第24話 通信
王立大学校の研究棟は、一見するといつも通りのように見えた。今日は、その中にもうひとつ、新しい実験が混じっている。
机の上には黒い糸――いや、糸というより、細い線材が一本ある。植物繊維を束ねて焼き固め、濃い砂糖水を染み込ませては焼く。それを何度も繰り返して密度を上げ、最後に樹脂を薄く染み込ませて形にしたものだ。見た目は煤を撚った紐に近いが、指に持つとしなやかに曲がる。
両端には魔石と小さな筐体があり、筐体の正面には一本の針がついている。これはかつて魔力計測器と言われたもの。実際には魔素の量を計測しているとエミリアたちは考えている。
針は軽くて揺れやすい。魔素を送り込むと傾き、そして元へ戻ろうとする。
この針が示すのは魔素圧そのものではなく、魔素圧の「変化」だ。変化はやがて消えてしまい、針は何事もなかったように黙る。
最初の目標は、エミリアの実験室と隣の部屋――侍女のアニーとベラの控室まで。とりあえずここまで信号が通れば十分だと、エミリアは割り切っていた。
いきなり遠くへ伸ばすより、まずは読めるかどうかを確かめる。
◇◇
アニーが送る側に座り、ベラが受ける側に座る。エミリアは二人の間に立って、針と記録紙を見比べた。
エミリアが針先を指さすと、アニーが先に言った。
「このボタン、ちょんと押すと針がぷよん、ですよね」
ベラも頷く。
「短く入れたらそうなるはずです」
「じゃあ、少し長めに押せば――」
「ぷよーんと動きます」
二人の声が重なった。
「では、行きます」
アニーがボタンに指を置き、短く押す。
隣室の針が、ぷよん、と揺れた。
ベラの口元が緩みかけ、慌てて引き締まる。
「来ました。ちゃんと動いてます」
アニーが得意げに胸を張ると、エミリアは淡々と言った。
「この先、少しずつパターンを変えていくよ」
アニーが肩をすくめる。
「もう一回?」
「もう一回」
短く入れると、針はまたぷよんと揺れる。
少し続けて試しているうちに、アニーが調子に乗って押すのを繰り返し始めた。
「ほら、ほら」
ベラは針を追いながら、だんだん眉を寄せる。
「……今、いくつ?」
「いっぱい」
「いっぱい、では意味がありません」
エミリアは小さく息を吐き、記録紙を指で押さえた。
「針が動くことは分かりました。次は廊下まで引いて動きの組み合わせを色々試そう」
◇◇
「今日はこちら側の記録をお願いしますね」
「わかった、この針の触れを記録すればいいんですね」
男子学生、エディ君は今日の通信実験の補助だ。通信というのは、こちら側だけではなく相手も必要である。どうしても、こちら側とあちら側の二倍人員が必要なのだ。アニーとベラだけでは足りなくなる。エミリアが秘めている(と本人は思っている)長距離通信にいずれ参加できる人材を育てるつもりでもある。
線を廊下へ回すと、人が歩く振動や扉の開け閉めが響く。針はそれを拾う。針にも動きやすい速さがあり、揺れが戻り切らないうちに次が来れば、動きは重なってしまう。
控室で楽しかった連打は、廊下まで伸ばした線ではすぐに見分けにくくなった。
アニーが短い動作を続けて入れる。
針は、ぷよん、ぷよん――その次が弱く、遅れて揺れる。
ベラが目を細めて、針の戻りを追いかけた。
「……二つ? 三つ……?」
「三つよー」
アニーが言い返す。押した本人は三回押したつもりだ。けれど針は、三回目をきれいに見せてくれない。
エミリアは二人に声を掛ける。
「今ので分かった。針が振れ終わるまで待つ必要があるね。戻り切る前に次が来ると重なって読みにくいのよ」
そこへ、手帳を抱えたノエミ・ラグランジュが顔を出した。数学系女子は記録紙の線を指先でなぞりながら、軽く言う。
「こんにちは。先日の“ぷよんぷよん実験”だね」
「そうです。線を通して、ぷよんで意味を伝える実験です」
ベラが答えると、続けて困った顔になる。
「でも、何回も続けてぷよんぷよんさせると重なっちゃうんです……二回目、三回目が見えにくいです」
アニーが悔しそうに指を握る。
「ちゃんと二回入れたのに……」
エミリアは送る側の指先を見て、小さく頷いた。
「振り子時計と同じで、動くものには動きやすい速さがある。送る側は自由に押せるけど、受ける針のほうは限度があるため、ついていけない」
ノエミが「なるほど」と頷き、少し楽しそうに言う。
「じゃあ、押す速さを覚えてもらう必要があるね。“ぽん、ぽん、ぽん”の間隔を」
その横で、記録していた協力者のエディが、短く言う。
「……針の動く受信側でも変わってくるよ、軽い針と重い針で動きがかわるんじゃないかな、それを見越してタイミングを決めよう」
ノエミが振り返って、にやっとする。
「おっ、エディ君じゃないですか、一週間ぶり」
「おひさしぶりなのかな、ノエミさん」
この男子学生、エディ君とノエミは、世間一般で言うところの恋人扱いに近いだろうか。一説には、ノエミが高等学校の講師をしていたときに、エディが学生だったらしい、つまりは、ノエミのほうが若干年上の可能性が高い。
ちなみに王立大学校の学生が、高等学校などの臨時講師をする例は多い。エミリアでさえ、グレンウッド領の中等学校で魔法学の臨時講師をやることがある。
周りが、生暖かい目になった。
ベラは記録紙から目を上げ、二人を一度だけ見てから、何も言わずに視線を戻す。
ノエミは咳払いをして、話を戻した。
「それと、回数を数えるのをやめよう。短押しと長押しの二つにして、それを組み合わせる。回数が増えるとたくさん数えなきゃならなくなる」
アニーが思わず言う。
「いきなり回数を減らすのですか?」
ノエミは笑う。
「送る意味が増えると、五回押しとか十回押しになるよ。長押しと短押しの組み合わせにすれば、数える回数が減る。読み間違いも減る」
エミリアが頷いた。
「わかった。回数押しはやめる。二~三回打ちにして、長と短で組み合わせよう。短が“ぷよん”、長が“ぷよーん”」
ノエミがエディの肩に軽く触れて、囁くように言った。
「ね、エディもいいと思うでしょ」
エディが小さくため息をつく。
「……ええ、三回の長短のパターンは八種類になりますね、八回打つよりはよほどいいです」
また周りの目が生暖かくなる。
エミリアは淡々と針を指さして、話を前へ押した。
「八種を打ち分けられるなら、旗通信の主要の旗は表せるね」
◇◇
次は、この実験棟を越えて、隣の研究棟まで伸ばす。
渡り廊下を越え、別棟の小部屋。距離が増えれば、線はただの糸ではなくなる。途中で何本も継がなければ足りない。
――準備はもうできていた。
杖工房のアリアが先に、コーティング済みの炭素繊維束を納めてきていた。エルザは必要な長さに繋ぎ、継ぎ目に同じ塗りを薄く重ねて封をする。
「一晩置けば固まって、触ってもくっつかなくなります」
エルザが言うと、アニーがぱっと顔を上げた。
「一晩? 今日すぐにはできないのですか?」
エミリアが即答する。
「塗装が固まるのに一晩くらい待つのは仕方ないね」
翌朝、線は梁に沿って張られ、触れても黒い粉が指に付かない線になっていた。
◇◇
隣の研究棟に受信の魔素計測器が置かれる。
アニーが短く入れる。
針が、ひゅっと右へ触れて、すぐ左へ戻った。控室のときより動きは遅くて小さい。
次に、長く入れる。
針がひゅっと右へ触れ――右端で一瞬、止まるように見え――それから左へ戻った。
けれど、もう一つだけ厄介なことがあった。
“ぷよーん”を長くしすぎると、針が右端を維持できず、ボタンを押しているにも関わらずだんだん戻ってくる。。
ベラが小さく言った。
「……落ち始めました」
アニーが慌てて手を離す。
「え、長すぎた?」
エミリアが頷く。
「長すぎると、“ぷよーん”の途中で下がり始める。だから“ぷよーん”は、あまり長く続けられない」
エディが記録紙を押さえたまま、余白にさらっと書いた。
『長いほうは一息まで。長すぎると形が崩れる』
ノエミが覗き込む。
「一息って、誰の?」
「誰のでもいいんですよ、だいたいこんなもんだというタイミングが計れればいいんですから、なんならノエミの一呼吸にしとく?」
エディが小さく咳払いをする。
◇◇
ひと息ついたところで、ノエミが小さく呟いた。
「……本当は、沈黙も札にできるのに」
ベラが顔を上げる。
「沈黙も?」
ノエミは記録紙の端に小さな列を書き、指でとんとんと叩いた。説明し始めると長くなるので、独り言の形で済ませる。
「ぷよんが1、ぷよーんが11とした場合、その間に信号がない時間があるよね、1の時間だけじゃなくて、0の時間にも意味を載せられたら……同じ速さで、もっと言えるのに」
エディが即座に言った。
「言ってることはわかるけど、それは現実的じゃないよ」
ノエミがむっとする。
「言い方」
「今のままだと、沈黙の時の意味が結構たくさんあるんだ。信号の区切りか、届いてないのか、送信前なのか、それを沈黙で表してる」
エミリアが短く言う。
「今回はやめよう。沈黙には意味がありすぎる。送る側の約束としては、沈黙は区切りにする」
「……いい判断ね」
クラリスだった。いつの間に来たのか、廊下の足音がしない。クラリスは机の針を一瞥してから、静かに言った。
「前線からせわしなく来ていた合図が突然止まるってのは、まあ、だいたい送っていた場所が潰れたか、線が切られたか、送れる人間がいなくなったか、そういう時だろうしね」
ベラが真顔で返した。
「……胃が痛くなる沈黙ですね」
エミリアが頷いた。
◇◇
最後に、校内で「意味」が一つ通るところまで確かめることにした。
文字を一つずつ送るのではない。旗信号のように、最初から意味の塊を送る。
エディが机の上に紙を広げ、簡単な「意味の表」を書き始める。まずは少数の札だけに絞る。
――水不足
――医療要請
――集合
アニーがのぞき込む。
「三つだけ?」
エミリアが言う。
「とりあえず三つで十分。三つがいけたら増やそう」
隣の研究棟から送る。
短い“ぷよん”、長い“ぷよーん”。針が右へ触れて戻り、右端で一瞬止まったかどうかが見える。
エディが紙に書いた。
水不足
ベラが、少しほっとした顔になる。
「……意味になりました」
エミリアはその文字を見て、静かに頷いた。
「今日は、それで十分」
小さな成功だ。まだ大学校の中だけだし、遠くへは届かない。
それでも、意味は届いた。
片づけが始まり、空気が少し緩む。アニーが小声でぼやいた。
「控室が控室じゃなくなりました」
ベラが苦笑して、記録紙を重ねる。
「でも……通じました」
ノエミは手帳を閉じ、少しだけ満足そうに頷いた。
◇◇
……そこで終わるはずだったのに、エディが記録紙を見ながらぼそっと言った。
「……あの、呼び方、そろそろ短くしません?」
ベラが真顔で返す。
「ぷよんとぷよーんですね。確かに長いです。今は混乱しないほう優先でそのまま変えませんでした」
アニーが指を動かしながら言う。
「分かってる。分かってるけどさ、毎回『ぷよん』『ぷよーん』って言うの、だんだん恥ずかしくなってきた」
ノエミが笑う。
「じゃあ、手の動きで呼ぼう。短いほうは叩く。長いほうは押しっぱなし」
アニーが「それなら」と言って、操作子を指先で軽く叩いた。
トン、と小さな音がした。
「叩くのは――トン」
次に、指を置いて押し、そのまま少しだけ待つ。
「押しっぱなしは――ツー」
ベラが一拍置いて、言った。
「……いい感じです」
ノエミが小さく笑う。
エディが、記録紙の端に小さく書き足した。
『トン=叩く/ツー=押しっぱなし』
ノエミが肩越しに覗き込んで、嬉しそうに言う。
「えらい」
「仕事です」
「えらい」
エディは返事をしないふりをして、紙を押さえ直した。
周りの目が、また生暖かくなる。
◇◇
その横で、エミリアは何も言わずに引き出しを開けた。
出てきたのは研究棟の見取り図ではなく、領地の地図だった。街道と川と丘陵の線が細かく描かれている。
エミリアは地図を広げ、端を指で押さえ、ゆっくりと目を走らせる。
視線は大学校の敷地を越え、街道を辿り、橋を拾い、谷を避けていく。そして、砦の位置で止まった。
アニーが、恐る恐る言う。
「……また何か思いつきました?」
エミリアは地図から目を離さずに答えた。
「まだ“思いついてない”ので大丈夫」
ベラが真顔で返す。
「思いついてないのなら、何をやっているのですか?」
ノエミが小さく笑う。
「考え始めた時点で、もう半分できてる」
部屋の会話が、ふっと途切れた。
誰も口にはしない。けれど、何を考え始めたかは分かる。
エミリアは定規を置き、地図の上に指を滑らせた。
指先が止まるたびに、そこが「次の部屋」になる。
針はもう揺れていない。
それでも、部屋の空気だけが少しだけ張った。




