第5-1話 魔石と光
魔法宇宙論 アリストマリサ著 幻想魔法アカデミア作
序章(抜粋)
「銀河系中心部には、多くの星が重力で集まり、強大なエネルギーを放出している。銀河中心部にはいくつかの巨大ブラックホールがあり、そこに落ち込む星やガスが最後の断末魔として、強力な放射線や電磁波を放出して消え去っていく。
すべての物質は強大な重力に引かれるのであるが、電子よりは重いが陽子、中性子よりは軽いという魔素、これはしばしば、銀河中央部の強力な電磁波のビームによって、銀河の外側に押し戻されていく。
重力によって引き寄せられる魔素と、光によって押し戻される魔素――それによって魔素の濃い部分と薄い部分ができる。その銀河の枝の一つに存在する太陽系とその中の地球、それはたまたま魔素濃度の高い空間に入ったところであった。
そこから脱出するのはわずか五億年くらいであろう」
(この書物は王立大学校の書庫で何人かの手に取られた事はあるが、そのうちに多くの書物の隙間に押し込められ、いつしか誰にも知られないまま眠り続けているようである)
――元気になる日、ならない日――
王都の裏通りにある杖工房は、いつ来ても匂いが同じだ。油と木屑と、焼けた金属。そこへ今日は、戦場の焦げや血の匂いの染みついた杖が運び込まれていた。
クラリスが戸を押すと、金床の音がひとつ止み、親方が顔を上げた。
「いらっしゃい、少尉」
「今日は娘さんに用があるの」
窓際の作業台で布を畳んでいたアリアが、はっとして立ち上がる。
「クラリスさん……お久しぶりです」
アリアは職人の娘だ。年は若いが、杖を加工する指先は落ち着いている。刃物も、薬品も、火も、扱いは驚くほど正確である。工房という場所が、そういう子を育てる。
「この前の“変な話”、もう一度聞かせて」
クラリスが言うと、アリアは唇をきゅっと結んでから頷いた。
「毎日じゃないの。ほとんど起こらない。……でも、たまにだけ、あるの」
「この前ね。クラリスさんの杖を磨いて、塗り直して、日に当てて乾かしたでしょ」
「塗装の乾燥ね」
「うん。終わって触ったら……ほんの少しだけ、“元気な”感じがしたの。眠ってたのが起きたみたいな」
クラリスは眉を上げた。
“元気”というのは職人の言葉だ。魔石がはめ込まれている杖なら、握ったときの張り、芯、戻り――そういう、言葉になりきらない部分で違いが出る。アリアは毎日いくつもの杖を手に取っている。魔石の“残り”を、指が勝手に覚えてしまう頃合いなのだろう。
「次の日に同じことをしても、何も起きない。だから気のせいだと思った。でも……」
アリアは工房の奥を指さした。
ガラス張りの乾燥室。
ガラス張りと言っても、広い平面ガラスではない。円形に近い、泡や歪みを含んだ古いガラスが数枚、継ぎ合わされている。風を防ぎ、日を取り込むための小部屋だ。ガラスのせいで光が妙に曲がり、床に明るい筋が走る。光が集まる場所と、薄くなる場所がある。
「前にも一度だけ、似たことがあったの。乾燥室の……光がちょうど集まる、あの一点に置いたときだけ」
「一点だけ?」
「うん。そこを外すと何も起きない。だから不思議でずっと覚えてた」
クラリスは笑いかけて、やめた。
職人の娘が“たった一度”を覚えている目は、迷信のそれではない。偶然を偶然のまま流さず、手の中に残しておく目だ。
「白い光に、反応しやすい成分が混ざってるのかもしれない」
「成分……?」
クラリスはそれ以上言わず、工房を出た。外は昼の光で、白い。白は色の束だ。束のどこが杖を“元気にさせる”のか――それを知るには、理屈が必要だった。
*
砂糖研究会の部屋は、今日は甘味の匂いが薄い。机の上を占領しているのは、紙と布と、大小さまざまな魔石の欠片だった。甘いものが消えると、ここはただの実験室になる。
「……誰が見ても怪しいわね、この部屋」
クラリスが言うと、エミリアは白衣の袖をまくりながら、困ったように笑った。
「そうだよね。でも、こういう実験ほど、あとで役に立つことが多いのよ」
クラリスはアリアの話を伝えた。毎日ではないこと。塗装乾燥のあとにだけ、微妙に“元気になる”こと。昔、乾燥室の“一点”で同じことが起きたこと。
エミリアは何度か頷いてから、少しだけ声を落とした。
「再現が難しいのね。……じゃあ、いったん素直に、日に当ててみようか」
魔石を日なたへ置く。布をかぶせず、そのまま。時間を計る。触る。記録する。
――何も起こらない。
次の石。次の石。
昼の光。夕方の光。雲の切れ間。乾燥室のように“集まる場所”を探して角度を変える。
たまに、良い気がする瞬間はある。だが次の瞬間には消える。数字にすると散らばる。再現性がない現象は、再現性がないまま暴れる。
エミリアが顎に指を当てる。
「“成分”を探す前に、まず“強さ”で変わるかどうか、確かめておきたいな」
「強さ?」
「うん。もし強い光ほど入るなら、話がだいぶ整理できるでしょう? ……先に確認しておきたいの」
棚から大きな虫眼鏡を持ってくる。観察用の備品だが、太陽の下では別の顔をする。
「やめてよ、火事になる」
クラリスが即座に言うと、エミリアは素直に頷いた。
「危ないから……外で、火が出ない距離でやろう。クラリス、見ててくれる?」
「仕方ないわね」
庭に板を出し、虫眼鏡を固定する。白い光が一点に集まると、そこだけ空気が揺れて見えた。
エミリアは小さな魔石を、焦点のわずか手前に置いた。
焼けない距離。けれど“強い光”が当たる距離。
時間を測る。触る。記録する。
角度を変える。距離を変える。焦点をずらす。弱める。強める。
「……どう?」
クラリスが訊くと、エミリアは首を傾げた。
「うん……強いほど“起きそうな気配”はあるのに、同じにならないね」
何度も同じ条件を作ったつもりでも、同じところへ落ち着かない。増えたように思っても、次には戻る。戻ったと思っても、今度は増えない。
「たぶん、強さだけじゃなくて――白い光の“中身”のほうが、少し偏ってるのかもしれない」
「偏りって、どう偏るのよ」
エミリアは机の山から薄い本を一冊引っ張り出した。表紙が擦れている。学生向けの自然哲学の入門書だ。
「ねえ、これね。本に書いてあったんだけど――白い光って、いろんな色が混ざってできてるんだって」
クラリスは眉を上げる。
「色?」
「うん。それをプリズムっていうガラスの道具に通すと、色ごとに分けられるらしいよ」
「光をプリズムに通したら、全部虹になるんじゃないの?」
「全部虹になるとは思うんだけど……“同じ虹”になるとは限らないみたい」
エミリアはページを開き、図を示した。
「たとえば、ろうそくの光だと、虹の中に“薄いところ”や“欠けるところ”が出るって」
「欠ける……?」
「太陽光は、いろんな色が詰まってる。でもろうそくの火の光は、全部は詰まってない。欠けるところがある。……試すのが一番早いよね」
エミリアは机の隅の箱から、小さなガラス片を取り出した。玩具に近い安物のプリズムだ。誰かが「光は分けられる」と聞いて買ったまま、甘味の実験に押されて忘れられていたもの。
まず太陽光を通す。机の上に細い虹が落ちる。赤から紫へ、端まで素直に伸びる。
「……綺麗ね」
「次、ろうそく」
火皿にろうそくを立て、炎の前に小さな穴板を置いた。光を細くしてプリズムに通す。
虹は出た。だが――太陽の虹より、どこか薄い。
「ほら」
エミリアが指を二箇所、空白のように見える帯へ置いた。
「本当だ、太陽光に比べると、こことここの光がない」
「ね。白が同じでも中身は同じじゃない。乾燥室の一点で起きたのも、“強い光”だったからだけじゃなくて……偏りがあったのかもしれない」
クラリスが腕を組む。
「じゃあ、色ごとに当てればいい」
「うん。そうだね」
エミリアは頷き、それから少しだけ慎重な声になった。
「ただ、いきなり虹を当て続ける前に、ざっくりでも色を分けてみたいな。布でもいいけど、条件が揃いにくいでしょう? ……寒天なら厚みを揃えやすいから、簡単な色フィルタ、作ってみようか」
机の端に寒天を置き、染料の瓶を並べる。
薄い寒天液を作り、広めのガラスのシャーレに流して固める。一ミリがいいのか三ミリがいいのか。赤、緑、青に染める。
絵の具で染めたら、光が通らなくて全部黒になったのはお約束(笑)、手に入る範囲で染料になるものをかき集める。
乾かし、光にかざす。
赤を通して当てる。青を通して当てる。時間を変える。順序を変える。
――それでも、結果ははっきりしない。
押すのか、抜けるのか。
上がったのか、下がったのか。
そもそも、いま触っている石に“ある”のか“ない”のか。
実験は増えた。記録は増えた。
指の感覚だけが減っていく。
「……おかしい」
エミリアが魔石を指先で転がして呟く。
「おかしいのは結果?」
「ううん……私」
彼女は、ちょっと息が上がりながら、机の上の魔石を二つ取り、左右の掌に乗せた。目を閉じて触る。
――分からない。
魔力が残っている石と、抜けきった石の区別が、指の中で溶けていく。
「……だめだ。触りすぎて、指が慣れちゃってる」
研究者が持っている一番安い測定器は、結局のところ自分の感覚だ。それが壊れると、記録は全部ただの紙になる。
クラリスは黙って、自分の杖を差し出した。柄の根元、厚い覆いの内側に収まっているのは、たっぷり魔力を抱えた自分自身の持つ魔石だ。
「これ、触ってみて。たぶん“基準”になる」
エミリアは一瞬だけ躊躇し、それから小さく頷いた。
「……うん。ありがとう」
指先を滑り込ませる。
――温かいわけでも、冷たいわけでもない。
けれど皮膚の奥で“張り”が戻る。輪郭が立つ。石が「ある」と言う。
「……ああ」
エミリアの声が、少しだけ低くなる。
「これが“ある”の感触ね。戻ってきた」
彼女は深く息を吐き、さっきのガラスのプリズムを手に取った。
「寒天、やっぱり粗いね……。色の“切れ目”がふわっとしすぎる」
エミリアは窓辺にプリズムを立て、白い光を机に落とした。細い虹が生まれる。赤、黄、緑、青……紫。
「ここから先は、ちゃんと分けたい。プリズムでやってみようか」
エミリアはツノウサギのひまわりの種くらいの小さな魔石を並べ、帯の上に置いた。
同じ時間、同じ距離。石の位置を変え、手順を変え、何十回も繰り返す。
一回では分からない。
二回目でも弱い。
けれど繰り返しの中で、偏りが輪郭を持ち始めた。
「……青、ね」
エミリアが呟く。
「青が?」
「……青のあたり、少し“増える方向”に寄ってる気がする。赤側は……うん、私はあまり違いが掴めないな」
クラリスは眉を寄せた。
「じゃあ、青を当てればいいじゃない」
エミリアは慌てて否定せず、少し考えてから頷いた。
「うん、たぶんアリアさんが言ってた“元気”は、このへんの小さな違いだと思う。でも、まだ“はっきり良くなる”って言えるほどじゃないの。だから、もう少し条件を揃えて確かめたい」
エミリアは虹の端――紫の終わる場所を指で示した。そこから先は何も見えない。
「それに……ここで終わってる気がしない」
机の山から、最近回ってきた論文束を引っ張り出した。紙はまだ新しい。
「ねえ、そういえば……この“端の向こう”の話、最近読んだの」
クラリスは嫌な予感を覚えた。
研究者の「最近読んだ」は、だいたい難しい話だ。
そしてその予感は、当たっていた。
エミリアの指が、次の頁をめくる。
そこには、白い光の端が、まだ終わっていないと書かれていた。
――見えない両端――
「赤い端の外側に、温度計が反応する“見えない光”がある」
エミリアは論文の一節を読み上げた。
「……温度計?」
「熱を感じる、ってことみたい。赤の外側に“温かくする成分”があるらしいよ。名前はまだ付いてないんだって」
クラリスは思わず工房の火床を思い出した。火の熱は分かる。だが光の中に“熱だけの成分”があると言われると、頭が追いつかない。
エミリアは次の頁を開く。
「そして青い端の外側。温度計では捕まえられない。でも、銀の化合物が妙に反応するそうよ」
「銀が?」
「もともと、銀の化合物は光に反応しやすいものがあるの、だから光の強さを測るのに使われることがあるわ。
この論文を書いた人も同じように光の強さを測ろうとしたのね、そうしたら、光のないところが強く反応したわけ。
銀の薬が黒くなる。化学反応性が高い帯があるから、“そこに何かがある”って分かったみたいね。そしてこれも、名前はまだない」
クラリスは乾燥室の“一点”を思い出した。
光が集まる場所。白い光が、ただ明るいだけではなく、何かが偏っている場所。
「その“青の外側”が、杖を元気にさせた?」
「うん……可能性は高いと思う」
エミリアはガラスプリズムを軽く指で叩いた。
「ただ、問題があってね。ガラスでは、その青の外側がほとんど透過しないって書いてあるの」
「透過しない?」
「ガラスプリズムだと銀化合物がほとんど反応しないけど、石英プリズムなら反応するそうよ。ガラスはその帯を通しにくいみたい。分けても弱すぎて、実験に使えないって」
クラリスは鼻を鳴らした。
「どこにあるのよ、そんなもの」
エミリアは迷わず答えた。
「王立大学校の天文学講座の教授。星の光を分けるために使ってる。……借りられるかは分からないけど、お願いしてみたいな」
クラリスが肩をすくめる。
「借りられるの?」
「分からない。だから、行ってみる」
翌日、二人は天文学研究室の扉を叩いた。
そこは化学の実験室とは違う匂いがした。油でも薬品でもなく、乾いた紙と、古い木と、夜の匂い。棚には星図。机には分厚いレンズと金属筒。窓辺には、磨かれた透明な石が置かれていた。
「――君がエミリア・グレンウッドか」
天文学教授は白髪を後ろに撫でつけながら言った。眼の奥が妙に明るい。夜を見すぎた眼だ。
「はい。お時間をいただきありがとうございます」
「用件は“水晶のプリズム”と聞いた。……君は星を見るのか?」
「いいえ。光を見ます」
教授が鼻で笑った。
「プリズムで光の何を見るのか?」
エミリアは一瞬止まり、言葉を選んだ。丁寧に、けれど逃げない声音で。
「陽の光がプリズムで別れて虹になります。ガラスプリズムでも見える光は見えますが、見えるところの外の光が見えません。石英プリズムなら外の光も通すと文献にありました。……確かめたいんです」
教授はしばらくエミリアを眺め、棚から布包みを取り出した。
「石英プリズムだ。水晶を磨いた。ガラスより、青の外側が少しだけ出る。――少しだけ、だ」
「十分です」
「割ったらどうする?」
エミリアは一拍だけ迷って、正直に言った。
「……グレンウッド辺境伯の父に泣きつきます」
教授が喉で笑った。
「よし。貸そう」
クラリスが横で咳払いをした。教授はクラリスの階級章を見て、さらに笑った。
「護衛つきか。ではなおさら返ってくるだろう」
研究室を出たあと、エミリアは布包みを抱えたまま、しばらく歩かなかった。
手の中の重さが、光の端に繋がっている気がしたのだ。
「明日、庭でやる」
「室内じゃないの?」
「乾燥室の一点が示してる。偏りが怖いの。屋外で、なるべく均一な光でやりたい」
クラリスは頷いた。
帰り道、エミリアはノートを開き、太い字で書いた。
石英プリズム:青の外側が僅かに分離できる
その下に、さらに小さく。
赤の外:温度計
青の外:銀の薬
見えない端は、見えないままでは終わらない。
見つけ方がある。分け方がある。――使い方も、きっとある。




