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第32-1話 計算

 豊作の年ほど、事務室は荒れる。


 凶作なら話は早い。足りない分を数えればいい。何を削るか、どこへ先に回すか、そのいやな計算をすれば済む。だが豊作の年は違う。残す分、売る分、種にする分、備蓄へ回す分、乾かす分、粉にする分――どんどん数えるべきものが増えてくる。


 その朝、グレンウッド伯爵家の事務室でも、紙の擦れる音が止まらなかった。


「北倉庫、麦は昨日より百二十七袋増えています」

「低湿地西区画の分だな。南倉庫へ回した分は引いたか」

「いえ、まだです」

「先に引いてから出し直せ。両方に入れるな」


 木札を手にした若い使用人が、慌てて隣の机へ走る。別の者は荷札の束を抱えたまま立ち尽くし、奥では倉庫番上がりの男が、倉庫ごとの数字と村ごとの数字が合わないと唸っていた。


 窓の外には、朝露を払ったばかりの荷車が並んでいる。低湿地から刈り入れた麦束、豆袋、飼料用の干し草。道の改修と水路の手入れが進んでから、委託されていた低湿地は目に見えて実り始めた。昔は足を取られて終わりだった場所が、今では馬車を止める場所に困るほどの荷を返してくる。


 良いことのはずだった。


 良いことなのだが、数字だけは容赦がない。


「旦那様、北倉庫と南倉庫の合計を一度出し直します」

「頼むよ。さっきから、増えた荷が嬉しいのか苦しいのか、分からなくなってきた」


 オーウェン・グレンウッドは机の端に寄せられた書類を見て、苦笑した。四角い指先で紙の端を押さえる。畑も水路も倉も、現場を見るのは好きだ。数字そのものが好きかと言えば、そうではない。必要だから見る。見なければ大変なことになると知っているから見る。


 帳場の奥から、落ち着いた声が返ってきた。


「豊作は畑では祝うものですが、書類は増えてしまいますね」


 グレンウッド家の執事、セバスチャンだった。白髪の混じった髪をきっちり撫でつけ、紙束の間をゆっくり歩いてくる。若い使用人たちが右往左往している中で、この男だけが妙に静かだった。静かなまま木札を受け取り、荷札を一目見て、別の紙束へ迷いなく差し込んでいく。


 オーウェンは肩をすくめた。


「……これでは運用できないな。計算なんて、量が増えればすぐ苦痛になる」


「はい。豊かになるほど、勘だけでは済まなくなります」


「少しでも楽にできるやり方を、考えないといけないね」


「承知しました。誰でも扱えて、途中で崩れにくい形を整えましょう」


 事務室の空気が、そこで少し引き締まる。


 倉に入る麦袋、村へ戻す種籾、冬に向けた備蓄、馬の飼葉。どれか一つでも数を見誤れば、人は困る。領民も、荷車引きも、兵も、馬もだ。畑の成功を本当に成功のまま維持するには、最後はこの事務室で数字を外さないことが必要になる。


 低湿地の開拓が成功したことで、グレンウッド領は豊かになった。だが同時に、勘だけでは運用できなくもなった。


◇◇


 セバスチャンは、もともとグレンウッド家の者ではない。


 行き倒れていたところを、まだ若かったアラン・グレンウッドに拾われたのが始まりだった。前職は学校の教師と言う。事情は多く語らなかったが、文字の読み書きと計算を教えることにかけては、最初から優れていた。


 当時のアランは、剣の振り方も馬の扱いも知っていたが、書類の扱いは決して得意ではなかった。領地を持つとは何か、家を維持するとは何か、その重さを自覚し始めたばかりの頃だった。


「字が読めぬと契約で騙されます」

「読めりゃ偉いって話か」

「いいえ。騙されにくくなる、という話です」


 セバスチャンはそう言った。


「数えられなければ、食料が足りなくなります」

「そのくらい勘で――」

「勘の良い日もあります。悪い日もあります。ですが、飢える者はその日の勘に付き合ってはくれません」


 アランは、初めは数字を知らない剣士だった。しかし、セバスチャンに学び、少しづつだが数を見失う怖さだけは覚えた。人を守るとは、剣を振るうことだけではなく、何人いて、何日食べられて、何袋残っているかを間違えないことでもあると、嫌でも知った。


 そのあと、セバスチャンはアランの息子のオーウェンの家庭教師になった。


 アランにとって必要だった読み書き計算は、オーウェンの代ではさらに重くなる。土地を増やし、畑を広げ、水路を引き、倉を増やせば増やすほど、数は仕事の中心へ近づいてくるからだ。


 そして、オーウェンの子どもたちにも、同じように初級教育が施された。


 アーサー、エミリア、ウィリアム、オリビア。


 四人を横一列に座らせ、セバスチャンが木板の上に仕切りを描き、小石を並べる。


「百が三つ、十が五つ、一が八つ。合わせていくつですか」


 小さなエミリアは、小石と仕切りを見比べてすぐ答えた。


「三百五十八」


「はい。では、十がもう一つ増えたら?」


「三百六十八」


「では、一が十増えたら?」


 ここで少しだけ間があった。オリビアは石を数え始め、アーサーは眉を寄せ、ウィリアムは手元の石を十個ずつ寄せて考える。エミリアは、石を一列に並べてから、十個を掴んで隣へ移した。


「あ、十が一つ増えます」


「そうです」


 セバスチャンは頷いた。


「数字は、紙の上の印ではありません。百がいくつ、十がいくつ、一がいくつか、それを見失わないためのものです」


 アーサーは兵の数や隊列に置き換えれば早かった。ウィリアムは荷の数や馬車の積み方に置き換えると理解が深くなった。オリビアは量りや分量に結び付けると強い。エミリアは理屈を掴むと急に速い。


 得意な方向は違っても、セバスチャンが教えたことは一つだった。


 数は、覚えて偉ぶるためのものではない。間違えて困る者を減らすためのものだ。


◇◇


 王国から委託された低湿地が、本当に領地の力へ変わるまでには時間がかかった。


 水を逃がす。溝を掘る。掘った土で土地を嵩上げする。崩れたところを直す。道を敷く。馬車が入れる時期を見極める。土の癖を覚える。どの作物なら根が腐りにくいか、どの季節なら足を取られずに運び出せるか。そういう地味な調整の積み重ねが、ようやく実りを返し始めた。


 成功すると、今度は数字が押し寄せた。


 どの区画で何袋取れたか。どの村へ何人入れたか。水路に何日人手を割いたか。どの倉へ運び込んだか。種として何を残したか。肥料をどこへ何桶回したか。畑ごとの収量差は何か。去年より増えたのか減ったのか。


 オーウェンは最初の数年で、その量に本気でうんざりした。


「畑は増えた。倉も増やした。荷車も増やした。人も増やした。……数字まで増やさなくてよかったんじゃないかな」


「残念ながら、そうはいきません」


 セバスチャンはきっぱり言った。


「畑が一枚増えれば、数えるものも増えます。豊かさとは、そういうものです」


「豊かさって面倒だね」


「ええ。ですが、豊かなままでいるには、その面倒を避けられません」


 そこでセバスチャンが整えたのが、数を扱うための仕組みだった。


 石を置いて数えるやり方自体は、特別珍しいものではない。昔からある。子どもでも分かる素朴な方法だ。各桁の場所を決め、そこへ石を置く。十個たまれば、その十個を取り、ひとつ上の桁に石を一個足す。


 単純だった。単純だから、教えられた。


 セバスチャンは最初、帳場の片隅に浅い木箱をいくつか並べた。仕切りを入れ、一の位、十の位、百の位と墨で書く。そこへ小石を置く。百の位に三個、十の位に五個、一の位に八個。三百五十八。増えた分が来たら、桁ごとに石を足していく。十個たまれば、上へひとつ送る。


「ずいぶん素朴だね」


「まずは、誰でも扱えることが肝心です」


「もう少し手早くできる形はないのかい」


「いずれは工夫の余地もあるでしょう。ですが、まずは教えやすく、崩れにくい形からです」


 セバスチャンはそこでは急がなかった。


 速く進めることより、確かに扱えることを優先したから。


◇◇


 数え方を教えるだけでは、仕事は回らない。


 グレンウッド領で必要だったのは、数を扱える者を、仕事として育てることだった。


 セバスチャンは使用人や若い者の中から、算数を教え、向く者を選んだ。選ぶ基準は、ただ暗算が速い者ではない。


 位取りを雑に扱わない者。何度同じ作業をしても変わらない者。人の作業を途中から引き継いでも、同じように続けられる者。書類へ写す字が丁寧な者。自分の勘で計算しない者。


「賢い者が一人いるより、普通の者が間違えず続けられるほうが、領では役に立ちます」


 セバスチャンはそう言った。


 最初に覚えるのは、倉ひとつ、村ひとつ、区画ひとつの数字を正しく置くこと。次に覚えるのは、合計を出すこと。そこから、入った量と出た量の差を見ること。種に残す分と売る分を分けること。肥料や水を、村ごとの必要に応じて振り分けること。


 やがて、事務室の奥には数字だけを扱う小さな机が生まれた。


 倉ごとの在庫を置いておく小さな数盤。村ごとの人口を置く数盤。水路ごとの配分を見る数盤。日々の増減をひとつの数字として持ち続けるための、小型の盤だ。


 そして収穫期や年末になると、事務室の中央に大きな盤が広げられる。村ごとの収量、倉ごとの在庫、搬入と搬出。大量の数字を一気に合計するための盤。読み上げる者、石を置く者、各桁を見る者、記録する者。数人がついて、莫大な加算を片づける。


 それが、グレンウッド領の計算班だった。


 派手な組織ではない。剣も魔法も使わない。だが、彼らがいることで、低湿地の成功は「たまたま今年はうまくいった」だけではなくなる。どれだけ取れたか、どれだけ残せるか、何をどこへ回せるかがわかるようになる。わかるから、来年につながる。


 オーウェンはそのことを、誰よりよく分かっていた。


「食い物があるだけじゃ足りない。どれだけ作れて、どれだけ運べて、どれだけ残っているか分からなければ、あるのと同じにはならん」


 帳場で働く者たちは、その言葉を何度も聞かされた。


◇◇


 計算班ができてから、領の仕事は少しずつ変わった。


 北倉庫に何袋あるか、南倉庫と合わせてどれだけか。低湿地の収穫が増えたぶん、来年の種籾を何袋残せるか。村ごとの人口に対して、冬を越す食料が足りるか。水路の補修に何人を出せば、畑仕事と両立できるか。


 紙の記録だけで見ていた頃は、数字は「誰かが書いてあるもの」だった。計算班が育ってからは、数字は「計算して確かめるもの」になった。


 ウィリアムは荷車の積載量と往復回数の数字を覗き込み、オリビアは乾燥や保存で減る分を細かく確かめ、エミリアは位ごとの石を見て「これなら大きい数も途中で見失いにくいですね」と妙なところに感心した。


 セバスチャンは、そのたびに静かに頷くだけだった。


「覚えるのが苦しいなら、覚えなくてよい形にすればいいのです」


 その言葉の意味を、オーウェンはよく知っていた。自分が数字好きではないからこそ、仕組みに助けられるありがたさが分かる。


 だから計算班は畑や倉庫と同じように必要なものとして雇われ、教えられ、維持された。


 豊かな領地ほど、勘では運用できない。


 その事実は、低湿地の泥の中ではなく、事務所の机の上ではっきりと形になっていた。


◇◇


 一次戦役が終わっても、グレンウッド領の空気は完全には緩まなかった。


 ノルディカ軍がまた来ないとは限らない。王国軍第二軍の一部が、再侵攻警戒のためにしばらく前線近くへ進駐し、臨時の作戦司令部を置いていた。兵が留まれば、食料が要る。馬がいれば飼葉が要る。水も、荷車も、修理材も、数字は増える。


 ある夕方、第二軍から来た主計局の役人が、伯爵家の帳場を訪れた。


 顔には疲れが出ていた。礼はきちんとしているが、目の奥に紙と数字で擦り減った色がある。


「前線での集計がなかなか大変ですね。兵数、備蓄、水、飼葉、村からの供出……なんとか処理はできますが、常に余裕がなくて」


「でしょうね」


 オーウェンはあっさり言った。


「軍の主計が弱いわけではないでしょう。ただ、こちらに出しているのはその一部でしょうし、前線では数字が常に変化する」


 役人は少しだけ苦い顔をした。否定できないのだろう。


「恥ずかしながら、その通りです」


 帳場の奥では、ちょうど計算班がその日の倉の数字をまとめていた。若い使用人が読み上げ、別の者が盤へ石を置き、記録係が帳面へ落としている。役人の目がそちらへ向く。興味半分、半信半疑半分という顔だった。


 オーウェンはその視線を追ってから、椅子に深くもたれた。


「この計算班を出しましょうか?」


 役人が瞬きをした。


「……計算班、ですか」


「あれは元々、食い物と荷の数を回すための班ですからね。軍でも兵站の食料などはそう変わらない」


 役人は盤のほうを見た。石を置いているだけに見える。少なくとも、遠目にはそう見える。


「農業の手伝いで、軍務ができるものでしょうか」


 失礼にならないぎりぎりの言い方だった。だが疑いは隠れていない。


 役人はもう一度、帳場の奥を見た。


 若い計算班の者が、位ごとの箱へ石を置いている。素朴なやり方にしか見えない。洗練された計算器というより、古い数え方の延長だ。だが、その素朴さの奥に、妙に安定した手順の気配があった。


 役人は頭を下げた。


「……ご助力いただけるなら、ありがたく」


 オーウェンは頷いた。


「では、明日の朝に数人出します。セバスチャン、頼めるかい」


「承知いたしました」


 セバスチャンはそう答え、盤の上の石を一度見た。まだ今日の計算の仕事は終わっていない。けれど、その視線はもう、少し先を見ていた。


 領地の数字を扱うために整えた仕組みが、次は軍の司令部へ持ち込まれる。


 その価値が本当に問われるのは、明日からだった。

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