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第20話 侵攻

 山は、国境そのものみたいに見えた。


 グレンウッド砦の上の見張り台は、冬の風をまともに受ける。頬が痛くなる冷たさの中で、兵が肩をすくめながら望遠鏡を覗いていた。


「……こういう日は、煙がよく見えるな」


 隣の兵が、半ば独り言みたいに言う。


「向こう側、静か……って言いたいけど、静かじゃない」


「増えてる?」


「うん。炊いてる数が多い。あと、森の縁が黒い」


 靴音が近づいた。石壁の上を歩いてきたのは、砦の古参の下士官だった。顔に刻まれた皺が、山の風の年数を語っている。


「黒いってのは、木じゃない。人だな」


 下士官はそう言って、兵の背後からちらりと外を見た。


「ここ、普段は行商人がたまに通るくらいですよね」


「そうだ。だから、こういう増え方は“普段”じゃない」


 下士官は、山の稜線を指でなぞるように目で追った。


「国境は山だ。越える道はいくつかあるが、よく使われる通行ルートは限られてる。その中でも一番通りやすいのが、この谷の道だ。……グレンウッド砦を通る」


 兵が頷く。


「谷を塞ぐ形で門があって、左右の斜面に壁を伸ばしてるやつですね」


「そう。越えるなら、ほぼここを通る形になる。……平時は、監視と連絡の場所だ。戦いの場所じゃない、はずだったんだがな」


 その「はずだった」を、風がさらっていく。


「上の監視台はどうです?」


 兵が聞くと、下士官は少しだけ口を結んだ。


「峠のいちばん高いところにある見張りの塔か。あそこは“砦”じゃない。遠くを見るための場所だ。守る設備は少ない」


「向こう側にも似た塔があるんですよね」


「数百メートル離れた位置にな。互いに見張り合ってる。冬の澄んだ日なら、煙の色で炊事まで分かる。……平時はそれで足りた」


 兵が、望遠鏡の向こうに何かを探して息を吐いた。


「……平時、でしたね」


◇◇


 その「平時」が終わったのは、監視台の監視員が転げ込んできたときだった。


 砦の門の前。雪を踏みしめた足跡が乱れ、門番の槍先が少しだけ上がる。誰かが、倒れ込むように入ってくる。


 監視員だった。顔は煤と泥で汚れ、息は掠れている。肩が上下し、言葉が喉に引っかかって出てこない。


「……上が……」


 門番が腕を掴む。


「落ち着け。水だ。――何が起こってる?」


 監視員は首を振って、やっと言葉を絞り出した。


「……監視台が……取られました……」


 周囲の空気が、すっと冷えた。冬の冷えではなく、別の冷えだった。


「敵の数は?」


「……数え切れません。向こうで……集結しているみたいで……」


 その一言で、砦の中の誰もが同じことを思った。


 散発の襲撃、という感じではない。

 まとまった“軍”が、このまま降りてきそうだということ。


◇◇


 伝令が走る。石壁の上へ。中庭へ。詰所へ。


 砦の中庭では、すでに準備が進んでいた。荷車が寄せられ、矢束が運ばれ、水桶が増やされている。慌てた声は少ない。前から決めていた行動である。


 そこへ、アーサーが出てくる。鎧の紐を締めながら周囲を一度見回し、声を荒げずに言った。


「監視台が取られた、だな」


 伝令が頷く。


「はい。敵が多い、と。向こうで集結しているように見えた、と」


 アーサーは、それを初めて聞いた話のようには受け取らなかった。予想していたものが、いよいよ現実になった――そんな顔だった。


「向こう側に集まってるって話は前から来てた。煙も、踏み跡も、夜火もな。……だから、こっちも、ほぼ集結済みだ」


 副官が続ける。


「領軍は合計五千。配置も、だいたい予定通りです」


 近くにいた若い兵が、思わず聞き返した。


「五千……全部、ここに集まるんですか?」


 副官は首を振る。


「山は道が一本じゃない。砦だけに人を集めても、意味が薄い。小さな峠や、尾根筋の抜け道……そういうところを使われる可能性もある」


 そこへ別の伝令が割り込む。


「アラン隊から。――二千、各峠の封鎖に入ってます。問題なし」


 アーサーが頷いた。


「よし。アラン爺さんが抜け道は潰してくれる」


 副官が、若い兵にも分かるように、もう少し柔らかく言い直す。


「砦の守りに兵を集めきるのではなく、周囲の峠も含めて配置することになっている。残りは、主にここ、グレンウッド砦まわりの防衛に充てられる」


 若い兵は、まだ口を開けたまま、次の疑問を飲み込めずにいた。


「……砦のほうは、どうやって守るんです?」


「主力は二千四百。アーサー様の一軍だ」


 副官は、砦のほうへ顎を向けた。


「一軍のうちの第1大隊一千が、アーサー様直率で砦に入る。石壁と門と矢狭間――つまり砦そのものを握る役目だ。砦は強固だが、中は広くない。この規模の大隊を収めるのが、だいたい限度になる」


 それを聞いて、若い兵が眉を上げる。


「じゃあ……通られたら……」


 副官が頷く。


「第2大隊一千は、ヴァンデル指揮で砦のアヴァロン側――盆地のほうに配置した。砦を抜けた敵が出ても、そこで止めるためだ。砦の外に出た敵を、そのまま通すことはない」


 若い兵が、ようやく息を吐いた。


「……二段、なんですね」


「そうだ。砦だけじゃなくて漏れた分は二段目で倒す。最悪、砦が破られても、二段目で持ちこたえる」


 副官は、最後に一度だけ声を落とした。


「もちろん、破られないのが一番だがね」


 そのとき、門のほうが少し騒がしくなった。蹄の音が石畳に弾け、息の白い一団が中庭へ滑り込んでくる。


 十騎の騎馬。先頭の女が手綱を引き、馬を落ち着かせた。


「クラリス騎馬魔法士隊、到着。……遅れた?」


 アーサーが一歩前へ出る。


「来てくれて助かる。間に合った」


 その横で、別の馬から降りた軍装の女が、周囲をひと目で見渡した。鎧は軽いのに、視線だけが妙に鋭い。


「軍監のエステルです。状況を確認しに来ました」


 副官が短く答える。


「敵が山側で集結しているらしい、という報告が入りました。こちらは配置済みです。砦前に押し出してくるなら、砦で受けます」


 クラリスが外の稜線をちらりと見て、肩をすくめた。


「……じゃあ、相手が固まってくれるまで待つのが、こっちとしては楽だね」


 エステルは、その言い方に小さく釘を刺すように返す。


「楽、ではないです。固まると危険になります。普通の戦術論なら敵は少ない単位にバラけさせたほうが優位になります」


 アーサーは頷いて、短くまとめた。


「その“崩しどころ”が来たら、こちらの切り札も使う」


 誰も、その切り札の置き場所を口にしない。砲座は砲座で、もう動いているはずだった。


◇◇


 そのころ、砦の外れでは、別の準備が進んでいた。


 土嚢と杭と縄。その中に、太い筒が据えられている。架台は急造だが、固定は慎重に組まれている。揺れれば、撃つ側が危ない。


 エミリアは、その前にいた。


 砦の上の会話は聞こえない。砲座は音と危険の場所で、余計な人間を寄せないようにしてある。だから、クラリスもエステルも――来ているとしても――ここへすぐ来られない。撃つ間は、誰も触れないほうがいい。そういう場所だ。


 エミリアは外套の襟を締め、手袋の指を鳴らし、砲身に手を置いた。砲身は冷たい。石みたいに冷たい。けれど、内部はすでに“吐き出す準備”ができている。


 敵の角笛が遠くから響いてきた。


 盾が重なる。槍が揃う。足並みが揃う。

 向こう側で、人の塊が押し出されてくる。


 突撃が、形として迫ってきた。


 大軍がものすごい規模で砦に迫ってくる。砦でも必死に弓や投石などで対応するが、黒い人の奔流には抗えない。少しずつ少しずつ押されていき、砦の前は敵の濁流になり、分厚い木製の扉の破壊工作が始まった。


 撃てるなら撃つしかない。

 撃たなければ、砦が仕事をしきれない。


 一発目。


 山が鳴った。空気が裂けた。砦の石壁が一瞬だけ震えた。

 砲口から吐き出された熱と衝撃が、敵の先頭を押し曲げる。盾が跳び、人が倒れ、列が乱れる。


 けれど、当たった場所は、まだ人が薄かった。崩れたのは一部で、それほどの人数は倒せていない。その僅かにできた空白は、後ろがすぐに埋めてくる。乱れた波が、数の厚みでまた元に戻ってくる。


 砦の上で、初めてそれを見た兵たちが、声を飲む。


「……いまの……何だ」


 誰かが呟く。


 エステルは、砦の上にいた。視線を逸らさず、落ち着いた声で言う。


「一発では止まらないのですね。今度が本番になりそうですね」


 クラリスは、眉だけをわずかに動かした。


「……噂は聞いてたけど。実物は、初めてね」


◇◇


 敵は詰めた。峠道の狭さが人数を押し込め、勝手に“固まり”を作っていく。盾の壁がもう一段増え、槍の森が濃くなる。前へ出る者が増えるほど、逃げ道は減る。


 その固まりは、砦を押し潰すための形だ。


 エミリアは砲身の角度をわずかに変えた。狙いは、あの塊の芯だ。逃げ道のない真ん中。列が列として一番“重い”場所。


 二発目。


 音が一段深かった。山の腹のほうで破裂したみたいな衝撃が走り、砦の石が今度は“鳴った”。

 熱と圧が、固まりの中心へ突き刺さる。


 黒い煙が立つ。

 悲鳴は遅れて来た。声になる前に、声を出す人が消える。


 そこにあったはずの“列”が戻らない。地面に黒い痕だけが残り、盾も槍も、人も、ぽっかり抜けたみたいに消えていた。


 砦の上で、角笛の音が乱れたのが分かった。旗も揺れる。

 足並みが、初めて崩れた。


 敵は引き始めた。


 戦力が大きく欠ければ、攻める側は引くしかない。引いて、いったん立て直さないと、残りまで削られかねない。そういう判断に見えた。


 砦前から空間が開いていく。

 ただ、それは“終わり”というより、“立て直しのための引き”に近かった。


◇◇


 そこへ、クラリスが動いた。


 側門の前で馬の首を叩き、短く言う。


「立て直させたら、また来る。いまが削るときよ!!」


 止める間もなく、十騎が飛び出していった。


 撤退しながら立て直そうとする敵の側面へ食い込む。

 火炎が十メートルほど伸びて、横へ薙ぐ。


 薙ぎ払い。


 引き始めた部隊は、どうしても防御が薄い。盾も槍も向きが揃いづらい。そこを横から焼かれると、列はまた崩れる。崩れれば、立て直しに時間がかかる。時間がかかれば、撤退は苦しくなる。


 ただ、そのやり方は危ない。


 十メートルまで近づかなければ届かない。矢も槍も、届く距離で戦うことになる。


 ――危ないと分かっていて、なお踏み込む。


 クラリスは、昔それで一度、取り返しのつかない失敗をしている。攻撃の判断を誤り、部下でもある親友を死なせた。

 それ以来、彼女の中では「自分だけ助かる」という形が、どこかで許されなくなった。だから、いつも一歩だけ前へ出る。前へ出れば、誰かが死ぬ確率は下がる。代わりに、自分が死ぬ確率が上がる。


 それは一見すると勇敢に見える。だから軍の中では評判がいい。

 ——命を顧みずに突っ込んで、敵の形を壊して帰ってくる天才。あるいは英雄。そういうふうに語られる。


 けれど、砲座からその背中を見ているエミリアには、まったく別のものに見えた。


 矢が飛ぶ距離。槍が届く距離。

 その中へ、わざわざ馬で入り込んでいく。


 ——何やってるの。


 胸の奥が熱くなって、息が詰まった。怖い、では済まない。怒りが先に来た。


「バカか、おまえは!!」


 叫んだ声は風に千切れて、砲座の外へ流れていく。届くはずがないのに、喉だけが痛くなった。


 砲はもう撃てない。敵が散っている。撃てば味方を巻き込みかねない。

 クラリスを止めたいのに、手が出ない。助けたいのに、届かない。


 それが、エミリアの中で一気に爆ぜた。


「死にに行ってどうする! 生きて戻れ!!」


 砲身の冷たさが、手袋越しでも分かった。冷たいのに、胸だけが焼けるみたいに熱い。


 あの人がもし倒れたら。

 もし馬が崩れたら。

 もし——ほんの一瞬、足を取られたら。


 そういう“もし”が、当たり前にあり得る距離で戦っている。


 それを周りは喝采して、誉めて、英雄にしてしまう。

 そのことまで含めて、エミリアは腹が立った。


 砦の上でも同じだった。誰かが、息を飲んだまま言う。


「……やっぱり、あの人は……」


「英雄だよ。あれで戻ってくるんだから」


 その声が、余計に刺さる。


◇◇


 アーサーの顔色が変わった。


「……単独はまずいな」


 彼は叫ばず、すぐに言う。


「続いて出る。クラリスを一人にするな」


 ヴァンデルも同時に動いた。盆地に控えていた槍兵へ合図が飛ぶ。


「槍を二列、前へ。騎馬の後ろに付け。弓も出せ。反撃の形を作らせるな」


 砦の外へ不用意に出ない、という基本は守りたい。

 けれど、出ないことが見捨てることになるなら話が違う。


 結果として、追撃は“クラリスだけ”にはならなかった。

 アーサー隊とヴァンデル隊が、追い過ぎない距離で後ろに付き、薄い盾になった。槍と弓で、敵が反撃の姿勢に入りにくいようにする。


 それが、敵にとって決定的に効いた。


 引きながら立て直そうとしていた列が、崩れたまま戻らない。

 このまま続ければ、削られるだけになる。


 ノルディカ軍は、ここで戦いを続けるのをやめた。


 角笛が長く鳴り、旗が下がる。

 列は山の向こうへ吸い込まれていく。


 今度の撤退は「いったん引いて組み直す」というより、「今回はここまでにして、次の機会を待つ」――そんな撤き方に見えた。


◇◇


 その頃、砲座ではようやく、時間が戻ってきていた。


 エミリアは砲身から手を離し、肩で息をした。撃った直後の静けさは、いつも変な感じがする。音が大きすぎたぶん、耳が現実に戻るのが遅い。


 足音が来る。


 石の階段を、迷いなく下りてくる足取りだった。砲座に余計な人間が入ると邪魔になる。だから本来、ここへ来る足にはためらいが混じる。けれど、その足にはためらいがない。


「……エミリアさん」


 声を聞いた瞬間、エミリアは顔を上げた。


 軍監のエステルだった。


 砂糖研究会で何度か顔を合わせている。あのとき最後に交わした言葉が、ふっと頭をよぎる。――次に話す機会があればいいね。


 けれど、現実はこうだ。話す前に撃ってしまった。


「……エステルさん。来てたの」


 エステルは砲と、砲身の周りの土嚢と縄を一度見てから、エミリアへ視線を戻した。


「来てました。……私は間に合いませんでしたね」


 責める口調ではない。事実を、事実のまま置いているだけだ。


 エミリアは言い訳を探してから、やめた。言い訳ではない。


「知らなかった。ここ……下の動きが見えにくい」


「そうでしょうね。それに撃つだけで精一杯であまり余裕はなかったでしょう」


 エステルは短く息を吐いて、それから砲身を見上げた。


「二発。撃ちましたね」


「撃ちました。最初は人の少ないところに当たりました。二発目は……人が固まったところでしたね」


 エステルは頷き、砦前のほうへ視線を滑らせる。


 角笛は乱れ、旗は下がり始めている。撤退の音が、山の腹に反響して遠ざかっていった。


「……敵の突撃の形を崩すことができました」


 エミリアは「崩すことができました」という言い方に、少しだけ救われた気がした。


 エステルは、そこへ静かに言葉を足す。


「研究会のときに話しましたよね。相手が固まりになった瞬間が一番危ない。でも、この兵器の場合は、一番効果があるのもその瞬間です。……よく待ちました」


 褒めるための声ではない。責める声でもない。エミリアが選んだ“タイミング”を、軍監として確かめている声だった。


「待つの、怖かった」


 エミリアがぽつりと言うと、エステルは小さく頷いた。


「怖いのが当然ですよ」


 その直後、砦の上で別の動きが見えた。


 側門から、騎馬が戻ってくる。まだ近い。けれど、さっきより列は薄い。追撃が効いたのが分かる。敵はもう、こちらを向く余裕がない。


 エステルが小さく言った。


「……引きましたね。今日は、ここまででしょう」


 エミリアは頷けなかった。胸の奥に残っている熱が、まだ収まらない。


 敵が引いた。砦は守れた。グレンウッド領侵攻戦は、ひとまず終わった。


 なのに、エミリアの中では、終わっていないものが残った。


 クラリスの危うさ。

 助けたいのに届かない、自分の手の短さ。


 石壁に触れた指先が、冷えたまま震えていた。

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