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第7話 治癒師

目を開けた瞬間、天井が白すぎて、逆に現実味がなかった。白い布。白い壁。白い陶器の盆。火と砂糖の匂いがしない――その時点で、ここが研究室でも工房でもないと分かった。


 指先が、動かない。


 腕の痛みはある。息もできる。胸も上下する。なのに、手の先だけが自分のものではない。意識だけが先に起きて、身体が追いついていない。いや――身体が「追いつくな」と言っている。


「起きなくていい。今から傷の治療をするわ。安静にしてればいいから。」


 声がして、エミリアは視線だけを動かした。母、エリザベスがいた。領都の治療院で会う母は、母である前に治癒師だった。目が違う。泣きも笑いもしない目で、ただ状態を測る目。


「裂傷は浅い。骨は無事。出血も多くないわ。問題は、魔法の痺れね」


 淡々と告げて、母は手袋をはめ直した。助手が盆を寄せる。盆の中には、布と鉗子、縫合針、そして小さなガラス瓶。ラベルに細い字で書かれていた。


――生理食塩水。


 水ではなく、塩の匂いがした。

 なぜ塩を――と考えたところで、母が先に答えた。


「細胞は血に近い塩分のほうがダメージが低い。真水は、傷口の細胞を弱らせることがあるの。だから生理食塩水。リザ様が“徹底洗浄”を戦場に持ち込んだ次に、これを広めた」


 母は瓶を傾ける。


「治癒魔法は細胞分裂を速めるだけ。分裂させるなら、細胞が生きて分裂できる状況にしなくてはいけない。――水より、できるだけ血液に近くした食塩水が効くのよ」


 それを見て、エミリアは妙なところで安心した。ここには治療法がある。決まった手順がある。


「洗浄は二段。最初は汚れを落とす。次は、汚れを残さない」


 母は傷口の周りを拭い、生理食塩水を惜しげもなく注いだ。冷たさが痛みを際立たせる。だが痛みは、まだ自分の身体に接続されている証拠だった。


「昔は戦場だと川の水で洗って縫った。飲み水で済ませることもあった。――当然、化膿する」


 母の声に、ほんの少しだけ棘が混じる。


「リザ様が変えたの。『とにかく、きれいな水で洗え』って。最初は蒸留水よ。怒鳴ってでも配らせた。それが進んで、いまはこれ」


 助手の動きが、わずかに慎重になる。治癒師の世界で「様」が付く人は多くない。


「母さんは……リザ様の弟子、でしたよね」


「そう。リザ様の五年後輩。弟子といっても、こき使われる側だけど」


 母は針を取った。


「局所麻酔を掛ける。これは治癒師の領分。縫合を始めるわ」


 麻酔がじわりと広がり、痛みが鈍る。縫合針が通るたび、身体が小さく跳ねようとするのを、母の手が押さえ込む。怖いのは痛みではない。“制御できない”感覚だ。痺れた指先が、命令を聞かない。


 縫い終えると、母は掌を傷の上に置いた。温かさが広がる。魔力が流れているのが分かる。だが肉が盛り上がって塞がるわけではない。奇跡の修復ではない。


「治癒魔法は万能じゃない。細胞の再生が、ある程度早くなるだけ。だから先に――洗って、合わせて、組織が生きられる環境を作る。組織が死ぬような環境なら、薄皮すら張らない」


 一時間。母は手を離さず、呼吸の速さを一定に保った。助手は灯りを落とし、布を替え、体温が下がらないよう毛布の位置を整える。魔法は最後のひと押しで、そのひと押しのために、患部は徹底して整えられる。


 やがて傷口に薄い膜が張り、布に赤が移らなくなった。


「これで外傷は終わり」


 母は息を吐き、エミリアの指先を見た。


「痺れは寝かせるしかないわね。焦って魔力で触ると、余計に痛めることがあるから」


 治せない、と言われるより、「触ると悪化する」と言われるほうが、研究者には刺さる。エミリアは頷こうとして、首が重いのに気づく。身体が命令より先に“停止”を選んでいる。


 そこへ薬師が入ってきた。年嵩の男――というより、この治療院ではいつも「爺さん」と呼ばれている薬師だ。瓶を二つ出し、紙に走り書きする。


「胃を落ち着かせるのを少量。炎症を抑えるのも少量。水は少しずつ。吐きそうだったら止めてくれ」


 母が頷く。


「神官は……今日は必要なさそうね。大きい麻酔じゃないから」


 薬師の爺さんが肩をすくめた。


「脳に触る鎮静は神官の領分。建前では、な」


 母は視線だけで返す。


「エミリアは今は患者だからね。しばらくは観察が必要よ」


 布が胸まで掛けられ、灯りが落ちる。治療が終わったのに、怖さが残る。指先が戻らない未来を想像してしまう。それでも、眠りは容赦なく降りてきた。



 夜更け、治療院は静かになる――はずだった。廊下の向こう、当直室の灯りがまだ落ちない。エミリアは眠りきれず、薄く開いた扉の向こうの声を聞いていた。母と薬師の爺さんの声だ。


「治癒師は切る、止める、繋ぐ、固定する。戦争の傷を扱う人間が必要だった。だから組織が大きくなった」


「薬師は薬、熱、腹、毒、慢性の病、調合と製造。都市なら分業で回るが、田舎は違う。村に一人しかおらん薬師が、治癒師も産婆もやらされる」


「……本を傍らに、ね」


 母の声が低くなる。


 爺さんが湯呑みを置く音がした。


「隣の村でな。お産がうまくいかんと、産婆の婆さんから呼び出されてな。教会の若い神官と一緒に馬車で駆けつけたら、帝王切開をする羽目になったよ。産婆と神官と薬師のわしで大変じゃった」


「……やったのね」


「やったとも。村に治癒師はおらん。夜明けまで待てば母子ともに――だからな。神官が鎮静をかけた。脳に触るのは、あれらの領分じゃから」


 爺さんは一度、言葉を切ってから、ぼそりと続けた。


「家は古びた一軒家でな。戸の隙間からランプの光が漏れてた。御者が『ここです』と指さして――入ったら、産婆のイレーネ婆さんが、まず“時間”を言った」


 母が、目を細める。現場の会話だと分かる顔になる。


「『ゲルハルト、この子だ。進まない。もう何時間もこのままだ。切るしかない』ってな」


 爺さん――ゲルハルトは、当時の匂いを思い出すみたいに鼻で息をした。


「奥には夫らしい男が立っとった。顔色が土みたいで、口だけが動く。『助けてくれ』と言ってるのに、声が出ない。そういう顔じゃ」


 そこへ、教会の若い神官が遅れて入ってきた。


「神官はテオって名でな。若い。手も声もまだ震えてた。だが、逃げなかった」


 ゲルハルトが言う。


「イレーネ婆さんは、わしの返事を待たん。先に“段取り”を組んだ。夫に向かって――」


 声が、少しだけイレーネ婆さんの口調に寄る。


「『鍋を出しな。ありったけ全部だ。湯を沸かして、冷ましておけ。火は絶やすな。布もだ。使える布を全部出せ。破れててもいい、洗って煮る。手を拭く布と、傷を拭く布は分けるんだ』」


 母が小さく息を吸う。

 不完全でも、やらないよりはまし――その“まし”を積む指示だ。


「冷ます途中で雑菌は入る。入るさ。だが、一度煮沸した湯は、川の水よりはましだ。布も同じ。煮て、絞って、また煮る。あの婆さんは、そういう現実を知ってた」


 ゲルハルトは湯気を思い出すように、指先を揉んだ。


「夫が鍋を抱えて台所と寝室を往復し始めた。布が積まれて、湯気が上がって、部屋の匂いが変わった。――家が一瞬だけ“治療室”になるんじゃ。あの時の匂いは、今でも覚えとる」


 母が問う。


「テオさんには、どう頼んだの?」


「『腹を切って子を出す。鎮静を頼む』ってな。

 テオは青い顔で『掛けるときの合図と、深さを教えてください』と言った。――あいつも必死に職務を全うしようとしてたな。若いのに」


 母が小さく頷く。


「彼は彼なりに職務を遂行できるよう努力したのね」


「そうじゃ。だから合図を決めた。『刃を当てる前』と『腹を開いた後』で段を変える。深くしすぎるな、とも言った。呼吸が落ちたら戻せんのは、神官も同じじゃからな」


 ゲルハルトは、湯呑みの縁を指でなぞる。


「で、イレーネ婆さんが産婦の手を握って、声をかけ続けた。

 ――切るのはわしでも、現場を繋ぐのは婆さんの手だった」


 母が、そこへ刃物みたいな一言を差し込む。


「洗浄は?」


 ゲルハルトが短く笑う。


「煮沸した湯と、酒精と、できるだけの布。蒸留水なんぞ、あるわけがない。湯が冷めるのを待てず、まだ温いのを使ったこともある。布が足りなくて、夫のシャツまで裂いた」


 ゲルハルトが、笑わなければ話せない種類の笑いを漏らす。


「お前さん、リザ様に似てきたな」


「弟子ですから。五年後輩のね」


 エミリアは暗闇の中で息を吸った。母には師がいて、師にはまた積み上げた手順がある。自分が作ろうとしているものが、ここではすでに血と汗で形になっている。


「育て方も違う」


 母が言った。


「治癒師と薬師は基本は弟子制度。師匠の背中で覚える。でも数が足りない時代があった。戦争よ。だから王立治療院が作られた。軍が必要とした“大勢の治癒師”を育てるために。のちに薬師部門も作られた。弟子制度だけだと、師匠の腕の数だけしか増えないから」


「神官は教会で育つ。脳と心と死を扱うからな」


「ええ、そこは――今は深入りしないでおきましょう」


 母が静かに言った。深入りしない、と言いながら、そこに“深入りしたら戻れない領域”があると匂わせる言い方だった。



 しばらく沈黙が落ちたあと、母がふと思い出したように言った。


「そういえば、二回前の従軍で野戦治療院に行ったときにね。とんでもない人を見たわ」


 ゲルハルトが「ほう」と短く相槌を打つ。


「時々、心臓が止まった患者が運ばれてくる。私たちでも止まったら叩いてみたりはする。……でも、ほとんどは戻らない」


 言葉がそこで切れる。切れ目に、助からない死体の重さがあった。


「止まって短時間なら心臓を再び動かせる治癒師が居るのよ。彼は胸を叩かない。十本の指からそれぞれ魔力を出して患者に流すの」


 エミリアの背中がぞくりとした。一本にまとめるのではない。分ける。分けて同時に扱う。


「長年従軍してた人らしくて、ちょっと精神的に変な人だったわ。その人は、心臓が止まった患者の前に立つと――まず、胸に耳を寄せるの。聴診器じゃない。素手で、皮膚越しの“沈黙”を確かめるみたいに」


 母の声が、そこで一瞬だけ湿る。怖さと敬意が同時に混ざる声だ。


「それから、患者の胸に両手を置く。十本の指を、ばらばらに開いてね。指先から出す魔力は、太い一本じゃなくて、糸みたいに細いのを十本。一本一本が別の仕事をするの」


 ――押すのではない。叩くのでもない。

 触れているだけに見えるのに、空気が変わる。


「指ごとに、刺激の場所も、強さも、タイミングも違う。ある指は“呼びかける”みたいに細かく、ある指は“支える”みたいに長く。……心臓の周りの神経と筋肉は、全部が同じ拍子で動いてるわけじゃないでしょう? そこを、十本で分担して合わせていくのよ」


 エリザベスは、小さく息を吸った。


「彼はね、口で数えたりしない。代わりに、呼吸みたいに一定の間を作って、そこへ少しずつ“ずれ”を入れていくの。沈黙の中に、最初の小さな痙攣が返ってくるまで、焦らず、でも迷わず」


 そして、と言って母は指を折る。


「指先に返ってくる感触で分かるのよ。……『今、戻る』って。

 胸の奥が、ほんの一度だけ“跳ねる”。次に、弱い二度目が来る。そこからは、彼が“揃える”んじゃなくて、心臓のほうが自分で拍子を探し始める」


 母の声が、ほっとほどける。


「一拍。二拍。三拍。

 拍動が続いたのを確認したら、彼はすぐに手を引くの。誇らしげにもならない。『よし、起きたね。あとは身体の仕事だ』って、ただそれだけ」


「そうやって心臓の色々な神経を刺激して、心臓の本来の動きを取り戻すのね。十本の指がそれぞれ別の神経や筋肉を動かして――全体では協調して心臓が拍動し始める」


 母の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。憧れではない。畏怖だ。


「ピアノを演奏しているようだったわ」


 ゲルハルトが湯呑みを持った手を止め、低く言った。


「魔力刺激じゃな。だが――もう心臓が止まっているなら、死体と言っていい。そこを無理やり生に引きずり戻すということじゃ。だから、戻せると判断した時だけ手を出す。失敗すれば、ただの死体を“いじった”ことになる」


 母が頷く。


「できるからやる、じゃない。やっていい時を考えなければならない。医療は、技術で生と死の線を行き来する行為なのかもね」


 その言葉が、扉の隙間からエミリアの胸に落ちた。研究でも同じだ。できることが増えるほど、やってはいけないことが増える。神経に触るというのは、そういうことだ。


 布団の中で、エミリアは自分の胸に意識を向けた。拍動は規則正しい。止まっていない。いま、この当たり前がどれだけ薄い綱の上にあるかを、初めて知った気がした。


 指先はまだ動かない。けれど、怖さだけでは終わらなかった。

 十本の指で協調させる魔力――それは、単なる武勇伝ではない。分割、制御、同期、そして線引き。自分が扱うべき研究の形が、治療の現場で先に示されていた。


 母の声が最後に釘を刺す。


「エミリア。退院の許可は私が出す。それまではあなたは研究者じゃない。患者。寝て、体の戻り方を観察しなさい」


 エミリアは目を閉じた。

 心臓の拍動だけが、はっきり聞こえた。

 それを“記録したい”と思ってしまう自分を、少しだけ怖いと思いながら――今は、眠りに落ちることを選んだ。

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