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第17話 神官のお仕事

 王立治療院の夜は、静かすぎて音が刺さる。水差しが置かれる音、布靴が床をこする音、遠くの咳。どれも小さいのに、灯りの薄い廊下では妙に大きく感じられた。


 扉の前で、男性神官は一度だけ息を整えた。治癒師が「ここからは神官へ」と場を渡した気配が、扉の向こうに残っている。患者もそれを分かっているのだろう。分かっているからこそ、誰も「もう助からない」と言わないまま、時間だけが進む。


 扉を開けると、灯りは小さく絞られていた。白い寝台、薄い布。兵の目は開いているのに焦点は合わない。それでも神官の声だけには反応した。


 神官は寝台の脇に膝をつき、まず柔らかく笑った。相手がつかめる形で言葉を置くことが、ここではいちばんの準備になる。


「こんにちは。……よく、ここまで帰ってきましたね」


 兵の喉の奥で、小さな悲鳴が鳴る。息を吸うたびに、声にならない声が漏れた。苦痛に耐えているのだろう。それでも神官は、「痛いですか」とは聞かなかった。いま、その確認の言葉を置けば、兵の意識が苦痛に貼りつき、呼吸がさらに浅くなってしまうことがあるからだ。


 ここで必要なのは痛みの説明ではなく、呼吸を整え直すきっかけである。だから神官は、答えやすい質問をひとつだけ選んだ。うまく答えられなくてもいいし、頷けなくてもいい。ただ、意識がこちらに戻る手掛かりがあれば、息は少し楽になる。


「……誰かの名前を、ひとつだけ思い浮かべられますか。仲間でも、家族でも構いませんよ」


 兵の唇が微かに動き、声にはならない何かが喉の奥でつかえた。それでも神官はすぐに頷き、相手が「間違えた」と感じないように、先に肯定を渡した。


「うん。出てきましたね。――それでいい」


 神官は兵の手を包む力をほんの少しだけ強め、約束を、慰めではなく手続きとして置いた。気休めに聞こえる言葉は、あとで裏切りになることがある。ここで必要なのは「保証」だった。


「大丈夫です。あなたがここで頑張ったことは、王国軍が必ず記録します。家族にも、仲間にも、伝わるようにします。あなたが言葉にできなくても、こちらが伝えますから」


 兵の眉間のしわが、ほんの少しほどけた。神官はそこで話を広げない。安心を渡したら、次は本人が肯定できる事実を拾う。それが次の呼吸につながる。


「手、見せてくださいね。……はい。指が傷だらけです。武器を握っていた人の手ですね」


 兵の指がわずかに動き、握り返そうとして力が入らない。神官はそれを失敗として扱わず、事実だけを丁寧に言い換えた。


「十分です。逃げないで戦っていた。それは、誰にでもできることではありません」


 ここで神官は初めて「神」を出す。ただし死の話としてではなく、評価として置く。死を輪郭づける言葉は、いまは要らない。


「神は、結果よりも、投げなかった心を喜びます。あなたみたいな人を、嫌いませんよ」


 兵の喉が鳴り、震える息が漏れた。神官はそこへ踏み込みすぎない。いま患者には考える余裕がほとんど残っていない。ここで言葉を重ねれば、患者は意味を追おうとしてしまい、その先で「死」や「不安」や「後悔」に意識が向いて、呼吸が乱れる。だから神官は言葉を増やさず、呼吸と安心にだけ寄り添う。


「ここから先は、考えなくていいですよ。休んでいいです」


 神官は兵の呼吸に合わせ、祈りは短く、形だけを整えた。息が浅くなり、最後にふっと途切れる。神官は数を数え、確認し、形式を踏む。それは死者のためというより、残る者が壊れないための枠でもある。


「……神に召されました。どうか、安らかに」


◇◇


 最前線の野戦治療所は、治療院の静けさとは正反対だった。布一枚の天幕の下に血と汗と湿った土の匂いが溜まり、人が増えるたびに空気が重くなる。それでも外の矢音だけは遠慮なく突き刺さり、誰の呼吸も長くは続かない。


 ここで神官に求められる仕事は二つある。ひとつは終末医療で、祈りと儀式によって死にゆく者と残る者の折れ目を小さくする。もうひとつは脳に触れる魔法で、恐怖や混乱で暴れる中枢を鎮め、眠らせ、必要なら目を覚ましたまま呼吸だけを整える。前線では後者のほうが多い日もある。


 天幕の奥で指示を飛ばしているのは、マルグリットだった。声は大きくないが、言葉が短く、必要なことだけを言うので届く。


「水を。毛布を一枚追加してください。次はあちらです。……治癒師はここで手を離さないで」


 治癒師が頷き、看護役が走る。誰かが泣きそうな顔をしても、マルグリットは表情を変えない。場を乱さないための顔だった。


 担架のひとつで、治癒師が兵に低い声を落とした。


「傷は塞がった。出血も止まっている。……あとは痛みを減らして、眠れるようにするだけだ」


 その「塞がった」が、兵には「戻れる」に聞こえたのだろう。瞳が跳ね、顔色が変わる。呼吸が急に細くなり、胸が浅く速く上下し始めた。


 兵は拘束されていた。罰ではなく、自殺他害の衝動を止めるための紐である。けれど兵はその紐を自分でほどいた。結び目に指がかかり、治癒師が次の言葉を探す前に紐が緩む。


 誰かが動きかけた。マルグリットは視線だけで止め、声を低く落とした。


「待ってください。囲わないで。通路は残します」


 兵は出口へ向かわなかった。逃げたいのではなく、近い誰かにしがみつこうとしている。助けてほしいのに、助かり方が分からない――そんな感じだった。


 兵はマルグリットに抱きついた。抱きついたまま震え、指が布を掴み潰し、爪が食い込むほど強い。マルグリットは驚いた顔をしなかった。嫌がる仕草も、避ける仕草も見せない。ここで拒絶の形を作れば、恐怖は増えるからだ。


 片手を兵の頭に置き、もう片方の手で背中をゆっくり撫でる。見た目は受け止めに近いが、やっているのは中枢への鎮静魔法だった。


「……抱きついていて大丈夫よ。離さないわ。あなたが離れたくなるまで、そのままでいい」


 兵の喉から、かすれた声が漏れた。


「戻……りたく……ない……」


 マルグリットは否定しないし、「戻らなくていい」とも言わない。守れない約束はできない。だから、いまの範囲だけを確かにする。


「分かったわ。今は“戻る話”をしない。ここは治療所で、味方の中よ。あなたはいま安全な場所にいる」


 震えが一瞬弱まり、また強くなる。変化がぶり返すのは自然で、そのたびに呼吸を見て、鎮静魔法の強さを少し弱め、また整えるしかない。


 治癒師が患者に聞こえない距離で低く言った。


「末端神経の麻酔魔法は施した。痛みはもう暴れない」


 マルグリットは頷き、視線を兵の胸の上下から外さなかった。


「ありがとう。あとは中枢のほうの麻酔魔法をかける」


 マルグリットが落としたいのは、恐怖の高ぶりだけである。深く沈めれば楽になる。しかし深く沈めすぎれば呼吸まで細くなり、さらに一段深く入れば呼吸が止まる。だから彼女は脈と胸の上下と唇の色を見ながら、魔法を少しずつ弱めたり強めたりしていた。鎮静は「効かせる」より、「止める」が難しい。いまは、止められる深さに留める。


 そのとき天幕の入口から、ミルナが顔を出した。髪は少し乱れ、息も上がっているのに、口調だけはいつも通り軽い。


「先生、呼ばれました? ……大変そうだね」


「来て。声だけでいいわ。治癒師から患者に余計な言葉が届かないようにして」


 ミルナは頷き、治癒師の横に滑り込んだ。患者ではなく治癒師へ向けて、小さく言う。


「さっきの『塞がった』が、『前線に戻される』に聞こえたんだと思う。引き金はそこ」


 治癒師は唇を噛み、黙って頷いた。代わりに湯たんぽを足し、毛布を掛け直し、脈と唇の色を確認する。身体の領域を守るために、今できることを淡々とする。


 ミルナは兵に向けて、少しだけ明るい声を作った。


「ねえ、握るの上手すぎ。私たちの手、明日も使う予定だから、ちょっとだけ加減してくれる?」


 兵がすごい表情でミルナを睨む。恐怖と怒りと悲痛が混ざった目だ。ミルナは睨み返さず、その目を受け止めて言葉を短く置いた。


「いいよ。睨めるなら十分元気よ」


 マルグリットの鎮静は続く。吸って、吐いて。呼吸が整う瞬間に合わせて、ほんの少しだけ弱める。落としきらず、意識を消さない。


「呼吸を合わせるわ。私が先に吸う。先に吐く。あなたは、できる分だけでいい」


 兵の呼吸が一瞬だけ深くなり、身体の緊張が少し抜けた。治癒師は作業を止めずに済んだ。ミルナが、患者に聞こえない小ささで言う。


「……今の深さなら、治癒師が作業できる。ここまで整えば十分だと思う」


 マルグリットは表情を変えずに答えた。


「ええ。今はこのまま治療を続けて」


 抱きつきは続き、震えも続く。それでも震えは少し細くなっていた。必要なのは勝ち負けではなく、この人が今夜を越えられる形に戻すことだった。神官の仕事は、まさにそのための技術である。


◇◇


 翌日の午後、砦の裏手の土の広場に若い神官たちが並んでいた。整列が妙に綺麗なのは、誰も目立ちたくないからだ。ここでの失敗は心に残る。


 前に立つのはミルナだった。軽い雰囲気はあるが、線だけは外さない。広場の少し後ろ、影のある場所にマルグリットが立ち、口を挟まずに全体を見ている。


 ミルナは皆の顔を見回し、丁寧な口調で言った。


「今日は精神魔法の基礎訓練をします。二人一組になって、互いに鎮静をかけ合ってください。怖いのは普通なので、怖がっている自分を責めなくていいです。ただし、油断だけはしないでください。教本は勉強して、標識点と禁則は覚えてきましたか?」


 新人たちが小さく頷いた。ミルナは板を掲げた。文字は大きい。


――呼吸を合わせる

――言葉は短くする

――否定しない

――かけすぎない。整える


「まず呼吸を見ます。相手の呼吸に寄せて、こちらのリズムを無理に押しつけないようにします。それから、恐怖や興奮の高ぶりだけを丸めるように整えます。深く沈めすぎると、鎮静ではなく失神になりますし、もっと危ないところまで行くことがあります」


 新人の一人が手を挙げ、慎重に尋ねた。


「……深さの判断が怖いです。限度を越えたら、どんな変化が出ますか」


 ミルナは、脅すためではなく守るために、具体を出す。


「鎮静を深くかけすぎると、感情だけではなく身体のほうも止まっていきます。呼吸が浅くなって、脈も弱くなり、指先が冷えて、唇の色が悪くなることがあります。さらに深く入ると、呼吸が止まってしまって、そのまま亡くなることもあります。だから全身麻酔に近い鎮静では、深さがいちばん重要になります」


 新人たちの顔が硬くなる。ミルナはそこで声を柔らかくし、逃げ道を用意した。


「怖いのは正しい反応です。迷ったら、弱めてください。効かせるよりも、弱めるほうが安全ですし、戻す練習こそが基礎になります」


 マルグリットが後ろで黙って見ている。監視というより、線を揺らさないための存在だった。


◇◇


 実技が始まった。


 一組目、かけ手の新人が真面目すぎる顔で、受け手の額にそっと手を置いた。

 呼吸を合わせようとするほど、自分の息が浅くなる。


 受け手は最初、普通だった。ところが次の瞬間、ぷっと吹いた。


「……ふ、ふふ……」


 笑いが膨らみ、肩が揺れ、腹が揺れる。止まらない。かけ手が焦って謝る。


「ごめん! 違うの、笑わせるつもりじゃ――」


 その謝り方が余計に可笑しい。受け手が涙まで浮かべて笑い続ける。


「だめ……! 先生の背中、なんか……」


 遠くで見ているマルグリットの背中が妙に可笑しい。理由はないのに止まらない。


 ミルナがすっと入った。


「大丈夫です。いまは少し強かっただけなので、落ち着くほうへ戻せます。いったん弱めて、呼吸を合わせ直しましょう」


 笑いが細くなり、受け手がようやく息を整える。影のほうからマルグリットが短く言った。


「謝らなくていいわ。記録しなさい」


◇◇


 二組目、受け手の新人は最初は落ち着いていた。

 ところが目がふっと潤んだと思ったら、ぽろぽろ涙が落ちる。


「え……? 痛い? どこか痛いの?」


 かけ手が慌てる。

 受け手は首を振りながら泣く。


「違う……痛くないの……でも……ごめんなさい……」


「なにに?」


「わたし……パンを……焦がして……」


「今朝の話……?」


 泣きは止まらない。本人も自分の涙が分からない顔だった。


 ミルナが近づいて、受け手の肩を軽く叩く。


「いまは心の引き出しが勝手に開いただけです。閉められるので安心してください。まず呼吸を整えましょう。息が戻ると、涙も落ち着くことが多いです」


◇◇


 三組目、今度は、怒りだった。


 受け手の新人の眉間に皺が寄り、顎が上がる。

 声が低くなる。


「……ねえ。あなた、指が冷たいわ。もう少し丁寧にしてくれる?」


 かけ手が固まる。


「す、すみません。緊張してて……」


「緊張は分かるけれど、雑に扱われたら嫌よ」


 言葉が尖る。本人も戸惑っているのに、止められない。

 ミルナがすぐ言う。


「言い返さないで。いま出てる怒りは、本人の意思とずれることがある」


 かけ手が必死に頷く。

 でも受け手の怒りは増える。


「ねえ、聞いてる?」


「聞いてます」


 その返事すら、火に油になりそうだった。

 ミルナがかけ手の手首を軽く押さえ、目だけで合図する。


「いま強い。……少し、弱めて」


 ミルナが合図し、かけ手が鎮静を少し弱めると、受け手の怒りがすっと抜けた。受け手は青ざめ、呟く。


「……今の、私……」


「大丈夫です。こういう出方を、訓練で知れたのは収穫ですね。知らないまま前線に立つほうが危ないですから」


 影からマルグリットが言う。


「記録しなさい。次は避けるように」


◇◇


 休憩になると、新人たちは水を飲みながら地面に座り込んだ。笑って泣いて怒って、それが自分の意志とは別の形で出たことが、いちばん怖い。


 誰かがぽつりと言った。


「心って、もっと神秘的なものだと思っていました」


 別の者が、泣き腫らした目で頷く。


「祈りとか、魂とか……そういう感じで」


 ミルナは、軽いままの声で丁寧に返す。


「神秘はあると思います。でも現場では、まず反応として扱います。触れたら出て、出たら整える。そうしないと守れないからです」


「……私たちがやっていることは、全部、技術なんですね」


「そうです。祈りの形をしていても、やっているのは技術です」


「心が冷たくはならないんでしょうか」


 ミルナは少しだけ言葉を選び、真面目に答えた。


「心が冷たくならないために磨くんです。知識もなく気持ちだけで抱きしめると、相手を追い込むことがあります。だから守るためにやれること、やってはいけないことを知る。前線では、それがいちばん優しいやり方だと私は思っています」


 新人たちが息を整え直す。


 後ろの列で誰かが小声で話しはじめた。それは随分前に流れた、患者の脳の性的な部分を刺激してしまって、女性の神官が患者から襲われたという噂だった。しかも、性的な部分を刺激したのは、女性神官がわざとやったとも言われる。


「そんなの、ただのうわさよ」


 マルグリットだった。否定はしているようで、しきってはいない。ただ、噂を訓練場の中心に置かないための線引きだった。


 ミルナは一度だけ後ろを見てから、話を戻す。


「反応の中には扱いが難しいものもあります。理解できるようになったからといって、使っていいわけではありません。分かるようになるほど、触らない理由が増えます。そういうものです」


 新人の一人が、正直に言う。


「……怖いです」


「怖いのは正しいです。だから線を引きます。人を従わせるために使わない。黙らせるために使わない。楽しみのために使うのは論外です。これは決まりです」


 ミルナは少しだけ声を落とし、必要な範囲だけを言葉にする。


「ただ、自殺、他害の危険が切迫して、拘束も鎮静も効かず、治癒師の手が届かない時があります。そういう時にだけ、最終ラインとしてやる方法がある、ということは覚えておいてください。普段は考えなくていいですし、勝手に使うものでもありません」


 新人たちが息を吐く。増えたのは技術だけではなく、責任だと分かってしまった顔だった。


 ミルナは、最後は丁寧にまとめる。


「今日、皆さんはできることが増えました。そして同時に、してはいけないことに対する責任も持ちます。できるからやる、ではありません。守るために、やらない。その判断ができる人だけが、神官として立てます」


 影の中でマルグリットがほんの少し頷いた。評価なのか確認なのか、新人にはまだ分からない。ただ、線が揺れていないことだけは伝わった。


 ミルナは息を吐き、少しだけ軽く言う。


「上手くなるって、派手にできるようになることではありません。壊さないで済む選び方が増える、ということです。では次は、“弱める”の練習をします。かけるより難しいので、覚悟してきてくださいね」


 遠くで風が鳴り、兵の訓練の音が響いている。それでも訓練場の中では、呼吸を合わせる練習の音だけが続いていた。

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