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第25話 発酵

 砂糖が足りない、という不便は、甘いものが食べられない、というだけではない。砂糖は嗜好品であると同時に、保存や加工のための道具でもあり、研究室では試薬のように扱われることさえある。だから砂糖が足りないと、砂糖研究会の“できること”が減っていく。


 そのためフローレは、さつまいもを甘くした。熱の入れ方を慎重に研究し、砂糖に頼らずに「甘い」を引き出した。さらに香りを加え、食感を高め、王宮スイーツにふさわしい形にまでもっていった。料理という分野が、砂糖不足をいったん受け止めたのだ。


 しかし、料理の工夫だけでは研究会全体の不足は埋まらない。甘味を“作る”手段が欲しい。砂糖が無いなら、砂糖に似た糖を作る方法が欲しい。さつまいもスイーツの席で出たアイデアを、エミリアはもう一度机の上に載せた。


◇◇


「……麹の糖化の話、覚えていますか」


 エミリアがそう切り出すと、机の上の紙束が一斉に動き、メモが開かれ、誰かが「ああ」と小さく息を漏らした。あの時は、砂糖が無いなら芋を甘くすればいい、と勢いよく突っ切ったが、そのとき麹を使う道筋も確かに候補として挙がっていたのである。


 ミレイユが頷き、少し丁寧な調子で説明を引き取る。


「麹は糖化酵素を産生します。澱粉はそのままだと甘くありませんが、酵素で切って小さくすると甘味を感じる糖になります。芋や穀物の澱粉を、麹の糖化酵素で麦芽糖に近い糖へ変えられますし、その“やり方”自体は文献にもあります」


「水飴……」

 フローレが目を輝かせる。

「甘味が“出来上がるまでの道”が分かっているなら、材料が違っても辿れます。芋でも、麦でも。砂糖が無くても、甘い匂いが戻るなら、研究会の空気も戻ります」


 そこで、少し控えめな声が入った。


「ですが、私たちの国では麹は使われていませんので入手できません。まず見つけて育てるしかありません」


 声の主は、発酵と生物の分野が専門のアデリーヌ・ブランシャールだった。生物学専攻で微生物の研究をしている。彼女は紙の端に簡単な図を描く。


「麹カビは、米や麦そのものよりも、麦や稲の茎や葉、その藁の表面に、小さな塊として付いていることがあります。まずはそれを採ってきて、蒸した米や蒸した麦に植え付けて増やします。藁の上のものは“種”ですから、この段階では甘くはありません。きれいに育つものだけを残して、その後に糖化の工程へ入ります」


「……つまり、最初はたくさん作って、当たりを選ぶのですね」

 エルザが恐る恐る言うと、アデリーヌは頷いた。


「はい。藁には色々な菌が混じっていますから、ひとつの容器にまとめてしまうと、強いものが勝ちやすいんです。だから小さな容器に分けて、それぞれを隔離させます。白くきれいに育って、嫌な匂いがしないものだけを残します」


「嫌な匂い、というのは?」

 フローレが少し顔をしかめつつも聞くと、アデリーヌは淡々と、しかし優しい口調で答えた。


「酸が刺す匂い、腐った匂い、湿った布のような匂いです。そういう匂いが出た容器は、迷わず隔離します。残すのは、穀物に近い匂いがして、見た目が黄色っぽく白く揃っているものです」


 “最後にのこったものを、ごく小さく確認するだけです”という言い方が、妙に頼もしかった。


◇◇


 その日の午後、数人で倉庫へ向かった。古い俵、麦藁、米藁。乾いているはずの匂いに、ところどころ湿った匂いが混じる。アデリーヌはその湿りを避け、藁の束の中の、小さなカビの塊の付いた場所を探し当てた。


「ここから少しだけ採れます」


 彼女は木片の先で、指先ほどの小さな塊をそっと掬った。黒や黄色っぽい白、見た目はただの汚れにしか見えないのに、手つきだけがやけに丁寧で、白い部分だけをすくい取っていく。


 研究室に戻ると、小さな容器が机の上にずらりと並べられた。蒸し米と蒸し麦が、それぞれの容器に少量ずつ盛られている。熱すぎれば死ぬし、冷えすぎれば育たない。アデリーヌは指先で温度を確かめ、触って温かい程度になったところで、採取した塊を針の先ほどに分けて、容器ごとに置いていった。


「混ぜないんですか?」

 エミリアが尋ねると、アデリーヌは首を横に振った。


「最初は定着が優先です。増える前に混ぜると弱いものが負けます。……それに、いまは“それぞれが育つ”のを見たいので」


 その言い方は、どこか戦のようだった。けれど相手は兵ではなく、目に見えない小さな生き物だ。


 ――一日で結果が出る話ではない。


 翌朝、容器の蓋を順に開けていくと、白い綿毛のようなものが、ほんのうっすらと広がっているものがある一方で、何も変わらないものもあった。匂いもまだはっきりしない。フローレが落ち着かない声で言う。


「……これ、失敗ですか?」


「まだ分かりません」

 アデリーヌは急かさない。

「早い段階で判断すると、当たりを間違って捨てるかもしれません。発酵は、待つ工程なのです」


 三日目、差が出始めた。白さが揃ってくる容器がある。逆に、表面が湿ってぬめるものがある。蓋を開けた瞬間に酸が刺すものもある。フローレが顔をしかめて言った。


「これは……台所の生ゴミと同じ匂いですね」


「ええ。早めに隔離します」

 アデリーヌは淡々と答え、迷わず蓋を閉めて端へ寄せた。

「匂いは、最初に教えてくれるんです。悪い方が勝っている、と」


 四日目になると、容器の中の空気が目に見えて変わった。湿度が上がり、熱が少しだけこもる。アデリーヌは容器をそっと寄せ集め、布を掛ける場所を変え、夜には位置を入れ替えた。まるで眠っている子どもたちの寝相を直すみたいに、静かに、しかし手を抜かずにやる。


「……本当に、ずっと見ているんですね」

 エルザが半ば呆れたように言うと、アデリーヌは小さく頷いた。


「放っておくと、別のものが勝ちます。勝ったものが正しいわけではありません。勝ったものが残るだけです」


 五日目。白い容器の中が“ほんのり黄色い白”に揃ってきた。穀物に近い、乾いた匂いが混じってくる。嫌な刺し方の酸が減り、湿った布のような匂いも消えていく。逆に、怪しい容器はここで一気に崩れた。色が濁り、匂いが刺し、表面が不自然に光る。


「うわ、これは……近づきたくない」

 フローレが鼻を押さえると、アデリーヌは優しく言いながら、しかし躊躇なく隔離した。


「近づかなくて大丈夫です。残すのは、白く揃って、嫌な匂いがしないものだけです」


「黄緑っぽいのもありますね、これも廃棄ですか?」


「嫌な匂いはしないようです。それにこれは昨日までは白でした。様子を見ましょう」


 六日目。白い容器の表面は、触れればさらりと崩れそうなほど乾いた。蒸し麦や蒸し米の粒の輪郭が、少しだけ曖昧になっている。つまり、麹が“食べている”。エミリアはその変化を見て、ようやく時間の重みを実感する。甘味を作るというのは、火を入れるだけではない。待つことも立派な工程だ。


 七日目。机の上には、選び抜かれた白い容器だけが残った。数は最初の半分以下になっている。残ったものは見た目が揃い、匂いが穀物に近く、嫌な刺し方がない。その状態まで来てから、アデリーヌはようやく言った。


「……では、確認します」


 彼女はひとつの容器の端に指先をちょんと当てた。

 その瞬間、周囲が小さく息を呑む気配が走る。


 そして、アデリーヌはその指先を――舌先に、ほんの一瞬だけ触れさせた。


「あ、」


 誰かが声に出した。誰かが同じ音を重ねた。いきなり舐めるとは思っていなかったのだ。ここまでずっと「匂いと見た目で選ぶ」と言ってきたのに、最後の最後で、彼女は迷いなく“舌”を使った。


 アデリーヌは表情を変えない。ただ、ごく短い時間だけ目を細めて、そして頷いた。


「……はい。これなら大丈夫です。ほんのり甘味が出ています。澱粉を切る酵素が働いている証拠です。多少のかび臭さはありますが匂いも悪くない。見た目も揃っている。――この株を、増やしましょう」


 エミリアは、残った白を見つめた。藁の汚い世界から拾ってきたものが、一週間かけてきれいな容器の中で“きれいな働き”を始める。発酵とは、待つ技術であり、選ぶ技術であり、最後に確かめる技術なのだと、その瞬間だけ実感できた。


◇◇


 増やした麹を使って糖化を試みると、甘味の液体になるのが確認された。蒸し芋でも、蒸し麦でも、時間を置けば舌先に甘味が残るようになる。フローレが「甘い匂いが戻りましたね」と笑い、エルザが「瓶詰めして比較できます」と言い、ミレイユが「これは“成立しそう”です」と静かにまとめた。


 だからこそ、その次の失敗は、余計に痛かった。


 季節が進み、空気が湿り、日中の室温が上がる頃、同じやり方をしたはずの樽の中で、甘い匂いが立つ前に別の匂いが勝ち始めた。刺すような酸の匂いが強くなり、表面に薄い膜が張り、色がゆっくり濃くなる。そして、ある樽は一晩で真っ黒になった。


「……黒麹ですね」

 ミレイユが言い、フローレは顔をしかめ、エルザは反射的に一歩引いた。


「これは、黄色麹の“失敗”ですよね……」

 エミリアが確かめるように言うと、アデリーヌが静かに頷いた。


「はい。つまり、私たちの工程のどこかで、黒麹側が勝ってしまっています。原因が“ここ”だと確定して対策できないと、同じ工程を繰り返しても、また起きます」


 フローレが悔しそうに言う。


「でも、甘味は出たのに……。ここまで一週間もかけたのに」


「だからこそ、です」

 ミレイユは声を荒げない。けれど言葉は硬い。

「気温が高いのですね。温度が上がってくると、この麹は雑菌、特に黒麹に負けてしまうのです。黄色麹は気温が低くならないと難しいみたいですね、とくにこの容器とこの容器は黒麹だけではなく、別の雑菌でも負けてしまっています」


 机の上の空気が沈む。だが沈んだのは諦めではなく、焦点が絞られた結果だった。


「……甘味はどうしますか」

 フローレが小さく聞く。


「麦芽糖化に切り替えます」

 ミレイユは迷わず答えた。

「麦芽なら、少なくとも“同じ工程で雑菌に負ける”という事故は起きません。原因の切り分けができます。甘味の供給は当面、麦芽一本で成立させましょう。麹糖化は、温度が下がった冬になってから再開しましょう」


 研究会はそう決めた。悔しいが、それしかなかった。


◇◇


 だが、止まらなかった人がいた。エルネスタである。


 黒麹をただの失敗として捨てるには、彼女が読み込んだ文献の一行が、嫌に目に残ったのだ。黒麹で酒を作るという記述。麹が負けるなら、黒麹を避けるのは正しい。けれど黒麹が“酒”の領域で本当に扱われているなら、そこには理由があり、条件があり、やり方があるはずだった。


 エルネスタの領は森林が多い。樽がある。数があれば条件を変えて試せる。失敗を許容できる。研究会が麦芽糖化に集中している間、エルネスタは自領で黒麹で本当に酒ができるのかを試したかった。


 暑い時期、黄色麹は崩れやすい。だが黒麹は強い。放っておくと勝手に黒麹発酵になるくらい強い。強いということは、勝手に暴れるということでもあるが、条件さえ掴めば“勝ち筋”にもなる。


「糖と酸を分けられれば……使えるのではないかと思ったのです」


 後にエルネスタがそう語ることになる発想は、ここで生まれた。酸っぱさが消せれば、黒麹の強さは“安定”になるかもしれない。黒い色が取れれば、扱いづらさも減るかもしれない。理屈としては筋が通っている。問題は、現実がその理屈に従うかどうかだけだった。


◇◇


 エルネスタは、黒い失敗作を瓶に詰め、王立大学校の研究室へ持ち込んだ。研究会の会合ではない。少人数で静かに確かめるためだ。ミレイユがいる。エルザがいる。フローレがいる。エミリアもいる。そして、アデリーヌもいる。つまり、必要な分野の人間が揃っている。


 瓶の栓を抜くと、鼻の奥に刺す匂いが走る。酸っぱい。だが、酸の種類は匂いでは分からない。酸は全部が揮発するわけではない。ましてクエン酸のような酸は揮発しない。匂いは、別の揮発成分が混じっているだけだ。


 また、黒麹は文献に酒を作ると書かれているように、きつい酸味や渋みはあっても、大量に飲まない限り、毒性はほとんどないと考えられる。そもそも酸っぱくて大量には飲めない。また、安全性の保証はまだないので、舐めるとしても少量に留めておく。


 ミレイユが言った。


「例の黒い失敗作ですね。まずは、どういう成分があるのか、順番に調べてみましょう。匂いだけでは分からないので、必要なら味も確認します。もちろん、ほんの少しだけです」


 試験管が並び、ろ紙と漏斗がセットされる。黒い液をろ紙に注ぐと、黒い粒が上に残り、下には透明な液が滴って落ちた。


「色は取れましたね」

 エルザが少し安心した声を出す。


「黒いのは粒ですね」

 アデリーヌが補足する。

「粒なら止められます。問題は、液に溶けたものです」


 ミレイユは、ろ過した液体を試験管に取り、指先をちょんと当ててから、舌先にほんの一瞬だけ触れさせた。匂いは揮発分の情報で、味は溶けている成分の情報になる。層が違う。


 ミレイユの眉が、ほんの少し寄る。


「……酸っぱいですね。かなりはっきり酸が出ています。舌に残る感じからすると、酢酸のように匂いが立つ酸ではなく、クエン酸に近い系統だと思います」


「レモンの酸っぱさに近い、ってやつですね」

 フローレが頷く。


「ええ」

 ミレイユが穏やかに返す。

「そして、糖も残っています。糖と酸が、どちらも水に溶けたまま残っている。だから、ろ過では分離できません。黒い粒は取れましたが、酸っぱさは液体に溶けているものです」


 エルネスタが小さく息を吐いた。


「……分離できませんでしたか」


「ろ過では分けられません」

 ミレイユは言葉を選びながら続ける。

「では次に、揮発するものと残るものを分けてみます。蒸留です。揮発する成分があるなら、そちらに分離できる可能性があります」


◇◇


 器具が並ぶ。フラスコ。曲がった管。冷却管。受け瓶。エルザが継ぎ目を締め、蝋を薄く塗り、布を巻いて糸で締めた。


「これで、逃げません」

 エルザが言うと、エルネスタは苦笑した。

「逃げるなら、匂いだけでも逃げてくれたらいいのに」


「匂いだけ逃げても、困りますよ」

 フローレが小さく言って、皆が少しだけ笑った。笑えるうちは、まだ折れていない。


 火が入る。しばらく待つと、冷却管の中を薄い霧が走り、受け瓶に透明な雫が落ちた。見た目は水と変わらない。


 フローレが鼻先で確かめ、次にほんの一瞬だけ舌先で触れるように味を見る。そして、ゆっくり首を振った。


「酸っぱくはないです。でも……ただの水ですね。味が薄い。匂いも、変に混ざった感じがするだけです」


 ミレイユが頷いた。


「蒸留した液が酸っぱくないのは当然です。残念ながら酸も糖も飛んでいません。つまり、この蒸留は酸っぱさを取り除く操作になっていません。蒸留液は基本的には水で、酸も糖も残液に残ったままです」


 エルネスタは受け瓶の透明を見つめ、ふっと肩を落とした。


「……失敗で試合終了ですね」


「ここでは、そうですね」

 ミレイユは慰めの代わりに事実を柔らかく置く。

「いまの瓶の中には、蒸留で意味のあるほど揮発する成分が、ほとんど無いのです。だから、水しか出ていないのです」


 正しい。正しいから痛い。


 そのとき、エルネスタの視線が机の端に引っかかった。忘れていた瓶があった。黒麹の仕込みを詰めた瓶で、蓋がわずかに浮き、表面に泡が残っている。底から細い気泡がゆっくり上がっている。


「……あれ?」


 エミリアも気づいて、そっと言った。


「発酵、してませんか」


「してますね」

 アデリーヌが言い、エルネスタは急いで瓶に手を伸ばした。


 コルクを抜いた瞬間――ぷしゅっ、と小さく音がした。閉じ込められていた気体が、ほんの一息だけ逃げる。泡は、瓶の中で生き物が働いている印だった。


 そして匂いが変わった。酸の刺し方とは違う、乾いた熱を鼻の奥に残す匂い。


 フローレが目を上げる。


「……アルコールの匂いがします」


 エルネスタが、言葉を確かめるように、ゆっくり言った。


「アルコール臭がする、ということは……アルコールは、揮発している?」


「はい。揮発します」

 ミレイユは頷き、今度は目が少しだけ鋭くなった。

「そして揮発するなら、蒸留で分けられる可能性が高いです。……やり直しましょう。今度は、発酵が始まった瓶で」


「お願い、今度こそ、ただの水で終わらないで」

 エルネスタが小さく笑い、フローレが肩を叩いた。


◇◇


 発酵が始まった瓶の中身は、同じ黒麹の仕込みのはずなのに見た目が少し違った。黒い粒は底に沈み、上澄みが透けている。泡が細かく残り、気泡がゆっくり上がる。生き物が何かを食べ、何かを出している印だ。


「生きていますね」

 エミリアが言うと、ミレイユは淡々と、しかし少しだけ嬉しそうにも聞こえる調子で返す。

「生きているなら、変わります。変わるなら、分けられるものが出てきます」


 滓は入れない。滓は焦げる。焦げは匂いを壊し、匂いが壊れれば判定が壊れる。エルネスタは上澄みだけをフラスコに移し、エルザが継ぎ目を丁寧に締め直し、フローレは鼻と舌で監督をする。


 火が入る。冷却管に霧が走り、最初の雫が落ちた。


 フローレがまず鼻で確かめる。彼女は首を傾げながら言った。


「酸っぱいにおいはないです。でも、最初は少し刺す感じがします。雑味、かな」


「最初は揮発しやすいものが先に出ますから」

 ミレイユが頷く。

「いま大事なのは、主役になる揮発成分がどうなるかですね」


 雫が落ちる速度が少し整い、刺す雑味が薄れて、代わりに乾いた香りが立ってくる。透明なのに、空気だけが変わる。酸ではない。甘でもない。けれど、確かに“酒”の気配がある。


 フローレが、今度は目を細めて、舌先で確かめてから、はっきり言った。


「……アルコールに近いです。さっきより、ずっと」


 エルネスタが息を吸う。胸の奥が、久しぶりに軽い。


「酸っぱさが、遠くなった気がします」


 ミレイユは優しく訂正する。

「酸は原液に残り、揮発する成分、アルコールが出てきているのです」


 エミリアは受け瓶に滴り落ちる透明の雫を見つめた。分離できない、と落胆した直後に、分離できる成分を含んだ瓶がたまたま机の端に残っていた。その瓶から蒸留された液体である。


 そのとき、扉が軽く叩かれた。


「よろしいかしら」


 柔らかな声。セリーヌ王女が侍女を一人連れて入ってきた。香をつけていない。こういう場に来るときに匂いで邪魔をしない。王女のそういうところは、研究会の人間を妙に安心させた。


「今、ちょうど……」

 エミリアが言いかけると、エルザが蒸留を受けた瓶を机の中央にそっと置き、セリーヌ王女に向かって静かに礼をした。


 セリーヌ王女は飲まない。フローレが瓶を手渡すと、セリーヌ王女は瓶の蓋をちょっとだけ持ち上げて、鼻先でほんの一息だけ香りを拾った。匂いは揮発分の情報で、蒸留酒の判定には十分だ。


 一瞬、目が細くなる。作った笑みが薄れ、真顔になった。


「これは……」


 研究室の音が消えた。


「遠国から献上されることがある“熟成酒”というものに、近いかもしれません」


 エルネスタの喉が、かすかに鳴った。熟成酒。輸入品。外交の場。高価で、珍しくて、味を語る場にしか出てこない種類の酒。その萌芽が、いまこの机の上にある。


 セリーヌ王女は瓶ではなく、皆の顔を見た。穏やかなまま、しっかりとした視線だった。


「可能性が出ましたわね。……これは、新しいお酒になるのでしょうか」


 エミリアは受け瓶の透明を見つめた。たった一滴で世界の輪郭が変わることがある。だから、その一滴を偶然で終わらせてはいけない。次にも、もういちど同じものが作れるかどうか。


 ――偶然で終わらせてはいけない。


◇◇

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