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第29話 熟成

投稿し忘れていて、番号が前後してしまいました

 黒麹は、もともと砂糖の代用品候補として拾われた材料だった。


 砂糖研究会の机の上に、黒い麹が並んだ日のことを、エルネスタはよく覚えている。見た目の時点で黒く覆われ、すでに気持ちが悪い。白や淡い黄色の材料が並ぶ中で、黒麹だけはどうしても異物感がある。しかも実際に仕込んでみると、もっとはっきり駄目だと分かった。酸が強い。せっかく原料に残っている甘味を、上から押し潰してしまうほど酸っぱい。


 甘味の代わりにはならない。


 その結論は早かった。


 黒くて、酸っぱくて、菓子にも向かない。砂糖研究会としては、外れだった。少なくとも、甘いものを増やすための材料ではない。だから研究会の本筋からは、いったん外された。


 ただし、文献の扱いは少し違っていた。


 参考にしていたのは酒造りの本で、酒造りというのは、ワインならぶどうの甘味、エールなら麦芽発酵で甘い麦汁をつくって酵母による発酵となる。そこには黒麹が酵母発酵に使えると書かれていたのである。甘味には向かない。だが、発酵には使える。そこを分けて考えたのが、エルネスタだった。


 黒麹が強い酸を作るなら、酵母以外の菌が繁殖しにくくなる。もろみそのものは人が飲むには酸っぱすぎるだろう。だが、腐らせずにアルコールまで持っていけるなら、そのまま飲む酒でなくてもいい。蒸留して使うなら、むしろ都合がいいかもしれない。


 そう言い出した日から、なぜかエルネスタの席がエミリアが普段使う実験室に増えた。


「……どうして椅子があるんですか?」

 エミリアが聞くと、エルネスタは当然の顔で答えた。

「実験するつもりです」


 それは宣言というより、居座りの報告だった。


◇◇


 王立大学校の研究棟は、今日もいつも通りごちゃごちゃしていた。


 廊下の隅には誰かが研究を途中で諦めた箱があり、棚にはラベルの剥がれた瓶があり、机の上には今日使うものと明日使うものと、たぶんもう使わないものが同じ顔で並んでいる。そこへ、砂糖研究会の面々がいつものように集まっていた。


 ただし、今日は机の上の空気が少し違った。


 小さな蒸留器が据えられ、受け瓶が並び、封緘用の蝋と冷却用の水桶が置かれている。


 わちゃわちゃしているが、手は止まらない。ミレイユは記録紙を整え、エルザは継ぎ目の封を見て回り、フローレは最初に味を見る係を当然のように引き受けている。ノエミさんは量と回収率の表を作りながら、「あとで比較できない実験は実験じゃないからね」とさらっと言った。


 今回、前回までと違うのは量だった。


 これまでは、発酵した瓶の上澄みを小さく蒸留して、数ccの透明な液を得るだけで精一杯だった。だが今、エルネスタが自領から持ち込んだのは、小型の10リットル樽、四樽ぶんを仕込んだ発酵液である。量としてはもう小瓶の遊びではない。蒸留すれば数リットルの収量まで行けるかもしれない。


「ずいぶん増えましたね」

 エミリアが容器の数を見て言う。


「量が出るかを見ないと、先へ進めませんから」

 エルネスタは答えた。

「黒麹の強みが発酵の安定にあるなら、少量で成功しただけでは意味が薄いんです。量を増やした時にも失敗しないかを見ないと」


 ミレイユが頷く。

「酸で雑菌が抑えられるなら、発酵の失敗は減るはずですものね」


「はい。ただし」

 エルネスタは仕込み液を見た。

「その代わり、もろみ自体は人が飲むには酸っぱすぎます。甘味の代用品にはならない。黒麹は“飲めるもろみ”を作るためではなく、“失敗しにくい蒸留原料”を作るのに向いているんです」


 フローレが匙の先にほんの少しだけつけて、すぐ顔をしかめた。

「……これは、そのままでは駄目です。酸っぱさが前に出すぎて、甘みが何も残っていません」


「でしょう?」

 エルネスタは少しだけ勝ち誇ったように言った。

「でも、だからこそ蒸留する意味があります」


 黒麹は甘味を作る材料としては落第だった。だが、その落第を別の使い道へ読み替えた時、使える可能性があった。砂糖研究会の本筋からは外れたはずのものが、机の端で別の研究を始める。こういったことは、研究会の者たちにはよくあることだ。


 エミリアが小さく言った。

「一度外れたものが、あとから本命になることって、ありますよね」


「ありますね」

 ミレイユが即答した。

「だいたい、最初に外されたものほど厄介で、でも面白いです」


◇◇


 火が入った。


 しばらく待つと、冷却管の中を薄い霧が走り、受け瓶の底に透明な雫が落ち始める。見た目は水と変わらない。だからこそ、匂いと味と記録が要る。


 最初の瓶を受けたフローレは、鼻で確かめてから、ほんの一瞬だけ舌先に触れさせた。そして、ややしかめ面になる。


「……刺しますね。前より整っていますけど、ここは嫌な匂いも混じっています」


「最初に飛びやすいものが先に出てるのね」

 ミレイユが記録しながら言う。

「この部分を取り込んでしまうと、後ででてくる部分と混ざってしまいます」


「では、ここは容器を分けておきましょう」

 エルネスタが小瓶を交換した。


 少し経つと、香りが変わった。刺す感じが薄れ、乾いた熱を含んだ匂いが立ってくる。甘くはない。だが、乱暴でもない。


 フローレが目を細める。

「……あ、ここです。ここはさっきよりずっといい。深みはまだ浅いですけど、酒の成分ですね」


 その後も研究会は賑やかなまま、しかし着実に蒸留を進めた。最初の荒い部分は分ける。整ってきたところを本体として集める。さらに続けると、今度は薄く、重く、水っぽくなってくる。そこでも瓶を分ける。


 誰かが「分けすぎでは」と言えば、ミレイユが「分けないほうが後で困ります」と返す。エルザは受け瓶の口を次々と封じ、ノエミさんは数値を並べて「ここ、回収量が落ちてきてるね」と指摘する。エミリアは湯気の動きを見ながら「こういう境目って、魔素の挙動を見ている時と少し似ています」と言い、エルネスタが「今日は酒の蒸留です」と半ば本気で訂正した。


 数ccしか取れなかった頃には、蒸留とは、ただ透明な雫が落ちる現象だった。


 だが今日は違う。


 蒸留が進むに連れ、香りが変わり、味が変わり、そのたびに瓶が増えた。集めた液体の量が、目で見て分かるほど増えていく。数ccの頃は「液体が取れるかどうか」と言うレベルだった。今はもう、「どの範囲を蒸留酒として残すか」を問われている。


  最後の受け瓶を封じた時、エルネスタは並んだ瓶を見て、ゆっくり息を吐いた。


「……取れる量が増えただけじゃないですね」


「ええ」

 ミレイユが言う。

「これだけの量があると品質を考えることができます」


「偶然ではなく、計画的に作れるようになった、ってことですね」

 エミリアが言うと、エルネスタは頷いた。


 ――偶然で終わらせてはいけない。


 前にセリーヌ王女が示した視線を、皆がまだ覚えている。たった一滴で世界の輪郭が変わることはある。だが、その一滴を偶然のままにはしておけない。次は、偶然を確実にすることだ、と誓ったのだった。


◇◇


 蒸留を何度か行い、蒸留した酒の一部を、エルネスタは自領で熟成に回した。


 森林の多い領である。木はある。樽は作れる。材を選び、小さな樽を三つ作り、量を分けて詰めた。ただし、蒸留酒を半年寝かせるための樽として完成されているわけではない。ここから先は、完全に手探りだった。


 半年は、長い。


 待つだけの時間というのは、研究者にも職人にも、案外つらい。毎日樽を眺めても、中で何が起きているかは見えない。できるのは、置き場所を選び、乾きや漏れがないか気にし、外から木の具合を見ることくらいである。


 だから、半年後に樽を開ける日には、砂糖研究会の空気は妙に静かだった。


「……開けます」

 エルネスタが言う。


 最初の樽を開けた。


 軽い。嫌な予感がしたが、当たった。中は、ほとんど空だった。樽に染みた香りだけが残っている。


「……ええと」

 エミリアが言葉を探し、フローレが先に言った。

「勉強になりましたね」


 二つ目の樽も、似たようなものだった。こちらも量が残っていない。蒸発か、漏れか、その両方か。熟成とは、ただ待てばいいものではないのだと、実に分かりやすく教えてくる。


 そして三つ目。


 栓を抜いた瞬間、空気が少し変わった。


 フローレが先に顔を上げる。

「……残ってます」


 量は減っている。だが、半分以上の酒が残っている。しかも香りが違った。蒸留したての刺すような鋭さはまだ消えていない。それでも、その外側に木の匂いが薄く乗っている。ただ荒いだけではなくなっていた。


 フローレが慎重に味を見る。舌の上で少し転がしてから、ゆっくり息を吐いた。


「まだ刺す感じはあります。でも、悪くないです。角が少し取れてます。木の匂いもついてる。深みはまだ浅いですけど……嫌な崩れ方はしていません」


 ミレイユが頷く。

「半年でそこまで変わるなら、熟成は確かに意味がありますね」


 エルザは残った量を見て、素直に言った。

「全部飲んだら終わりですね」


 その一言で、皆が現実に戻った。


 そう、量は多くない。成功したと言っても、研究会全員で何度も回せるほどは残っていない。だからこそ、誰に見せるべきかは明らかだった。


 エルネスタが言う。

「……セリーヌ王女に、お持ちしたいです」


 異論は出なかった。


 研究室の中だけで驚いて終わらせる話ではない。王宮で、献上品の酒を知っている人の物差しに載せる必要がある。研究会の机の上から、国の評価へ上げるなら、その橋はセリーヌ王女しか持っていない。


 一合ほどを小さな瓶に入れた。


 少ない。だが、少ないからこそ重い。


◇◇


 セリーヌ王女は、小瓶を受け取ると、まず光に透かして見た。次に栓を少しだけ抜き、香りだけを確かめる。そこで安易に口をつけることはせず、視線を上げてエルネスタを見た。


「研究会で飲み切らなかったのは、賢明ですわ」


「はい」

 エルネスタは姿勢を正した。

「量が少ないからこそ、価値の分かる方に見ていただくべきだと判断しました」


 王女は小さく笑った。


「素晴らしい判断をしてくれてありがとう。こういうものは、たくさんある時より、少ない時のほうが扱いが難しいのですもの」


 そう言って、小瓶を手の中でそっと転がす。


「お父様にお持ちしますわ。味の分かる方が見れば、先があるかどうかはすぐ分かります」


 その言葉に、研究会の面々はようやく胸を撫で下ろした。保証されたわけではない。だが、机の上の実験が王宮の物差しに載るところまでは進んだのだと分かる。


◇◇


 数日後、その小瓶は王の前にあった。


 広間の空気は、晩餐ほどにはくだけていない。けれど儀式というほど硬くもない。王は献上された珍品や新しい試作品を、ときどきこうして少人数で見ていた。今回も傍らにセリーヌ王女が立ち、脇には財務と献上品を扱う大臣が控えている。


 さらにその場には、オークヴァルト領主――エルネスタの父も列していた。


 王女が瓶を差し出す。


「お父様。砂糖研究会から上がってきた、新しい蒸留酒ですわ。半年ほど木樽で寝かせたものだそうです」


「ほう」


 王は受け取った瓶を軽く傾け、まず香りを見た。それから小杯にほんのわずかだけ注がせ、口に含む。量が量だけに、誰も無駄には扱わない。


 しばらく黙って、それから率直に言った。


「少し荒いな。だが、悪くない」


 その場の空気が、わずかに動いた。


 大臣の一人が王の許しを得て、ごく少量を味見する。もう一人も続く。誰も贅沢には飲まない。贅沢に飲めるほどの量はない。


「……半年で、ここまで参りますか」

 年長の大臣が静かに言う。


 もう一人も頷いた。

「まだ落ち着ききってはおりませんが、崩れてはおりません。樽の香りも素直ですな」


 王は杯を置いた。


「半年でこれなら、先がある。さらに寝かせた時が楽しみだ」


 それは大仰な賛辞ではなかった。だが、この場にいる者には、それで充分だった。


 半年でここまで来るなら、一年ではどうか。三年では。五年では。十年では。


 そして、その言葉を誰より熱心に聞いていた者がいた。


 オークヴァルト領主である。


 彼は杯を手にしたわけではない。味見の順も回ってこない。ただ、王の言葉を聞いた瞬間、その目つきが変わった。


 森がある。

 木がある。

 樽が作れる。

 山の冷えた空気もある。

 そして今、王が「先がある」と言ってくれた。


 それだけで、領主にとっては充分だった。


 セリーヌ王女は、その横顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。領主が何を考えているか、分からないはずがない。


 おそらく、エルネスタ本人が見ていれば、額を押さえていたに違いなかった。


 ――ああ、この人、もう増やす気だ。


 そんな娘の悲鳴など聞こえない場所で、オークヴァルト領主は静かに頭を下げた。


「陛下のお言葉、ありがたく存じます」


 声は穏やかだった。


 王はそれを面白そうに見て、杯の底に残った香りをもう一度だけ確かめた。


「急ぐなよ」

「は」

「酒は急がせると拗ねる。だが、待つ準備をするのは悪くない」


 領主の返事は即座だった。


「肝に銘じます。急がせはいたしません。ですが、待つための支度は整えましょう」


 その瞬間、この酒は、研究会の机の上の成果ではなくなった。


 オークヴァルトの森と樽と時間を使って育てる、領地の未来になったのである。


◇◇


 王が「先がある」と言い、父がそれを聞いた。


 その二つが揃った時点で、もう駄目だったのだと思う。


 後日、実家に戻ったエルネスタを待っていたのは、見慣れた屋敷でも、穏やかな家族の出迎えでもなかった。


 醸造工房と蒸溜所と、山の中に熟成小屋まで建っていた。


「……私、まだ研究の途中なんですけど?」

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