第12話 魔素圧縮器
実験棟の朝は冷たい。窓の外の光が弱いと、机の上の白い紙まで硬く見える。エミリアは袖口を整え、器具の位置を数センチずつ直した。誰かに見せるためではない。頭を落ち着かせるためだ。
実験室の横には小さな控え室がある。器具の予備や紙束、それから砂糖研究会の会合用の茶器まで詰め込んだ、半ば倉庫みたいな部屋だ。そこにアニーとベラが常駐している。侍女という肩書きはあるが、ここでは補助員だった。会合の段取りも、器具の手入れも、書類の仕分けも、この二人がいないと成立しない。
机の端に、黒い帯がある。小さな魔石がびっしり並んだ魔石ベルトだ。以前に身体に巻いて痛い目に遭ったあの構造と同じものになる。ただ、今日は体には巻かない。これは魔素の供給源として固定し、装置へ繋ぐためのものだった。
このベルトは魔素を送り出す。
小さな魔石がそれぞれ溜めていた魔素を少しずつ吐き出す。ひとつの魔石が出せる量は小さいが、数が揃うと流れになる。生物の体内で勝手に回る魔素ではなく、材料として扱える魔素だ。
そのベルトの先に、木枠の箱が三台並ぶ。試作魔素圧縮器。魔素というのは物質であるらしく、物質の表面などに吸着して移動する性質があるらしい。そして、特定の周波数の振動によって移動できることが示唆されていた。それからエミリアは遠心力を使うことを考える。遠心式魔素圧縮器だ。特定の振動といってもどの振動で動くかは沢山の実験をしなければわからない。しかし遠心式ならたいていの物質は分離できるのだ。という安直な考えであったが、ためしに根本に魔石をはめ込んで、黒鉛円板を高速で回したら、魔力測定機(魔素量測定器)があっさりと反応したのには、クラリスが呆れ返った。
そして、今回の試作魔素圧縮器の箱の中には、黒鉛の円板に加えて、それを手で高速回転させるためのクランク、ギヤ、軸受が収まっている。ここだけはアリアの実家の工房の協力が必要だった――回すだけなら簡単に見えるのに、耐久性と精度が足りないと一瞬で壊れるからだ。
さらにその先に、黒い線が伸びる。炭素繊維だ。ケーキを焼いたときの副産物が、(いや、炭素繊維を焼結する際に、ついでに焼かれたのがケーキなのだが)いまは導線として成立している。焼いた直後のボロボロのままでは導通線にならないので、崩れにくい形に追加焼結し直してある。触れば分かる。最初のスカスカではなく、ちゃんと芯がある。
そして――魔素の最終目的地の大きめの魔石は、少し離れた場所に置いてあった。
実験室の横の搬入口、そこの石造りのデッキの上に台を置き、遮蔽板を立て、その遮蔽板の向こう側に距離を取って魔石を置いているのだ。もし転換点を超えた瞬間に火球のようなものが出たら困る。実験室の中でそれをやるほど、エミリアは無謀ではなかった。遠くに置けば安全になると、そう思った。少なくとも、最初は。
「準備、これで大丈夫?」
アリアが控えめに聞いた。制作技能担当らしく、視線がまず封緘に行っている。線の曲げ、接続線、止めレバーまで、順番に確認している。
「うん。ありがとう」
エミリアは頷いた。
「アリアさんは止める係をお願い。今日は、途中で何が起きてもおかしくない」
「はい。止めるのは得意です」
アリアは少し笑ってから、レバーのすぐ横に手を置いた。探すためではない。倒すために置く手だ。笑顔があるぶん緊張が分かる。
ヘレーネが、計測器の箱を机の中央に置いた。木枠に真鍮板、針と目盛り。地味な器具だが、いまは意味が変わっている。
「まず、針の読み方を揃えておきたい」
ヘレーネが言った。落ち着いた声で、急がない。
「危険が出るとしたら、こちらの針より先に、圧縮器周りで出ると思います。どこまでがここで見えて、どこからが見えないかを共有しておきたいです」
「うん」
エミリアは蓋を開け、内部の二つの小さな魔石を指で示した。
「魔石1と魔石2。魔石1には基準として“1の量”の魔素が常に入ってる。魔石2が空なら、近づけても斥力は働かない。だから針はゼロ」
針は静かにゼロを指している。
「魔石2に魔素を入れていくと、斥力が増えて針が動く」
エミリアは続けた。
「この器具が読んでいるのは、魔素量の差で出る押し合いだ。だから魔素が増えるほど、針はゆっくり上がる」
アリアさんが首を傾げる。
「じゃあ、魔力が変化して引っ張られるみたいなのは……」
「反応はするけど、早すぎると、魔石が重いから針が追いつかない」
エミリアは針の根元を軽く弾いた。針が少し揺れて戻る。
「変位が速すぎると慣性で置いていかれる。だから表示されない。ここで見えるのは、ゆっくり変わる密度差だけ」
ヘレーネさんが頷いた。
「つまり、危険が速い現象で始まると、この針では気づけない可能性があるのね」
「そう。だから今日は、針は参考。最後は目と匂いと熱よ」
「はい」
圧縮器の回転円盤の動力は人力だった。圧縮器の側面からそれぞれの把手が伸び、段ごとに回転を入れる仕組みになっている。三段直列なら、動かす手も三つ必要になる。
一段目の把手にアニーが手を置いた。
二段目の把手にベラが立った。
三段目――最終段の把手は、エミリアが握る。
最終段は、いちばん密度が高い。いちばん危ない。
だからこそ、エミリアがそこにいる。逃げやすさというより、目で危険を見張れる位置を選んだ。三段目の出口から伸びる炭素繊維の導通線を観察できる距離だ。
導通線は見渡しやすい高さに通してある。アリアが作った簡単な支えがあり、線がたわんでも位置がずれない。観察のための固定であり、安全のための固定でもある。
「合図をくださいませ」
アニーが声を落として言う。丁寧で迷いがない。
「はい。一定でいきます」
ベラが続ける。こちらも淡々としている。
ヘレーネが圧縮器の横で頷いた。
「では回します。最初はゆっくり上げます。……いきますよ」
エミリアは最終段の把手を回し始めた。重い。重いのに、回り出すと急に軽くなる瞬間がある。あえて加速度のペースを崩さないようにゆっくりと回転を上げていく。
だから、力で押し切らない。一定の重さのまま腕を回していく。
目は導通線から外さない。針を見るのはヘレーネでいい。エミリアの仕事は、いちばん危ない場所の稼働状態を読むことだ。
「一定で。いま、いいです」
ヘレーネの声が少し速くなる。
「そのまま……そのままです」
魔素計測器の針が、じわりと上がった。ゼロから中ほどへ、さらに少しずつ上へ。
「動いてます」
アリアが静かに言った。
「供給圧力が出てる」
エミリアは針を見ない。線を見る。
魔石ベルトの小魔石たちは静かな顔をしているが、いまは確かに魔素を吐き出している。三段圧縮を通って、密度が上がった魔素が、この細い道を通って遠くの目的地へ向かう。
目的地は離してある。だから大丈夫――そう思った、その瞬間だった。
計測器の針は、相変わらず穏やかにじわりとしか動いていない。警告にはならない。危険の始まりは、針の速度より速い。
炭素繊維の一点が、ふっと内側から白く光った。
「……あ」
エミリアの声が勝手に漏れた。
炎はない。揺らぎもない。固体が白熱するときの、あの嫌な光り方だ。目が痛い。遅れて、乾いた炭の匂いが喉に刺さる。
アリアさんが息を吸う音がして――息のまま、手が倒れる。
「……止めますっ!!」
直ちにレバーが倒され、各段の接続が切られた。
「あぶねえ……」
危ないのは目的地だけじゃない。
目的地へ行くまでの道も危ない。むしろ道のほうが先に魔力を放出した。
「助かりました」
エミリアは把手を離さずに言った。回転速度を落とし始めている。
アニーもベラも、言われる前に回転を落としに入っていた。三人の回転が同時に落ちていく。
白い点が、一度だけ強く膨らんで――消えた。
光が赤に落ち、赤が暗に沈むまで、誰も口を開かなかった。
落ち着いたところで、白熱した炭素繊維を見分する。炭素繊維から乾いた匂いが出る。炭が煽ったあとの匂いだ。
アリアが炭素繊維をピンセットで持ち上げる。掴んだ瞬間に張りがないのが分かる。
「……減ってます」
アリアさんの声が小さい。
「白熱してたところ、痩せてます。……ここ、部分的に無くなってます」
白熱していたあたりが均一に細ったのではなく、ところどころが食われたみたいに薄い。場所によっては繊維束の一部が消えて、穴が空いたようになっている。触れれば崩れそうなスカスカが、そこだけ戻っていた。
「白熱のあとに燃えた」
エミリアは自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「熱が出て高温になって酸素に触れた。だから燃えた」
ヘレーネさんが頷いた。
「はい。だから光ったらそこが切れるということですね」
淡々と言うが、淡々としているから怖い。
「切れた瞬間、流れが変わります。別の場所が転換点に触れる可能性も上がります」
エミリアは焼け跡を見つめたまま息を吐いた。
針はなだらかに上がっていた。成功に見えた。けれど危険は針より速いところで始まった。
「……転換点は、魔素が集中するならどこでも発生する」
エミリアは言葉にして、ようやく整理できた。
「密度が高ければ、どこでも起きる。目的地だけが特別じゃない」
そしてもう一つ。いま起きた現象には、意思も術式もない。詠唱もない。生き物の身体もない。
「それでも魔力が出た。装置で」
エミリアは喉の奥の冷たさを飲み込む。
「魔法は、生き物の専売じゃない」
アリアが、ゆっくり頷いた。
「……ちょっと怖いです。でも、できたのは間違いありません」
ヘレーネが欠けた断面を見て言った。
「今回、爆発しなかったのは材料に助けられた面もあります」
声が少しだけ柔らかい。
「炭素は膨張して破裂するタイプの物質じゃないし、耐熱性も高い。だから白熱しても、まずは光るだけで済みました」
一拍置いて続ける。
「でも熱で気化するものが入っていたら、圧が一気に上がります。あれは爆発になってたと思います」
アリアが自分の指先を握った。
「……材料選び、ほんとに大事ですね」
冗談みたいに言って、笑えない顔になる。
「うん」
エミリアは頷いた。
「材料が耐えてくれただけ、って考えたほうがいい。耐える前提で回しちゃいけない」
ヘレーネが机の上の紙を引き寄せた。エミリアが描きかけていた一本線の図を見て、指でなぞる。
「魔素を圧縮すると、魔力が発生する。そこはもう間違いないわね」
静かに言って続ける。
「となると、魔素って高密度になったところから魔力を出す。だから太い一本にまとめるより、細い導通線を間隔を空けて並べたほうが、全体としての空間密度は薄くできる。……満ちる体積を増やさずに済むから」
視線を上げた。
「もちろん、その一本一本の線で転換点を超えるかもしれないけど。そこは線の本数と流し方で、安全側に寄せられると思う」
エミリアは紙を引き寄せ、太い一本線を描いて、すぐに手の甲で消した。代わりに細い線を何本も引く。間隔を空ける。列にする。
目的地を遠ざけたつもりで、道のほうが先に白熱した。
だから、道の形を変えないといけない。
「束ねないで空間を開けて並べるのね」
エミリアは口に出した。
「同じ量を送るなら、一本に集めないで、細い道を複数に分けて距離を取る。それを前提に設計を変える。目的地を遠くに置くだけじゃ足りない」
アリアさんが、少しだけ目を輝かせた。
「治具は作れます。溝を切った板に並べれば間隔は維持できます。固定できるように工夫しましょう。今日みたいなの、もう見たくないですから」
エミリアは頷いた。胸の奥に白い点の光が残っている。残っているから、次の設計が要る。
今日の結論は二つだった。
圧縮器が魔素を高密度にできること。転換点を超えれば、装置でも魔力が出ること。
そして転換点は目的地だけのものではないこと。途中でも超える。途中が白熱し、材料は削れ、次は切れる。
魔石が白熱するのを避けて遠くに置いたのに、魔素導通線が先に白熱した。
だから、導通線の設計を変える。細い線を広げ、間隔を決め、密度の居場所を制御する。
エミリアは紙の隅に「転換点」と書いて二重線で囲んだ。ここから先は出力を増やす話ではなく、出力を制御する話になる。
――次は、この形で運用できるように組み直す。
回転音の止まった実験室で、鉛筆が紙を擦る音だけが続いた。




