第21話 炭素繊維
1.前戦闘の余韻
ノルディカ軍が引き始め、防衛戦はほぼ終了した。
あれほどに熱を持っていた石壁は冷え、風は淡々と流れ、歩哨の槍先だけがときどきかすかに鳴る。兵は勝った顔をしているのに目の奥はどこか乾いていて、勝利の熱より先に「次も来る」という意識がまだ残っていた。
魔砲は威力を発揮した。鉄の砲の中に魔石を入れて、魔素転換点を越えさせ、熱を放出する。原理は単純で、その単純さが強さになった。ただ、人や魔獣が行使する魔法と違って、機械で魔法を行使するという仕組みは、ほぼ過去に類のないものと言える。
――強い。けれど、運用は簡単ではない。
装填、遮熱、合図、撤収。勝てたのは確かだが、手順の一つでも崩れれば味方が危ない。エミリアは勝ち方は否定しない。否定しないけれど、運用作業の煩雑さが気になる。次も同じやり方しかないのか、という反省だ。
だから、魔砲の撤収が終わり次第、エミリアは再び実験室にこもることになる。
◇◇
2.研究室の状況と炭素繊維
王立大学校の研究棟は、いつも通りごちゃごちゃしていた。
廊下の隅に箱が増え、誰かが途中で諦めた実験器具が置かれ、瓶のラベルは剥がれかけている。置いた本人でも「これ何だっけ」と言いそうなものが、そのまま床や棚に残っている。
エミリアは自分の机の引き出しを開けて、上の段、下の段、奥の段と順番に探した。
「……あるはずなんだけどな」
背後から声がかかった。
「探し物?」
クラリスが腕を組んで立っている。半分呆れた顔をしているのに、目は机の上をしっかり見ている。
「黒い棒です」
「黒い棒はこの研究棟に多すぎる」
「多すぎるのが悪いんです」
「あなたが製造したものでしょ」
「それはそうです」
エミリアが引っ張り出したのは、鉛筆くらいの太さの黒い棒だった。端面はつるりとしているのに、触ると微妙に違う手触りが混ざっている。硬いもの、しなやかなもの、少し軽いもの。
「……あった」
杖や魔砲、魔素圧縮器の“通路”として使っている炭素繊維の棒だ。砂糖研究会が持ち込んだものは甘味だけではなかった。保存の工夫、包材、封緘、運用のやり方。そういう「地味だが効く工夫」が研究棟の空気に溶け込み、その延長に炭素繊維もあった。
そもそものきっかけだって炭素繊維だった。焼結炉で炭素繊維を焼いていた日に、まだ火が残っているのがもったいなくて、ついでにケーキを焼いた。そこから砂糖研究会が始まり、同じ頃から炭素繊維を魔力通路として使えるかどうか、試作と失敗の実験も途切れず続いている。
机の端には、棒より細い線材も束ねて置かれていた。クラリスの視線がそこに止まる。
「……細いのもあるんだ」
「あります。今日はそっちも使います」
「嫌な予感しかしない」
そこへ、ひょいと顔が覗いた。
「なにかおもしろいこと始めたの?」
ヘレーネだ。工学系で、形にするのが早い。早いが腕はよく、まず手を動かしてから調整して仕上げるタイプだ。
さらに、その後ろからゆっくり入ってくる影がある。
「線を使うなら、距離で効き方が変わるかが大事だよね」
ノエミ・ラグランジュ――ノエミさんだ。数学系女子として紹介されているが、本人は平然と物理の話に足を突っ込んでくる。突っ込むたびに、話が妙に整理される。
クラリスが小さく笑う。
「研究会、勢ぞろいしてきたわね」
◇◇
3.炭素導線
扉が軽く叩かれた。
「失礼。……お、揃ってるね」
入ってきたのはセドリック教授だった。四十五歳くらい。声も歩き方も落ち着いている。落ち着いているのに近寄りがたい感じはなく、研究室の空気にそのまま馴染む。
セドリックは机の上の黒い棒を見て、ふっと息を吐いた。
「この研究室って、だいたい黒い物が多いよね」
クラリスが即答する。
「先生が増やしたんじゃないですか」
「うん、否定しない」
セドリックは笑いそうな声で言ってから、エミリアを見る。
「この間お願いしたように、炭素繊維の棒を使わせてもらってるよ」
「どうでした?」
「正直に言うと、面白い」
セドリックは棒を指先で軽く転がし、話をつないだ。
「私の研究は、人によって魔力が違う中で、杖の魔力通路をどのくらい太くするか、どのくらいの長さにするか、それから通路になる材質をどう選ぶか、なんだ。乱暴に言えば、杖って“個人専用の配管”だからね」
クラリスが肩をすくめる。
「だから私の杖は、脇にぺったり当てるやつ」
「そう、君は魔力が大きすぎる。細い通路にすると局所過熱で火傷する。だから接触面積を稼いで、太い経路で逃がす。そのための仕組みだよ」
セドリックは机の端の細い線材にも目を向けた。
「それでね。純粋な魔石の通路は、素材としては抵抗が小さい。でも、魔石を削って細くして、つなぎ合わせて長くしようとすると、魔石は小さいから継ぎ目が増える。継ぎ目が増えれば、そこで抵抗が増える。素材が良くても、継ぎ目で性能が落ちる」
ヘレーネが頷く。
「継ぎ目の多い配管とか、通りにくそうですよね」
「そう、それ。炭素繊維は一本でかなり長く作れるから、継ぎ目が少ない。素材の抵抗が少し大きくても、全体では小さくなる可能性がある」
ノエミさんがさらっと言う。
「継ぎ目は局所の損失が積算されるから、長くなるほど効いてくるね」
「そういうこと。だから、論文になるなら――」
セドリックはエミリアを見て、軽く手を上げる。
「共同研究者扱いにするつもりだよ。材料の提供も、発想の出どころも君だから」
クラリスがからかう。
「エミリア、教授と共著。急に偉そうになったわね」
「偉くはないです。忙しくなるだけです」
セドリックは軽く頷いて、記録紙を指で叩いた。
「で、今日は何を見たい?」
◇◇
4.魔素
エミリアは棒ではなく、細い線材の束をそっと持ち上げた。
「太い経路は流すのが得意です。でも、今日は“流さない仕組み”を作りたいのです。杖にも、スイッチをスライドして接続する・しないを切り替えるものがありますよね。あれを、手で動かさずにやりたい」
クラリスが頷く。
「あれね。戦場だと手が塞がるのが面倒で……結局、繋ぎっぱなしにしがち。出すか出さないかは、自分の感覚で間に合うから」
「そう。だから切り替えを、手じゃなくて……魔力でやる」
ヘレーネが目を細める。
「魔力で切り替え……自動化の匂いがする」
エミリアは頷いたところで、机の端のくすんだ紙束に手を伸ばし、少しだけ言いにくそうに笑った。
「その前に、先生に見せたいものがあります。古い文献の整理で出てきました。……怪しいです」
クラリスが即座に言う。
「怪しいって自分で言った」
セドリックは紙束を受け取り、さらっと目を走らせた。
「うん、怪しいね」
「ですよね。でも、ここに“魔素”って言葉が出てきます。魔力とは別に、流れの元になるものがある、って」
セドリックは紙束の端を揃えながら、少しだけ真面目な声になる。
「……今の魔法学は、きれいな式にならない部分がある。魔力だけで無理にまとめると、どうしても数式が破綻する。もし新しい性質を別に定義できるなら、数式が成立する可能性はあるね」
クラリスが口元を押さえる。
「先生、ちょっとワクワクしてません?」
「してないと言うと嘘になる。ただ、今すぐ研究する時間はない」
セドリックは紙束を机の端に置いた。
「私は今、魔力通路の太さや材質を整理して、魔砲の杖などの制作基準を作る仕事をやってて、軍も大学も待ってくれない」
エミリアも頷く。
「私も、魔素そのものの研究にすぐには潜れません。もう“ある”前提で、通信線や武器の開発を始めちゃってるので」
セドリックは軽く手を上げる。
「なら当面は“仮の呼び名”として置いておこう。“魔素”は現象を整理する言葉として使う。ただし、まだ確定でないことだけは頭に留めておいてくれ」
◇◇
5.”場”という概念
エミリアは細い線材を指で示した。
「この細い線、単体だと詰まって流れが安定しません。でも、すぐ近くで魔力を出すと、急に素直になります。距離は数ミリ単位です」
セドリックは黒板に細い線を一本引き、その横に薄い帯を添えた。
「距離で効きが変わるなら、“場”として扱うのが妥当だね。魔力場、って呼ぼう。近いほど強くて、離れるほど弱い――そういう性質をまとめる言葉だ」
「場……」
エミリアがその言葉を口の中で転がすと、ノエミさんがさらっと補足する。
「距離で減るって言えるなら、測定計画も組みやすいね。まずは距離の刻みと、再現性」
ヘレーネが頷く。
「刻んで試すのは得意。治具作るよ」
クラリスが笑う。
「研究会って、便利ですね」
セドリックが肩をすくめる。
「便利だね。……よし、今日は針を動かそう」
◇◇
6.実演:Aが増える/でも半日で散る
机の上に、二つの魔石が並べられた。エミリアが指で軽く叩いて、順番に言う。
「こっちがA、こっちがBです。細い線で繋ぎます」
鉛筆の太さの棒ではなく、今日は細い線材だ。BからAへ、短い距離のはずなのに、見た目だけで「通りにくそう」が分かる。
セドリックが記録紙を開いた。
「測るのは?」
「Aです。Aの魔素がどれだけ増えたか――増え方で、線の抵抗を見ます」
「到着した量で判断するわけだね。流れそのものが見えないなら、そのほうがきれいだ」
ヘレーネが覗き込みながら言う。
「Aが“受け皿”で、Bが“元”ってこと?」
「そうです。じゃあ、まず条件を一個だけにします」
エミリアはAに指先を添えた。
「A魔石だけに魔力をかけます」
ふっと、弱い魔力が立つ。Aの表面だけ空気が少し変わる――そんな感触があるのに、目盛りの針はほとんど動かない。動いても、触れる程度で止まる。
クラリスが眉を上げる。
「……あんまり増えない」
「はい。Aの中は“引き寄せる側”になっても、細い線の中はそのままなんです」
ノエミさんが短く言う。
「ボトルネックが残ってる」
エミリアが頷いた。
「狭いところほど魔素同士が近づいて、斥力で押し合います。だからBからAへ移れない。Aだけ整えても、入口が渋いまま」
ヘレーネが線材を覗き込む。
「じゃあ、“入口”のほうを変える?」
「はい。次が本題です」
エミリアは一度指を離し、クラリスを見る。
「A魔石と、細い線のところにも魔力をかけます。クラリスさん、お願いします。線のすぐ横、数ミリで」
「数ミリ……はいはい」
クラリスは笑いながらも、手つきは慎重だった。線の横に指先を寄せ、魔力をそっと当てる。
途端に、針がすっと動いた。今度は止まらない。じわ、と上がっていく。
ヘレーネが思わず声を出す。
「うわ、増えた!」
ノエミさんも目を細めた。
「増え方が違う。はっきり」
クラリスが少しだけ指先を離すと、針の上がり方が鈍る。もう一度近づけると、また素直に上がる。
「……切り替わってる。線の横を当てるだけで、増え方が変わるのね」
エミリアは息を吸ってから、言葉をつなげた。
「細いところでは斥力が勝って、抵抗が大きい。でも線の近くで魔力をかけると、魔素が引力寄りになって、高密度でもまとまれる。だから狭い線でも通れて、Aが増える――という動きになります」
セドリックが軽く頷く。
「“受け皿(A)”じゃなくて、“狭いところ(線)”に手を入れるほうが効く。いい実演だね」
ヘレーネが針を見ながら、ふと素朴に言った。
「じゃあA、これで満タンにしとけばいいんだ?」
エミリアは首を横に振った。
「一時的には溜められます。でも、溜めっぱなしにはできません」
「減るの?」
クラリスが聞くと、エミリアは頷く。
「半日も経つと、勝手に散っていきます。周りの物と同じくらいまで、自然に均される感じです」
セドリックが記録紙に短く追記して、指で軽く叩いた。
「“蓄え”はできるが、“保持”は別問題。期限がある、ってことだ。運用の手順も、そこから生まれる」
◇◇
7.距離を混ぜない:近接距離と伝送距離
エミリアが細い線を見下ろしたまま言った。
「炭素繊維を隣の部屋まで伸ばして、合図として使えるかも見ておきたいですね。隣なら今ある線をつなげば足りますし、危なくないです」
「“比較的”ね」
クラリスが即座に突っ込む。
「比較的、です」
ヘレーネが当たり前みたいな顔で言った。
「隣の部屋なら行けますね。線があるなら引けばいいだけだから」
セドリックは軽く釘を刺した。
「ああ、ちょっとごちゃごちゃしそうだから、ここから先は“距離”の定義をはっきりさせておくよ」
ヘレーネが顔を上げる。
「距離の定義?」
「今までやってたのは、魔力を当てる“近さ”だ。細い線に対して、どのくらい近いと効いて、どのくらい離れると効かなくなるか。これは切換器としての距離で、数ミリからせいぜい指一本分くらいの話になる」
ノエミさんがさらっと補足する。
「こっちは“近接距離”。場の効き方の距離だね」
クラリスが笑う。
「じゃあ、隣の部屋まで伸ばすのは?」
「それは別。線を伸ばして合図を送れるか、という“伝送距離”の話だ。今日は隣で止める。遠くへ伸ばす話は今後の課題にしよう」
セドリックは軽く手を上げた。
「よし。じゃあ、隣まで届くかどうかだけ確認しよう」
◇◇
8.呼び鈴の代わり:隣室連絡実験
ヘレーネは床に転がっていた巻き線を引っ張り出し、床際に這わせながら言った。
「貴族の家の呼び鈴ってあるでしょう。紐を引くとチーンって鳴って、執事が来るやつ。あれ、機能としては“合図を送る”だけだから、音が鳴らなくても成立するの」
クラリスが肩をすくめる。
「あなた、呼び鈴を機能で語るのね」
「設計が単純で美しいから」
「美しいで済ませるの?」
「済ませる」
隣の小部屋――アニーとベラが常駐している控室へ、線が伸びた。扉の向こうからアニーの声が返る。
「準備できましたー」
ベラの声も重なる。
「針、見えてます。いつでもどうぞ」
ノエミさんが指で机を軽く叩いた。
「合図のパターンは単純でいいよ。上げる、戻る、上げる。まずはそれで“届く”を確認しよう」
「はい」
エミリアは頷いて、クラリスを見る。
「クラリスさん、お願いします。近接距離のほうは今だけ固定で」
「了解。私は“当てる係”ね」
クラリスは細い線のすぐ横に指先を置いて、魔力をそっとかけた。さっき“渋かった”針が、これだけで素直になる。
「動きました。じゃあ合図いきます」
エミリアは弁の位置で、寄せる・離すをゆっくり繰り返した。
針が上がる。戻る。もう一度上がる。
廊下の向こうから、ヘレーネの声が弾んで飛んできた。
「動いた! ちゃんと動いてる!」
クラリスが笑う。
「ヘレーネ、あなたが一番はしゃいでない?」
「はしゃいでない。動作確認が取れたから嬉しいだけ」
「それを、はしゃいでるって言うの」
隣室の扉が少し開き、アニーが首を傾げた。
「今、呼びました?」
ベラも覗き込んで、少し笑う。
「針、ぴくって動きました。紐で呼び鈴を鳴らすみたいですね。音は無いのに、ちゃんと届く感じがします」
エミリアは笑いそうになるのをこらえて頷いた。
「届きましたね」
セドリックが記録紙に線を引きながら、口元だけ少し緩めた。
「届いた。今日はそれで十分だ」
◇◇
9.あっ
セドリックは記録紙を閉じてから、軽く言った。
「よし。今日はそこまでにしよう」
クラリスがすぐ突っ込む。
「先生、エミリアが止まれると思ってないでしょ」
「止まれる。……と信じたいな」
エミリアは床に這う黒い線を見た。隣の部屋までの距離は短い。短いのに、その短さが現実味を増す。
隣で届くなら、廊下もいける。廊下がいけるなら、階段もいける。階段がいけるなら、玄関も――外も。
「……あっ」
思わず声が漏れた。
クラリスがにやりとする。
「次、外まで引く気でしょ」
「今日は引きませんよ」
エミリアは即答してから、自分でも笑ってしまい、笑いながら少しだけ真面目になる。
「……でも、引ける気はしますね」
ノエミさんが静かに言う。
「気がする、の段階で止められるようになったのが、エミリアの成長だね」
セドリックは苦笑して、記録紙を軽く叩いた。
「その“あっ”は次の回に回しなさい。今日は隣までで十分だ。隣で届いた、というだけでも収穫は大きい」
エミリアは素直に頷いた。頷きながらも、胸の奥の灯りは消えていなかった。隣まで届いた、その事実だけで、線はもう“魔法の杖の材料”だけではなくなっている。
そして、その先は――。
研究室の針は止まったのに、線の先が――まだ伸びていく気がした。




