第14話 さつまいもの調理法
――甘味は輸入品ではない――
王立大学校の研究棟は、いつも通り火と薬品と金属の匂いに満ちていた。
けれど砂糖研究会の部屋だけは、その日に限って“空っぽ”だった。
甘い匂いが、しない。
机の端に置かれた砂糖壺は、蓋が閉じたまま。誰も指を伸ばさない。
セリーヌ王女は穏やかな微笑を保ったまま、皆の顔をそっと見回した。沈黙が、単なる気まずさではないと分かっている。
「……隣国が、戦争の準備を始めているという情報がございますの」
控えめな声が落ちた瞬間、研究会の空気がすっと張った。
政治の話題は苦手だ。噂話も得意ではない。けれど“戦争”だけは別だ。戦争は、まず嗜好品を奪う。砂糖はその筆頭だった。
フローレ・マルシェが静かに頷いた。
王宮料理部門の運営を任されているマルシェ子爵家の令嬢――彼女の口から出る「砂糖が途切れる」の意味は、お茶会の恐怖ではなく、献立と予算と人員計画の現実だ。
「もし本当に戦争になりましたら……砂糖は、もう入ってこなくなりますわね」
「携行ケーキも……」
「研究会のお菓子も……」
誰かの声が重なるたび、部屋の温度が少しずつ下がるようだった。甘味は贅沢だと分かっている。けれど砂糖研究会にとって甘味は、ここに集まる理由の半分であり、研究の火種でもある。
エミリアが、落ち着いた声で言った。
「砂糖が来なくなるなら、代わりを作ればいいわ」
命令ではない。けれど“結論”として、そこにすとんと落ちた。
セリーヌ王女が微笑を深める。
「ええ。皆さんなら、きっと見つけられますわ。……さあ、始めましょう」
ぱさり、ぱさりとノートが開かれ、羽根ペンが動き始めた。
◇◇
候補はたくさん出た。甜菜糖、麦芽糖、果実糖、蜂蜜、樹液……。
議論が一巡したところで、フローレが控えめに言った。
「一番簡単で、いちばん強い方法もございます」
化学系女子ミレイユが顔を上げる。
「伺いますわ、フローレさん」
「……さつまいもです。蒸しても甘いですし、焼いても甘くなります」
「ただ“甘くなる”だけで終わらせるのは、もったいないと思いまして」
ミレイユはすぐに頷いた。
「甘くなる理由は酵素ですわ。さつまいもには、甘くなる酵素が最初から入っています」
「その酵素がデンプンを糖に変える。糖化、です」
「では、低温で長く……でしょうか?」と誰かが言うと、ミレイユは丁寧に首を振った。
「条件がございますの。酵素は、デンプンが水分を含んで温められ、糊化しないと働きません」
「糊化……糊のように柔らかくほどける状態です」
エミリアが小さく頷く。現象に条件があるなら、制御できる。
けれどミレイユは、次の一言で皆を黙らせた。
「そして、その糊化温度が……酵素が熱で壊れる、ぎりぎりなのです」
「温度が低すぎれば糊化しません。高すぎれば酵素が壊れて、甘くならない」
狭い。あまりに狭い。
セリーヌ王女が静かにまとめた。
「……その狭い温度を、長時間維持する必要があるのですね」
「はい。理想は三時間ほど一定温度ですわ」
◇◇
三時間。
火の前で、狭い温度範囲を守り続ける。
人間の集中力を試す時間だ。
試作は、まさにそれだった。
温度計の針を見ながら、交代で火を調整する。
薪を足すな、足せ。空気を絞れ、開けろ。
蓋を開けるな、開けろ。湯気が逃げる、熱がこもる。
「……今、上がった!」
「下げて下げて、ギリギリ!」
「ギリギリってどっちのギリギリ!」
「酵素が死ぬ方のギリギリ!」
「それ言い方が最悪!」
研究会の中で、唯一笑わないのが工学系女子ヘレーネだった。
彼女は火の前で騒ぐ面々を横目に、静かにメモを取り続けた。
そしてヘレーネが、静かに手を挙げた。
「でしたら、人が見張らなくて済むようにいたしましょう」
◇◇
ヘレーネが机に置いたのは、二種類の金属を薄く張り合わせた小片だった。
「先人が作った、熱で曲がる部品です。科学のおもちゃとしては知られていますけれど……」
「温度が上がりすぎたら曲がって弁が開き、蒸気を逃がします」
「下がれば戻って、弁が閉じます」
セリーヌ王女が目を輝かせる。
「自動で温度を維持できるのですね」
「はい。人の集中力に頼らず、条件を維持できます」
エミリアは穏やかに言った。
「ヘレーネ、お願い。原理は正しい。あとは温度帯を崩さないだけ」
ヘレーネが頷く。
装置が鍋に組み込まれ、蒸気の音が一定の拍子で刻まれ始めた。
フローレは火を“強く”しない。代わりに“急がない”。
ゆっくり温度を上げ、糊化が始まる帯域に丁寧に入れていく。
「すぐに温度を上げてしまうと、だめなんですの」
フローレは湯気を見つめながら、きちんと言葉を整えた。
「糊化を始める温度に入って、酵素が糖を作りはじめて、そして……酵素が弱って壊れて、糖化が終わる」
「その“重なっている時間”を、できるだけ稼ぎたいんです」
「早く温度を上げると、その条件が一致している時間を、一瞬で通り過ぎてしまいますから」
ミレイユが嬉しそうに頷いた。
「温度を制御する、というより……条件が重なっている時間を稼ぐ、ですわね」
「はい。まさに、それです」
◇◇
三時間が過ぎた。
フローレは蓋を開け、一本だけ取り出した。甘い匂いが立つ。――確かに香りは“できている”。
けれど指先で触れた感触に、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「……妙に硬いですわね」
小さく切ってひと口齧る。
甘味はある。けれど、ほくほくでも、ねっとりでもない。歯が、芯に当たる。
「甘味は少し感じます。でも……まだ柔らかくなっていません」
「糖化は進んでいるのに、食感が“途中”ですわ」
ミレイユが即座に頷く。
「この温度帯で糊化できるデンプンだけが反応しているのですわ」
「この温度では糊化しない粒が残る……だから食感が途中になる」
セリーヌ王女が断面を覗き込み、静かに言った。
「甘味は作れたけれど、食感が完成していないのですね」
「はい。ですので――ここから段階を変えます」
フローレは芋を鍋に戻し、火を少しだけ強めた。
「ここからは百℃近くまで上げて、しばらく保ちます」
「酵素は壊れます。でも、もう構いません」
「甘味は三時間で作り切っていますから」
「これからは“甘くする工程”ではなくて……“美味しくする工程”ですの」
ヘレーネが機械の弁を見つめ、仕事の声で言う。
「前半は私の弁が守る。後半は逃がさず、しっかり上げて保持するよう切り替えます」
金属が小さく、かちりと鳴った。
◇◇
しばらくして取り出した芋は、別物だった。
箸に粘りがまとわりつき、切ると断面が蜜のように光る。指で押すとふわりと戻り、口に入れるとねっとりとまとまる。
フローレは目を伏せて味わい、短く言った。
「……できましたわ」
ミレイユがほっと息をつく。
「甘味と食感が、両立していますわ」
セリーヌ王女が微笑む。
「研究会は、こういう瞬間のためにあるのですわね」
フローレは少し照れたように笑い、次の段取りへ視線を移した。
「この芋……ひと手間かければ、晩餐会にも通ります」
「王宮料理長にも、きっと喜んでいただけると思いますわ」
「運営としても……“砂糖なしで成立する菓子”が増えるのは、とても助かります」
◇◇
フローレはこの甘い芋に一手間を追加した。
潰した芋に卵をほんの少し。砂糖は入れない。艶とまとまりだけを足す。
形を整え、焼き色をつける。仕上げにバター。最後にブランデーをほんの少し――香りが立ちすぎない量で余韻だけを残す。
焼き上がったスイートポテトの甘い匂いが、研究会の部屋に戻ってきた。
試食したセリーヌ王女が小さく頷く。
「……これは晩餐会で出せますわ」
その言葉が、認定だった。
砂糖がなくても、甘味は作れる。この甘味は輸入品ではないのだ。条件と時間と、工夫で生まれる。
――その達成感で空気が緩んだ、はずだった。
片付けながら、フローレがふと思い出したように言った。
「……芋と脂って、合うのですよね」
「芋と脂といえば、有名な料理がございます」
「砂糖研究会なのに甘くなくて……申し訳ないのですが」
出てきたのは蒸したじゃがいも。十字に切れ目を入れ、塩の効いたバターを一欠片。
じゃがバターだ。
砂糖研究会なのに甘くない――けれど全員が飛びついた。
クラリスが懐かしそうに笑う。
「……これ、食べたことあるわ。いちど、軍の野戦調理所で食べたことがある」
「ええ、あれは妙に記憶に残りますわね」
「調理所のおばちゃんが蒸した鍋の中から、熱々のじゃがいもをひとつずつ出してくるんだよね。塩の効いたバターをちょんとのせてね。冷えたら美味しくなくなるから、一つ食べたらもう一つ、くれるの。止まらなくて困ったわ」
研究会の面々ももちろん知っている料理だ。
この世界ではじゃがバターは普通に存在する。
だからこそ、ここで落ち着くはずだった。
落ち着かなかった。
「……止まらない方のやつだ」
「冷める前に食べるべきだ」
「ちょっと待って、私の分」
皿が空になる速度が、想定より早い。
そしてフローレが、また研究者の目になった。
「……でしたら、じゃがいもを油で揚げたら、どうなるのでしょう」
◇◇
皮付きのまま小さめにザクザク切る。油は一センチ。
最初の試作。味見をしたフローレは、丁寧に首を振った。
「まだ火が足りませんね。水っぽくて……少し青臭いです」
失敗ではなく情報として受け取り、火を少し強め、時間を少し長くする。
二回目。音が変わり、表面が乾き、香りが立つ。中はほくほく、外はカリッと。塩を軽く振る。
――そこでフローレの手が止まらなくなった。
喋らない。説明もしない。ただ黙って芋を口へ運ぶ。
研究会の面々が調理場で静かになったフローレの行動に同時に気づく。
(あれは絶対うまいやつだ)
気づけば、令嬢たちがフローレの前に並んでいた。声は出さない。ただ眼力で語っている。
「私の分は?」
「……あるわよね?」
「独り占めは、だめよ?」
フローレは、少し遅れて状況を理解した。
「あ」
油鍋を見て、残りを見て、自分の手元を見て。
「……ごめんなさい」
その言葉が終わる前に、次の芋が油に落とされた。
入れかわり、立ちかわり、芋は揚げ続けられた。
誰かが切り、誰かが揚げ、誰かが塩を振る。美味しいものは、手が勝手に動く。
そして一通りの試食が済み――ふと油鍋の前を見ると。
袖を少したくし上げ、真剣な顔で揚げ色を見ているのは、セリーヌ王女だった。
皿に敷いた紙の上へ、丁寧に芋を並べている。
侍女が顔色を変え、祈るように叫んだ。
「おやめくださいーーーーっ!」
王女はきょとんと振り返り、油鍋と芋と自分の手元を見比べる。
それから、穏やかに――少しだけ拗ねたように言った。
「でも……今、空いていたでしょう?」
誰ひとり反論できなかった。
揚げ色が、完璧だったからだ。




