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第27話 王宮

 アヴァロン王国の辺境、ノルディカ王国と境を接するグレンウッド領に、ノルディカ軍が侵攻軍を派遣したときのことだった。国境に存在するグレンウッド砦には、小規模な攻撃は何度か行われていた。しかし、五千名に及ぶ侵攻は初めてである。


 そのため、この戦役を仮に、ノルディカ軍によるグレンウッド領への一次戦役と名付けておきたい。


 五千名という大軍は、全軍ではないとしても、かなり大規模な動員である。今回の編成は、単なる示威や嫌がらせではなく、グレンウッド領を奪取しようとする意図があると見てまず間違いない。


 昔のグレンウッド領は、山に築かれた防衛用の砦と、その周りの寒村に過ぎなかった。ところが、グレンウッド領主が農業に向く土地改良、開拓、農政を積み重ねたことで、いまや王都の穀物需要の四分の一を、グレンウッド領だけで賄う農業生産領になっている。国境地帯でありながら王国の胃袋を支える土地――つまり、敵にとっては「奪う価値のある土地」に変わってしまったのだ。ノルディカ王国が甚大な被害を出してでも占領しようとする理由は、そこにある。


 前線では、グレンウッド領軍が持ちこたえ、王立軍司令部が援護へ向けて動いていた。問題は、その“正しい動き”が王宮に届くまでに、どうしても時間がかかることだった。情報は遅れ、断片になり、断片は恐怖を育て、恐怖は口を軽くする。戦場の外で、別の戦が始まる。


 王国議会の空気は、普段でも重い。

 石造りの壁は声を響かせ、絨毯は足音を吸っても、言葉の角までは吸ってくれない。だから、少し言い争いが起これば、部屋全体に怒鳴り声が響く。


 その日、すでに怒鳴り声は響いていた。


「グレンウッド領は、もう持たぬのではないか」

「王立軍の到着を待つ余裕はない」

「いっそ一部を割譲して停戦を」

「我が家の兵を先に向かわせる。指揮権は現地で調整すればよい」


 言葉は次々に飛び、そのどれもが思いつきの浅い意見ばかり。誰もが焦っている。だが、焦りの向く先が現場ではなく、自分の不安の解消に向かい始めると、会議はたちまち厄介なものになる。誰かが「陥落」と口にすれば、まだ持ちこたえている前線も、次の者の頭の中では「失われる前提」に変わる。誰かが「援軍準備中」と言えば、次の者は「遅い、こちらから直接命じる」と言い出す。情報が少ないほど、声の大きい者が正しいように聞こえてしまうのだった。


 本来なら、ここに王や王太子が立てば、場は収まる。

 だが、アンリ王太子は議場に来られなかった。


 王の代理として、軍令、外交、財務の決裁が山のように積み上がっているうえ、彼は跡継ぎ――王統の要でもある。護衛は重厚で、廊下を歩くだけでも列ができる。そんな立場の人間が、混乱の只中にある議場へ軽々しく顔を出せば、それ自体が「王家が介入した」という別の騒ぎになる。火を消すつもりで入った者が、別の火種になってしまうことは珍しくない。


 王は全体対応に追われ、アンリは王の代理として執務に縛られ、セリーヌ王女もまた国民の生活基盤の調整で手が塞がっている。王家が忙しいのは当然であり、戦時ならなおさらだ。問題は、その当然の忙しさが議会に空白を作り、高位貴族たちがその空白を「自分たちが率先して解決すべき」だと勘違いしたことだった。


「軍の下部組織がもたつくなら、こちらから直接命じればよい!」


 老侯爵が卓を叩く。

 その音を、議場の入口近くで聞いていたリュシアは、ほんのわずかに目を細めた。


 ――違う。

 命令することと、統制があることは同じではない。あちこちから命令が出てくれば、現場はむしろ壊れる。必要なのは“数”ではなく、“一本にまとまった指示”だ。誰が偉いから命令を通す、では話にならない。


 けれど、この喧騒の中で正面から叫んでも意味はない。叫びは叫びとぶつかる。議場は、正しいことを言えば勝てるわけではなく、間違った言葉でも声が大きければ勝てる場合もある、と言うことをリュシアは知っていた。


 彼女は視線だけで宰相に合図し、いったん議場を離れた。向かう先は、王太子の執務室である。


◇◇


 リュシアはアヴァロン王国の王族ではない。アヴァロン王国の庇護を受けている公国の姫だ。公国がアヴァロン王国に従属するときに送り込まれた人質である。


しかし、セリーヌ王女は、リュシアを連れて王の前でこう宣言した。


「この子は客じゃないわ。うちの子よ」


それからリュシアは事実上、王族の一員となった。


◇◇


 執務室の前には、重装の護衛が並んでいた。槍も剣も抜かれてはいないが、だからこそ壁のように見える。王宮の中であっても、王太子の周囲だけは常に小さな戦場なのだと分かる光景だった。


 リュシアが名を告げると、衛士は一礼し、扉を開けた。

 通されたのは、婚約者である彼女だけだった。


 室内では、アンリが机に向かっていた。書状、決裁文書、地図、報告書。机の上は整っているのに、仕事量だけが整っていない。彼は顔を上げると、疲労の色を隠しきれない目で、それでもきちんとリュシアを見る。


「議会か」

「荒れておりますわ」

「だろうな」


 短い返答だったが、そこに感情を乗せる余裕はなかった。アンリは既にそれを理解したうえで、別の仕事をこなしている。


「方針だけ、確認しに参りました」

「変わらない。司令部に任せる。それが最善だ」

「割譲論も出ております」

「退けてくれ。今、グレンウッドとの線を切れば、敵に土地を渡すだけでは済まない。王国の生命線まで細る」


 その言い方に、リュシアは小さく頷いた。

 グレンウッド領は、ただの辺境ではない。食料と流通と生産を支える土地であり、その意味で王国全体の生命線に食い込んでいる。ここを軽く扱う者は、戦場を見ていないだけでなく、国の形も見ていない。


「軍への越権も止めますわ」

「頼む」


 アンリはそこで、一瞬だけ背もたれに身を預けた。

 王の代理という立場は重い。彼は立場そのものに押し潰されているわけではないが、動ける者ではなく、動いてはならない者でもあった。だからこそ、動ける手足が要る。


「私は、ここを離れられない」

「ええ。ですから、私が動きます」


 婚約者だから言える言葉がある。

 王太子だから言わずに済ませる言葉もある。

 リュシアはそれ以上、余計な慰めを口にしなかった。ここで必要なのは、励ましではなく、確認と実行だったからだ。


 執務室を出ると、廊下にはジュリアン第二王子が立っていた。壁にもたれていたわけでもないのに、妙に気楽な空気をまとっているのが、この人らしい。


「兄上、まだ埋もれてました?」

「ええ、紙に」

「でしょうね」


 ジュリアンは苦笑し、それからリュシアの顔を見た。


「で、どこの扉から叩きます?」

「いまから財務関係の伯爵、そのあと軍務関係の若手、その次に老侯爵の取り巻きですわ」

「順番まで決めてるの、怖いですね」

「あなたは黙って後ろに立っていてくだされば結構です」

「はいはい。今日は剣じゃなくて、顔で脅す役ですね」


 軽口のようでいて、役割の理解は正確だった。

 ジュリアンは、王家の中枢にいるが、アンリほど動きを縛られてはいない。セリーヌほど決裁を抱えているわけでもない。だからこそ、こういうときの機動力として使える。そして、リュシアが貴族議員を個別に回るとき、第二王子が一歩後ろに立っているという事実そのものが、ずいぶんと余計な態度を減らしてくれる。


 抜かれない剣ほど、よく効く。

 王家の視線とは、そういうものだった。


◇◇


 最初に向かったのは、財務関係の伯爵の控室だった。

 彼は割譲論そのものには賛成していない。だが、戦が長引いたときの歳入減、王都の物価、商いの冷え込み、そして自分が「判断を誤った」と責められることを、何より恐れていた。


「伯爵閣下。少しだけお時間を」

「短く願いたい、公女殿下。今日は皆、余裕がない」

「ええ。ですから短く、損得のお話だけいたしますわ」


 リュシアがそう言うと、伯爵の眉がわずかに動く。

 感情より損得で話せば、この相手は聞く。


「グレンウッド領を切れば、来年の穀物流通、加工食、周辺取引路、その全てに揺れが出ます。いまの不安を消すために、半年後の基盤を削る判断になりますわ」

「それは仮定だろう」

「ここまでは仮定です。ですが、議会の思いつきでグレンウッド領を切れば、王都の穀物の4分の1は入らなくなりますわ。これは仮定ではありません。そうならば今言った事態になることは容易に想像できるのでは?」


 ジュリアンは何も言わず、扉の脇に立っていた。

 ただ、それだけで伯爵は、いつものように机を叩いたりはしない。議論の熱が、少しだけ下がる。


「……あなたは、司令部を信じるのか」

「信じるかどうかではありません。命令系統を一本化するのは軍統制の第一条件です。信じるも信じないもそこを通さなければ、全体が動かないのです」


 伯爵は黙った。完全に賛成したわけではない。だが、軽々しく「割譲もやむなし」と口にしにくくはなった。それでよかった。今は一人ずつ、毒を薄めればいい。


 次は軍務関係の若い議員だった。

 熱意があるぶん、危うい。自家の兵を出し、手柄を立て、役に立ちたいという気持ちが、王立軍司令部の運用と衝突しかねない。


「あなたの勇ましさは疑っておりませんわ」

「でしたら、なぜ止めるのです。黙っていては友軍を見捨てることになる」

「いいえ。“自分の出番ではないところでは手を出さない”のです」


 若者は反発しかけたが、その後ろに立つジュリアンを見て、声の勢いが少し落ちた。第二王子の前で、自分の正義だけを振り回すのは、さすがにやりにくいのだろう。


「今、あなたが独断で兵を動かせば、合流地点も補給の手配も組み直しになります。勇気は立派ですわ。でも、司令部が建てた計画を台無しにするような部隊は、軍には要りません」

「……」

「王国軍司令部に任せることは、何もしないことではありません。後ろにいる私たちが、大きな混乱を起こさない、ということも立派な仕事なのです」


 若い議員は視線を逸らした。

 同意ではない。だが、勢いは削れた。


 そうした説得を、リュシアは繰り返した。

 一人ずつ。

 一部屋ずつ。

 議場での華やかな論戦ではない。人の不安を整理し、余計な思いつきを引っ込めさせ、極端な言葉の角を削るだけの、地味で時間のかかる仕事だった。


 喉は乾き、足の裏は痛み、ドレスの裾は王宮の床しか歩いていないはずなのに、夕方には妙にくたびれて見えた。説得というのは、歩数以上に靴を減らすのだと、リュシアは半ば本気で思う。


 その日の終わり、議場へ戻ると、たしかに割譲を叫ぶ声は少し減っていた。

 だが、代わりに増えたのは沈黙だった。


「判断が難しい」

「情報を待つべきでは」

「今ここで決めるのは危険だ」


 反対は減った。

 しかし賛成も増えない。

 何も決まらないまま、時間だけが過ぎる。


 それが一番まずいと、リュシアは知っていた。前線では、待つだけでも人が削れる。兵も、馬も、食料も、魔力も、時間に食われる。持ちこたえるというのは、止まっていることではない。毎刻、何かを失いながら、それでも線を保つことだ。


 二日目の夜、三人目の大臣の部屋を出たところで、リュシアは廊下の壁にそっと手をついた。めまいではない。ただ、集中が切れかけていた。


「大丈夫です?」

「まだ歩けますわ」

「歩けるのと、休まなくていいのは別でしょう」


 ジュリアンの言い方は軽い。だが、軽さの中に雑なところはなかった。

 兄や姉が重い場所を担うぶん、彼はこういうところで、肩を少しだけ下げられる。それがありがたいと、リュシアは思った。


 そのとき、ふと頭に浮かんだのは、甘い匂いだった。

 王立大学校の片隅、セリーヌ王女と行ったいつもの部屋。砂糖研究会。煤けた机、紙束、試作品の欠片、誰かの「一口だけなら研究ですわ」という冗談。そこには、前線に出ていない者たちがいる。けれど、あそこには前線を理解できない者はいない。


 ――一人でやりすぎた。


「ジュリアン」

「はい」

「大学校へ行きますわ」

「ようやく糖分ですか」

「ええ。ついでに、人手と頭脳も借ります」


◇◇


 王立大学校の研究棟に着いた頃には、外は夕刻だった。

 研究会の部屋の扉を開けると、いつもの甘い匂いは薄く、代わりに紙と茶葉の落ち着いた香りがあった。


 最初に目に入ったのは、空席だった。

 エミリアの机には、書きかけの計算紙と炭の粉のついた端布。本人はいない。グレンウッド領で魔砲の準備に張りついている。

 クラリスの席も空いている。騎馬魔法士隊で前に出ている。

 エステルも不在だ。軍監として司令部側に回っている。


 空席ばかりが、いやにはっきり見えた。

 前に出る者たちがいないということは、ここに残った者たちが、それぞれの持ち場で立っているということでもある。


「……顔色がよろしくありませんわね」


 声をかけたのはノエミ・ラグランジュだった。眼鏡の奥の目は眠そうなのに、妙に冴えている。

 その隣では、フローレが小皿を寄せ、ミレイユが湯気の立つ茶を用意していた。少し遅れて、王宮の給仕長補佐を務めるコレットと、王立大学校の研究棟付き書記であるイレーヌが椅子を引く。


「まず座ってください」

「話はそのあとです」

「糖分が先ですわ」とフローレが言い、「理屈は後でも逃げません」とノエミが続ける。


 コレットが差し出したのは、小さく切った携行ケーキだった。研究会で生まれ、王女印で前線へ送られた、あの食べ物である。いまでは、ただの菓子ではない。兵が動くための補給であり、王国の生命線の一部になっている。


 リュシアは苦笑し、一口だけ食べた。

 甘い。少し強いくらいに甘い。疲れた頭には、そのくらいがよかった。


「……議会が止まっていますの」

「割譲論ですか」

「それもあります。けれど、今はそれ以上に、皆が責任を取りたがらない方へ傾いております。反対は減りましたが、軍への全権委任の可決まで届かない」


 部屋の空気が少し引き締まった。

 ノエミが指先で机を軽く叩く。


「つまり、否定の声は削れた。でも、賛成の密度が足りない」

「そういうことですわ」

「なら、面で押します」


 言い切ったのはノエミだった。

 数学の話みたいに平然と言うが、内容はかなり強い。


「リュシア様は一人ずつ説得して、過激な意見を黙らせた。そこまではできています。なら、あとは迷っている人たちの周囲を埋めればいいのです。人は議場の中だけで意見を作るわけではありませんから」

「周囲、ですの?」

「ええ。家、台所、帳場、学派、使用人、取引先。人の考えは、本人の頭の中だけでできているようで、実際にはそうではありませんわ」


 フローレが頷いた。


「王宮料理長の家へは、うちから話が通せます。グレンウッドを軽く見る案が、王宮の食と供給をどれだけ揺らすか、実務の言葉で言えますわ」

 ミレイユも続く。

「保存や供給の理屈なら、うちの方面からも言えます。『今ここで系統を乱してしまえば、もう後には戻せない』という話は、分かる人には分かります」

 コレットが静かに頷いた。

「王宮の下働きには、こちらから話を通せます。給仕も控えの侍女も、誰がどこで何を言ったか、案外よく見ています」

 イレーヌも続ける。

「大学校の書記や伝令にも声をかけられます。学内で広まる“もっともらしい話”は、思っている以上に議員の耳へ届きます」


 ジュリアンが部屋の隅で小さく感心したように息をついた。

「怖いですね、この会」

「いま気づきましたの?」とリュシアが言うと、「前から知ってましたけど、改めて」と彼は肩をすくめた。


 リュシアは茶碗を持ったまま、しばらく黙っていた。

 エミリアもクラリスもいない。けれど、この場は欠けていない。むしろ彼女たちが前線にいるからこそ、残された側は、自分の持ち場をよく分かっている。


「……皆さん、ここまで巻き込んでよろしいのかしら」

「何を今さらですの」とフローレが笑う。「研究会は、甘いものを食べるだけの会ではありませんわ。おいしいものを成立させるために、条件を整える会でもあります」

「政治も似たようなものです」とノエミが続ける。「材料があっても、温度と順番が悪ければ失敗します」

「王宮は、表よりも裏の空気のほうが早く回りますから」とコレットが言う。

「書類も噂も、通り道を押さえた方が早いです」とイレーヌも言った。


 短い言葉ばかりだった。

 だが、その一つ一つが、リュシアの背を押した。


「……分かりましたわ」


 彼女は姿勢を正し、いつものすました口調に戻る。


「では、整理します。私は今夜も議員を回ります。その間に、皆さんはそれぞれの持ち場から、“いまは王国軍司令部に任せるべきだ”という空気を作ってくださいませ。強い言葉でなくていい。むしろ、当然のこととして浸透させたいのです」

「承知しましたわ」

「了解ですわ」

「お任せください」


 返事は重ならず、きれいに続いた。

 誰か一人が目立つのではなく、それぞれが自分の分野で即座に役割を取る。砂糖研究会そのものが、小さいのによくできた機構だった。


◇◇


 翌朝の議場は、前日までと同じ場所なのに、空気が違っていた。


 大声の質が違う。

 昨日までは、誰もが「自分が決めねば」と焦っていた。今日は逆に、「妙なことを言えば自分が浮く」という慎重さが、あちこちに見えた。


 割譲論の侯爵は、いつもの勢いで口を開きかけ、隣席の視線に一つ言葉を飲み込んだ。独断で兵を動かしたがっていた伯爵は、朝から届いた私信の束を何度も見直し、落ち着かない顔をしている。王宮の外でも内でも、自分の言い分が歓迎されていないと察したのだろう。


 昨夜、確かに動いたのだ。

 台所で。控室で。帳場で。廊下で。

 誰かの説明が、誰かのため息が、誰かの「それはまずいのでは」が、目に見えないまま編み上がっている。


 議長が咳払いを一つする。

 それでも、まだ空気を読み切れない一人が口を開いた。


「しかし、なお判断は早計では――」


 その言葉に、リュシアは初めて、まっすぐ前へ出た。


「早計なのは、統制を崩すことですわ」


 声は大きくない。

 だが、静かな議場では、それで十分だった。


「前線には前線の仕事があり、司令部には司令部の仕事があります。議会の仕事は、それを邪魔しないことです。思いつきで指揮系統を増やしても、現地が楽になるわけではありません。むしろ混乱が増えるだけです」


 誰かが反論しかけ、やめた。

 今日は、怒号を上げる側が少数だと、皆がもう知っている。


「グレンウッド領を軽く見る意見も、ここでは取りません。あの領を失えば、王国は土地だけでなく、人と生産と信頼を失います。敵に渡るのは辺境ではなく、王国の生命線の一部です。いま必要なのは、恐怖に流されて線を切ることではなく、正しく動いている軍へ権限を集めることです」


 言い切ったあと、リュシアは議長の方を向いた。


「採決を。王国軍司令部への全権委任、および援軍派遣の追認を」


 議長は一瞬だけ宰相を見た。

 宰相が静かに頷く。

 そこでようやく、議長は槌を打った。


 採決は、拍子抜けするほど滑らかに進んだ。

 昨夜まで声の大きかった者たちは、反対票を投じることはできても、もう議場全体を引きずることはできない。過激な意見は、残っていても孤立していた。


「……賛成多数。可決」


 その一言で、部屋の緊張は一段ゆるんだ。

 誰かが安堵の息を吐き、誰かが書記に指示を出し、誰かが伝令を走らせる。王国議会は、劇的に勝利したわけではない。ただ、ようやく“余計なことをやめる”ことだけは成功した。それで十分だった。


 リュシアは大きな表情を見せず、ただ一礼した。

 拍手を求める場ではないし、誰かに褒められる性質の仕事でもない。だが、議場を出るとき、すれ違った宰相がほんのわずかに礼を深くした。あれで足りる、と彼女は思った。


 廊下に出ると、ジュリアンが壁際で待っていた。


「お疲れさまです、リュシア」

「疲れましたわ」

「珍しく素直ですね」

「あなたの前でくらいは」

「それ、ちょっと光栄です」


 軽口を叩きながらも、彼はすぐに歩幅を合わせる。

 王宮の廊下は長い。だが、行きに比べれば、ずいぶん歩きやすかった。


◇◇


 夕方、研究会の部屋へ戻ると、そこには少しだけ、いつもの空気が戻っていた。


 フローレが茶を淹れ直しており、ミレイユは書きつけをまとめ、ノエミはもう別の計算に頭を切り替えている。コレットとイレーヌは、運んできた包みを机の端に置いた。


「……終わりましたの?」

「ええ。可決しましたわ」


 その一言で、部屋の空気がやわらいだ。

 誰も大声では喜ばない。ただ、小さく息を吐き、肩の力を抜く。それで十分だった。ここはそういう場所だ。


 コレットが、残っていた携行ケーキを一つ皿にのせる。

 イレーヌが書きつけから顔を上げて言った。


「今日は、少し甘めです。そういう配合で回ってきました」

「でしょうね」


 リュシアは座り、包みをほどいた。

 ひと口かじる。やはり甘い。疲れたときには効くが、元気なときなら少し文句を言いたくなるくらいには甘い。


「……甘すぎませんこと?」

「リュシア様は、これくらい入れないと頭が止まる、とノエミ様が」

「私は計算として申し上げただけですわ」とノエミが涼しい顔で言う。「糖分と継続作業の効率には相関があります」

「まあ。人を炉みたいに」


 その言葉で、部屋に小さな笑いが起きた。

 笑い声を聞きながら、リュシアはようやく、肩の奥に入っていた力が抜けていくのを感じた。


 前線では、まだ戦いが続いている。

 エミリアは魔砲のために鉄と魔石と格闘し、クラリスは馬上で魔法士隊を率いているだろう。エステルも軍監として目を光らせているはずだ。王宮の中での一つの可決で、戦が終わるわけではない。


 けれど、少なくともこれで、後ろから余計な手が伸びることは減る。前で戦う者たちの背中に、別方向から命令が刺さることは、しばらくはない。


 それだけでも、十分に意味がある。


 魔砲が敵を焼くなら、自分の仕事は、その魔砲が正しい方向へ向けられるように、後方を守ることだ。見えない。目立たない。記録にも残りにくい。それでも、誰かがやらなければ、前線の力は成立しない。


「リュシア様?」

「なんでもありませんわ」


 彼女はいつものすました顔に戻り、皿の上の小さなケーキをもう一口だけ切った。


「ただ――本当に、王宮の大人というのは面倒ですわね」


 今度は、さっきより少しだけ大きな笑いが起きた。

 部屋の中に、茶の香りと甘い匂いが戻る。研究会の午後に似た、短い平穏だった。


 その平穏の向こうで、前線はまだ続いている。

 けれど、だからこそ、この小さな部屋で交わされた言葉にも、確かな重さがあった。前に出る者がいて、後ろを支える者がいる。変える者がいて、通す者がいる。砂糖研究会は、今日もまた、そうやって王国の一部を静かに動かしていた。

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