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第22話 水

野戦治療所の朝は、いつも慌ただしい。

 天幕を張る縄が鳴り、荷車の軋む音が重なり、火打ち石の乾いた音がどこかで弾ける。人が動けば土が舞い、土が舞えば水が汚れる。だから治療所の設営は、最初から少しだけ矛盾を抱えている。


 リザ様が到着したのは、霧がまだ地面に貼りついている時間だった。

 荷車が二台、後ろに人が十人ほど。治癒師や薬師や神官に混じって、道具箱を抱えた者や、鍋を運ぶ者がいる。治療のための人員にしては、妙に道具が多い。


 先に降りた若い治癒師が、周囲を見回してから言った。


「先生、ここでよろしいでしょうか。風は……」

「うん。ここなら悪くないね。ただ、火は風上じゃないほうがいい。煙が風下に流れるから」


 リザ様はそう言って、地面を少し歩き、指先で数か所を示した。


「天幕はここ。診察は入り口近く。洗浄は奥。……それから、かまどはここにしよう」

「治療所に、まずかまどですか?」

 若い治癒師が思わず苦笑いを浮かべる。


 リザ様は肩をすくめるように、でも真面目な声で返した。

「そう。湯がないと始まらないから」


 周りの者たちが動き出す。鍋が据えられ、薪が積まれ、石が並べられる。手慣れた動きだった。


 その様子を見ていた神官が、ぼそりと呟いた。

「治癒師の隊というより、炊事隊みたいですね」

「そう見える?」

 リザ様は振り返って、少しだけ口元を緩めた。

「でも、けが人が来てから水を作ろうとしたら間に合わないでしょう。だから先に作るの。患者が増えるとびっくりするくらい水を使うんだぞ」


 薬師が荷から小さな袋を取り出した。

「塩はここです。瓶は……二十本。栓は煮沸しています」

「お願い。あと、飲み水の桶と治療用の桶は分けてね。治療用は蓋をしておいて」


 桶を運んでいた下働きが、頷いて言った。

「蓋は陶器のほうで良いですか?」

「うん。陶器のほうが洗いやすいし、匂いも移りにくい。触る場所も決めておこう。持ち手だけ」


 ひとつひとつは、特別なことではない。

 でも、その「ひとつひとつ」が揃うと、現場の空気が少し落ち着く。何を先にやるべきかが、自然に見えてくるからだ。


◇◇


 設営が落ち着いた頃、エリザベスが奥の天幕に入ってきた。

 王立治療院の現場からはすでに身を引いている。今はグレンウッド領内の医療を整える立場で、前線に顔を出すのは「必要なときだけ」になった。それでも、こうして来てしまうのは、結局まだ現場から離れられないからなのだろう。


「先生」

 エリザベスが頭を下げる。


「エリザベス。久しぶり」

 リザ様は、年上の先輩としてというより、少し気安い調子で言った。

「こっちの水の扱い、見せてもらってもいい?」


 エリザベスは、蓋のある桶を軽く叩いた。乾いた音がして、リザ様が目を細める。


「良いね。蓋があるだけで、だいぶ違う」

「蓋をつけると、みんなが『面倒だ』と言います」

「そりゃ面倒だけど大事なんだよね」


 その言葉に、横で器具を拭いていた若い治癒師が顔を上げた。

 まだ現場経験が少なく、目の前の手順が「どこまで必須なのか」を測りたがる年頃だ。


「先生方、治癒魔法があるのに、そんなに洗浄に手間と時間をかける必要があるのでしょうか。……もちろん、泥は落としますが」


 リザ様がその視線を受け止める。叱るでもなく、遮るでもなく、問い返す。


「治癒魔法って、何をしていると思う?」

「……細胞を、治す?」

「うん。もう少し言うと、細胞の働きを元気にして、増えるのを早める。だから傷は閉じる」


 若い治癒師が頷く。

「では、閉じれば……」

「閉じると安心するよね。でも、閉じてはいけない時があるの」

 リザ様は桶の中の布を指で示した。

「傷の中に汚れや腐った組織、布の繊維、木片が残っていたら?」


「……中で膿む?」

「そう。膿む。熱が出る。広がる。ひどいと全身に回って、助からない」


 エリザベスが静かに続けた。

「戦場だと、患者が次々来ます。水も布も時間も足りない。だから『ほどほど』で閉じたくなる。

 でも、その『ほどほど』が翌日に返ってくるんです」


 若い治癒師の顔が、少し引き締まった。


「だから私は、はっきり言うようにしたの」

 リザ様は穏やかに言う。


「なるべくきれいに洗うこと」ではなくて、

「きれいに洗い終わるまで、閉じてはならない」とね。


◇◇


 蒸留器の受け瓶に透明な水が溜まり始めると、薬師が覗き込んで言った。


「蒸留は順調です。……先生、蒸留水にしても、やっぱり最後は塩を入れるんですよね?」

「うん。生理食塩水にする」

「真水じゃだめなんですか?」

 今度は神官が興味深そうに聞いた。


 リザ様は少し考えてから、できるだけ噛み砕いて話し始めた。

「真水はきれいだけど、細胞にとっては優しくない時があるの。洗った直後に、傷の縁が弱ることがある」


「弱る、というのは……」

「水分が引っ張られてしまったり、逆に膨らみすぎたりする。細かい仕組みは難しいけど、結果として“元気な細胞”が減る」


 エリザベスが補足する。

「治癒魔法は、細胞を活性化させて増やす魔法です。

 だから、細胞が元気なのが大前提、細胞が死んでしまうような環境なら、増えるはずがありません」


 薬師が、なるほど、と呟く。

「だから血液に近い塩分にするのですね」

「そう。先に細胞が死ににくい環境を整える。その上で治癒魔法を使えば、同じ魔法でも結果が変わる」


 若い治癒師が、ためらいがちに言った。

「つまり……魔法だけでは足りない、ということですか」

「足りない、というより、魔法は土台があって初めて効く、かな」

 リザ様は口調を和らげる。

「魔法のせいにしないで、治療の環境を整える。水は、そのための一つ」


◇◇


 瓶詰めが始まった。

 透明な液体が瓶に入っていく。塩が加えられ、軽く振って溶かし、栓をして、冷やす。

 その作業を眺めていると、エリザベスの胸に、少し懐かしい感覚が戻ってくる。


 自分がグレンウッドに来る前、リザ様の野戦チームのスタッフの一人だった頃。

 滴を数え、匙を量り、瓶の口に触れないように緊張し続けた夜がある。


 リザ様がこちらを見て、言った。

「懐かしい顔してる」

「……懐かしいです。あの頃は、私、ずっと水係でした」

「そうだったね。あなたは手がきれいだったから、瓶詰めを任せた」

「叱られもしました」

「したね」

 リザ様は悪びれず、でも少しだけ柔らかく笑う。

「忙しい手ほど汚い、って。あれ、今でも言ってる?」


「言います」

 エリザベスも笑ってしまう。

「私も言われたままです」


 神官が横から口を挟んだ。

「先生、エリザベスさんは先生の“弟子”なんですか?」


 リザ様が言う。

「弟子といえば弟子だね、でも現場では、先輩後輩みたいなもの。五歳しか違わないし」


 エリザベスが苦笑する。

「先輩の叱り方は、容赦がなかったですね」


「現場は容赦してくれないからね」

 リザ様はさらりと言って、すぐに言い添える。

「でも、あなたが引退してからは、私、言い方は丸くなったつもりなんだけど」


「つもり、ですね」

 エリザベスが即座に返す。

 リザ様が声を立てずに笑った。


◇◇


 昼前、ひと段落したところで、神官がぽつりと言った。

「先生、さっき、水の先があるみたいなことをおっしゃっていましたよね。……その先、とは」


 エリザベスは少しだけ目を細めた。

 この話は、もう隠すものではない。むしろ、笑って呆れる側に回れる。


 リザ様はあっけらかんと頷く。

「輸液のことね。もう知ってるでしょう、あなた」

「知ってます。先生、前に『やっちゃった』って手紙で書いてきたでしょう」

「書いた書いた。あれ、ちゃんと届いてたんだ」

「届いてますよ。封を開けた瞬間、嫌な予感しかしませんでした」


 薬師と神官が目を丸くする。

 若い治癒師は、何の話だ、という顔をしている。


 エリザベスが一息ついて、簡単に説明した。

「大量出血の人を助けるために、水を静脈に入れる研究です。血の代わりにはならないけど、時間を稼げるかもしれない」

「そうそう」

 リザ様が軽く相槌を打つ。

「他人の血を使う輸血は難しいの。失敗することも多かった。だから水でできることを探した」


 若い治癒師が恐る恐る聞いた。

「それは……実際に、効くのですか」

「“効く”って言い方が難しいね」

 リザ様は少し考えてから言う。

「血を作るわけじゃない。でも、倒れるまでの時間が少し伸びるなら、その間に体が血液を作ってくれるかもしれない。体力を維持できるかもしれない。そういう、体が対抗するまでの時間を稼ぐという意味」


 薬師が頷く。

「塩と糖だけでは足りない、と聞きました」

「うん。そこが長かった。血の中にはもっと小さな成分がある。微量で、でも重要」


 リザ様は、ここから先は少しだけ声を落とした。

 隠すためではない。話の重さを、余計な飾りなしで渡すためだ。


◇◇


「……最初はね、塩と糖だったの」


 リザ様はそう言って、少しだけ視線を外した。天幕の布の縫い目を見ているのか、もっと遠いどこかを見ているのか、判別がつかない。


「洗浄の話と同じで、真水のままじゃ体が持たない。だから塩分を加える。

 それで、少しでも長く持たせたいから糖も入れる。そこまでは、比較的早く辿り着いたの」


 薬師が頷く。

「なるほど……エネルギー源としての糖ですね」


「そう。でも、そこまでやっても、動物は長くは持たなかった」

 リザ様は淡々と言葉を継いだ。

「数時間は越えられても、一日が越えられない。

 うまくいった、と思った翌朝に、静かに動かなくなるの。急に暴れるわけじゃない。いきなり苦しむわけでもない。

 ただ……だめになる」


 若い治癒師が、息を呑む。

「それは……どこが、だめになるのですか」


「そこがね、最初は分からなかった」

 リザ様は少しだけ困ったように笑う。

「脈も、呼吸も、熱も、目立っておかしくないのに、持たない。

 それが乗り越えられない壁になった。血の中には、塩と糖だけじゃない莫大な“何か”があるって」


 エリザベスが小さく相槌を打った。

「微量成分ですね」


「そう。微量で、でも無いと困るもの」

 リザ様は頷く。

「でも私は治癒師だから、手は動く。目も効く。魔法も使える。

 でもそこまで微量なものは量れない。定量できない。

 ――それが、すごく悔しかった」


 薬師が、言葉を選びながら言う。

「錬金術師の領分、ですね……」


「うん。だから報告書を書いた。失敗も、途中までの成功も、全部」

 リザ様は指先で空中に紙束を作るような仕草をした。

「何を入れたか、どれだけ入れたか、どう反応したか。

 最後に、『微量成分が必要だと思われるが、定量できない』って、ちゃんと書いた」


 神官が、そっと尋ねた。

「それが……老錬金術師の目に留まった」


「そう」

 リザ様は、そこでやっと少しだけ顔を上げた。

「ほとんど引退していた重鎮の人。評議会にも顔を出さないって噂で、私も名前しか知らなかった」


 少し間が空く。

 天幕の外で湯が鳴り、誰かが瓶を置く音がした。


「ある日、封蝋がやたら固い手紙が届いたの。宛名は私」

 リザ様は、当時を思い出すように言う。

「紙が厚くて、字が細くて、インクが少し茶色い。急いで書いた感じがないのよ。

 それが、余計に怖かった。――中身が、重いだろうなって」


 エリザベスが小さく笑って、すぐ真顔に戻った。


 リザ様も少しだけ笑って、すぐに言葉を戻した。

「こう書いてあったの。


『拙い手技ながら、手元で計測をしてみました。

 当方の分析結果では、このようになるようです。

 この数値が、ご参考になれば幸いです』」


 同封されていたのは、半年を費やした定量分析の結果だった。

 血液に含まれる微量成分の一覧。比率。推定の誤差。

 どの測定にどれだけの自信があるかまで、淡々と注記が添えられている。


「最初ね、すぐには分からなかった」

 リザ様の声が、少しだけ掠れる。

「目が文字を追ってるのに、意味が胸に落ちてこないの。

 でも次の瞬間、息が詰まった。手が震えた。

 ――あった、って思ったの。道が」


 薬師が唇を噛む。

 若い治癒師は、身動きが止まっている。


「頼んだわけでもないのに、報告書を読んで、勝手に半年を費やして、こうして寄越してくれた」

 リザ様はゆっくり言った。

「私ね、机に手をついたまま崩れた。泣くつもりなんてなかったのに、涙が落ちた」


 しばらく、誰も口を挟めなかった。


「悔しさの涙でも、安堵だけでもない」

 リザ様は最後に、短く言った。

「――手が差し伸べられた、って理解させられた涙だったわ」


◇◇


 リザ様は軽く息をついて、いつもの調子に少し戻した。

「それで、配合を組み直して、動物実験を続けた。危険な兆候も、だいぶ整理できた」


 神官が慎重に聞いた。

「それで……先生ご自身でも?」

「うん。数ccは自分に注射してみた」


 エリザベスが、あからさまに嫌な顔をした。

「出た。そういう話」


「だって、確かめたかったんだもの」

 リザ様は悪びれずに言う。

「それでね、次に何をしたかは……あなた、もう知ってるんだよね?」


「知ってます」

 エリザベスは即答した。

「先生が手紙に書いてきたんです。『夜に一人でやってみた』って」


 薬師と神官が同時に固まった。

 若い治癒師は完全に置いていかれている。


 リザ様は肩をすくめる。

「弟子がいたら止められるでしょう? だから一人でやったの。体重の三%。私の体重なら千五百cc。二時間かけて入れた」


 エリザベスは額に手を当てた。

「……本当に、先生はそういうところが」


「大丈夫だったよ。ちょっとふらついたくらい」

 リザ様はあっけらかんと続ける。

「あ、あとね、輸液が済んでからしばらくして、トイレが近くなって困ったね」


 薬師が吹き出しかけて咳払いで誤魔化した。

 神官は呆れと安堵の混ざった顔で天井を見上げる。


 エリザベスは呆れた顔のまま、でも声が少しだけ柔らかくなる。

「困った、じゃありません。生きてるから困ったんです。……先生、本当に」

「うんうん。生きてた」

 リザ様は頷いて、急に真面目な顔になる。

「だからね。もう私一人で無茶はしない。

 誰が観察するか。速度はどうするか。どこで中止するか。

 それを決めて、皆でやる」


 エリザベスが息を吐いて、頷いた。

「それなら、納得します。……先生が一人でやるより、ずっと」


◇◇


 天幕の外で湯が鳴り、蒸留器の滴が落ち続けている。

 蓋が閉じられ、瓶が冷やされ、置き場所に並べられていく。


 水は、誰もが当たり前に使う。

 でも、当たり前に使うものほど、守らないと簡単に崩れていく。


 リザ様が連れてきたのは、刃物を振るう人だけではなかった。

 水を作り、水を変え、水を保つ人たちだった。


「じゃあ、今日も始めようか」

 リザ様が言い、皆がそれぞれの持ち場へ散っていく。

 外の空気は冷たい。けれど天幕の中には、湯気の温かさがある。


 その温かさの中心にあるのは、水だった。

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