許されない」
別の職人が帽子を取りながら笑う。笑いは軽いが、目は軽くない。
「そりゃ……不良品を出せませんね。検品も増やさないと」
「増やすのは数じゃない。手順だ」
工房主は指で紙の端を叩いた。
「治具を追加する。封蝋の温度の線を確実に決めよう。封の押し方は型で固定する。 担当も決める。――“うまい人だけ”に頼るのは、今日で終わりだ」
職人たちが、次々に頷いた。
誰かの指先の工夫だったものが、工房の規格になっていく。
工房主は、もう一度文書を見て、言葉を落とした。
「娘の仕事だ。……いや、これからは家の仕事になる」
帽子を取る音が、波のように広がった。
金床の音はすぐに戻る。けれど同じ音ではない。――次に作るのは、国の封緘だ。
◇◇
王立大学校の研究棟。
甘い匂いが、今日はやけに優しかった。
ミレイユは机に伏せ、胸の奥に入っていた不安を、ようやく吐き出していた。
フローレは指先を見つめた。料理の手だ。今日は、生命線の手だ。
エルザはここ数日のイベントに力尽き、いささか放心している様子が否めない。
扉が開き、セリーヌ王女が入ってくる。
鋭い目つきはもうない。代わりに、ほんの少しだけ満足げだ。
「お茶会には、合わなかったかもしれないけど」
王女はさらりと言った。
「あなたたちは、技術と研究で勝った。国を動かす勝ち方で」
ミレイユの胸の奥で、長く刺さっていた引け目が、少しだけ緩んだ。
逃げた場所で得た力が、家へ届いた。
社交で踏めなくても、世界を動かせる。
それが――彼女たちにとって、いちばん嬉しい貢献だった。
セリーヌは、研究棟の空気を吸って、静かに笑った。
「令嬢の生存術は、笑顔で踏むことじゃない。息ができる場所を守って、その息を家に繋ぐという方法もあるのよ」
ミレイユは封書の控えを胸に抱え直し、ようやく深く息を吸った。
令嬢の生存術とは、社交の戦場で勝つことだけではない。
息ができる場所を見つけ、守り、そこから家へ貢献を返すことも生存術なのだ。
彼女らは、やっとそれを知った。
そして知れたことが、救いだった。




