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第6話 魔石ベルト

 グレンウッド領の外れ。使われていない荒れ地は、冬の風が抜けるだけで音が少ない。霜が草を白く縁取り、踏むたびに乾いた小さな音がした。人里も街道も遠い。ここなら、何が起きても巻き込みにくい。――少なくとも、そう信じられるだけの距離はある。


 護衛が四名。弓と槍、網。縄と毛布と薬箱。

 普通の狩りの装備ではない。狩る側が倒れる可能性を、最初から数えている装備だ。


 エミリアは外套の前を開き、胸の前で留め具を鳴らした。


 革の帯に、丸い黒い粒が鱗のように並んでいる。宝石のような煌めきはない。煤けた炭のような鈍い光沢だけが、角度でわずかに光った。腰に巻いた一本。さらにもう一本を袈裟懸けにしている。胸から脇腹へ斜めに走り、背中で金具が合わさる。


「腰だけだと、動いたときにずれそうだなって思って。……上にも一本あると、なんだか安心する気がして」


 エミリアは、少し照れたように笑った。工房で夜更けまで縫い直した跡が、帯の端に残っている。


「……ちょっと試し打ち、していい?」


 護衛隊長が目でクラリスに確認し、クラリスが小さく頷いた。


「ええ。短くね。――落ち着いて。深呼吸してから」


「うん」


 魔石ベルトとエミリアの身体は、右肩のあたりで接触している。紐の引き具合で、肩への密着度がわずかに変わる仕組みだ。そこから“借りてきた力”がエミリアの右腕へ回り、手首、指先へと集まる。


 エミリアは指を揃え、まっすぐ一点を指した。


 指先から伸びた魔力が、空中の一点で火球となって発現する。

 距離にして三十センチほど。そこに生まれた小さな火球は、そのまま速い速度で飛び、地面に当たってふっと消えた。


 ――すんなり出た。


 実のところ、エミリアはこの「指先の火球」を、ベルトの開発中に何度も試している。自分の魔力で火を作ることはできなくても、外から借りた力を通して“形”にすることなら、繰り返し練習して身体が覚えた。


「……うん。大丈夫。今日は、うまくいきそう」


 その声が明るい分だけ、護衛の表情が少し緩んだ。

 だが、クラリス少尉は軽口を叩かなかった。普段なら「発明家らしいわね」で済ませるところだが、その日は顔色が変わった。


「……ちょっと、後ろ向いてくれる?」


「え? う、うん」


「怖いことはしないわ。確認したいだけ」


 クラリスは背後に回り、布越しに背骨の脇を指で辿った。肩甲骨の内側。骨が浮いて肉が薄いところで、袈裟懸けの帯が一瞬だけ“近い”感触を伝えてくる。


 クラリスの指が止まった。


「……ここ。ここが近い」


「近い、って……当たってる?」


「当たってはいない。でも、近いのがよくないの」


 クラリスは言葉を柔らかく選んだ。エミリアを怖がらせて引かせたいわけじゃない。けれど、軽く流されても困る。


「魔力の流れってね、まっすぐには行かないことがあるの。体の中には“通りやすい道”と“通りにくい道”があって、変なところに近いと、そっちを通ることがある」


「通る……?」


「うん。背骨の周りは、そういう意味で良くない場所。薄いし、敏感だし、いろいろ集まってる」


 クラリスは折り畳んだ厚い布を取り出し、さらに革の当て板を重ねて差し込んだ。手つきが早い。戦場で何度も“安全のための不格好”を作ってきた人の手だ。


「距離を取る。最低でもこれくらい。背中は薄い。骨が出てる。そこに石が近いと、流れが――その、通りやすくなるの」


 エミリアは少し考えてから、ぽつりと言った。


「……でも、熱くないよ? 痛くもないし」


 クラリスの目が一瞬だけ細くなる。


「そこが、あなたのいちばん厄介なところ」


「え?」


「責めてるんじゃないのよ。……あなた、魔力がほとんど無いって扱いだったでしょ」


 エミリアは小さく頷いた。


 努力だけはした。

 何年も、何度も、何度も。

 それでも、せいぜい指先に“数ミリの種火が一瞬点く”程度。ほとんどの人なら「無し」と判定するレベルだ。エミリアはその種火までを、歯を食いしばって引きずり上げた。だからこそ、その先の“魔力を流したときの痒い・痛い・熱い”といった身体感覚を、まったく知らない。


「普通はね、危ない流れ方をすると、どこかが痛いとか、熱いとか、嫌な感じがすぐ来るの。そうすると体が勝手に止める。焚き火に手を突っ込まないのと同じで」


 クラリスはそこで、少しだけ声を落とした。叱るためではなく、届かせるために。


「でもあなたは、その“止まれ”が育ってない。育つほど流したことがない。……だから今日は、当たり前を身体に覚えさせる日。成功体験からね」


 エミリアは布と革で不格好になった背中側を見下ろし、苦笑した。


「生きて帰れる方がいい、だね」


「そう。格好より命」


 護衛隊長が控えめに咳払いをした。


「お嬢様。第一目標は小型魔獣。ツノウサギでよろしいかと」


 クラリスが頷く。


「ええ。エミリア、焦らない。今日は“勝つ”より“帰る”が優先よ」


 エミリアは小さく笑って、もう一度頷いた。


「うん。……帰る」


1. ツノウサギ――無邪気な成功


 草地の端で、灰色の影がぴょんと跳ねた。小さな角――ツノウサギ。

 こちらを見て、逃げるか迷っている。迷っている時間がある相手だ。といっても舐めてるとその角で刺されて魔力で麻痺させられることがある。一応は魔獣なのだ。


 エミリアは杖を構え、腰の紐をわずかに緩めた。

 皮膚の下を冷たい水が流れるような感覚がする。痛みも熱さもない。むしろ心地よい、とさえ感じてしまう。


(……これが、“借りてきた力”)


 指先に小さな火球。

 ぽん、と土が弾け、ツノウサギが跳ねる。二発目を追い撃つ。角の根元をかすめ、獣がころりと倒れた。


 一瞬、静かだった。

 次の瞬間、エミリアの顔がぱっと明るくなる。


「当たった……! え、当たった! いまの、わたし? わたしがやったの?」


 自分の手を見て、まわりを見て、倒れた魔獣を見て、信じられないという顔で笑う。


「できた……。自分にできるとは思わなかった。ほんとに……」


 護衛の一人がつられて笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。

 護衛隊長は深く息を吐き、頷いてみせる。


「見事です、お嬢様。落ち着いていました」


 エミリアは胸に手を当てたまま、クラリスを見る。


「クラリス、見てた?」


 クラリスは、ようやく少しだけ口元を緩めた。


「見てた。……今のは良いと思う。余計な力が入ってなかった」


 それでも笑い切らない。視線がベルトへ一度落ちる。


「でも、今の相手は小さい。次も同じ調子で。紐を強く上げないでね。約束よ」


「うん。約束する」


 エミリアは素直に頷いた。

 まだ、この約束がどれほど重いか知らないまま。


2. スライム――小さな違和感


 沼地の縁に、透明な塊がぷるんと揺れていた。スライム。

 光を飲み込むように見える。表面がぬめり、酸性の匂いがわずかに鼻を刺す。


「近づかないでください」

 護衛隊長が言う。「酸で金具がやられます。距離を取ってください」


 エミリアは頷き、杖を構えた。


「うん。遠くから……熱で、焼けばいいんだよね」


 紐は、ほんの少しだけ緩める。

 その瞬間、腰のあたりに微かな振動が走った。


 背中の奥が、ほんの少しだけ違和感。


(……あれ?)


 熱くない。痛くない。なのに、嫌な感じだけがある。

 エミリアは眉をひそめた。


「……今、ちょっと……変、かも」


 クラリスはすぐには飛び込まなかった。

 止めることは簡単だ。けれど“変”の正体が見えない。何より、エミリアが痛がっていない。熱が出ていない。クラリスが普段頼りにしている警告が、今日は表に出ない。


(……読みづらい)


 クラリスはその迷いを飲み込み、声を柔らかくした。


「どんな感じ? 背中の方?」


「うん……引っ張られるような……でも、痛くない」


「そう。痛くないのが、いちばん困るのよね」


 クラリスは一歩だけ近づき、けれど奪い取らずに、指先で杖の握り位置をそっと示した。


「いったん、肩を落としてみて。背中を固めないで。呼吸をゆっくり」


「……こう?」


「そう。今の“変”が薄くなるなら、たぶん流れが寄りかけただけ。……スライムは急に来ない。落ち着いて片付けよう」


 エミリアは頷き、杖先に熱を集めて放った。

 表面が白く濁り、じゅ、と音を立てて縮む。もう一度。さらに縮む。最後は泡のように弾けて消えた。


「……できた」


 エミリアは息を吐いた。

 小さく、でも嬉しそうに笑う。


「二連勝、だね」


 クラリスは頷きかけて、やめた。

 代わりに、袈裟懸けの帯を一度だけ目で追う。布当てがずれていないか。背中の近い点が復活していないか。

 見たところは、まだ大丈夫。――そう見えた。


「うん。ここまでは良い。……でも、次は本番よ。嬉しいのは分かる。でも、浮かれないで」


「うん。……わかった」


 エミリアは素直に返した。

 けれど胸の奥は、まだ踊っている。


(わたし、できるんだ)


 その喜びの直後に落ちる闇は、だからこそ深い。


3. ウォーボア――失敗


 谷の向こうで、土が崩れた。

 黒い巨体が現れる。ウォーボア。牙は腕ほどもあり、泥と脂で鎧のように光っている。


 空気が変わった。護衛の声が尖る。


「下がれ! 隊形!」


 護衛隊長が槍を並べる。

 クラリスは一歩前へ出た。脇の下の“脇杖”が密着し、彼女の魔力が面で流れる姿勢になる。自分の流れは、自分で制御できる。


 エミリアは――一歩も引かなかった。


(ここで引いたら、また“できない私”に戻る)


 ツノウサギの成功が、嬉しさのまま胸に残っている。

 スライムの違和感も、結局は成功で終わった。

 だから、いける、と心が言う。


「……止めないと」


 エミリアは紐を強く引いた。密に集めて、一気に叩く。頭の中では理屈が通っている。


「最大……!」


「待って、エミリア!」


 クラリスの声が鋭くなる。

 “変”が“危険”に変わったのは、その瞬間だった。


 ウォーボアが地面を蹴った。

 突進。圧。風。

 エミリアは反射的に踏ん張り、全身に力が入る。肩が上がる。背中が固まる。


 姿勢が崩れた。

 袈裟懸けの帯がぎし、とずれる。背中の一点で布当てが押し潰され、魔石が背骨に近づいた。


 ぞわり、と背中の奥が痺れた。

 今までで一番はっきりした“変”。


(やば――)


 クラリスが本気で背筋を冷やしたのは、エミリアが痛がらないからだ。

 痛がらない。熱くない。

 なのに、流れだけが速い。

 止まらない速度で、背骨へ落ちていく。


「エミリア、紐を戻して! 今すぐ!」


 叫んだが、エミリアの手は動かない。

 致死量がどこか、身体が知らない。

 熱さも痛みもないから、限界の縁を踏んでも気づけない。


 次の瞬間、エミリアの背が反り返った。


「……っ、ぁ……!」


 喉が勝手に締まり、息が入らない。指が攣り、脚が跳ねる。

 脳の命令ではない。背骨の奥から信号が上書きされる。

 身体が、自分のものではなくなる。


「エミリア!!」


 クラリスが飛び込んだ。

 エミリアの体の全身が硬直して、痙攣して、頭を何度も地面に打ち付けている。

 クラリスはガクンガクン暴れる体を足で踏みつけて、飛び跳ねるのを抑え込む。


 迷いはない。ここから先は力任せにやるしか無い。

 杖を剥がし、留め具へ手を伸ばし、引き千切る。


 ――間に合え。


 魔石ベルトが外れ、圧が抜けた。

 エミリアは膝から脱力し、霜の地面に落ちた。頬に冷たさが刺さる。


 それでも呼吸が浅い。唇が白い。視界が揺れる。

 クラリスはエミリアの肩を支え、顔を横向きにして地面に寝かせた。背中の力みを抜かせ、気道を通すために。


「吸って。吐いて。……私と同じ。急がなくていい。ゆっくり」


 ひゅ、と音がして、ようやく空気が入る。

 涙が滲む。恐怖が遅れて来る。


 護衛が前に出てウォーボアを牽制する。

 クラリスの火が走り、獣は怯んで退いた。荒れ地に残ったのは風と、地面に伏したエミリアだけ。


 しばらくして、やっと息が整う。


 クラリスは唇を噛んだ。

 対策しなかったのではない。

 “変だ”とは思った。だが、致命傷へ行く速さを読み違えた。

 エミリアが変わらないせいで、危険の見え方が、いつもの戦場と違った。


 クラリスはエミリアの顔を覗き込み、怒鳴らない声で言った。釘を刺すように、でも折らないように。


「……いい? 今のは、忘れないで」


 エミリアは震えながら頷く。


「あなたが死にかけたようなことを敵にやれば――それを麻痺魔法っていうのよ。味方に起きたから事故って呼んでるだけ。……作用としては、ちゃんと成り立ってしまってる」


 エミリアは目を閉じた。

 ツノウサギとスライムの成功が、眩しいほど近い。

 その直後の落差が、胸を抉る。


(わたし、できるって……思ったのに)

 

 次は――原因を調べる。

 

(人の体ってこんなに魔力が流れやすいんだね、どういう経路にすれば大丈夫なのか考えないといけないわ)


 自重という言葉はエミリアの頭の中にはなかった。

 

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