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第30話 禁断魔法

 トリアージで黒札を付けられた患者は、治すための列から外れる。


 それでも、手が離れるわけではない。


 野戦治療所の奥、布で仕切られた一角は、前の区画より静かだった。治癒師たちはまだ救える者へ走り、薬師たちは熱や咳や腹の傷みに目を配る。その先へ運ばれてくる者たちは、もう治癒師の手も薬師の手も届かない。そこから先を引き受けるのが、神官の仕事だった。


 夕方、担架で運ばれてきた兵士は、胸から腹までを深く裂かれていた。幾重にも巻かれた麻布は、傷を閉じるためのものではない。こぼれ出ようとする内臓を押さえ、出血を少しでも遅らせるためのものだった。輸液は入っている。治癒師ができることは、もう一通り尽くしてある。それでも見れば分かった。これは戻れる傷ではない。内臓が壊れすぎている。


「神官を」


 呼びに来た治癒師の声は短かった。説明はいらない、という声だった。


 ミルナは布をくぐって中へ入ると、兵士の姿を一目見て、すぐに顔つきを変えた。暗くならない。眉を曇らせない。患者の前でそれを見せるほうが残酷だと、彼女は知っている。


「はい、失礼します。今からは私がつくからね」


 明るい声だった。


 その横で、若い神官の一人がわずかに視線を逸らした。まだ慣れない。あの傷を見て、すぐその明るい声が出せるところまで、自分はまだ行けていないと分かってしまうからだ。


 兵士はまだ意識があった。呼吸は浅く速い。痛みと恐怖で、息が小刻みに不安定だ。額には汗がにじみ、目はどこか遠くを探すように揺れていた。


「……どこ、だ」


「治療所ですよ。ちゃんと中です。寒くないようにしてるからね」


「……戻ら、ないと……隊が……」


「いまは戻らなくていいの。ここで少し休もう」


 ミルナは兵士の額に手を当てた。脳へ流す魔力を細く絞る。深く落としすぎてはいけない。今はまだ言葉を話せる。深く鎮静をかけるのではなく、痛みと恐怖だけを押さえる程度に収める。神官の鎮静は、効かせるより止めるほうが難しい。効かせすぎると呼吸までが止まる、その線を超えないことが肝心だった。


「少しだけ楽にするね。眠らなくていいから。安心してゆっくりと呼吸して」


 兵士の喉が鳴った。目の焦点が、ほんの少しだけ戻る。


「……母さん」


「うん」


「……すま、な……」


「苦しくならないように落ち着こう。いまは息をして。吸って、吐いて」


 死を輪郭づける言葉は、まだ要らない。ここで意味を追わせれば、患者はその先で自分の死を見てしまう。だからミルナは、呼吸と安心だけを置く。


 若い神官が湯と布を運びながら、ちらと兵士の腹部を見た。包帯の下で、押さえ込まれているものが、なお滲み出ようとしている。なんとか保たせているだけだ。助からない、と視界のほうが先に悟ってしまう。若い神官は唇を引き結び、目を伏せた。


 時間がたつにつれ、兵士の返答は短くなった。同じ言葉を繰り返し、問いにずれた返事をするようになる。意識が薄れ、また恐怖で覚醒する。その揺れが粗くなっていく。身体がもう保たなくなっているのが分かった。


 そして、ある瞬間だった。


 兵士の目が大きく開いた。焦点は合っていない。天幕の上を見ているようで、何も見ていない目だった。


「いやだ」


 その一言だけが、妙にはっきりしていた。


「いやだ、落ちる、いやだ――」


 次の瞬間、兵士の腕が跳ねた。ミルナの腕を掴み、そのまま全身の力で締め上げる。骨の奥に嫌な音が走った。若い神官が息を呑む。


 だがミルナは声を荒げなかった。


 空いたほうの手を兵士の頭にそっと当てる。撫でるような手つきで乱れた髪を整えるふりをしながら、静かに鎮静の魔力を流し込む。


「そんなに抱きたかったの? 抱いていてもいいわよ」


 声はいつも通り、少しだけ明るい。


「でも、ずいぶん頑丈なごっつい手だね。こっちの手だけ、ちょっと力を抜いてくれるかな?」


 兵士はもうこちらを見ていない。怒っているのではない。ただ、沈んでいく意識の縁で、何か一つでも現世につながるものを掴んでいたいだけなのだと、ミルナには分かった。


 彼女はさらに魔力を細く流す。深くはしない。消しはしない。ただ、崩れ落ちる恐怖心だけを和らげるように、慎重に、慎重に。


「そう。上手。呼吸もできるよ。私が先にやるからね。吸って、吐いて」


 兵士の握力が、ほんの少しだけ緩んだ。


 若い神官があわてて横から腕を支える。治癒師が包帯を押さえ直す。誰も大声を出さない。ここで空気を乱せば、残った呼吸まで壊れる。


「……ここから先は、考えなくていいですよ」


 ミルナは兵士の額を撫でたまま言った。


「ちょっとだけ、休もうか」


 呼吸は浅くなり、間が伸びた。最後にひとつ、喉の奥で細い音が鳴る。ミルナは数を数え、確認し、形式を踏んだ。それは死者のためというより、残る者が壊れないための枠でもあった。


ミルナは兵士の手をそっと枕元に戻した。そして、しずかに両手を組んで神に捧げた。


「……神に召されました。どうか、安らかに」


 若い神官たちは、頭を下げたまましばらく顔を上げなかった。


◇◇


 ミルナはようやく息を吐き、痛む腕を反対の手で押さえた。腫れが早い。たぶん、ひびでは済まない。治癒師がすぐ寄ってくる。


「折れてるね」


「だろうねえ」


 ミルナは笑ってみせた。


「いやあ、見事な手だった。ちゃんと鍛えてたんだろうなあ」


 その明るさに、若い神官はまた目を伏せた。あれは軽さではない。最後まで患者に絶望を見せないための明るさだと、分かるからこそ見ていられなかった。


◇◇


 夜、神殿側に割り当てられた小部屋は静かだった。


 外では担架の音や桶の水音がまだ続いているが、ここまでは届かない。ミルナの腕には固定板が当てられ、麻布で吊られていた。痛みは鈍く残っている。だが、意識を奪うほどではない。


 神殿には、いまはもう伝わっていない術の話がある。禁断魔法、と呼ばれるものだ。

 それは、激しい恐怖や怒りに呑まれ、日常生活すら営めなくなった者にだけ使われたとされる精神魔法だった。患者の心を荒らす感情を鎮め、静かにする術――そう聞けば慈悲深い救いのようにも思える。

 だが、その術を受けた者は、穏やかに微笑むだけになった。怯えも怒りも消えるかわりに、喜びも悲しみも、願いも執着も失う。もう二度と、自分の感情を取り戻すことはない。

 ゆえにそれは、癒やしの術とは呼ばれなかった。禁断魔法とだけ呼ばれ、先代の最高位神官の代で継承は絶たれた。


 部屋には、若い神官が二人、それからマルグリットがいた。


 マルグリットは椅子に座り、灯りの下で古い紙束を見ていた。神殿の記録庫から持ち出されたものらしい。厚くはない。というより薄すぎた。禁断魔法について伝わっている記録は、いまではもうそれしかないのだろう。


 若い神官の一人が、しばらく黙ってから口を開いた。


「……今日みたいな方のために、あったのではないですか」


 誰も聞き返さない。何の話かは分かっている。


「感情が消えるのは、たしかに怖いです。でも、恐怖も怒りも消えて、苦しまなくて済むなら……そのほうがまだ、よかったのではないかと」


 軽い好奇心ではない。本気で、あったほうがいいと思っている声だった。


 ミルナはすぐには答えなかった。痛む腕の奥に、さっきの兵士の握力がまだ残っている気がした。


「そう思いたくなるのは、分かるよ」


 ようやく彼女は言った。


「私も、若いころならそう言ったかもしれない」


 若い神官が顔を上げる。


「では――」


「でもね」


 ミルナはゆっくり首を振った。


「そんなに都合のいい魔法じゃない気がしてる」


 部屋の空気が少し冷えた。


 もう一人の若い神官が、たまらず口を挟む。


「ですが、今日の方は苦しかったでしょう。怖がって、取り乱して……。あれを全部抱えたまま死ぬより、恐怖がなくなるなら、そのほうが」


 ミルナの頭に、兵士の目が浮かんだ。焦点の合わない目。怒りではなく、落ちていくものが最後に何かを掴もうとした力。


「あの方は、取り乱していた」


 ミルナは静かに言った。


「何を見ていたのかも、もう分からなかったと思う。でも、あの手の力まで消してしまっていいのか、私にはまだ分からない」


「手の力……ですか」


「生きようとする力、かな」


 ミルナは言葉を探しながら続けた。


「怖くて、苦しくて、どうしようもなくなって、それでも何かにしがみつこうとしていた。あれを恐怖だけだと言って切り分けられる気が、私にはしないの。たぶん、恐怖を消すなら、その隣にあるものも一緒に削ることになる」


 若い神官たちは黙り込んだ。その沈黙を、マルグリットが引き取った。


「分からない、で止まれるのは、悪いことではありません」


 彼女は紙束を閉じた。


「若い者が“あったほうがいい”と思うのは珍しくありません。苦しむ者を前にして、少しでも手があるなら使うべきだと思う。自然なことです」


 若い神官の肩が少しだけ緩む。だがマルグリットの声は、その先で静かに硬くなった。


「ただし、都合よく恐怖だけを消す術などありません」


 部屋の空気が止まる。


「脳は、そんなふうに綺麗に分かれていません。恐怖だけを抜く、怒りだけを削る、悲しみだけを止める。言葉ではそう言えても、実際に手を入れれば、他のものも一緒に鈍ります。深く触れれば、なおさらです」


 若い神官の一人が、ためらいながら問う。


「では、禁断魔法とは……」


「名前ほど特別なものではありません」


 マルグリットは淡々と言った。


「日々の鎮静魔法を、もっと深く、もっと広く、もっと戻らないところまで進めた先にあるだけです」


 ミルナが目を上げる。若い神官たちも顔色を変えた。


「失われたのは術式の手順書であって、到り着く道そのものではありません。脳に触れる仕事を長く続ければ、何をどう削れば人が静かになるか、輪郭くらいは見えてきます」


「……再現、できるのですか」


 若い神官の問いは、好奇心より恐れに近かった。


 マルグリットは少しだけ間を置いた。


「たぶん、できます」


 はっきりした返答だった。


「少なくとも、熟練者なら近づけてしまう。だからこそ、やらないのです」


 若い神官は言葉を失った。


 ミルナは、胸の奥に冷たいものが落ちていくのを感じた。失われた秘術だから怖いのではない。失われていても、捨てても、足元の技術の延長で作られてしまうから怖いのだ。


 マルグリットは紙束を指で軽く叩いた。


「先代最高位神官は、術を残しませんでした。残したのは、言葉だけです」


 彼女は紙を開き、そこに記された短い一文を読み上げた。


「禁断魔法を使うのは、神殿の敗北なのです」


 誰も動かなかった。


 マルグリットは続ける。


「患者が敗れたのではありません。そこまで追い詰められる前に支えきれなかった、我らの敗北です。だから、あれを神殿の技として継いではならない――先代はそう判断したのでしょう」


 若い神官が、苦しそうに言う。


「けれど、それでも、今日みたいな方を前にすると……あったほうがいいと思ってしまいます」


「ええ」


 マルグリットは否定しなかった。


「だから禁断なのです。刃のように見える術なら、人は恐れます。ですが、安らぎに見える術は、恐れずに使ってしまう。苦しみを消せるのだから善いことだと、自分で言い聞かせながら」


 ミルナが小さくつぶやく。


「心の殺人、ですね」


 マルグリットはその言葉に、ゆっくり頷いた。


「そう呼ぶしかないのでしょう。身体を残して、心だけを殺す。だからこそ、あれは禁断なのです」


 若い神官たちは、もう反論しなかった。だが納得しきれたわけでもない顔だった。それが当然だと、ミルナには思えた。


 今日、目の前で死んだ兵士は苦しかった。恐怖は本物だった。あれを見て、終わらせる術を求めることは間違いではない。だが、その恐怖ごと、その人をその人にしていた何かまで断ち切ってしまうのなら、それは本当に救いなのか。


 答えは、部屋のどこにも落ちていなかった。


 マルグリットが紙束を閉じる。


「神殿が継ぐべきものは、術そのものではありません」


 声は静かだった。


「止まるべき場所です。できるからやるのではない。できても、やらない。その線を教えることが、いまの神殿の仕事です」


 若い神官たちはうなずいた。理解ではなく、受け取るためのうなずきだった。


 ミルナは痛む腕をそっと押さえた。あの兵士の手は、怖かった。痛かった。けれど同時に、生きたいという最後の心からほとばしる力でもあった。


 その力まで消してしまって、微笑みだけが残るのは、救いと呼べるものなのか。


 灯りの下で、誰もすぐには口を開かなかった。禁断魔法の話は終わったのではない。四人の胸に、それぞれ違う重さのまま残っていた。

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