表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/37

第26話 隔離

 治癒師イルマ・フェルナーは、朝の霧が畑の畝に残っているうちに村を出た。肩から下げた革鞄はそれほど大きいわけでもないが、ずっしりと重い。中身は薬に加えて麻布、縫い糸、針、塩、それから紙束――記録帳だ。治癒師の仕事は魔法だけでは成立しない。目で見て、よく洗浄し、手で触れて、整復し、縫い、そして治癒魔法をかける。そういう地味なことの積み重ねが、村では命を分ける。


 その積み重ねは、王都で鍛えた。


 イルマは二年間、王立治療院でエリザベスの弟子をしていた。あそこはこの国で最も整った医療施設で、治癒魔法の腕前だけでなく、器具や衛生や記録、そして現場を回す役割分担まで、当たり前のように高い水準で揃っている。白い廊下を歩く人間の足取りには迷いが少ない。


 イルマは治癒師志望だった。裂傷、骨折、火傷、刺し傷、出血、化膿――そういう外傷に対して、治癒魔法は強い。縫う前に肉を寄せ、止血の前に流れを整え、壊れた組織を必要な分だけ治す。治癒師の現場で魔法が効く理由を、彼女は手の感触として覚えている。


 ただ、流行り病は違う。だるくなり、熱が上がり、呼吸が荒れて、腸が荒れる。そこは薬師の分野だ。症状を分類し、薬草を選び、煎じ、配合し、量と飲ませ方を設計して、身体が自らを治す力を助ける。王立治療院でイルマは、薬師の背中も何度も見た。治癒師だけでは治療できない状況があり、逆に薬師がいてくれるから救える命がある。


 イルマは、王都には残らなかった。最初からの志望が、村に戻って医療で村を救うことだったから。派手な名誉より、百人の暮らしを維持したかった。


 村に戻ると、王都の医療がどれほど厚い層の上に成立しているかをすぐ思い知った。近隣に薬師はいない。薬は宝物で、必要は年中あるのに供給は細い。だからイルマは半年に一度、王都へ買い出しに行く。村の銀貨袋を預かり、薬草、塩、布、針、小瓶、消毒の酒を揃える。そのとき必ず寄る場所が王立治療院の仕入れ窓口だった。治療院がまとめて仕入れる資材の一部を、医療関係者が必要分だけ買えるようになっている。地方の医療が倒れれば、いずれ王都にも患者が押し寄せる。だから治療院も、最低限の補給路を切らさない。


 その「半年に一度」が、村の生命線だった。


◇◇


 その日、ミュール村の入口で青年が息を切らして立っていた。袖口が濡れている。水を汲んだ手だ。


「イルマさん! ベルダ村が、流行り病のようなんです!」


 青年は途中で咳き込み、喉を押さえた。イルマは近づきすぎない距離で目を見る。目の縁が赤い。額に汗。頬が熱い。


「昨夜から咳は出てる?」


「……少し。でも、俺は大丈夫です。俺より、村が」


「大丈夫かどうかは、今から見に行こう、患者の数は?」


 触れなくても分かることがある。息の速さ、言葉の切れ、立ち方。頭の中で棚に置く。まず分類、次に隔離、最後に治癒――エリザベスの教えだ。


「ベルダ村は住人が全部で百人くらい、そのうちの患者が、家で寝込んでるのも合わせると二十人くらいは……熱と咳で、腹を壊してる人もいるって」


 イルマは記録帳の余白に短く書いて紙を破り、青年に渡した。


「これを先に行って伝えて。今からは誰もベルダ村に行ってはいけないし、ベルダ村も受け入れてはいけない。病人を一か所に集めないで、家ごとに分けて動かさない。水と便の管理を先にして、看病は一人に固定。布は煮て、火を確保、って」


 青年が頷き、走り出しかける。


「その前に、水を一口飲んで。塩もひとつまみ。倒れたら伝えられないから」


 青年は顔をしかめながら塩を舐め、息を整えた。


 イルマは麻布を口元に当てた。完全ではないが、無防備よりいい。予定は全部崩れたが、これは仕方がないことだった。


◇◇


 ベルダ村へ向かう道は泥が残り、轍が溝になっている。イルマは溝の脇を選んで歩いた。鞄の中身を確認する。塩、布、針糸、10本ほどの解熱や鎮痛のポーション、少量の乾燥薬草、蜂蜜少し。砂糖はない。水飴も多くはない。無いものは無い。あるもので代用する――師匠の言葉が浮かぶ。


 村が見えた。煙が薄い。人の動きも少ない。入口で男が咳き込み、もう一人が支えている。


「治癒師イルマです。村長さんに会えますか」


 イルマは村に入る前に、まず手の消毒ができるようにした。灰を溶かした手洗いの水を置く。そして病人の家の出入りを減らし、食事は戸先に置くだけにして、看病人に取り込んでもらう。看病人は家ごとに一人に固定する。言い方は穏やかに、けれど確実に実施してもらう。


 患者を診るには近づくしかない。つまり、イルマが感染する可能性は高い。だからこそ「線」を引く。病人の家に入る看病人は家ごとに一人、交代しない。熱と咳がある者は寝床を分ける。元気な者は病人に近づかない。助けたくなるのは分かるが、病人が増えるのはもっと困る。


 その言葉を、同じ形で何度も繰り返す。疲れた頭に、難しい説明は入らないからだ。


◇◇


 夕方、街道に車輪の音がした。輸送交易ギルドの印――グレンウッド領の色。御者台にいるのはウィリアム・グレンウッド。


 イルマは入口の手前で手を上げた。


「御者さん、そこで止まって。できれば村には入らないでほしい」


 ウィリアムはすぐ手綱を引いた。


「流行り病ですか」


「うん。百人ほどの村で、もう二十人前後に増えてる。薬師はいないし治癒師は私ひとりなので、王都に助けを呼びたい」


「王都までは片道二日ですね」


「行って二日、準備で一日、戻りが二日。早くても五日はかかると思う。……それまでの間、なんとしてでも保たせるわ」


 ウィリアムは短く頷いた。


「分かりました。村には入りません。確実に行って、確実に戻ります」


「お願い。薬、塩と糖、それと治癒師と薬師……お願いします」


「必ず」


 馬車は反転し、泥に二本の跡を残して遠ざかった。


◇◇


 二日目、ついにイルマは熱を出しはじめた。患者を頻繁に診る人間が罹りやすいのは分かっていた。胃の底が冷える。呼吸が重く、汗は出るのに喉が渇く。指先の感覚が鈍い。頭の中が、ふと白くなる。


 今はまだ終われない。ここからは村が回る形を保つことが必要になる。


 健常者用のものと患者用のものを分ける。患者用に使用したものは、健常者用には使えない。 

 沸かして冷ました水を常時作っておかなければならない。火が落ちれば、飲める水が減る。だから鍋を二つにして、沸かすものと冷ますものを分ける。桶や柄杓も別にする。そういう決まりを、短い言葉で先に伝えておく。


 そして、それ以上に大事なのは、動ける人を残すことだった。病人に触れていない人が火を守り、水を配る。動ける人が尽きたら、守れなくなる。


 二日目の午後、熱が下がり始めた者がぽつぽつ出た。完全ではないが短い仕事ならできる。イルマはその中の一人、四十歳前後の女――ハンナに目を留めた。普段から共同畑の段取りを回し、声が通り、言葉がしっかりしている。


「ハンナ、少し近くに来てもらえる? お願いがあるの」


 周りが息を飲む。熱が出たイルマが人を近づけるのは稀だった。


「私はたぶん、熱で動けなくなっていくから、専属で手伝ってくれる人が必要なんだ」


 ハンナは一拍置いて頷いた。


「もちろん私がやるよ」


「ありがとう。そうしたらね、あなたは今日から私に触ることになるから、患者側扱いになるよ。健常者側の桶や柄杓には触らないで、火や水の中心には入らない。できる?」


「分かった。私はイルマさん係。健常者側には行かないということですね」


 イルマは息を整えながら、仕事を三つに分けた。イルマの指示を外の人に伝える役目。イルマが倒れたときに人を近づけない役目、そして、よく監視して患者と健常者の線を守らせる役目。嫌われ役になるけれど必要な役だ。


「イルマさんも、倒れる前に言ってね」


 ハンナが言う。


「目につかないところで倒れられると困ります。呼んでくれたら、私が支えますから」


 イルマは頷いた。


「分かった。倒れそうなら『ハンナ』って呼ぶわ」


 それだけで、村の中に太い支柱が一本立った。


◇◇


 薬は、あっけないほど早くなくなった。イルマは外科の治癒師で、怪我には強い。けれど流行病は薬師の領域で、作れる薬は主要なものに限られる。少しばかりの解熱や鎮痛のポーションは子どもたちに使われた。 


 最後に残る武器は、薬ではなかった。


 リザ様からエリザベスへ、エリザベスからイルマへ仕込まれてきた、生理食塩水の思想だった。血に近い塩分の水。輸液として命を繋ぐ水。村で静脈に入れることはできない。だから飲める形に落とし込む。


 煮沸した水に、塩は少し薄めで、糖を少量。水飴でいい。舌が荒れた患者でも飲めるようにするためだ。涙より少し弱い塩、甘さは分かる程度。飲用の保水剤。それが、今できる最後の武器になった。


 指示を出している最中に、イルマの意識がふっと飛ぶことが増えた。水場の前で、桶の位置を示しながら言いかけた瞬間、言葉の末尾が落ちて世界が薄くなる。


 周りが動きかけたとき、ハンナが低い声で止める。


「下がって。近づかないで」


 短く、迷いなく。


「私がやる。イルマさん係だから」


 ハンナは抱き上げない。抱き上げれば腰をやるし、転べば二人倒れる。代わりに、イルマの腕を肩に乗せ、脇の下に腕を差し入れて体重を預けさせ、床に座らせる形に崩す。布を濡らして唇に当て、息が戻るのを待つ。麻布を帯のように肩から背に回して巻き、端を自分の肩にかける。両手を空けて、後ろ向きに腰を落とし、踵と膝で少しずつ滑らせる。引きずるのではなく、滑らせて運ぶ。


「行くよ。ゆっくりね。段差があるから」


 小部屋に戻し、扉を最小に開けて入り、外の空気を入れないように閉める。水を置いて下がりイルマを休ませる。


 それを繰り返すうち、村の空気が少し変わった。体力のある若者の何人かの熱が下がり始めたのだ。皆が遅れてそれを学び始める。昨日まで寝込んでいた男が、弱々しいながらも今日は桶を運び、火を見張り、布を洗う。顔色は悪いままでも動けた。


 怖いのは老人と子どもだ。体力が小さい者は悪化しやすい。だから治療の中心は「熱を下げる」ではなく、「熱が下がるまで保たせる」に変わった。少量ずつ何度も飲ませ、唇を湿らせ、尿の有無を見る。意識が濁れば声をかける。派手に動かさず、そっとさせる。治癒師が流行り病でできる最善だった。


 そういえば、かからない人間がいる。しかも若者より高齢者に多い。昔似た病にかかった経験があり、耐性があるのかもしれない。イルマはそれをはっきり言うわけではないが、心の中では人手に数えている。動ける高齢者がいる。火を守れる人がいる。水を配れる人がいる。今は人手は多いほどいい。


◇◇


 イルマは同じ指示を、同じ形で、何度も繰り返す日が続いた。隔離、保水、記録、そして休ませる順番。言葉が擦り切れていくのに、止められない。イルマが止めた瞬間、誰かが迷い、迷った手が線を越える恐怖があった。


 五日目の夕刻、空が薄い銅色に染まりはじめたころ、入口の方で声が上がった。


「馬車だ!」


 音が続く。車輪。馬の息。荷の軋み。もう一時間もすれば暗闇で道が見えなくなる。溝も段差も見えない。そこを、ウィリアムは村への到着に間に合わせた。


 それを聞いて、イルマは床から立ち上がろうとした。馬車を一度入口で止めなければならない。健常者側と患者側を混ぜない。助けに来た人にも手を洗ってもらう。荷は清潔側へ――頭が先に走り、身体がついて来ない。


 視界の端が白く滲んだ。音が薄くなり、「馬車だ」という声が水の底みたいに遠ざかる。


 イルマは「待って」と言おうとした。自分に言ったのか、村人に言ったのか分からない。言葉は出ず、床が消えた。


 倒れかけた身体をハンナが受ける。受け止めて、崩して、座らせる。息を見て、唇に布を当てる。


 扉の外で誰かが叫ぶ。


「イルマさん!」


 ハンナが低く返す。


「大丈夫。入口に止まってもらってください。いま大事なのは、助けに来た人を患者と混ぜないことですよ」


 その言葉に村の背中が動く。入口へ、患者側へ。健常者側へ。


 ハンナはイルマの耳元で短く囁いた。


「来たよ。だから、今は寝てて」」


 イルマの意識は落ちていく。けれど今度は、もう落ちても現場が止まらない。五日間で作った方法が村に移っている。ウィリアムの馬車は、暗闇が来る前に着いた。


 そしてイルマは、守るべき線の内側で、ようやく一息つくように、床の中へ沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ