表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/35

第32-2話 数盤

 一次戦役が終わっても、前線の空気は完全には緩まなかった。


 ノルディカ軍がまた来ないとは限らない。王国軍第二軍の一部は、再侵攻警戒のためにグレンウッド領の前線近くへ進駐し、村と駐屯地と街道の結び目に、臨時の作戦司令部を置いていた。


 司令部の朝は早い。


 まだ地面に霧が薄く残っているうちから、見張り台の報告、巡察隊の帰還、村からの搬入、馬車集積地の出入り、負傷者の搬送数、水の残量、飼葉の消費、兵の配置換えが、紙束になって机へ積まれていく。数字にできるものは何でも数字になり、数字になった瞬間から、今度は合計しなければ役に立たない。


「北側三村、麦九十七、百三、百八十七」

「第三集積所、豆百九十六、塩三十二箱」

「騎兵三十六、予備馬十二、飼葉残り三日分」


 読み上げる声が飛び、そのたびに書記たちが紙へ書き込み、列を揃え、足し始める。筆の先が紙を擦る音は絶えなかった。止まるのは、誰かが頭の中で繰り上がりを抱えた時だけだ。


 主計官は、机の端に積まれた紙束を見て、額を押さえた。


 第二軍の主計が弱いわけではない。本隊へ戻れば、もっと机も人もあり、順に全軍の数字を捌ける。だが、ここは前線近くの臨時司令部だ。出しているのは主計組織の一部にすぎない。その一部で、刻々と動く兵数、備蓄、水、飼葉、荷車の数字を追い続けなければならない。


 できないのではない。だが、常に苦しい。


「まだ北側の合計が出ていないのか」

「いま出します」

「さっきも聞いた」

「そのあとで南倉庫から追加が入りまして」

「分かっている。だから急げと言っている」


 怒鳴ったところで数字は勝手に整ってはくれない。それでも声がきつくなるのは、紙の上で数字を追う仕事が、疲れをそのまま苛立ちに変えるからだった。


 そこへ衛兵が天幕の入口で声を張った。


「グレンウッド伯の者たちです」


 主計官は顔を上げた。昨日、オーウェン・グレンウッドが出すと言った計算班である。正直に言えば、半信半疑だった。領の数字を扱う者が、軍の司令部でどれほど役に立つものか。だが紙束は減らない。見て判断するしかない。


 先頭に立って入ってきたのは、執事セバスチャンだった。その後ろに若い男女が数人、木枠や箱や布袋を運び込む。荷を見た主計官は、わずかに眉を動かした。


 石だった。


 平たい木枠、仕切りの入った盤、木札、そして布袋いっぱいの小石。数えるための道具らしいことは分かるが、第一印象はどうしても素朴だった。


「失礼いたします」


 セバスチャンは静かに一礼した。


「まず中央に集計用の盤を置かせていただきます。壁際のものはあとで整えますので、ひとまずお気になさらず」


 若い計算班の者たちが手際よく机を寄せ、中央に大きな盤を据える。位ごとに長く区切られ、何人かが横に並んで手を入れられる作りになっている。


 主計官は思わず口にした。


「……随分と素朴なものですな」


 セバスチャンは頷いた。


「はい。素朴でございます。だから、誰でも扱えます」


 それだけ言って、さっと周囲を見回す。


「では、各村の供出と各倉庫の在庫から参りましょう。読み上げをお願いします」


 主計官は若い書記へ顎を引いた。やらせてみろ、という合図だった。


「北側三村、麦九十七、百三、百八十七」


 読み上げが始まる。


 盤の前では、ひとりが石を置く。一の位、十の位、百の位、千の位。別の者がその横で石の数を見て、十個たまったところを払い、ひとつ上の位へ石をひとつ送る。さらに別の者が整った数字を記録用紙へ書き写す。


 最初、主計官はそれを見て、内心ではこう思った。


 これなら、書記のうちで筆算に慣れた者ひとりのほうが速いかもしれない。


 石を置き、石を払い、また置く。手数は多い。洗練されているとは言い難い。見た目だけなら、昔からある石置きの数え方を、そのまま大きくしただけに見える。


 だが、二列目、三列目と数字が増えていくと、奇妙なことが起きた。


 盤の前の者たちは、それぞれ自分の仕事だけをしている。読む者は読み、置く者は置き、位を移す者は移す。誰も全体の数字を頭で覚えているようには見えない。なのに、全体は前へ進む。


「南側二村、麦百四十六、二百三十一」

「入ります」

「十の位、繰り上げひとつ」

「はい、上げました」


 紙の机では、時々沈黙が落ちる。頭の中で繰り上がりを考える時間だ。だがこちらには、その沈黙がほとんどない。


 主計官は腕を組んだまま、盤の前に近づいた。


 読み上げが続く。供出、在庫、搬入。数字が増える。石も増える。各位の区画で石がたまり、たまった分だけ上へ送られる。


 その時、盤の前の若い男が、小さく手を上げた。


「すみません、少し席を外します」


 隣の女がちらりと見た。


「すぐ戻ってくださいよ」


「はーい」


 男は軽い返事をして、天幕の外へ出ていった。主計官は目を瞬かせた。筆算中の書記なら、列の途中で席を外すなど考えにくい。今どこまでやったか、繰り上がりを処理したか、頭の中の流れが切れるからだ。


 だが盤の前は、少しも止まらなかった。


 読み上げ係は読み続け、入力係は石を置き続ける。男が受け持っていた位の箱には石が少しずつたまっていくが、誰も慌てない。


 しばらくして男が戻ってきた。


「戻りましたー」


 自分の持ち場を見るなり、肩をすくめる。


「あらあら、三十個も溜まってる」


 主計官はそこで初めて、本気で眉を寄せた。


 三十個。


 その位の区画に、未処理の石が三十個ある。普通なら、とっくに繰り上げていなければおかしい数だ。


 だが男は何でもない顔で、十個ずつ石を払い、上の位へ石をひとつずつ送っていく。隣の女が呆れたように言った。


「ちょっと席を外すのはいいですけど、溜めすぎです」

「いやあ、ごめんごめん」

「お前が動かないと上も終われないんだ。百個も溜めるな」

「まだ三十個ですって」

「三十でも多いですよ」


 軽口が飛ぶ。だが手は止まらない。整理が終わると、また盤は何事もなかったように流れ始めた。


 主計官は思わず訊いた。


「……待て。それで計算結果は壊れないのか」


 盤の前の者たちが一斉にこちらを見る。答えたのは、戻ってきた若い男だった。


「壊れませんよ。まだ箱に入りますから」


「そういう話ではない。繰り上がりを後回しにしていたのだろう」


「はい」


「それでよいのか」


 セバスチャンが静かに答えた。


「石はそこにございます。未処理の分も、処理済みの分も、盤を見れば分かります。ですから、少し遅れても壊れません」


 主計官は盤を見た。たしかに未処理の分はそこに残っていた。残っているからこそ、何が済み、何がまだかも見える。筆算の途中結果のように、人の頭の中だけにあるわけではない。


「もちろん、溜めすぎれば周りが困ります」


 セバスチャンは続けた。


「ですので注意はいたします。ですが、すぐに全部を片づけなければ崩れる、というものではございません」


 主計官は、そこで初めてこの盤を少し違うものとして見始めた。


 速いか遅いかだけではない。


 止まっても、まだ生きている。


 それが、この素朴な盤の強さだった。


◇◇


 大型の数盤での集計がひと段落したのは、昼を少し回った頃だった。


 北側と南側の供出、各倉の在庫、前線近くの集積所の合計。数字がまとまり、記録係の用紙に整った列が並んでいく。筆算の机のほうはまだいくつかの列で計算が続いていたが、こちらはもう次の数字へ進む準備に入っていた。


 主計官はそこで、ようやく壁際のほうへ目を向けた。


 入ってきた時に運び込まれていた小さな数盤が、天幕の壁沿いにずらりと並んでいる。ひとつひとつは人の胸ほどの高さの台に載せられ、上には木札が立っていた。


 麦。

 豆。

 塩。

 飼葉。

 飲用水。

 荷車。

 予備車輪。

 修理材。

 予備魔石。


 さらに奥には、第一集積所、第二集積所、第三集積所と、場所ごとの札も見える。


 主計官がその前へ歩み寄るあいだにも、若い書記や伝令役が何人も壁際を行き来していた。


 ひとりは麦の盤の前で立ち止まり、石の並びを見てから手元の紙に数字を書きつける。

 別のひとりは飼葉と水の盤を順に見て、補給先を書いた札の端へ何やら書き込みを入れる。

 誰も大仰には扱わない。ただ、必要な数字を取りに来る場所として、もう普通に使っていた。


「第三集積所の水、いまいくつだ?」

「そこです。朝の数値はもう変わりました。ここにあるのは昼の報告を反映したものになります」

「ああ、こっちか。分かった」


 書類を抱えた若い兵がそう言って数字を書き直す。隣では別の書記が麦の盤を見て、配分表の欄へそのまま数字を移していた。


 主計官は眉を上げた。


「……もう使っているのか」


 近くにいた若い女性士官が、少しだけ笑った。


「はい。見れば分かりますので」


「戸惑わなかったのか」


「最初は少し。でも、書類を何枚もめくるより早いですわ」


 主計官は黙って麦の盤を見た。


 小型の数盤は、大型のものよりさらに素朴だった。位ごとに仕切りがあり、石が置かれているだけだ。千の位にいくつ、百の位にいくつ、十の位にいくつ、一の位にいくつ。理屈そのものは単純で、だからこそ一目で分かる。


「こちらは集計用ではありません」


 女性士官が言った。


「在庫や現在値を置いておくための盤です。搬入があれば足し、搬出があれば引きます。書類にも残しますが、まずこちらを直します」


「まず、こちらを?」


「いま何がどれだけあるか、先にみんなに見えたほうがいいので」


 主計官は、そこでようやくこの小さな盤の役目を理解し始めた。


 大型の数盤は、たくさんの数字を一気にまとめるためのものだ。

 だが壁際のこれは違う。

 こちらは、いまある数をそのまま置いて、見せておくための盤だった。


 ちょうどその時、入口のほうから兵が声を張った。


「第三集積所から追加搬入! 麦二十袋、飼葉十五束!」


「あー、すみません。新しい情報が入りましたので、変更しますね」


 女性士官はそう言って、麦の盤へ手を入れた。十の位の石を2つ増やし、続いて飼葉の盤も直す。


 主計官は思わず眉をひそめた。


「今、見ていたのだが」


「はい。今の数に直しました」


「……では、さっきの数は」


「もう古い数値ですね」


 あまりにもあっさり言うので、主計官は一瞬だけ言葉を失った。


 だが周りの若い者たちは、特に驚きもしない。


「あ、麦のほうも変わりましたか」

「変わりました。二十増えてます」

「じゃあ、こっちも直しておきます」


 書類を抱えた書記が、そう言って配分表の数字を書き換える。別の若い兵も水の盤を見て、伝令用の紙へ数字を移している。誰も立ち止まって考え込まない。更新が入れば、その新しい数字を使う。それだけだった。


 主計官は、その様子をしばらく黙って見ていた。


 書類だけなら、今ある麦の量を知るには、朝の記録を見て、そこへ昼までの搬入を足し、搬出を引き、途中の修正があればまた拾って――という手順がいる。

 だがここでは、いまの数そのものが盤の上に出ていた。

 しかも、それを若い書記たちはもう普通のこととして扱い始めている。


「……奇妙だな」


 主計官がそう呟くと、女性士官は首を傾げた。


「そうでしょうか」


「数字が紙の中にない」


 女性士官は少し考えてから、納得したように頷いた。


「はい。紙は記録ですから。でも、いま要る数は、ここにあったほうが早いんです」


 主計官は壁際をもう一度見渡した。


 麦。豆。飼葉。水。荷車。修理材。

 それぞれの現在値が、石の形でそこに立っている。


 紙の中を掘り返さなくてもいい。

 誰かにいちいち聞かなくてもいい。

 必要な者が、自分で歩いて来て、自分で見て、数字を使う。


 数字が、紙の中ではなく、部屋の中に立っていた。


◇◇


 その日の夕方近く、前線の空気が急に騒がしくなった。


 見張り台の鐘が鳴り、外で馬が荒くいななく。伝令が駆け込んできて叫ぶ。


「北東の林縁に動きあり! 数は少ないが、警戒線を上げろとのこと!」


 司令部の空気が一変する。


「一時退避! 最低限だけ持て!」

「書類をまとめろ!」

「その紙、飛ばすな!」


 書記たちが椅子を蹴って立ち上がり、紙束を抱える。主計官も反射的に書類を腕に挟んだ。中央の大きな数盤の前にいた計算班も、布をかけ、石袋がこぼれないよう押さえ、外へ出る。


 退避は長くならなかった。敵襲というほどではなく、斥候規模の動きだったらしい。警戒を強めたうえで、司令部はほどなく戻れた。


 だが戻った時、紙の机は無残だった。


 重しを乗せたつもりでも、何枚かはずれ、途中計算の紙が別の書類へ潜り込み、どこまで済ませたかが曖昧になっている。


「この列、どこまで足した?」

「待て、その一は繰り上がりを書いたのか?」

「これは朝の紙だ、違う、昼のだ」


 主計官の胃が重く沈んだ。最初からやり直しか、と半ば覚悟したその時、中央の盤のほうで若い声がした。


「……これ、続きからできますね」


 布をめくった計算班の娘が、盤を見て言った。


 石はそのままだった。


 未処理の分も、処理済みの分も、途中まで送ってある繰り上がりも、全部が盤の上に残っている。大型の盤には集計の途中状態が、小型の盤には各在庫の現在値が、そのまま生きていた。


 別の若い男がすぐに持ち場へ戻る。


「一の位はそのままです。十の位はこの続きを上げればいい」

「記録係、退避前の最後はどこです?」

「ここです。この行の次からです」


 再開は驚くほど早かった。いや、再開というより、ただ続きをしているだけに見えた。まるで何事もなかったかのように。


 主計官はしばらく動けなかった。


 大型の盤は途中の集計を残していた。小型の盤は現在値を残していた。紙のほうが記録として丁寧であっても、いまこの瞬間を持ちこたえる強さは別のところにあった。


 セバスチャンが近くへ来て、静かに言う。


「賢い者を一人置くより、普通の者が交代しながら続けられる形のほうが、領にも軍にも役立つことがございます」


 主計官はようやく息を吐いた。


「……事務の工夫、どころではありませんな」


「はい」


 セバスチャンは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。


 代わりに、入口からオーウェンが入ってきた。外の様子を見てきたらしい。泥のついた靴のまま、紙の混乱と盤の整い方を一目で見回し、それから主計官へ視線を向ける。


「どうです」


 主計官は、今日初めて笑った。乾いた、しかし妙にすっきりした笑いだった。


「……食い物の数が分からなければ、前線は半分止まったも同じ、でしたか」


 オーウェンは肩をすくめる。


「そういうことです」


 壁際の小さな盤には、麦も豆も水も飼葉も、まだ石の形で立っていた。中央の大きな盤には、退避前の続きを待つ石が残っている。誰かが見れば、いま何がどれだけあり、何がどこまで済んでいるか分かる。


 主計官はその壁と盤をゆっくり見渡した。


 そして、心の底から思った。


 もう、紙の中だけに数字を閉じ込めた仕事には戻りたくない、と。


◇◇


 それからしばらくして、エミリアはオーウェンに伴われて、第二軍の司令部を再び訪れていた。


 用向きは計算そのものではない。前線の状況確認と、グレンウッド側から出している協力者の引き継ぎ、それに補給路まわりの細かな相談である。けれど、主計科の区画の前を通りかかった時、エミリアは思わず足を止めた。


 見覚えのある木箱が、机の上に並んでいたからだ。


 数盤だった。


 壁際にも、小型のものがいくつも立っている。麦、豆、飼葉、水、荷車、修理材。札の立った盤を、若い書記たちが当たり前のように見に来ては、手元の書類へ数字を書き写している。


 それ自体は、もう驚かなかった。グレンウッドで教えたやり方が、そのまま使われているのだろうと思ったからだ。


 だが、机の中央に置かれていた大型の盤は、少し違っていた。


 エミリアは一歩近づいた。


 グレンウッドで使っている数盤は、二✕五のまとまりが見える箱だった。十個たまったことがひと目で分かるようになっていて、教えるには向いている。けれど目の前の盤は、同じ桁の箱が横に長く、一列に十個以上入るようになっていた。


 しかも、箱の脇に小さな木のレバーが付いている。


「……改良されている?」


 思わず口から漏れた声に、近くにいた若い書記が顔を上げた。


「あ、グレンウッドの方ですか。これ、便利ですよ」


 そう言って、彼は少し得意そうに盤へ手を伸ばした。


「たとえば十五個あるとしますよね」


 一の位の箱には石が十五個入っている。彼は横の小さなレバーを押した。すると、箱の下の一列に並んでいた十個ぶんだけが、じゃらじゃらと音を立てて外へ流れ落ちた。押していた手を戻すと、上に残っていた五個が、空いた列へするりと滑り込んでくる。


「そのあとで、上の位に石を一個置くんです」

「……十個だけ、まとめて出せるんですね」

「はい。拾って数え直すより、ずっと早いので」


 エミリアはしばらく、その仕掛けを見つめた。


 理屈は変わっていない。十個たまれば、一つ上へ上げる。ただ、それを指先で一個ずつ拾ってやるか、十個単位でまとめて放出するかが違うだけだ。


 けれど、一日じゅう大量の数字を扱う場所では、その違いがたしかに大きいのだろう。


 オーウェンも横から覗き込み、感心したように言った。


「なるほど。こういうふうに育つのか」


 若い書記は、少し照れたように頭をかいた。


「最初の形は、そのまま使わせてもらっています。ただ、量が多いと、十個ずつ拾うのがやっぱり面倒で……。うちの工房番に相談したら、こうなりました」


「軍の中で作ったの?」

「はい。ただの木箱ですから。真似るだけなら、そんなに難しくありませんでした」


 エミリアは思わず小さく笑った。


 そうか、と思う。


 数盤は、もうグレンウッド邸の中だけの道具ではない。誰かが持ち帰って大事にしまうようなものでもない。理屈が伝われば、木で作れて、石を入れれば使える。使う人間がいて、困る場所があれば、その場で別の形に育っていく。


「……使う人のほうが、ちゃんと改良するんですね」


 エミリアがそう言うと、書記はきょとんとしてから笑った。


「そりゃあ、毎日これを触っていますから」


 その答えが、妙に嬉しかった。


 思いついた理屈を形にすることと、それが人の手の中で使われ、別の形へ育つことは、少し違う。けれど後者まで行って初めて、道具は本当に生き始めるのかもしれない。


 主計科の天幕の中では、書記たちが今日も当たり前のように数盤を使っている。壁際では小型の盤が現在値を示し、中央では大型の盤が集計を進め、その横では改良された箱がじゃらじゃらと十個ぶんの石を吐き出していた。


 エミリアはその音を聞きながら、もう一度だけ盤を見た。


 理屈は、もうグレンウッドの手を離れている。

 だがそれは、失われたということではなかった。

 ちゃんと使われて、ちゃんと先へ進んでいる、ということだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ