第18話 戦争準備
グレンウッド砦の朝は、霜が石に貼りつくところから始まる。夜の冷えがまだ抜けきらず、火を焚いても壁の奥に残った冷たさが指先へ戻ってくるように感じられた。息は白く広がり、手袋の縫い目さえ硬くなる。
砦のこちら側――アヴァロン王国のグレンウッド領側は、小さな盆地になっている。村があり畑があり、一本の街道が通っていて、荷馬車が周り、馬が休息でき、人が集まることができる。平時にはその条件が暮らしを支えるのだろうが、戦時には、同じ条件がそのまま危うさにもつながる。砦を抜かれたとき、敵が大軍を並べ、荷車を停め、村から食料と燃料を略奪して力を蓄えるには、あまりにも都合がよすぎるからだ。
だからこの土地では、「砦を突破されないこと」が何より重要だと考えられている。砦は門で、盆地は門の内側の広間で、広間に敵を入れてしまえば追い出しにくい――そういう地形構造にある、という説明のほうが近いのかもしれない。
その門の向こうで、どうやら動きが出たらしい。
◇◇
夜明け前、斥候が戻った。門番は合図を受け、門扉を少しだけ開ける。冷気が筋になって室内へ走り、そこへ土と汗の匂いが混ざって入ってきた。
斥候は馬から転げ落ちるように降り、膝をついた。息が切れているのは寒さのせいだけではなさそうで、喉の奥に砂を噛んだような音がする。
「……向こうで、人が増えてます。焚き火が多い。轍も増えてるし、道が踏み固められて……陣を組んでるみたいです」
報告を受けた下士官は言葉を返さず、短く頷いた。ここでは「たぶん」が現実になるまでの間隔が短い、と皆が肌で知っている。迷っていては敵の侵攻を許してしまう――そんな危機感が、返事の代わりの頷きに混ざったようにも見えた。火急の報せは、すぐに上へ回された。
◇◇
砦の会議室には人が集まり、机の上には擦り切れた地図が広げられた。角が丸く薄くなった紙は、同じ場所を何度も指で押さえられてきた証拠のようにも見える。
上座に座るのは長男アーサー・グレンウッドで、若いとはいえ、この砦と盆地を守る第1軍の指揮官であり、同時に第1軍第1大隊の指揮官でもある。
アーサーは報告書を読み、すぐに顔を上げた。
「……向こうが、またやる気だな」
怒りというより、冷たい朝の事実確認のような声だった。
「直ちに実施することは、砦の常駐を増やす。見張りは二重にする。門の外に出るのは必要な者だけに絞る。……それと、領内に動員をかける、それくらいか?」
その言葉とほぼ同時に、机の端で紙が出された。アーサーの副官、ロベール・ルフェーヴルが用意していた書面だ。祖父アランの時代から砦に居続けた古参で、派手な武勲よりも、損害を出さないことに向いた男だった。
「動員の文面は下書きを作ってあります。署名があれば、すぐに走らせられます」
アーサーはロベールを見て頷く。
「頼む。急いでくれ」
「はい」
ロベールは余計な台詞を挟まない。けれど手は止まらず、必要なものが必要な順に机へ並んでいく。そういう動きが見えるだけで、会議室の空気が少し落ち着くように思えた。
会議室の別の席で、祖父アランが地図を押さえていた。アランは第2軍の指揮官で、第1軍とは役割が少し違う。
「道は三つある」
アランの指が山の稜線に沿って止まる。国境線は紙の上では一本の線でも、実際には道がいくつもあり、太い道もあれば獣道に近い道もある。戦争は、いつも太い道だけを通るわけではない。
「いちばん太いのがここ。次がここ。最後はここだが狭い。……ただ、狭くても通れると分かれば道を切り開いてでも通ってくるだろう」
アランは顔を上げずに続ける。
「第2軍は手分けして、それぞれの道を封鎖する。敵の集結状況によっては第1軍と合流する。合流地点は砦前の野戦陣地を考えているが、焦って動いて途中で敵に食われたら意味がない」
アーサーは祖父の言葉を聞き、短く頷いた。
「分かった。続けてくれ」
ロベールが補足するように言う。
「砦が持てば、こちらは時間を買えます。王都からの援軍も、間に合う可能性が高くなります」
アーサーは短く頷き、すぐに続けた。
「王都へ援軍要請も出す。王国軍本軍へ。……こっちはそれまで持ちこたえる」
ロベールが紙束をまとめ、淡々と口にする。
「使者は二系統にしておきます。表の正式な要請と、裏の早馬です。到着の早さが違いますから」
「それでいこう」
アーサーの返事は短いが、迷いは少なかった。
◇◇
動員は、村にとって冬の終わりみたいなものだった。畑の土はまだ固いし、仕事が少ない季節でも、人は薪を割り、家畜を見て、道を直し、暮らしを守っている。そこから男手が抜けるのだから、村の空気が変わらないはずがない。
砦の前庭に旗が立ち、鐘が鳴る。伝令が走り、名簿が開かれ、名が呼ばれる。返事の声が増え、馬の数が増え、荷車が並ぶ。狩人、農夫、荷運び、村の若者――顔ぶれはばらばらでも、集められた先は同じだった。
グレンウッド領の常時兵員は二つの常備隊でおよそ八百で、普段は四百ずつが交代で砦と領内を回し、残りは訓練と巡察に散っている。そこへ動員兵が加わり、二千ずつ、二つの枠で集める形になる。合計してだいたい五千で、これがグレンウッド領が維持できる最大に近いのだろう。
ただ、五千集めれば強いという話だけでは終わらない。五千を食わせて寒さを凌がせて眠らせ、怪我を診て、帰すまでを回せるかどうか――そういう部分まで含めて考える必要がある。
動員兵が増えるほど、厄介なのは食料だけではない。集結地の端、一定の間隔をあけた先に、屋根付きの大きな馬車が一台だけ見えた。グレンウッド家がこの戦争のために急いで二十両作らせた「トイレ馬車」で、上には八つの個室、下には大型のタンクがあり、満ちればそのまま農村の肥溜めへ運ばれていく。
◇◇
前庭で、アーサーは編成を読み上げた。声を張り上げず、落としすぎず、よく通る高さを選んでいる。
「第1軍。俺が第1大隊を兼ねて、全体を指揮する」
少し間を置いてから続ける。
「第2大隊は、マティアス・ヴァンデルが指揮する」
一人の男が前へ出た。背丈は平均より少し高いくらいで、華やかな鎧は着ていない。装備は堅実で、動きに無駄がない。
「ヴァンデル大隊長。……砦の外周、盆地側の村と街道を押さえてくれ」
「承知しました」
マティアスの返事は短かったが、ただの相槌には聞こえない。もうすでに、どのように実行するかは見当をつけているだろう。
アーサーは、そのまま兵へ向けて言葉をつなぐ。
「第1大隊は砦中心。第2大隊は盆地側だ。敵が砦を抜けられなかったとしても、次に狙うのは盆地になるかもしれない。村を盾にされる前に、こちらが待ち構える陣を敷く」
若い兵の視線が上がる。村を守ると言われれば腹に落ちるのだろう。王都の名誉より、畑の土のほうが分かりやすい。ロベールはその視線の動きを見ていて、兵が何なら耐えられるかを見極める。古参の強さは、そういうところにある。
◇◇
正午前、祖父アランは第2軍を率いて砦を出た。見送りに時間をかける余裕はなく、出発は簡潔だった。
アランは馬上でアーサーに言った。
「砦を抜かれるな。抜かれなければ、向こうは山中なので大軍を組みにくい。……逆に言えば、抜かれたら、敵はここで休息し再編する」
「分かってる」
アーサーは強く答えたが、答えながら目だけが一瞬ロベールを探した。ロベールは黙って頷く。大丈夫だと言う代わりに、準備は進んでいるという顔をする。
アランの隊は山道へ散っていった。道を守るというより、道を「道として使えない」状態にするために動く。砦に残った者たちは防衛準備へ忙しくなり、矢を揃え、槍の穂先を研ぎ、縄と杭を数え直し、夜営の布を積み、火の番を決める。戦いは一瞬でも、準備は長い。準備が長いからこそ、勝負の一瞬が生まれる。
◇◇
夕方、砦の上から盆地を見ると、村の煙がいつもより多かった。人が集まって火を焚き、食事の準備をしている煙で、恐怖の煙ではない。まだ日常の匂いが残っているのが、かえって胸に引っかかる。
アーサーは城壁の上で拳を握り、ぽつりとこぼした。
「……王都は動くか」
ロベールが横で淡々と言う。
「動くでしょう。ただ、動くまでの時間は、こちらが買うしかありません」
「だよな」
アーサーは短く笑い、笑いをすぐに引っ込めた。連山の向こうは見えない。見えないからこそ、備えは形にするしかない――そんな考え方が、この家には根を張っているのかもしれない。
◇◇
王都の冬は、石が冷たい。日の光があっても地面の底は温まらず、軍の建物の廊下は冷え切っていた。
王国軍第二軍の詰所に、二通の封書が届く。一通は正式な使者が持つ封印付きで、もう一通は紙が汗で波打っている早馬の報せだった。封蝋の形が崩れ、封の糸が切れかけているあたり、相当に急いだのだろう。
机の向こうに座る男――王国軍第2軍将軍、バークレイ将軍は、先に早馬の紙を開いた。読み終えるまで顔は動かず、読み終えた瞬間だけ、紙の端を押さえる指に少し力が入った。
「グレンウッド砦の向こうで……敵が集結を始めたみたいだな」
側に控える副官が息を呑む。
「正式文書の到着を待ちましょうか」
バークレイ将軍は首を横に振った。
「待つ理由はあまりないな。早いほうが、優位に立てるのは基本だ。……第二軍、行軍準備だ」
副官の目がわずかに見開かれる。命令は速いが、将軍の言葉は乱れていない。馬と伝令を先に出し、荷と儀礼は後から整える――そんな順番が、最初から頭の中にあるようにも聞こえる。
「騎馬部隊を先に出す。補給ラインを立ち上げるように各拠点に指示しろ。旗と太鼓は最小限で良い」
「はっ」
バークレイ将軍は机の上の地図を指先で押さえ、国境線の周辺を短くなぞった。線は一本でも、道は一本ではない。山の影に、見えない入口が散っている。
「必要なのは戦力じゃない。まずは目と耳だ。向こうの集結規模、道の状態、砦の動員の具合、それから連絡線。これが揃ってないと、第二軍は歩く順番を決められない」
副官が筆を走らせる。
「条件は三つだ。速いこと。少人数で完結すること。現地の指揮と噛み合わせられること。……なら、騎馬魔法士隊が合う」
バークレイ将軍は言ってから、ほんの一拍だけ間を置いた。
「指揮官はクラリスか。……仕方ない。適任がそこにいる」
副官が、わずかに目を泳がせる。
「ご息女を、先行に……?」
「娘だから出すんじゃない。騎馬だから出す。使える駒がそこにあるなら、使うだけだ」
バークレイ将軍は封書を畳み、声を落とした。
「命令書を回せ。出発は今日中でいい」
◇◇
騎馬魔法士隊の厩舎の前は、まだ薄暗い。準備は声より先に音が立ち、鞍金具の金属音と革の締まる音が重なって、馬の鼻息がその間を縫う。乾いた藁の匂いが冬の冷気に混ざって、鼻の奥に残る。
クラリスは外套の襟を上げ、馬の首を軽く叩いた。人が焦ると馬も落ち着かなくなるので、彼女は呼吸を整え、焦りを外に出さない。
「隊装備、確認ね。寝具は降ろさない。火口箱は二つ。縄も二束。……伝令札は?」
若い兵が即答する。
「三組あります。予備も持ちました」
「うん。先行の仕事は戦うことじゃない。見ること、繋ぐこと、間に合うようにすることだからね」
そのとき、厩舎の入口で足音が止まった。騎馬の場に似合わない、硬い歩き方だ。現れたのは第一軍の軍服を着た女で、仕立てが良く、襟元の線がきっちりしている。視線はまっすぐで、余計な感情を外に出さない。
エステルである。王国軍第一軍所属で、今日の名目は「軍監」だった。
「クラリス。……出発するのね」
「え? 第一軍の人が、こんな時間に?」
クラリスが問い返すと、エステルは封印付きの紙を一枚出した。形式は整っているが、整いすぎている感じがして、逆に空気が固まる。
「第一軍からの通達よ。私は軍監として、あなたの先遣に同行する。第1軍の司令部が私の訓練をクラリスさんにお願いしたことがあったでしょ、そのつながりで私が選定されたみたいね、よろしくお願いします、教官」
厩舎の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。隊員の何人かが互いの顔を見る。“軍監”は情報を集める役で、言い換えれば見張りでもある。
クラリスは紙に目を落とし、目線を上げた。
「……ねじ込まれた感じだねえ、これは」
エステルは否定しない。
「そう見えるでしょうね。第一軍は、第二軍だけに先に情報が集まるのを嫌がってるんでしょう。だから情報の入口を押さえに来る。……私がその役」
クラリスは息を吐いた。白い息が短く散る。
「なるほど。現場の話を“上の言葉”にする人が必要ってことか」
エステルは肩をすくめ、声を少しだけ和らげた。
「ごめん。責めたいわけじゃないの。あなたの速い報告を、司令部がすぐ動ける形にまとめて戻したいだけ」
それから、言葉を選ぶみたいに一拍置く。
「それに……グレンウッド領はエミリアの領でもあるでしょう。できる範囲で支えたいの。あなたの邪魔をしない形でね」
クラリスは手綱を握り直した。
「了解。じゃあ、まずは現場の顔を立てよう。現地についたら砦の責任者に会う。こっちはあくまでもグレンウッド領軍に協力する形だ」
「分かっているならいいわ」
そこへ副官が走り込んできて、将軍の詰所からの命令書を差し出した。
「クラリス殿! 将軍より。騎馬魔法士隊、先行出発です。行き先はグレンウッド砦。可能な限り早く現地状況を把握し、第二軍の行軍計画へ反映せよ、とのことです!」
クラリスは命令書を受け取り、目を通す。読み終えると紙を折りたたみ、外套の内側へ仕舞った。声を張らないが、張らなくても隊は聞いている。
「聞いたね。やることは三つ。敵の規模を確かめる。砦と領軍とあとから来る本軍を組み合わせる打診、調整をする。連絡線を作る。……それだけ」
隊員が頷く。鞍の革が鳴り、馬が小さく身じろぎした。クラリス隊は十騎、そこへエステルが一騎だけ加わる。人数は少ないが、そのぶん速さに割り切った編成だった。
出発の合図は太鼓ではなく、短い号令だった。
「行くよ」
馬が動き、蹄が石を叩く。厩舎の影が後ろへ流れ、王都の灯りが背中に遠ざかっていく。歩兵の本体はまだ動けない。荷車が揃い、糧秣が積まれ、隊列が形になるまでには時間がかかるからこその先行部隊だ。
門を抜けると風が強くなった。クラリスは外套の端を押さえて前を見て、エステルは少し後ろで周囲の地形と道の状態を目に刻む。地図にするための見方だ。
「早いわね」
エステルが小さく言うと、クラリスは白い息の奥で笑った。
「早いから、間に合う仕事があるんだよ」
王都の石畳が終わり、土の道が始まる。その先には連山と砦と、盆地の村があり、見えない向こう側では敵が人を集めているらしい。
この話は、ここで一度切れる。次に開く扉は、グレンウッド砦の風の中になるのだろう。




