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第19話 トイレと衛生

 グレンウッド領防衛戦の開戦直前、グレンウッド砦の前に五千人の兵が集まった。


 水と食料が足りなくなるのは、分かっていた。追加の補給物資も、順次運ばれてきていた。けれど、想像より早く破綻しそうになったものがあった。


 トイレだ。


 最初は、いつもの穴掘り式だった。砦の外れに穴を掘り、用を足して、土をかける。簡単で、材料もいらず、急ごしらえの野営地ならたいていそれで持つ。


 持たなかった。


 五千人という数は、穴の寿命を、日ではなく分で削っていく。朝に掘った穴が昼には埋まり、昼に掘った穴が夕方には足りなくなる。穴を掘る者は疲れ、目印は雑になり、場所の管理が追いつかない。


 そして、現場で起きた事故が、全員の顔色を変えた。間違って、以前埋めた場所を掘り返したのだ。


 土の下に隠したはずのものが、空気の中へ戻ってくる。臭いが広がり、作業を止めても鼻は止まらない。胃が勝手に収縮する。周囲にいた兵は顔を背け、誰も怒鳴れなかった。怒鳴る前に、息がしにくくなった。


 それでも、人は用を足す。止められない。


 さらに悪い連鎖が続いた。


 「小川を使うな!」


 何度止めても、近所の小川へ向かう者が後を絶たない。隠れやすい。流れている。洗える。だから、つい、そちらへ行く。結果、小川はすぐに水ではなくなった。汚れの筋ができ、匂いが帯になる。水を汲む者の目が疑いに変わり、鍋の湯気が不安に見え始める。


 疫病が来るかもしれない。来る前に、止めなければならない。グレンウッド家は、緊急の判断を下した。


 「トイレを、運べるようにする」


 砦の図面が机に広げられ、人の動線、水場、風向きが並べられた。誰も衛生を綺麗事として語らない。綺麗事では済まない。兵が生活できない。


 その場で、設計の中心に据えられたのが、エミリアだった。


 「丸見えのトイレなんて、ありえません」


 言い切った声は小さいのに、議論がそこで一度途切れた。個室は贅沢ではない。絶対条件だ。兵のためでもあるし、彼女自身のためでもある。女性が現場に立つなら、最低限そこは譲れない。それを可能にするのが設計の仕事である。


 トイレ馬車、上部は八室の個室。左右に四つずつ。中央に通路。扉を閉めれば外から見えない。中も見えない。下部には汚物タンク。溜めて、漏らしにくくして、所定の場所へ運んで移す。


 汚いものを隠すためではない。汚いものが広がらないためだ。そして、広がらない仕組みは、運用まで含めて作らなければ意味が薄い。


 「掃除が出来ないと、意味がないわ。繰り返し使い続けられるようにする」


 床板は拭きやすい素材にする。角は汚れが溜まりにくい形にする。灰とおがくずを補給できる袋置き場を作る。換気は臭いが外へ漏れにくいように、高さと向きを考える。タンクの点検口はブラシが入る大きさにする。

 そして何より、壊れたときに直せるように、金具と木材は一般的な形の物を使う。特別な部材が必要になる箇所は、できるだけ減らす。現場で行き詰まらないための設計だった。


 家族全員が意見を出し、工房と厩舎が同時に動いた。砦の裏で木工の音が鳴り続け、金具を打つ音が重なった。木の匂いと鉄の匂いの中で、エミリアは図面を書き、現場の声を聞いて、また修正した。


 数日後、砦の裏から、木の箱が出てきた。宿屋の廊下のような顔をした、動く建物。それが、五千人の野営地を支える最初の一両になった。


 防衛戦の間に、トイレ馬車は領軍用に二十両まで増えた。使う場所が増えれば壊れる箇所も増えるが、壊れたら直せるように部材と工具を揃え、修理のやり方を現場へ説明した。


◇◇


 トイレ馬車が走り始めると、次に決めなければならないのは「いっぱいになったらどうするか」だった。


 タンクは溜めるためにあるが、溜め続けるためのものではない。満杯まで待てば匂いが先に出るし、運搬中の漏れも増えやすい。だから一定の線で切って運び出し、受け皿へ渡す。そこまでが一つの運用になる。


 「運ぶ先は、畑の肥溜めだね」


 オーウェンが言うと、エミリアは頷いた。


 「はい。溜めたものを畑に戻せるなら戻したいです。捨てるよりは、ずっといい。ただ……畑の側が受け取れないと、馬車が止まります」


 オーウェンは机に紙を広げ、領内の地図に印を打ち始めた。肥溜めのある場所。畑の規模。村の人数。道の状態。馬車が通れるかどうか。受け取りの当番が立てられるか。地域の状況を勘案しながら、一つずつ書き込む。


 「畑の広さと村の人数を見て、割り振りを作る。畑が広いのに人が少ない村もあるし、畑は小さいけど人が多い村もある。どちらか一つだけで決めると、不満が残る」


 エミリアは、地図に増えていく印を見つめた。馬車は道具だが、道具だけでは回らない。受け皿と帳簿と順番があって初めて、止まらずに続く。


 しばらく見ていて、エミリアがぽつりと言った。


 「……父上。汲み取りの順番を考えているだけのはずなのに」


 「うん?」


 「これ、農業になっちゃうんだね」


 オーウェンは手を止めずに頷いた。


 「そうだね。捨てるだけなら衛生で終わる。でも畑に戻すなら、畑の事情が入ってくる。畑が受け取れる形にしないと、街の衛生も続かない」


 オーウェンは地図の余白に、もう一行だけ書き足した。


 「畑の広さと村の人数を見て、割り振りを作る」


 それは衛生の台帳であり、同時に領の農業の台帳でもあった。


◇◇


 トイレ馬車開発の騒ぎが一段落したあと、エミリアは研究室の片隅で、ようやく息をつける時間を見つけた。机に残っているのは図面の写しと、現場で増えた注記の束である。紙の余白には、扉の蝶番が緩む速度、灰の消費量、タンクの満ち方の癖が、小さな字で書き込まれていた。


 そこへ、クラリスが顔を出した。軍装のまま、肩の力だけ少し抜けている。


 「……あんた、戦争準備中に何を作ってるの。武器じゃないのね」


 「魔砲の砲身は製造中よ。完成したら帰るわ。……でも、それより先に、崩れそうだったから」


 クラリスは机の上の図面を覗き込み、妙に納得した顔をした。


「まあ、そうよね。あの人数だと、そっちが先に破綻するか」


 エミリアは少し迷ってから、素朴に聞いた。


 「そういえば、トイレ馬車が無いときは、前線ではクラリスはトイレはどうしてたの?」


 クラリスは一瞬だけ目を逸らし、それから肩をすくめた。


 「わたしは独立部隊の隊長だから、天幕を一つ使えるようにしておいたわ。あと、戦闘中はトイレに帰れるわけもないので……お察しで」


 言い方は軽いのに、内容が軽くない。だからこそ、エミリアは口の奥が乾くのを感じた。


 「……そっか。じゃあ、なおさらあったほうがいいね」


 「そう。なおさら。あんたが作ったの、地味だけど、助かる人は多いと思う」


 クラリスはそこで一度だけ笑った。笑い方が軽くて、逆に重かった。


◇◇


 防衛戦が終わり、戦場の話題が少しずつ日常へ戻り始めた頃。トイレ馬車の噂は、武勲の報告とは別の経路で広がっていった。


 戦後、グレンウッド領で得た運用の経験をもとに、王都の工房でも同型が作られるようになった。木工と金具の手配が王都でできるようになれば、修理の窓口も増える。運用が滞らないための選択だった。結果として、王都の工房で五十両が追加製作され、王国軍へ寄贈された。武器ではないが、兵を減らさない装備として、扱いは重かった。


 その話を聞きつけたのが、リーネだった。


 彼女の実家はファーレン領。王都に近く、野菜や果物を作って王都へ販売している。王都を往復するたびに、商業地で「誰でも使えるトイレ」が足りないことは目に入る。けれど、それは理由の一つに過ぎない。


 リーネが本当に欲しかったのは、もっと重いものだった。


 土だ。


 畑は、使っていれば栄養が不足して痩せていく。収穫が続けば、土の栄養が農作物に取られてしまう。

 なので定期的に肥料という形で栄養を補充し続ける必要がある。だから彼女は、王都で毎日捨てられているものを、捨てたままにしておきたくなかった。


 トイレ馬車があれば、回収して、運んで、畑へ戻せる。街のトイレの不足を埋めるのは表の顔で、領の土を肥やすのが裏の目的だった。


 リーネがエミリアを訪ねた理由は、礼儀でも噂話でもない。道具が必要だった。正確には、道具を「作れて」「増やせて」「壊れたら直せる」形にしておきたい。


 リーネは深く頭を下げた。土下座に近い姿勢になってから、ようやく言葉を絞り出す。


 「トイレ馬車を、我が領にも……譲ってください」


 エミリアは驚いて瞬きをし、それから落ち着いて返した。


 「設計図は王宮に提出しています。だから、使おうと思えば誰でも使えますよ」


 リーネは顔を上げた。引かなかった。


 「紙が欲しいのではありません。紙を現実にするところまで、教えてください。作れる工房と、作り方の要点と、壊れたときに直せる形まで」


 エミリアはそこで頷いた。欲しがっているのが権利ではなくトイレ馬車そのものだと分かったからだ。


 「工房を確保しましょう。ファーレン領の工房は、馬車は作れても、個室の扉や鍵や、タンクの継ぎ目みたいな所まで作れるかどうか分かりません。まず、どこが作れて、どこが作りにくいかを一緒に切り分けたいです」


 「ファーレン領の工房はいくつか心当たりがあります。ただ……王都の工房もお願いできるでしょうか」


 控えめに聞こえる問いだったが、要点を突いていた。主に王都に置くのなら、王都で直せるほうがずっと使える。


 エミリアは少し考え、はっきり言った。


 「王都の工房も巻き込んだほうがいいです。ファーレン領と王都を往復するのでしょう? 王都で作っておけば、王都で直せます。部材の在庫も王都に置けますから」


 そう言って、机の端の図面束を引き寄せる。


 「だから設計も、なるべく一般的な金具と木材で組める形にしてあります。扉の蝶番、鍵、点検口の留め具。規格が揃えば、作る場所が増えても直し方は同じです」


 リーネは息を吐いた。作って終わりではなく、増やして直して途切れずに使い続ける。その筋道が見えた。


 「……ありがとうございます。では、まず工房を見ていただけますか」


 「ええ。見に行きます。作る人の腕と設備を知らないと、どの程度できるか分かりませんから」


 エミリアはそう言って、図面の余白に短い注記を足した。どこで作っても、同じように直せるための次の一手だった。


◇◇


 リーネが次に向かったのは、衛生ギルドだった。


 商業地は人が集まる。買い物をする者、荷を運ぶ者、宿へ入る者、飲食店へ流れる者。ところが、誰でも使えるトイレは少ない。その不足を、商店や飲食店や宿屋が裏の便所を貸したりして、どうにか埋めている。店によって金を取ったり断ったりすることもある。


 衛生ギルドの詰所は、帳簿と乾いた木の匂いがした。ここは王都の裏側を運用してきた場所だ。通された部屋で、リーネは挨拶を終えると、前置きなしに要点から話した。


 「王都の商業地に、トイレ馬車を置かせてください。いきなり大規模にはしません。まず十両だけで。回収したものは、我が領の肥料として引き取ります」


 幹部の目が細くなる前に、彼女は続けた。十両をどう使うかまで、最初から一つの線で示す。


 「人が多いけれど、水場から距離を取れる場所に絞って設置します。巡回と清掃と灰の補給は、最初はこちらで持ちます。タンクがいっぱいになったら回収して領へ運びます。商業地で店が便所を貸して持ちこたえている現状を、少しずつ軽くしたいんです」


 幹部のひとりが、ようやく口を開いた。


 「汲み取りは、我々の仕事だ」


 リーネは即座に頷いた。


 「承知しています。潰したいわけではありません。止めたら街が止まります。だから、あなたたちの仕事を奪う話にはしません。むしろ、我々の代わりにトイレ馬車を運用していただきたいのです」


 相手の反発を待つ前に、彼女は次の条件を出した。滞らせないための条件だった。


 「十両は、最初の費用が要ります。馬車の調達、部材の在庫、巡回の増員、集積の段取り。ここはファーレン領がスポンサーになります。運用の窓口が二つに割れると、現場が迷って止まりやすい。だから、ギルドの中にトイレ馬車部門を置いてください。指揮系統と苦情の窓口を一本にしたいんです」


 結果として形は、「領の直営と衛生ギルドが並立する」から「衛生ギルドの中にトイレ馬車部門を置き、共同で運用する」方向へ傾いていった。潰すのではない。吸収して一本化する。指揮系統が一本なら、現場は迷いにくい。そのかわり、ファーレン領が出資して、ギルドの中に部門を作ってもらうという形式になった。


 商業地の端に置かれたトイレ馬車は、数週間後には、トイレ馬車はそこにあるのが当たり前になった。人々は並び、使い、出ていく。入口には衛生ギルドの札が掛かり、車輪の横には整備印が残る。二つの印が同じ箱に並ぶと、街の人間は安心した。


 運営の会合が開かれ、帳簿が並んだ。回収量、巡回回数、灰の消費、壊れた扉の数、修理費。そういう数字の積み重ねは、街の裏が止まっていない証拠でもある。


 その席で、誰かがふと気づいた。


 「……この席、いつの間にか、あの令嬢がいるな」


 テーブルの端、書類の束の向こう。そこに当たり前のように座っているのはリーネだった。最初は出資者の立会いという名目だったはずなのに、いつの間にか議題の順番が彼女の手元から出てくるようになっていた。


 「今月は巡回班の増員を二名。次に整備部材の在庫を一割増やします。壊れた扉が増えているので、蝶番の規格を統一しましょう。工房側の対応も取れます」


 気づけばリーネが進行を先導していた。何人かは、これでいいのだろうかと内心ひっかかった。けれど現場は回り、帳簿も整う。むしろ今までより効率的で問題が起きない以上、止める理由が見当たらず、そのまま流されていった。


 会合の終わり際、リーネはさらりと次の話を置いた。衛生ギルドが長年続けてきた、集積して発酵させ、大河に流すという最終工程の話だ。


  「集積地の分も、肥料に回せませんか、我が領で買い取りますよ」


 言い方は穏やかだった。急に全部を変えろとは言わない。ただ、試す枠を作る話にする。


 「試験区画からでいいです。臭い対策と衛生管理が安定する方法を、こちらで一緒に詰めます。失敗したら戻す。戻し方も先に決めます」


 即答は返ってこなかったが、議事録には残った。残った以上、次の会合でも話は続く。終点は、少しずつ動かされていく。


◇◇


 畑の縁に、ひとりの男が腰掛けていた。旅装は地味で、荷は少ない。遠目には、ただの行商か、疲れた旅人にしか見えない。


 男は、買ってきたサンドイッチの袋を開いた。高価でもない。肉は薄く、野菜は刻まれている。けれど塩気と酸味のバランスは悪くなく、腹を満たすには十分だった。


 男は隣国のスパイだった。戦後の混乱に紛れて入り込み、敵国の国力、人口、動員兵数、生産状況、そしてそれらの理由や根拠を探って帰るのが役目である。王都の空気を吸い、街道を歩き、畑の端に座り、目立たないふりをして観察する。そういう地味な仕事を積み重ねて、最後に数字と筋道にして持ち帰る。


 目の前の畑は、よく育っている。葉の色が濃く、茎が倒れていない。畝の間の水の筋も乱れていない。戦後だというのに、畑は弱っているように見えなかった。


 男はひとくち噛んでから、独り言のように呟いた。


 「なんでこの国は豊かなんだろうな」


 頭をひねるスパイの前を、肥料を積んだ馬車がのどかにゆっくりと通っていった。

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