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第31話 30km

 王立大学校の裏手は、その日の朝から妙に騒がしかった。


 研究棟の脇に、黒い線材を巻いた木枠がいくつも並び、支柱用の杭、縄、脚立、封緘用の樹脂壺まで運び込まれている。植物繊維を焼き固め、濃い砂糖水を染み込ませては焼き、最後に樹脂を薄く含ませたその線は、一本だけ見れば煤を撚った紐にしか見えない。だが、それが何十巻も積まれ、十数人が班を分けて担ぎ始めると、もう机の上の試作には見えなかった。


「継ぎ目は、前の塗りが乾いているか見てからお願いします。湿っていると、そこで散りますから」


 エミリアは記録紙を片手に、線の張り具合を見ながら言った。


「強く引きすぎても駄目です。外が切れなくても、内側の通り道が切れるかもしれません。逆に、ゆるすぎると風で揺れて、絡んだりこすられて切れたりします。……それから、巻きを置く場所は日陰側へ。熱が上がると、たぶん樹脂の性質が少し変わります」


 使用人たちは素直に頷いて動く。グレンウッド家の使用人は、主人の娘が何か妙なことを始めるのに慣れていたし、その妙なことが後でちゃんと役に立つ場面も何度も見てきた。


 それでも今日は、さすがに規模が違った。


 王都のグレンウッド邸にあるエミリアの自室から、王立大学校の実験室まで、およそ三十キロ。街道沿いにそれを一本でつなごうとしているのである。普通に考えれば、貴族の娘が思いつきで始める範囲ではない。


 ただ、エミリア本人の頭の中はひどく単純だった。


 家で記録を読み返していて思いついたことを、すぐ実験室へ送れたら便利だ。逆に、実験室で見えた針の動きや条件を、その日のうちに自室でまとめられたら助かる。朝まで待たずに済む。往復の手間が減る。できれば、そのほうがいい。


 それだけである。


「お嬢様、ほんとうに中継なしで行くんですか」


 木枠を抱えた使用人が、半信半疑の顔で尋ねた。


「はい。三十キロだと、かなり弱くなると思いますけど」


 エミリアはあっさり答えた。


「でも、どこまで弱まって、どのくらいなら見えるかは、やってみないと分かりませんから。まずは一本で通るかどうかです」


「見えなかったら?」


「そのときは別の方法を考えます」


 彼女にとっては、それで十分だった。できるかどうか分からないなら、まず試す。途中で足りないものが見えたら、そのあとで考える。いま頭にあるのは、通るか通らないか、その一点だけだ。


 だから、三十キロという数字が周囲にどう見えるかまでは、すっかり抜け落ちていた。


◇◇


 昼前になって、見物人が増えた。


 最初に現れたのはフローレで、そのあとにノエミ、ヘレーネ、ミレイユ、エルザが続き、少し遅れてオリビアまで顔を出した。砂糖研究会の面々が並ぶと、それだけで妙に空気が締まる。


「……思っていたより、ずっと大きいですわね」


 フローレが率直に言う。


 ヘレーネは支柱の間隔と巻き枠の数を一目で見て、すぐ眉をひそめた。


「大きい、で済むかな。これ、装置じゃなくて、もう設備よ」


 ノエミは黒い線の束を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「たぶん、エミリアちゃん、周りが見えてないよね」


「見えてないと思う」


 オリビアが苦笑する。


「本人は、家と実験室をつなぎたいだけだよ。家で思いついたことをすぐ送りたいとか、そういう顔してる」


「うん。分かる。分かるけど……」


 ノエミはそこで言葉を切った。


 三十キロ。乗り継ぎの整った街道の早馬でも三時間ほど。旗信号でも二時間はかかる。それが、もし数分で届くようになるのなら、もう「便利」では済まない。


「王女殿下にお知らせしたほうがいいかもしれませんね」


 ミレイユが静かに言った。


 フローレが振り向く。


「殿下なら、分かりますの?」


「研究会で一度ご覧になっていますもの」


 ノエミが答える。


「机の端から端へ、針を揺らして見せた、あの実験。あれの延長だって言えば、たぶん通じる」


 ヘレーネも頷いた。


「私たちが抱えていい話じゃないわ。本人は便利な私的な配線のつもりでも、これ、私的では済まない」


 オリビアは、道の真ん中に立つ姉を見た。使用人に手振りで何か説明しながら、完全に研究者の顔をしている。悪気はない。だが、悪気がないまま大きなものを作ってしまうのが、エミリアのいちばん危ないところでもあった。


「王女様に手紙を送ろう」


 そう言ったのは、オリビアだった。


「急いだほうがいい。あとで『知っていたのに黙っていた』になるほうが、もっとよくない」


 ノエミはすぐ紙を取り出した。書く内容は短くていい。炭素線、魔石器、長距離敷設。グレンウッド邸と王立大学校を結ぶ私設の試み。しかし規模は私的実験の範囲を超えており、将来性を考えれば王家の判断が必要――その程度で、セリーヌ王女には十分だった。


◇◇


 王宮でその手紙を受け取ったセリーヌは、最初の数行を読んだところで指を止めた。


 炭素線。

 魔石器。

 長距離。

 家と大学校。


「……ああ、あれですのね」


 小さく漏れた声は、独り言に近かった。


 研究会でエミリアが見せた、離れた机の上の針を揺らす奇妙な装置。隣の卓へ送るだけでも皆が面白がった、あの発想である。あれを、部屋の端ではなく、街道の先まで伸ばしたのだとしたら。


 セリーヌは手紙を机の上に置いた。


「近衛騎士を四人。大学校へ」


 侍女が目を見開く。


「殿下ご自身は――」


「こちらで待ちます」


 声は静かだった。


「グレンウッド嬢をいったん拘束して、王宮へお連れしなさい。工事はその場で止めて、路線と資材は記録を取るように」


「かしこまりました」


 侍女が下がると、セリーヌは椅子に深く腰掛けた。


 肘掛けに肘を置き、指を組み、口元の前に静かに当てる。


 研究会で見たときから、いつかこうなる気はしていた。けれど、ほんとうに街道へ敷き始めるとは思っていなかった。


「……まったく、あの子は」


 呆れの混じる独り言は、しかし怒りだけではなかった。


 幼い頃、本ばかり読んでいた自分は、きれいに整えられた式典だけで国を知った気になっていた。だが十二のとき、野戦治療院と野戦調理所に足を運んで、血と泥の現場を見た。王女である前に、手の空いた娘として足を押さえ、桶を運び、吐瀉物の匂いの中で震える夜も知った。


 現場を見れば、何が危険で、何が後から効いてくるのかが多少は想像できる。


 そして危険な芽ほど、早く押さえなければならない。


◇◇


 騎士が到着したのは、午後のまだ早い時間だった。


 王家の紋のついた馬車が止まり、近衛が降りる。使用人たちの手が止まり、さっきまであった木枠の軋みや縄の擦れる音が、急に小さくなった。


 エミリアだけが、最初は何が起きたのかよく分からず、線材の巻きを押さえたまま顔を上げた。


「道、空けたほうがいいかな」


 と言いかけたところへ、近衛の二人が真っ直ぐ歩いてくる。


「グレンウッド嬢」


「はい」


「王女殿下のお召しです。工事はいったん中止。あなたの身柄をお預かりします」


「え」


 次の瞬間、エミリアの両腕は左右からきっちり押さえられていた。


「え、歩けます」


「存じております」


「でしたら下ろしてください」


「下ろすと戻られますでしょう」


「戻りますけど」


「ほら、やはり」


 抵抗する暇もなく、体がふわりと浮く。二人の騎士に左右から抱え上げられ、エミリアは足を地面から離したまま、ぶらーんと宙にぶら下がった。


 フローレがそっと額を押さえ、ヘレーネは肩を落とし、ノエミが小さく呟く。


「二回目だね」


「二回目ですわね……」


 前にもあった。魔砲の試射のときだ。危ないことを始めた本人だけが事情を飲み込めないまま、両脇から持ち上げられて運ばれていく。既視感のある光景だった。


「歩けますってば!」


「今回は前回より大事なお話だそうです」


「前回も大事でした!」


「でしょうね」


 近衛たちは礼儀正しいまま、容赦なく足並みを揃えた。エミリアはぶら下がったまま不服そうに足をばたつかせ、その姿を見たオリビアは、申し訳なさと呆れと少しの安堵をまとめて飲み込んだ。


 王家が動いたなら、少なくともこのまま野放しにはならない。


◇◇


 王宮の一室に通されたとき、エミリアはようやく地面に下ろされた。


「歩けます」


 ぶすっと言いながら袖を直したものの、遅かった。正面の席には、すでにセリーヌ王女が座っていた。


 深く腰掛け、肘掛けに肘を置き、組んだ指先を口元の前に静かに当てている。怒鳴るつもりの姿勢ではない。むしろ逆で、怒鳴る必要がない。


 その瞬間、エミリアの背中に冷たいものが走った。


 まずい、と思った。


 線の落ち方。継ぎ目の抵抗。針の戻り。さっきまで頭の中を埋めていたものが、一気に吹き飛ぶ。代わりに戻ってきたのは、自分が何をしようとしていたのか、その社会的、政治的な意味だった。


 街道に沿って、王都の貴族家の娘が、私設の長距離線を張る。


 いまさらだが、言葉にしてしまうと、とてもまずい気がした。


「お久しぶりですわね、エミリア」


「……お久しぶりです」


「またその運ばれ方でしたの?」


「今回は歩けると、最初から申し上げました」


「ええ。騎士たちも、前回の反省を踏まえて、より確実な方法を選んだのでしょう」


「反省した結果が、あれですか」


「あなたに対しては、だいたい正しかったようですわね」


 セリーヌはそこで、机上の手紙を軽く叩いた。


「それで。何をなさるおつもりでしたの?」


「家の部屋と、大学校の実験室をつなぎます」


「そのために、三十キロ?」


「はい。家で思いついたことを、すぐ実験室に送れたら便利ですし、逆もできるので」


 あまりにためらいのない答えに、セリーヌは一拍だけ目を閉じた。


「……研究会で見たときから、いつかこうなる気はしていましたの。でも、ほんとうに街道に敷き始めるとは思いませんでしたわ」


「実験です」


「いいえ。三十キロは、もう実験の段階ではありません」


 声は静かだったが、言葉ははっきりしていた。


「今は、あなたの部屋と実験室をつなぐだけなのでしょう。けれど、同じ仕組みを別の二点のあいだに引けば何が変わるか、見えてしまう者には見えてしまいます。私設のまま好きにやらせれば、あとで何と疑われるかも分かりません」


 エミリアはそこで、はじめて視線を落とした。


 反逆。


 そこまで露骨に言われたわけではない。だが、言葉にされないぶんだけ、余計に分かってしまった。


 怖い、と思った。


 叱られるのが怖いのではない。自分が途中まで本当にそこを考えていなかったことが、いちばん怖かった。


 セリーヌはその顔を見て、少しだけ声を和らげた。


「あなたは悪意でやっているのではないのでしょう。だからこそ、いったんここで止めます」


 その一言で、エミリアは余計に逃げ道を失った。


「……続けてはいけませんか」


 ようやく出た声は、少しかすれていた。


 セリーヌはわずかに目を細めた。怒る代わりに、呆れたように。


「禁止はしませんわ」


 エミリアの顔が上がる。


「ただし、あなた個人の勝手な私設線としては認めません。今回は、グレンウッド邸と王立大学校のあいだに限って、王家預かりで許可します」


「王家預かり」


「ええ。路線は王家で把握します。終端も把握します。今後、これを別の場所へ伸ばすなら、必ず先に話を通しなさい。分かりますわね?」


 しばらく黙ってから、エミリアは小さく頷いた。


「……分かりました」


「分かっていない顔ですけれど」


「いま、分かり始めたところです……」


 その返答に、セリーヌは怒らなかった。ただ、小さく息を吐いた。


「それで十分ですわ。あなたは、動き出すと目の前しか見えなくなるのでしょう?」


 エミリアは言い返せず、さらに小さくなった。


「ですから、外側を見る者が必要なのです。わたくしが預かります」


◇◇


 その日を境に、工事の風景は少しだけ変わった。


 張られる線も、立てられる支柱も同じなのに、脇に立つ騎士と、道の使用を示す王家の札ひとつで、眺めがまるで別物になる。昨日まで「グレンウッド家のお嬢様がまた何か始めた」と見えていたものが、今日は誰の目にも、公の許可を受けた仕事に見えた。


 もっとも、エミリアの頭の中はあまり変わっていない。線の長さで信号の強さがどのくらい落ちるか、継ぎ目でどれだけ減るか、針が見えるだけの触れが残るか、その三つがすべてだった。


 中継所はまだ置いていない。まだ、その仕組みはない。途中で誰かが片側から届いた信号を読み、反対側へ打ち直す中継所を作れば、もっと確実になるだろうと理屈の上では分るが、今回はそこまでしない。まずは一本でどのくらい通るかどうかを知りたかった。


 道は続き、支柱は立ち、線は継がれた。人が歩き、馬車が走り、日が傾く。それを半年ほど繰り返した先に、ようやく一本の長い道筋ができた。


 終点は、グレンウッド邸のエミリアの自室だった。


 見慣れた机があり、読みかけの本が積まれ、窓辺には紙束が置かれ、棚には試作の残骸が並ぶ。世界を変えるかもしれない線の最初の到達点にしては、あまりに個人的な場所だった。


 けれど、エミリアにとっては、それでよかった。最初は本当に、そこへつなぎたかったのだから。


◇◇


 開通試験の日、王立大学校の実験室には、いつもより少し多くの人が集まっていた。


 机の上の受信器の前にはエミリアとアニー、少し離れたところにノエミとヘレーネ。グレンウッド邸の自室にはベラが入り、向こうにも簡単な記録役が一人ついている。セリーヌ王女は来ていない。今回はまだ、王宮と直結する話ではないからだ。結果が出れば、紙に書いて馬で知らせることになっていた。


「もうそろそろ決められた時間になります。」


 事前に打ち合わせてあった時刻になり、屋敷側の送信器が動くはずの時間が来る。エミリアは受信針の先をじっと見つめた。


 通常の通信手段、早馬なら三時間。旗を継いでも二時間はかかる。魔素通信ならその距離から、うまくいけば数分で返ってくるはずである。


 ただし、届いても強くはない。


 針は、最初は動いていないように見えた。


「……いまの、見えました?」


 アニーが小声で言う。


「まだ」


 エミリアは即答した。願望で読んではいけない。見えた気がする、では駄目だ。もう何度か、同じ信号を送る約束になっている。


 少し待って、再び、向こうからの合図が来る。


 今度は、ほんのわずかに針先が触れた。


 揺れた、というほどでもない。ぴくり、と触れただけだ。けれど、見失わずに見ていれば、確かに分かる。


「……きた」


 エミリアの声が、ごく小さく落ちた。


 短、長、短。


 あらかじめ決めていた並びである。ベラが向こうで打った信号だ。


 部屋の誰も、すぐには声を出さなかった。もう一度、確認のために同じ並びを返させる。針は相変わらず弱い。大きく振れるわけではない。目を離したら見落とす程度の、かすかな触れだ。


 それでも、三十キロ先の自室から返ってきたものだと知って見れば、それは十分に意味があった。


「通った……」


 ヘレーネが呟く。


「ぎりぎりだけど、通ったね」


 ノエミの声にも、抑えきれないものが混じる。


 アニーが思わず両手を握りしめ、エミリアはようやく息を吐いた。成功と言うにはあまりに細い。実用と言うにはまだ弱い。けれど、届いた。一本で、三十キロが届いた。


 その事実だけで、もう後戻りはできない気がした。


◇◇


 成功の報せは、結局、紙に書いて馬で王宮へ運ばれた。


 三十キロ先の応答は、針の触れを待つ数分で届いたのに、その成功の報告そのものは、いつもの馬の速さで王宮へ運ばれた。新しいものと古いものが、まだ同じ世界の中に並んでいた。


 夕刻、王宮の一室でその報告書を受け取ったセリーヌは、短く整った字を読み終えたところで、小さく目を伏せた。


「……ほんとうに、届きましたのね」


 かすかな触れ。視線を外せば見落とす程度。だが、三十キロを一本で越えた。十分すぎるほど十分だった。


「前の携行ケーキに、今度はこれですか」


 低い声がして、室内の空気がわずかに変わる。


 振り向くと、扉のところにアンリ王子が立っていた。表情は穏やかで、声音も静かだ。静かすぎて、かえって雰囲気が寒い。


「これも、セリーヌの手柄になるのかな」


 侍従たちが息を潜める。


 セリーヌはすぐには答えず、机上の報告書を閉じた。


「手柄にするつもりはありませんわ」


「そうかな」


「ええ。必要がありましたので、進めただけですもの」


 アンリの視線が報告書へ落ちる。携行ケーキで兵の行軍は少し楽になり、今度は新しい通信の芽まで出てきた。どちらも、国の動きを変えかねない話だった。


「必要、ね。ずいぶん必要なことばかり拾うじゃないか」


「落ちて消えては困りますもの」


 セリーヌの声は柔らかい。柔らかいが、引かない。


「兄様が王太子として目に見える実績をお積みになる必要があるのは、分かっておりますわ。ですから、携行ケーキでも、この新しい通信でも、表向きに兄様の名前をお入れすること自体には異論はありませんわ」


 一瞬、室内の空気が止まった。


 アンリが、わずかに眉を上げる。


「……ずいぶんあっさり言うんだな」


「名前が欲しいわけではありませんもの」


 セリーヌは兄を真っ直ぐ見た。


「わたくしは、あの椅子はいりませんわ」


「椅子?」


「王位です」


 言い切ったあとも、彼女の声は少しも揺れなかった。


「わたくしには重すぎますし、なにより、あれは座れば自由ができる椅子ではなくて、座った途端に自分では動けなくなる椅子でしょう? 兄様を見ていれば、よく分かります」


 アンリはしばらく黙っていた。王の代理を務めるたび、護衛が付き、自由は減り、どこへ行くにも護衛の列がつく。現場へ気軽に足を運べない不自由さは、彼自身がよく知っている。


 セリーヌはその沈黙のあいだに、さらに続けた。


「兄様のお立場は兄様のお立場として必要ですわ。ですから、わたくしは兄様が拾いきれないところを拾っているだけです。お名前が前に出るほうが国の形としてよいのでしたら、どうぞお使いくださいませ。でも、そのために必要なものまで止めるのは困りますの」


 やわらかな言い方のまま、内容だけがはっきり刺さる。


「わたくしは玉座が欲しいのではなく、止まっているものが動けば、それで十分ですもの」


 しばらくして、アンリは小さく息を吐いた。


「……相変わらずだな、セリーヌ」


「兄様も、どうかお急ぎくださいませ」


「急ぐ?」


「王位を継ぐお方のお名前は、書類の上ではなく、実績の上に載るべきですわ」


 その言葉は忠告にも聞こえ、挑発にも聞こえた。


 アンリは笑った。妹が本気で王位を欲していないことは分かる。分かるからこそ、なおさら厄介でもある。欲しがらない者が、必要な実務を次々拾ってしまうなら、その影響は本人の野心とは無関係に大きくなるのだ。


 机の上には、たった一枚の報告書がある。王宮とつながったわけではない。まだ、グレンウッド邸の一室と王立大学校の実験室が、かすかな針の触れで結ばれただけだ。


 それでも、もう十分だった。

 何が始まってしまったのか、分かる者には分かってしまうから。

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